今回はこのシリーズの続き。
今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。
27 第3章_日本的根本主義について_(六)を読む
これまでアメリカ・キリスト教のファンダメンタリズムを見て、日本のファンディについてみてきた。
日本のファンディの特徴をまとめると次のようになる。
・日本のファンディの特徴
「他所の優れた技術・思想について、その技術・思想のみを切り取って導入することが可能である」と考えている
「(自分・他人の)ファンダメンタルな部分を見ない、考えない」という特徴がある
「自己、または、その時点の自分の所属する集団に対する絶対性」を信仰の源泉とする
一神教から見た場合、日本のファンディが構成する世界は「なんでもあり」の「汎神論的神政制」の世界である
ファンディが構成する世界を具体化すると、「『空気』を作り、それに対して『水』を差し、『水』の習合たる『雨』が『空気』を中和する過程であらゆる外来思想その他を腐食・解体・吸収した結果、出てくる『言葉』に矛盾があっても気にならない世界」である
この本や山本七平氏の書籍を読み、世界や自分の過去を眺めていると、この本に書かれていることが再現されまくっていて、「面白い(笑いが止まらない)」と言うほかない。
もちろん、「面白い」と私が考える対象は失敗や悲劇であるため、笑っている場合ではないとしても。
さて、第3章(「日本的根本主義」について)の最終セッションに移る。
前セッションの最後に書かれた問題提起は次のとおりである。
我々のファンディがもたらす統治システムとその特徴は何か
我々のファンディがもたらす統治システムの欠点は何か
我々のファンディがもたらす統治システムの欠点はどうすればフォローできるか
本セッションは日本人の特徴を示したある言葉、つまり、「日本人は理(論証・実証)によって行動を変えることはない。しかし、情況の変化に対しては極めて簡単に対応して行動を変化させる、その対応はまさに天才的である」から始まる。
これに関する例は、開国後の日本の対応、太平洋戦争直後の日本の対応、オイルショック時の対応などいくらでも出すことができる。
とすれば、我々は現在の情況の変化に対しては極めて天才的な対応をすることが可能であるが、理から将来の情況を予測してもその予測に対応することができないということになる。
その一方で、日本人は言葉(数字)によって行動を変えることはないが、映像を使えば簡単に行動を変えてしまう、反応してしまうことは様々な過去の事例からも明らかになっている。
以上、日本の現状について説明されたところで、本書では「黙示文学」というものが紹介される。
本書によると、「黙示文学」は言葉や映像を一定の順番で読者に提供することによって読者をある状態に拘束してしまうものである。
そして、黙示文学は神話的手法として用いられていた。
黙示文学は催眠や洗脳の手段として使えると言ってしまうのは言い過ぎだろうか。
この黙示文学と日本との関係で考えた場合、「日本では『神話』を『黙示文学』として利用し、(結果として)日本人を拘束した」ということになる。
そして、その背景には「図像・描写に思想性はないと考えている」ことがある。
しかし、図像と思想伝達の関係を研究する学問として図像学があるのだからこれは間違いである。
むしろ、黙示文学、あるいは、日本における神話の活用を図像学から検討した方がいいことになる。
あるいは、日本のマスメディアは黙示文学的手法を用いることで日本人が論証を受け付けないようにしている(戦時中の報道、公害報道その他)こともこの観点から見れば理解できる。
以上を踏まえた結果、日本人の特性・日本のマスメディアの影響等を考慮すれば、画像・映像・映像化した言葉によって対象の臨在感的把握が絶対化される日本人において、理(論証・実証)で態度を変えることは絶対にないと言ってよいことになる。
それを理解した人は、「理」で説得することを諦め、彼らを拘束している「空気」を「水」で攻撃する。
しかし、「水」は日本の通常性を源泉とし、「空気」は現在醸成されているものである。
そのため、「水」による「空気」への攻撃は過去による現在への攻撃という形になり、未来とは関係ない。
そして、「水」を差す人間がどんなに進歩的だったとしても「保守的」にならざるを得なくなる。
なお、「先進国の現在」を「日本の未来」と考えて水を差す場合であっても、厳密な意味である「未来」とは関係ないことになる。
この点、「未来は神の御手にある」という言葉がある。
この言葉を日本の現実に置き換えれば、「人は未来に触れることができない。唯一、言葉によって未来を構成するのがせいぜいである。ただ、日本人はこの『言葉で構成された未来』を一つの実感を持って把握し、これに対応することができない。何故なら、日本人の把握は『臨在感的把握』になるところ、実在するものがなければ臨在感的把握もできないのだから」となる。
また、日本人は「言葉で構成された未来」を作ることもなかった(律令制の導入、戦国時代末期の南蛮人がもたらした技術の導入、明治の近代化、戦後の高度経済成長等)。
そのため、言葉は総て「映像化された言語」として利用され、言葉による論争は「印象合戦」となってしまった。
結果生じたのが、日本人の「世界で最も罵詈雑言に弱い」現象である。
もちろん、「自分を攻撃する空気」が醸成されたときに発生する損害を考慮すれば無理もないことではある。
しかし、「空気」は論証に向かないので「未来を言葉で構成すること」には向かない。
また、上述の日本人の心的態度も消極的なものだからこれも「未来を言葉で構成すること」には向かない。
もちろん、「このままではまずい」と判断した集団(企業・エリートその他)は、その集団内において「未来を言葉で構成すること」をすることはある。
しかし、集団内で行うという結果、日本的閉鎖性・日本的集団倫理を呼び覚ましてしまう。
となると、この状態が続けば、日本人は二極化し、「空気に支配される一般人」と「未来を言葉で構成できるエリート」に分かれていくことになる。
何故なら、「空気」に支配されて悪い方に突っ込んでいる状況にいおいては、「空気」に支配されている人ですら「これだとヤバい」と考えるからである。
また、悪い事情を把握している人は、理による説得も水による説得も失敗した結果、「(このような愚か者どもは)一度やけどして痛い目にあってしまえ」と考えるからである。
そして、空気が雲散霧消した後、人は言うのである。
「(理・データ等を見れば)小学生でも無謀だとわかりそうなことを何故したのか?」と。
このような現象はおそらく枚挙に暇がない。
さて、日本のファンディがもたらす汎神論的神政制。
究極的には、後者が新しい支配者となって統治し、一種の「依らしむべし、知らしむべからず」の儒教体制になるのかもしれない。
ただ、日本の通常性を考慮すれば、このシステムに「自由」(個人の自由)はない。
とすれば、このシステムにおいて「自由」はどのような位置にいるのか。
また、このシステムから脱却することは可能なのか。
ヒントとしては、「黙示録的支配から脱却した人間たちの歴史」があるが、、、というところで本セッションは終了する。
うーむ、参考になった。
今後どうするかの具体的な処方箋は書いてないが、ヒントは十分散りばめられていると言えそうである。