薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『「空気」の研究』を読む 23

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

26 第3章_日本的根本主義について_(五)を読む

 これまでアメリカのファンダメンタリズムと改革についてみてきた。

 その内容をまとめておく。

 

・「改革」が持つ逆説的な関係

 改革者たちは改革によって現状から昔の原点に戻そうとする傾向にある

(例として、ユダヤエズラ革命、ヨーロッパの宗教改革、中国の易姓革命イスラム教のワッハーブ派、日本の建武の中興、明治維新江戸幕府の三大改革)

 

・「合理と不合理の関係」に関する一つの傾向

1、ある合理性を徹底的に追及する原動力は、実は不合理な何かを源泉としている

2、その不合理な何かを失えば、合理性の追求は消し飛ぶ

3、その不合理な何かを徹底しても、合理性の追求は消し飛ぶ

4、不合理な何かを源泉となるのは新しいものではなく古き伝統である

5、合理的なものと不合理なものを併存させるために要請されるのが神学であり、神学が成立する範囲では、合理と不合理は対立せず、一方の追及が他方の成就するための手段になる

 

 

 ここで、話を主目的たる日本に移す。

 つまり、「『日本のファンディ』は何か?」という点に話が移る。

 

 ここで、あるアメリカ人の発言である「日本人が日本国憲法を扱う態度は、ファンダメンタリストが聖書に対する態度と同様である」という発言が紹介されている。

 確かに、護憲左翼の態度・法廷闘争を見るとある種の共通性が見られなくもない。

 彼らは「憲法」を盾に個人の自由・権利を主張し、権力(政府や大企業)と裁判などで戦ったのだから。

 しかし、彼らの態度は常識的日本人の観点から見ればやや異質と言わざるを得ない。

 とすれば、「日本人が全体として憲法を盾に社会的権力と戦った」という歴史はないと見た方がいいと考えられる。

 例えば、太平洋戦争後の民主化の改革を指揮したのはアメリカだし、明治維新の近代化を指揮したのは薩長土肥藩閥である。

 いずれも日本人全体、あるいは、日本人全体から選ばれた代表者というわけではない。

 

 また、憲法」は法であり、合理のサイドから生まれたものである。

 とすれば、力に対する制御装置にはなり得ても、力の源泉になることはないとみてよい。

 その意味でも憲法と聖書は異なると言える。

 

 

 そして、話は明治時代に移る。

 伊藤博文は日本に憲法のもたらすため欧米を視察するが、その結果、「憲法キリスト教が不可分」であることを知る。

 これはミュンツァーやロビンソン、ピルグリム・ファーザーズたちとファンダメンタリストたちを見れば明らかである。

 しかし、伊藤博文はこの「憲法と聖書」のうち、憲法の部分だけを抽出分離することが可能であると考え、その方法を探求した。

 この発想に日本のファンディはあると考えられる。

 というのも、伊藤博文の前に徳川時代朱子学者の天才、新井白石も同じ発想を持っているのだから。

 また、「近代立憲主義憲法と現人神の併存」と「進化論と現人神の併存」は同種の関係に立つのだから。

 さらに、そのような前提がなければ、戦後の日本人が「アメリカの憲法を踏襲さえすればよく、アメリカの持つ宗教的部分は切り離しても問題ない」とは思わなかっただろうから。

 

 この点、大日本帝国憲法は制定当時には様々な有用性(列強に対する表示としての)と合理性があったのは間違いない。

 しかし、近代憲法は欧米の不合理に対する制御装置として作られたものに過ぎず、日本の不合理性を前提とした制御装置ではない。

 そのため、この制御装置が日本の不合理に対して過剰に作動すれば、「合理性の追求源としての不合理」をも封じ込め、大正時代の無目的性に転化することになる。

 これはある種の無気力を引き起こすことになる。

 逆に、なんらかの要因により日本の不合理が力を持って一方向に暴走すれば、憲法は制御装置としては機能しない。

 帝国陸軍が暴走した際、憲法帝国議会は敗北した(詳細は『痛快!憲法学』参照)。

 それは、憲法が日本の不合理の象徴たる「空気」を前提にして作られておらず、その結果、「空気」に対して無力だったからである。

 

 そして、戦後、このことを忘れて同じことを繰り返している。

 ならば、戦後がもたらす悲劇の結果は戦前と似たり寄ったりになるだろう。

 あるいは、人はそのことをなんとなく把握し、それに対する危惧を持っているのかもしれない。

 戦前、分離輸入した制御装置(大日本帝国憲法)は昭和の戦争に対してコントロールできなかった(終戦憲法の枠内ではなく昭和天皇の御聖断によって終わったことを考慮せよ)ように、戦後の経済力の時代においては金脈的エネルギーを制御しえないと考えるように。

 これをどうにかするためには、「我々が持っているファンディ」を把握して、ファンディと結合している宗教的なものを把握して、その宗教的絶対が生み出す力に対して直接ブレーキをかけるしかない。

 少なくても、今ある合理による制御装置を絶対化しても意味がないだろう(これはよく行われる事である)。

 

 

 ところで、日本人のファンダメンタリストに対する戸惑いの背景には「合理と不合理の併存」があると述べたが、これは相手のファンダメンタルな部分を見れば理解はできる(もちろん、その在り方を我々も採用するかは別である)。

 逆に言えば、戸惑いをもたらすこちら側の原因は「相手のファンダメンタルな部分を見ない」という伝統にあると言える。

 そして、これは「自分(日本)のファンディ」を見ないことにもつながる。

 さらには、「表面しか見ない」ということにもなり、「形式主義・員数主義」にもつながると考えられるが、それはさておく。

 しかし、日本のファンディを見なければ、日本の不合理性に対する制御装置は作れない。

 とすれば、日本のファンディを探求・再把握するしかない。

 

 

 では、自分のファンディは何か。

 この点についてヒントになるのが、「一君万民的平等」・「親は子のために隠し、子は親のために隠す」を信義とする価値観・「一君万民情況倫理」と「『一君』に対する強権への喝采(事大主義)」などである。

 ただ、その背景にあるのは、キリスト教などにおける神(クリエーター)に対する絶対性というよりは自己や自己の所属する集団の絶対性なのだろう。

 だから、我々はドグマを嫌う(例えば、仏教で重要とされる戒律を緩和させた天台宗最澄を見よ)。

 

 また、我々の背後にある神政制の部分は何か。

 それは、これまでの「空気」と「水」の関係を見ればある程度想像できる。

 それは、空気と水の相互循環の中で、あらゆる思想体系を解体し、自分の通常性に吸収させるものの、その結果、外面に出てくる「言葉」が相矛盾したとしてもちっとも気にならずに併存できる状態となる。

 これは、キリスト教と対比させれば汎神論(パンティズム)になるだろうし、この統治システムは汎神論的神政制になると言える。

 一神教に依る欧米と異なり、日本人はは矛盾する概念の併存に対して矛盾と感じない。

 これが我々のファンダメンタリズムになる。

 

 とすれば、日本のファンダメンタリズムによってできる政治システムがどんなものか、どんな欠陥を持つか、その欠陥を最小化すためにはどうすればいいか、その辺を見ていくことになる。

 

 

 以上が、このセッションのお話。

 ただ、今回メモをまとめた時点では理解できてるとは言えなさそうである。

 これは繰り返し読む必要があるようである。