薫のメモ帳

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『「空気」の研究』を読む 8

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

9 第1章_「空気」の研究_(八)を読む

 前セッションの内容を簡単にまとめると次のようになる。

 

 

・日本は多神教の世界・アニミズムの世界である

・明治時代以降の天皇制は「『空気』の支配」によるシステムである

・人や像だけではなく、「言葉」や「命題」でも「空気」の支配源たる偶像にすることができる

一神教の世界では、神(造物主・クリエーター)以外は総て相対化され、対立概念で把握されているところ、それは「言葉」・「命題」も例外ではない

一神教の世界では、唯一相対化が許されない神の名前については逆に言葉にする(口にする)ことが許されず、ユダヤ教では神の名を口にすることを死刑を使って禁止していた

・日本において「空気」の支配がもっとも強く出る「『死』の臨在による支配」は古代においても存在した

・日本と異なり、古代においては「空気」の支配を排除すべき場面で「空気」を極力排除しようとした

・最近の日本は明治の近代化・高度経済成長の時代など「空気」の支配がうまくいく時代が長く、それゆえ「空気」の支配による危険性が認識されなかった

 

 

 さて。

 明治維新後の日本は成長期の時代が長かったし、また、江戸時代もその多くは平穏で、重大な決断が必要な場面がほとんどなかった。

 そのため、「空気」の支配の危険性が認識されなかった。

 

 それに対して、中東・西欧では滅ぼす・滅ぼされるということが頻繁に行われる。

 つまり、国家の興亡をかけた決断が頻繁に必要だった。

 そのような場合に「『空気』の支配」によって合理的判断ができなくなればどうなるか。

 その共同体は立ち行かず、さっさと滅ぼされていたであろう。

(その点、海に囲まれた日本は自然的に豊かであっただけではなく、共同体的にも恵まれていたということができる)

 

 つまり、

 

日本(自然が豊か・外敵による侵略が少ない)

 →存亡がかかるような決断の必要性が小

 →「空気」に対する危険性の認識が乏しい(戦争などをしない限り)

古代(中東)

 →存亡がかかるような決断の必要性が大

 →「空気」に対する危険性の認識が強い

 

という関係を見出すことができる。

 そして、「空気」の支配を避ける具体的な教材が「旧約聖書」などを教材とした「徹底的相対化の世界」ということになる。

 

 

 本書では「徹底的相対化」の世界がどんな世界かの具体例が示されている。

 例えば、聖書では人間の創造の物語に関して二種類の相反する物語が記載され、かつ、その矛盾をそのまま掲載している。

 つまり、聖書では人間を矛盾した存在ととらえてそのまま記載しており、そのまま記載するがために矛盾した記述になっている。

 他方、日本で知られている聖書の人類創造の物語は「日本式聖書物語」であり、二種類の相反する物語の矛盾を消去・調整してしまっている。

 日本式の調整をすれば、筋が通るし、日本人も受け入れやすいだろうが、逆に、真実から外れて一種のフィクションになってしまうとは言える。

 

 そして、この「相反する2つ面をそのまま記載する」点が『箴言』と『ヨブ記』にも出ているところ、こうなってくると日本人の手には負えなくなる、らしい。

 まず、『箴言』の世界は日本人でもとっつきやすい世界である。

 また、これを見ると人間の生活訓・生活感覚は古代でも現代でも実に似た同じような面があることに気付かされる、らしい。

 この『箴言』の世界は「正義は勝利し、正しい者は必ず報われる」世界ともいえよう。

 

 これが『ヨブ記』に移ると、箴言』に出てくる言葉が持つ負の側面にゾッとすることになる。

 例えば、「正しい者は報われる」という命題(言葉)が全称命題(例外がなく常に正しい命題)だとしよう。

 この場合、この命題の裏である「悪しき者は報われない」は必ずしも正しくない。

 また、この命題の逆である「報われた者は正しい者である」も必ずしも正しくない。

 しかし、この命題の対偶である「報われなかった者は悪しき者である」は正しいことになる。

 以上の結論は高校数学の論理の授業の知識を使えば容易にわかるものであり、また、公務員試験の数的処理(判断推理)の分野、SPI試験の非言語分野で出題されている。

 

 さて、「正しい者は報われる」が全称命題であれば、「報われなかった者は悪しき者である」も全称命題になる。

 とすれば、「正しい者は報われる」という命題が絶対化された場合、「現実において報われなかった者は悪しき者である」と断罪されることになる。

「命題を絶対化する」が分かりにくければ、「機械的に適用する」に言い換えてもよい。

 そうすれば、「命題を絶対化する」の怖さが実感できるだろう。

 この怖さは「自己批判の要求」や「魔女裁判」(自動車魔女裁判)でも出てくる。

 

 

 当然だが、箴言』などの命題は有用である。

 しかし、これらの有用な命題も絶対化されれば、とんでもない副作用が生じる。

 そのため、絶対化させないために逆に相対化させる必要がある。

 つまり、相反する命題を同時に持てば当然矛盾が生じるが、それを承知し、矛盾を矛盾の認識して把握すれば、逆に、命題を活用することができる。

 逆に、命題を絶対化すれば副作用を招いて、命題の実効性が失われてしまう。

 

「人間による命題の活用方法」という観点から考えた場合、この「相対化の原則」は古代も現代も変わらない。

「公害解決」を絶対化すれば公害は解決できなくなる。

 せいぜい、「公害の元を絶った結果、人間の生活が崩壊し、共同体が破滅の危機にさらされる」だけである。

 また、「差別根絶」という絶対化も差別の解決には役に立たないだろう。

 こちらも「差別」の発生源が人間の心にある以上、人間を滅ぼさない限り差別はなくならないということになりかねない。

 さらに、「敵」を絶対化してしまった太平洋戦争も似たり寄ったりである。

 この場合、敵の殲滅が不可能であることから、敵を絶対化した結果、敵に支配されて振り回され、結局、一億玉砕しか選択肢がなくなる。

 ここでは、相手と自分の立場を別の座標軸を使って把握し、現実的かつ妥当な解決を図るということができなくなるのである。

 

 

 さて。

 以上、古代・一神教の世界における「空気」の制御方法についてみてきた。

 この方法が参考になることはもちろんである。

 しかし、これだけが唯一の解決法というわけではない。

 というのも、昔の日本、つまり、我々の祖先は「『空気』の支配」に対して別の手段、「水を差す」という手段で対抗していたからである。

 とすれば、「空気」の制御する手段としての「水」についても知る必要があるだろう。

 

 この点、「水を差す」という手段は太平洋戦争の際には機能しなかった。

 というのは、「明治時代以降に作られた『空気』(西洋思想に裏付けされた『空気』)」に対して「水」が無力だったからである。

 しかし、「空気」について知るならば「水」を知ることが有益である。

 よって、これから「水」についてみていく。

 

 

 ということで、本章は終わる。

「なるほど」と参考になる部分が多かった。

 また、「『空気』もちゃんと分析できる」ことが分かったのは大きな収穫だった。

 

 次回は、第2章に相当する「『水=通常性』の研究」を読んでいきたい。