薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『「空気」の研究』を読む 26

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

29 第3章とあとがきのまとめ

 本全体を読み終えたので、ここで第3章の内容をまとめておく。

 

・日本の「アタマの切り替え」という規範について

 日本には「アタマの切り替え」という規範がある

「アタマの切り替え」という規範は、「『情況』が変化したら、変化した『情況』に対応し、思考・行動・所作を一切改めよ(回心せよ)」という規範である

「アタマの切り替え」と呼ばれる一種の回心は骨の髄から軍人とみられた人でも簡単にできた

「アタマの切り替え」の背景にある「情況」の変化は頻繁に生じる


・モンキートライアルの背景にあるもの

 キリスト教では一つの組織的合理的思考体系、つまり、「知識・思考に関する『一つのマップ』」が存在する

 あらゆる知識・思考はこの「一つのマップ」に配置でき、配置できないものは存在しないし、してはならない

 新しく発見された知識や思考が従前のマップに存在する知識や思考と両立しない場合、「一つのマップの維持」するために新しい知識・思考を排除するか、既存の知識・思考を排除するのかの二者択一を迫られることになる

 他方、多神教を前提とする日本人には一神教における一つの組織的合理的思考体系、「一つのマップ」が存在しないが、その代わりに「『情況』への対応」が要求される

 

・「改革」が持つ逆説的な関係

 改革者たちは「改革」によって現状から昔の原点(理想)に戻そうとする傾向にある

 

・「合理と不合理の関係」に関する一つの傾向

 ある合理性を徹底的に追及する原動力は「不合理な何か」を源泉としている

 その「不合理な何か」を失えば、合理性の追求は消し飛ぶ

 その「不合理な何か」を徹底しても、合理性の追求は消し飛ぶ

「不合理な何か」を源泉となるのは新しいものではなく古き伝統である

 合理的なものと不合理なものを併存させるために要請されるのが神学であり、神学が成立する範囲では合理と不合理は対立せず、一方の追及が他方の成就するための手段になる

 

・日本のファンディについて

「自分自身、自分の所属する集団、自分の臨在感的把握の対象に対する絶対性」を信仰の源泉とする

「他人の優れた技術・思想について、その技術・思想のみを分離して導入することが可能であり、かつ、許容されている」と考えている

「(自分や他人の)ファンダメンタルな部分や不合理な部分を見ないし、考えない」という特徴がある(この点は員数主義につながる)

 一神教から見た場合、日本のファンディが構成する世界は「なんでもあり」の「汎神論的神政制」の世界であり、それを具体化すると「『空気』を作り、それに対して『水』を差し、『水』の習合たる『雨』が『空気』を中和する過程であらゆる外来思想その他を腐食・解体・吸収した結果、出てくる『言葉』に矛盾があっても気にならない世界」になる

 

・日本の不合理(空気)を外国の合理(憲法)で制御した場合に生じること

 合理的な装置によって不合理な力(「空気」)が制御されれば、無目的・無気力状態になる

 不合理な力が暴走すれば、合理的な装置は何の役にも立たない、合理的装置の威力を増幅させようとしても無駄である

 

・日本のファンディの特徴

 日本人は、現在の情況の変化に対しては極めて天才的な対応をすることが可能である一方、理から将来の情況を予測してもその予測に対応することができない

 日本人は言葉(数字)によって行動を変えることはないが、映像によって簡単に行動を変えてしまう

 

・黙示文学について

「黙示文学」は言葉や映像を一定の順番で読者に提供することによって読者をある状態に拘束してしまうものをいい、黙示文学は神話的手法として用いられていた

 日本では『神話』を『黙示文学』として利用し、(結果として)日本人を拘束した

 日本人が黙示文学による支配を受けた背後には「図像・描写に思想性はない」と考えていたことにあるが、図像と思想伝達の関係を研究する学問として「図像学」があることを考慮すれば、この認識は誤りである。

 日本のマスメディアは黙示文学的手法を用いることで日本人が論証を受け付けないようにしてきた

 

・「理」を持つ者たちの「空気」に対する抵抗とその特徴

 日本人において、理(論証・実証)で態度を変えることは絶対にない

 そのため、「理」によって悲劇を予測した人たちは「理」で説得することを諦めて、日本人を拘束している「空気」を「水」で攻撃することになる

「水」による「空気」への攻撃は「過去」(現実)による攻撃であり、「保守的」にならざるを得なくなる

 

・「未来は神の御手にある」という言葉の意味

 人は未来に触れることができない。

 唯一、言葉によって未来を構成するのがせいぜいである。

 この点、日本人の把握は『臨在感的把握』になるところ、実在するものがなければ臨在感的把握もできないため、日本人はこの『言葉で構成された未来』を一つの実感を持って把握し、これに対応することができない。

 また、日本人は「言葉で構成された未来」を作ることもなかったため、言葉は総て「映像化された言語」として利用され、言葉による論争は「真理の追究手段」ではなく、「印象合戦」となった。

 その結果生じたのが、日本人の「罵詈雑言に対する脆弱性」である

 

・日本のファンディが原理化した際に生じる世界

 日本のファンディがもたらす汎神論的神政制は、究極的な状態として、「言葉によって未来を構成できる人間」が支配者となって統治する、一種の「依らしむべし、知らしむべからず」の儒教体制になることが予測される

 もっとも、日本の通常性を考慮すれば、このシステムに「自由」(個人の自由)はない

 

一神教世界と日本における「探究」という言葉のずれ

一神教的・自然科学的)探究という作業は根気のいる持続的・分析的作業であり、特定の「空気」の拘束のもとでできる作業ではない(対象を臨在感的に把握した瞬間、その対象に支配され、相対的把握が不可能になるから)

 他方、日本の「空気」に拘束された人のいう「探究」を具体化すると、彼らを拘束する「空気」(偶像)に基づく事実・理論が客観的にも正しいことを裏付けるための活動、または、「空気」に反する客観的な事実・理論を排斥するための活動がこれにあたり、これは訴訟や裁判における探究と類似性がある

 

・日本が「空気」の独裁化を招いた背景

 明治時代、江戸時代には「空気に流されてなした行為を恥じる」伝統があったが、昭和に入ってから「空気」の存在が行為者の行為を免責するようになった

 一神教社会(キリスト教社会)では、個人は「神(宗教)」と「世俗(所属集団)」の二つによってリンクされていた

 個人は神の声と世俗の声という二つの発言を意識し、両者のずれをどのように調和するか、両者による緊張状態をどのように緩和させるかを「常に」考えていた

 他方、日本では、日本人の臨在感的把握の結果(対象に支配される結果)、同じ時間に「神」と「世俗」を意識することができなかった

 もっとも、過去の日本では儒教的道徳体系が別途存在したため、集団がこの道徳体系と逸脱した際、二つの声を同時に意識することができた

 

・未来に向けた著者(故・山本七平)のメッセージ

 日本人は日本のファンディに縛られているのだから、「ファンディを把握すること」からスタートすべきである

 なお、この「把握」の作業はまどろっこしい作業であるが、「進歩」とはこのような試行錯誤の連続であり、まどろっこしいものである(から、非能率であることを気にする必要はない)

 

 

 まとめだけでかなりの分量となってしまった。

 今回はここまでとし、次回で私の感想を述べてこの本のメモを作ることを終える。