今回は前回のこのシリーズの続き。
今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。
3 第3章 すべては議会から始まった
第1章で大事なことを一行で書くと、「憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ」になる。
また、第2章で大事なことを一行で書くと、「憲法は国家権力に対する命令書である」になる。
では、第3章は何か。
簡単に書けば、「憲法と民主主義は無関係である」になる。
本章に書かれていることではないが、このことは次の例を考えれば明らかである。
民主主義を絶対化した場合、国民の多数の代表者で構成される国会の議決、つまり、法律によって少数者の人権(財産権、信仰の自由その他)をはく奪することができるはずである。
ところが、憲法、あるいは、立憲主義から見た場合、国会の議決、つまり、民主主義的決定であってもマイノリティの人権をはく奪することは許されないとされる。
具体的には、日本国憲法81条は最高裁判所の違憲立法審査権を規定し、憲法に違反する法律に基づいた処分の効力を否定することができる。
民主主義的に考えた場合、裁判所の法令違憲判決は裁判所という民主主義基盤を持たない権力機関が民主主義的決定に基づく法律の効力を否定するのである。
民主主義に反するではないか。
何故正当化されるのか?
これは憲法が権力者、ここでは、民主主義決定を制約する方向に向いているからである。
つまり、この場面では立憲主義(憲法)と民主主義が対立していることになる。
本章から離れてしまった。
本章に戻ろう。
本章では、憲法と民主主義の関係を見るために中世ヨーロッパの封建時代にさかのぼる。
中世ヨーロッパの時代、「国王」は存在していたが、国王の権限は非常に弱かった。
伝統主義(諸侯の特権)に縛られ、何もできなかったと言ってもよい。
それを代表する言葉として、「国王は人の上に、法(伝統に基づく法)の下に」という言葉があるくらいである。
また、キリスト教が背景にあることもあって、「契約」が重要視された。
なお、キリスト教、つまり、教会によっても国王の力は弱められていた。
これは叙任権闘争などを見れば理解できると思う。
もっとも、国王と諸侯のパワーバランスは十字軍の遠征・ペストの流行によって大きく変わることになる。
まず、ペストの流行。
ペストによって人口が激減したわけだが、これにより、諸侯(国王の家臣)と諸侯に支配された農民(農奴)の力関係が変わり、諸侯の力が弱くなってしまった。
また、十字軍遠征に基づく貨幣経済の発達。
十字軍遠征によってイスラムの豊かな文化が西ヨーロッパに流れ込むわけだが、これによって商工業者が発生し、貨幣経済が発達した。
このことも、土地からの収入をあてにするしかない諸侯の力を弱めることとなった。
さらに、大航海時代によって金がアメリカからヨーロッパに流れ込むことによりインフレが発生した。
以上の流れにより、諸侯の力は大いに弱くなってしまった。
諸侯が弱くなれば、国王の力は相対的に有利になる。
例えば、新たに発生した商工業者は自分たちの権益を保護するため、国王に献金してその保護を確約させる。
それにより国王は新しい金づるができることになり、常備軍を編成したり、権力が高まるわけである。
このパワーバランスに対して諸侯は単に没落していくだけだったか。
近代立憲主義の国の国民が憲法・人権をあてにしたように、没落した諸侯にもあてにできるものがあった。
それは伝統主義である。
また、教会(教会も本質は土地からの収入をあてにするものであり、その辺の事情は諸侯と大差ない)も国王の権力増大に対して反発・不満を持っていた。
そこで、中世の封建制システムは「等族国家」、つまり、異なるグループの寄り合いというシステムに変貌していった。
このシステムの中、諸侯(貴族)・教団(僧侶)・商工業者(平民)が自己の利害をめぐって激突するようになった。
その激闘した場所が議会である。
議会を作るメリット、これは支配する国王の側にも支配される諸侯・教団・平民の側にもあった。
国王の側から見た場合、議会と言う場所で一度に契約の内容を決めることができれば、コストが安くなるうえ、契約改定によって租税を増やすこともできる。
他方、被支配者にあたる側から見た場合、議会の決定を国王に飲ませることができれば国王の権限を制約することができる。
このように見れば分かる通り、議会ができた経緯は民主主義とは関係がない。
まあ、「権力の暴走を抑える」という意味で立憲主義とは関係があるかもしれないが、それでも民主主義とは無関係である。
さらに、ここで見ておく必要があるのが、多数決と民主主義の関係である。
議会が国王と諸侯などとの契約改定の場であること、契約を改定するためには当事者間の合意が不可欠であることを考えれば、議会の決定は全会一致が原則になるはずである。
また、多数決を導入してしまえば、マイノリティの権利・自由が制約されてしまう。
しかし、総ての合意を取り付けていたのであれば、コストが馬鹿にならないし、いつになっても決まらない。
事実、そのためにポーランドの議会は能率が悪く、そのために滅ぼされてしまった。
また、アメリカは奴隷制をめぐって南部が独立してしまい、こちらは戦争になってしまった。
そこで、取り入れられたのが多数決であり、それが定着したのが19世紀ころと言われている。
そのため、議会において最初から多数決が取り入れられたわけではない。
実際、多数決が導入されたのはキリスト教団の方であったくらいだし。
以上が本章の要旨である。
本章に記載された余談によると、この辺の重要かつ本質的な話は日本では知られてないらしい。
私自身、これを知ったのは憲法を学んでからであるし、実質的にはこの本を読んだのが最初であったくらいだから、まあ、そうなのだろう。
では、この辺の話が知られていないのはなぜか。
本書では、「こんなことを書いたら教科書検定に通らないから」という福田教授のエッセイの一文を紹介してあった。
つまり、本書では、「こんな本質的なことを知らせる必要はないと文科省は考え、かつ、それが実践された結果」と邪推している。
もっとも、私は異なる想像をしている。
権力サイドの文科省がそう考えるのは権力サイドの都合として当然である。
ただ、一方で、情報の受け手である日本国民もそのような本質的な話は歯牙にもかけないだろう、と推測しており、文科省と国民側の思惑が一致しているからこのようなことになっているのだろう、推測している。
まあ、これは妄想に過ぎないが。
以上、リヴァイアサンが発生する直前までの歴史を見てきた。
次の章では、等族国家が主権国家としてリヴァイアサンになるプロセス、そして、そのリヴァイアサンを抑制することになった立憲主義と民主主義の起源についてみていく。