薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『痛快!憲法学』を読む 3

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。

  

  

2 第2章 誰のために憲法はある

 本章は憲法の目的について言及されている。

 その過程で2つの質問がぶつけられる。

 

憲法は誰のために書かれたものか」

「刑法は誰のために書かれたものか」

 

 もっとも、本文の記載だと抽象的過ぎて、「憲法・刑法は国民の権利・自由を擁護するための権力者に対する命令書だから、『日本国民のために書かれた』」と答えても正解になってしまい、ちょっと本筋からずれるので、次のような質問に変更する。

 

1、憲法は誰に対する命令か

2、刑法は誰に対する命令か

 

 いずれも「誰のために書いた」ではなく、「誰に対して書いたものか」に変更すると本章の趣旨との兼ね合いでは分かりやすくなる。

 

 もし、「憲法は日本国民に対する命令である」と書いたらバツである。

 このように答えたら、「この人は憲法、特に、立憲主義のことを何も知らないのだな」と言われても抗弁できないだろう。

 もちろん、一般人がこのように回答することをとがめるつもりは全くないが。

 

  なお、答えは次のとおり。

 

憲法は国家権力に対する命令である」

「刑法は裁判官(司法権力)に対する命令である」

 

 以下、本章に書かれていない具体例を挙げて説明する。

 

 確かに、刑法の規定によって実質的に国民生活を規律することはありうる。

 例えば、殺人罪(刑法199条)や窃盗罪(刑法235条)は殺人や窃盗を抑制しているため、国民生活を規律していると言える。

 しかし、殺人罪や窃盗罪で起訴された際の起訴状を読めばわかるが、国民が殺人や窃盗をしても、「刑法違反」で起訴されるわけではない。

 起訴される罪名は、殺人・窃盗である。

 

 また、政策形成訴訟(「公害訴訟」をイメージしてほしい)において、国側・企業側が勝つと原告訴訟団は「不当判決」という「びろーん」(と呼ばれているもの)を公開する。

 しかし、これも「不当判決」であって「違法判決」ではない。

 違法判決になるためには、刑法などの規定に背く判決をする必要があるところ、そのためには「執行猶予を付けられないのに、執行猶予を付与する判決を下す」とか、「死刑が規定されていないのに、死刑の判決を下す」などのことを指すのだから。

 

 

 また、憲法の規定が国民生活を規律することはありうる。

 例えば、ある民間の経営する公衆浴場が外国人の入店を断るために「外国人お断り」という貼り紙を貼った。

 そのため、日本国籍を有する外国人がその公衆浴場を利用しようとしてできなくなってしまった。

 この件は「人種差別」の問題となって訴訟になり、結果、公衆浴場側が敗訴した。

 

 もちろん、争点は「民間による人種差別の是非」である(他にも争点はあったが、その点は取り上げない)。

 また、憲法は平等原則を定める14条1項で「人種」による差別を禁止している。

 さらに、この問題は人種問題として扱われている。

 だから、「公衆浴場側が憲法違反を行い、それによって敗訴した」と見えるかもしれない。

 しかし、公衆浴場側が敗訴になった根拠は「不法行為」であり、条文で書けば民法709条である。

 つまり、公衆浴場がその日本国籍を有する外国人(原告)の「法律上の権利」を侵害したから敗訴した(賠償責任を負った)のであって、憲法の規定に違反したから賠償責任を科せられたわけではない。

 

 つまり、憲法は国家権力に対する命令」である。

 

 

 そして、本章は裁判に関する話に続く。

 刑事裁判は国家権力と国民の権利が衝突する典型的場面であり、かつ、国民の権利・自由に対する制約が極めて強くなる場面であるため、この場面が例に出されたのである。

 

 要旨をまとめると次のとおり。

 

憲法は31条以下で「罪刑法定主義」と「適正手続き」(デュー・プロセス・オブ・ロー)を保証している。

刑事訴訟法(刑事手続に関する法)は刑法よりも大事

刑事訴訟法は捜査機関(行政)と裁判所に対する命令である

・刑事裁判は検察官を裁くための手続きであり、吟味すべき内容は検察官の言う主張立証である

近代法から見た場合、遠山の金さん・大岡越前のやっていることは暗黒裁判である

 

 罪刑法定主義とは、「罪」(犯罪)と「刑」(刑罰)は事前に「法」(法律)で「定」めておけという主義(考え方)である。

 適正手続きとは刑事手続は一定の法律で定められた適正な手続きによらなければならない、というもの。

 刑事訴訟法とは応用憲法とも言われるものであり、捜査手続から国民の権利・自由を擁護している(黙秘権侵害の禁止・逮捕勾留の時間制限・捜査における令状主義の原則・挙証責任は検察官側にあること)重要な法律である。

 刑事裁判は、検察官(国家権力の代表者)の主張・立証が合理的疑いを超えるものかを判断する場であって、最悪、被告人なしでもできる。

 遠山の金さんなどでは、裁判官役の金さんが証人・弁護人・検察官の役割をもはたしている。物語上、真実が反映されているからいいものの、状況次第ではこれはただの暗黒裁判になる。そして、それは外から見れば分からない。

 

 

 ここから西洋(近代主義)における一つの思想を導き出すことができる。

 それは「権力は暴走する」・「権力は腐敗する」という権力を信頼しない発想である。

 身近な言葉を用いれば「性悪説」でも良い。

 

 歴史的経緯により、ヨーロッパにおける近代直前の国家は(近代立憲主義から見て)無茶苦茶なことを行った。

 そのため、革命がおこり、新しい権力が作られた。

 とはいえ、その権力も決して楽観視できない。

 そこで、作られたのが「立憲主義による憲法」である。

 

 ホッブス主権国家リヴァイアサンにたとえた。

ファイナルファンタジーで登場する幻獣リヴァイアサンはここで出てくるリヴァイアサンが起源である)

 この発想は今でも変わってない。

 

 また、このように見れば、大日本帝国憲法日本国憲法、及び、十七条憲法との違いもくっきり見えるだろう。

 十七条憲法には残念ながら「権力者を縛る」という発想がない(なくて当然だが)。

 それを同列に書いてしまったら、「この人は立憲主義のことを何も知らん」と言われても抗弁できないだろう。

 

 

 以上、本章の趣旨は、

 

主権国家における国家権力はおそろしいものである」

「その国家権力を抑制するために憲法を制定した」

 

というお話であった。

 前者についてはピンとこないかもしれない(正直、私もその現場を知らなければ、今でもピントがあわないだろう)。

 現代日本において「権力者(お上)はおそろしいもの」というイメージがないから

(それはコロナ禍に見られる様々なやり取りを見ても明らかである)。

 

 では、「主権国家における国家権力はおそろしいものである」という発想はどこから生まれたのだろう。

 それを見るためには、歴史を見るしかない。

 そこで、話は中世ヨーロッパに飛ぶ、というところとなって次章に続く。