薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

司法試験の過去問を見直す20 その10(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験・論文式試験の平成10年度憲法第1問をみていく。

 なお、この過去問の最終回たる今回は、本問で「教育の宗教的中立性」が問われたことを考慮し、政教分離に関する判例を見たときの私の思い出について述べることにする。

 

13 津地鎮祭訴訟の最高裁判決を見たときの思い出等

 津地鎮祭訴訟の最高裁判決、この判決は日本の政教分離規定に関するリーディング・ケースと言われている。

 だから、私は司法試験の勉強を始めて間もないころにこの判決の全文を見ることになった。

 

昭和46年(行ツ)69号行政処分取消等事件

昭和52年7月13日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/189/054189_hanrei.pdf

(いわゆる「津地鎮祭訴訟最高裁判決」)

 

 

 この点、多数意見はこの事件に対して次のようなあてはめを行っている。

 

(以下、津地鎮祭訴訟最高裁判決から引用、セッション番号は省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

(中略)起工式は、土地の神を鎮め祭るという宗教的な起源をもつ儀式であつたが、時代の推移とともに、その宗教的な意義が次第に稀薄化してきていることは、疑いのないところである。(中略)

 その儀式が、たとえ既存の宗教において定められた方式をかりて行われる場合でも、それが長年月にわたつて広く行われてきた方式の範囲を出ないものである限り、一般人の意識においては、(中略)、世俗的な行事と評価しているものと考えられる。

 本件起工式は、神社神道固有の祭祀儀礼に則つて行われたものであるが、かかる儀式は、国民一般の間にすでに長年月にわたり広く行われてきた方式の範囲を出ないものであるから、一般人及びこれを主催した津市の市長以下の関係者の意識においては、これを世俗的行事と評価し、(中略)。

 また、(中略)起工式を行うことは、特に工事の無事安全等を願う工事関係者にとつては、欠くことのできない行事とされているのであり、(中略)、建築主が一般の慣習に従い起工式を行うのは、工事の円滑な進行をはかるため工事関係者の要請に応じ建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼を行うという極めて世俗的な目的によるものであると考えられるのであつて、特段の事情のない本件起工式についても、主催者の津市の市長以下の関係者が右のような一般の建築主の目的と異なるものをもつていたとは認められない。

 元来、わが国においては、(中略)、国民一般の宗教的関心度は必ずしも高いものとはいいがたい。

 他方、神社神道自体については、祭祀儀礼に専念し、他の宗教にみられる積極的な布教・伝道のような対外活動がほとんど行われることがないという特色がみられる。

 このような事情と前記のような起工式に対する一般人の意識に徴すれば、(中略)、起工式が行われたとしても、それが参列者及び一般人の宗教的関心を特に高めることとなるものとは考えられず、これにより神道を援助、助長、促進するような効果をもたらすことになるものとも認められない

 そして、このことは、国家が主催して、私人と同様の立場で、本件のような儀式による起工式を行つた場合においても、異なるものではなく、(後略)。

(引用終了)

 

 今改めてみると、「現実としてはこんなもんか」という気がする。

 

 もっとも、多数意見は結構あれなことを言っている

 例えば、長年の経過により、地鎮祭のような起工式の宗教性が希薄化したとか。

 この点、クルアーンは1400年近く信者に読まれているが、だからといって宗教性が希薄化したとは考えられないことを考慮するとあれである。

 

 また、建築主が一般の慣習に従い起工式を行うのは、建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼を行うという極めて世俗的な目的によるものである、とか。

 工事関係者はさておくとしても市長を含めた一般人が起工式に宗教的なもの(超越的 なもの)を期待していないとか、だいぶ人間(一般人)になめられているような

 

 それから、神社神道自体については、他の宗教にみられる積極的な布教・伝道のような対外活動がほとんど行われることがない、とか。

 やる必要がなかったのはなぜか、ということを考えると結構あれである。

 

 まあ、「人前法後」の日本教らしいや、という感じがしないではないけど(なお、「人前法後」の部分はユダヤ教キリスト教イスラム教では「神前法後」になるし、仏教の場合は「法前仏後」になる)。

 

 

 ところで、この判決では、当時の最高裁判所長官の藤林益三裁判官(弁護士出身、唯一の弁護士出身の長官)が追加反対意見を述べている。

 ここではそれを紹介したい。

 

(以下、藤林裁判官の追加反対意見から引用、セッション番号は省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 多数意見は、(中略)慣行だというのである。

 もちろん世の中には、その起源を宗教的なものに発してはいるが、現在では宗教的意義を有しない諸行事が存することを認めないわけにはいかない。

 正月の門松は、(中略)、縁起ものとして今日でも行われている。

 雛祭りやクリスマスツリーの如きものも、親が子供に与える家庭のたのしみとして、あるいは集団での懇親のための行事として意味のあることが十分に理解できる。(中略)

 しかし、原審認定のような状況下において、本件起工式をとり行うことをもつて、単なる縁起もの又はたのしみのようなものにすぎないとすることができるであろうか。

 多数意見も認めているとおり、本件のような儀式をとり入れた起工式を行うことは、特に工事の無事安全等を願う工事関係者にとつては、欠くことのできない行事とされているというのであつて、主催者の意思如何にかかわらず、工事の円滑な進行をはかるため、工事関係者の要請に応じて行われるものなのである。

 起工式後のなおらいの祝宴をめあてに、本件儀式がなされたとはとうてい考えられない。

 ここに単なる慣行というだけでは理解できないものが存在するのである。(中略)

 しかるに、工事の無事安全等に関し人力以上のものを希求するから、そこに人為以外の何ものかにたよることになるのである。

 これを宗教的なものといわないで、何を宗教的というべきであろうか。

 本件起工式の主催者津市長がたとえ宗教を信じない人であるとしても、本件起工式が人力以上のものを希求する工事関係者にとつて必須のものとして行われる以上、本件儀式が宗教的行事たることを失うものではない。(中略)

 本件においては、土俗の慣例にしたがい大工、棟梁が儀式を行つたものではなく、神職四名が神社から出張して儀式をとり行つたのである。

 神職は、単なる余興に出演したのではない。(中略)

 祭祀は、神社神道における神恩感謝の手ぶりであり、信仰表明の最も純粋な形式であるといわれる。

 教化活動は、祭りに始まり、祭りに終るということができるのであつて、祭祀をおろそかにしての教化活動は、神社神道においては無意味であるとされる。

(引用終了)

 

 この反対意見には、「起工式後のなおらいの祝宴をめあてに、本件儀式がなされたとはとうてい考えられない」とか「神職は、単なる余興に出演したのではない」といった表現があるが、この文章が最高裁判所の判決に登場するとは意外である。

 もちろん、これらの意見はやや極端と言えなくもない。

 しかし、「『本件起工式が世俗目的だ』という認定をするとこういうことになるが、本当によいのか」という問題提起にはなるであろう。

 まあ、問題提起に対する私の見解は日本教としてはそれで差し支えない」になるのだろうが。

 

14 愛媛玉串料訴訟最高裁判決を見たときの思い出など

 ついでに、愛媛玉串料訴訟についても当時の感想をこのメモに残しておこうと考える。

 

平成4年(行ツ)156号損害賠償代位事件

平成9年4月2日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/777/054777_hanrei.pdf

(いわゆる「愛媛玉ぐし料訴訟最高裁判決」)

 

 この判決を見て当時の私が考えたことは、ずいぶんたくさんの補足意見・意見があるなあ、ということであった。

 また、愛媛玉ぐし料訴訟の違憲判決では当時の最高裁判所長官だった三好裁判官(裁判官出身)が反対意見を述べている。

 長官だからといって多数派を形成するわけではないようである。

 

(以下、愛媛玉ぐし料訴訟最高裁判決から引用、セッション番号省略、各文毎改行、一部省略、強調は私の手による)

 裁判官大野正男、同福田博の各補足意見、裁判官 園部逸夫、同高橋久子、同尾崎行信の各意見、裁判官三好達、同可部恒雄の各反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。 

(引用終了)

 

 あと、可部裁判官の反対意見には共感しない点が少なくなかった

 少なくても、「目的効果基準」に従うのであれば、こっちの方がしっくりくるかなあ、と(個々の補足意見・意見にあるように厳格に考えるならば別である)。

 ただ、この後、政教分離規定に対して最高裁判所は厳しく考える方向にシフトしていくことを考えると、この事件は過渡期の判決だったのかもしれない。

 

 

 以上で、本問に関するお話は終了する。

 次回は20問を改めて見直したことを振り返って、「司法試験の過去問の見直し」という一連の記事を終えることとしたい。