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司法試験の過去問を見直す18 その8

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 司法試験・二次試験・論文式試験の平成2年度の憲法第1問を見ていく。

 なお、前々回、前回と最高裁判所の合理的区別に関する判決を見ているが、あと2回ほど続ける。

 今回は2つの判決を確認し、次回は選挙訴訟について見ていく予定である。

 

11 合理的区別について_過去の最高裁判決から

 まず、サラリーマン税金訴訟最高裁判所をみていく。

 

昭和55年(行ツ)15号所得税決定処分取消事件

昭和60年3月27日最高裁判所大法廷判決

(いわゆる「サラリーマン税金訴訟最高裁判決」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/662/052662_hanrei.pdf

 

 これまでの判決が平成の時代の判決だったのに対して、今回は昭和の判決である。

 そこで、価値判断が現代と異なる点がある、というところは忘れないようにしたい。

 

 まず、サラリーマン税金訴訟では、合理的区別について裁判所は次のように述べている。

 

(以下、サラリーマン税金訴訟最高裁判決から引用、セッション番号省略、各文毎改行、一部中略、強調は私の手による)

(中略)およそ民主主義国家にあつては、国家の維持及び活動に必要な経費は、主権者たる国民が共同の費用として代表者を通じて定めるところにより自ら負担すべきものであり、(中略)。

(中略)課税要件及び租税の賦課徴収の手続は、法律で明確に定めることが必要であるが、憲法自体は、その内容について特に定めることをせず、これを法律の定めるところにゆだねているのである。

 思うに、租税は、今日では、国家の財政需要を充足するという本来の機能に加え、所得の再分配、資源の適正配分、景気の調整等の諸機能をも有しており、国民の租税負担を定めるについて、財政・経済・社会政策等の国政全般からの総合的な政策判断を必要とするばかりでなく、課税要件等を定めるについて、極めて専門技術的な判断を必要とすることも明らかである。

 したがつて、租税法の定立については、国家財政、社会経済、国民所得、国民生活等の実態についての正確な資料を基礎とする立法府の政策的、技術的な判断にゆだねるほかはなく、裁判所は、基本的にはその裁量的判断を尊重せざるを得ないものというべきである

 そうであるとすれば、租税法の分野における所得の性質の違い等を理由とする取扱いの区別は、その立法目的が正当なものであり、かつ、当該立法において具体的に採用された区別の態様が右目的との関連で著しく不合理であることが明らかでない限り、その合理性を否定することができず、これを憲法一四条一項の規定に違反するものということはできないものと解するのが相当である。

(引用終了)

 

 最高裁判所租税における合理的区別の有無について明白性の基準を採用する旨述べている。

 この点、非嫡出子相続分差別規定の合憲判決では、「区別が右立法理由との関連で著しく不合理なものでなく」と述べており、「著しく不合理であることが明らか」とまでは言っていないため、あの判決よりもさらに裁量が広い、と言える。 

 まあ、租税のことに裁判所がタッチすることは極めて困難であり、かつ、租税によって変動する権利・利益は財産権に過ぎない、と考えれば、この結論が不当であると考えるわけではないが。

 

 

 次に確認したいのが、尊属殺重罰規定の違憲判決である。

 

昭和45年(あ)1310号尊属殺人被告事件

昭和48年4月4日最高裁判所大法廷判決

(いわゆる「尊属殺重罰規定違憲判決」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/807/051807_hanrei.pdf

 

 ちなみに、この事件は次の読書メモの題材にしている。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 この点、新憲法が制定された段階では、尊属に対する特別刑が規定されていた。

 本件の尊属殺人もそうであるし、他にも尊属傷害致死といった刑罰がある。

 

 この点、尊属傷害致死事件合憲判決として有名なものに次の判決がある。

 特に、この判決における齋藤悠輔裁判官の荒ぶる意見には興味深いものがある。

 そこで、本筋からは離れるが取り上げてみたい。

 

昭和25年(あ)292号尊属傷害致死被告事件

昭和25年10月11日最高裁大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/064/051064_hanrei.pdf

 

 この判決で興味深いのは、原審たる福岡高等裁判所が尊属傷害致死罪が違憲であると考え、傷害致死罪で処断したものを最高裁判所が破棄している、という点である。

 ちなみに、法令違憲の点での評決は13VS2、判決の結論については12VS3。

 2つの事件の評価数が異なるのは、齋藤裁判官が異なる立場を採っているからである。

 ちなみに、齋藤裁判官は「大法廷で判決して終わらせてしまえ」と述べている。

 

(以下、齋藤裁判官の意見から引用)

 最後に多数説は、刑訴四一三条本文に従つて本件を原裁判所に差し戻すべきものとした。しかし、本件は、訴訟記録竝びに原裁判所において取り凋べた証拠によつて、直ちに判決をすることができると認められるから、訴訟経済上同条但書によつて当大法廷において直ちに判決を為すべきものと考える。

(引用終了)

 

 そして、この齋藤裁判官は尊属傷害致死罪を違憲とする反対意見に対して次のように述べている。

 

(以下、齋藤裁判官の意見から引用、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 真野説は、(中略)憲法一四条を解釈するに当り冒頭これらを引用するがごときは、先ず以て鬼面人を欺くものでなければ羊頭を懸げて狗肉を売るものといわなければならない。(中略)

 要するに民主主義の美名の下にその実得手勝手な我儘を基底として国辱的な曲学阿世の論を展開するもので読むに堪えない

 穂積説は、(中略)論者よ、以上の改正がどうして親殺し重罰の観念を温存したことになり、また、何か古いワクをそのまゝにしたのであり、更に何が立法として筋が通らないのであるのか、休み休み御教示に預りたい。(中略)

 寛刑を法の涙と称え、口を開けば執行猶予を叫び、死者は誹謗諺され、被害者は無視され、かくして基本的人権は独り法廷に生き残つた加害者のみに存するがごとき観をすら呈するに至つたのである

(引用終了)

 

 かくして、尊属に対する加重刑の制定が合憲であることが示された。

 

 

 もっとも、尊属殺人の法定刑は死刑または無期懲役

 いかなる事情があったとしても、あるいは、未遂に終わったとしても、過剰防衛・過剰避難などによって刑が免除が可能でなければ、最低でも懲役3年6月以上の実刑判決を下さなければならない

 このような中で、次の事件が最高裁判所に上告され、最高裁判所尊属殺人の適用範囲に歯止めをかけることになる。

 

昭和28年(あ)1126号尊属殺人未遂、殺人未遂被告事件

昭和32年2月20日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/807/051807_hanrei.pdf

 

 この判決では、配偶者が死別した後、その配偶者の尊属を殺傷しようとして未遂に終わった事件であるが、この事件で最高裁判所尊属殺人罪の適用範囲を限定し、高松高裁に差し戻した。

 

(以下、同判決から引用、セッション番号は省略、各文毎改行、強調は私の手による)

 刑法二〇〇条にいわゆる「……配偶者ノ直系尊属」とは、現に存する配偶者の直系尊属を指すのであつて、配偶者が死亡し配偶関係の存在しなくなつた後も、なおその直系尊属との関係を認める趣旨でないと解するを相当とする。

 従つて本件のように夫が死亡した後、亡夫の直系尊属たる父母を殺害しようとした行為は、刑法一九九条を適用すべき場合に当り、同法二〇〇条のいわゆる尊属殺の行為には当らないといわなければならない。

(引用終了)

 

 もっとも、この判決には5人の反対意見が付されている。

 うち、4人の判決は次のように述べて、上の法解釈を批判した。

 

(以下、同判決の反対意見から引用、各文毎に改行、強調は私の手による)

 ただ、考えられるところは、尊属殺に対する刑法の法定刑が峻厳に過ぎるから、これを解釈によつて緩和することも刑法二〇〇条の場合に限つてやむを得ないことではないかという主張である。

 しかし、その峻厳に過ぎる点の是正は須らく立法にまつべきであつて、民法の定めるところを無視して解釈することは、決して正当ではない。

(引用終了)

 

 この多数意見の判決にはやや無理があるのではないか(法令違憲判決を書くべきだったのではないか)と考えられる。

 なお、齋藤裁判官は次のように述べて、この判決を批判した。

 

(以下、齋藤裁判官の反対意見から引用、各文毎に改行、強調は私の手による)

 しかるに、多数説は、沿革を知らず、人情を無視し、しかも、何等理由を示すことなく、刑法二〇〇条にいわゆる「配偶者ノ直系尊属」とは、現に存する配偶者の直系尊属を指すのであつて、配偶者が死亡し配偶関係の存在しなくなつた後も、なおその直系尊属との関係を認める趣旨でないと解するを相当とするといつている。

 つまり、夫又は妻の親は、夫又は妻が死亡すると、そのとたんに、刑法上親子の縁が切れて赤の他人となるというのである。(中略)

 わたくしは、たゞ唖然とするばかりであつて、賛同できない

(引用終了)

 

 いささかこじつけではないか、と考えないではないが、分からないではない。

 ただ、この事件は昭和20年代のもの。

 既に、量刑の著しい差の問題が明らかになっていた、とも言いうる

 

 

 その後、この問題から逃げられなくなった事件が最高裁判所に持ち込まれることになる。

 それが、上の尊属殺重罰規定の違憲判決である。

 

 なお、ここからは法解釈の話にポイントを移す。

 また、問題点は量刑の下限が高すぎる、という点には注意が必要である

 

 まず、最高裁判所は次のように述べる。

 

(以下、尊属殺人重罰規定違憲判決から引用、セッション番号は省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 当裁判所は、昭和二五年一〇月以来、刑法二〇〇条が憲法一三条、一四条一項、二四条二項等に違反するという主張に対し、その然らざる旨の判断を示している。

 もつとも、最初に刑法二〇〇条が憲法一四条に違反しないと判示した大法廷判決(中略)も、法定刑が厳に過ぎる憾みがないではない旨を括弧書において判示していたほか、情状特に憫諒すべきものがあつたと推測される事案において、合憲性に触れることなく別の理由で同条の適用を排除した事例も存しないわけではない(中略)。

(中略)同条設置の思想的背景には、中国古法制に渕源しわが国の律令制度や徳川幕府の法制にも見られる尊属殺重罰の思想が存在すると解されるほか、(中略)日本国憲法により廃止された家の制度と深い関連を有していたものと認められるのである。

 さらに、諸外国の立法例を見るに、(中略)尊属殺重罰の規定を当初から有しない国も少なくない。

 そして、かつて尊属殺重罰規定を有した諸国においても近時しだいにこれを廃止しまたは緩和しつつあり、(中略)。

 最近発表されたわが国における「改正刑法草案」にも、尊属殺重罰の規定はおかれていない。

(引用終了)

 

 以上、諸外国や日本の状況を述べて、立法目的において最高裁判所は次のように述べて、その合理性を認めた。

 

(以下、尊属殺人重罰規定違憲判決から引用、セッション番号は省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 刑法二〇〇条の立法目的は、尊属を卑属またはその配偶者が殺害することをもつて一般に高度の社会的道義的非難に値するものとし、かかる所為を通常の殺人の場合より厳重に処罰し、もつて特に強くこれを禁圧しようとするにあるものと解される。(中略)

 尊属は、社会的にも卑属の所為につき法律上、道義上の責任を負うのであつて、尊属に対する尊重報恩は、社会生活上の基本的道義というべく、このような自然的情愛ないし普遍的倫理の維持は、刑法上の保護に値するものといわなければならない。(中略)

 そこで、被害者が尊属であることを犯情のひとつとして具体的事件の量刑上重視することは許されるものであるのみならず、さらに進んでこのことを類型化し、法律上、刑の加重要件とする規定を設けても、かかる差別的取扱いをもつてただちに合理的な根拠を欠くものと断ずることはできず、したがつてまた、憲法一四条一項に違反するということもできないものと解する。

(引用終了)

 

 そして、判決は手段の合理性を否定することになる。

 

(以下、尊属殺人重罰規定違憲判決から引用、セッション番号は省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 すなわち、加重の程度が極端であつて、前示のごとき立法目的達成の手段として甚だしく均衡を失し、これを正当化しうべき根拠を見出しえないときは、その差別は著しく不合理なものといわなければならず、かかる規定は憲法一四条一項に違反して無効であるとしなければならない。

 この観点から刑法二〇〇条をみるに、同条の法定刑は死刑および無期懲役刑のみであり、(中略)。

 現行法上許される二回の減軽を加えても、(中略)処断刑の下限は懲役三年六月を下ることがなく、その結果として、いかに酌量すべき情状があろうとも法律上刑の執行を猶予することはできないのであり、普通殺の場合とは著しい対照をなすものといわなければならない。(中略)

 量刑の実状をみても、尊属殺の罪のみにより法定刑を科せられる事例はほとんどなく、その大部分が減軽を加えられており、なかでも現行法上許される二回の減軽を加えられる例が少なくないのみか、その処断刑の下限である懲役三年六月の刑の宣告される場合も決して稀ではない

 このことは、卑属の背倫理性が必ずしも常に大であるとはいえないことを示すとともに、尊属殺の法定刑が極端に重きに失していることをも窺わせるものである。

 このようにみてくると、(中略)尊属に対する敬愛や報恩という自然的情愛ないし普遍的倫理の維持尊重の観点のみをもつてしては、これにつき十分納得すべき説明がつきかねるところであり、合理的根拠に基づく差別的取扱いとして正当化することはとうていできない。

(引用終了)

 

 ちなみに、手段の不合理性を根拠に違憲であると述べた裁判官は8名、手段のみならず目的の不合理性を根拠に違憲であると述べた裁判官は6名、合憲であると述べた裁判官は1名である。

 なお、判決について量刑について述べている点を補足している意見があるため、その部分を紹介する。

 

(以下、同判決の田中二郎裁判官の意見から引用、セッション番号は省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 そこで、尊属殺人事件についての第一審判決の科刑の実情をみるに、統計の示すところによれば、昭和二七年から昭和四四年に至る一八年間の尊属殺人事件総数六二一件のうち、死刑の言渡がされたものは僅かに五件(〇・八一%)、無期懲役刑の言渡がされたものは六一件(九・八二%)にすぎず、大多数は減軽措置により一五年以下の懲役刑の言渡がされており、なかでも、五年以下の懲役刑の言渡がされたものが一六四件(二六・四%)に達し、最高の率を示している。

 このことは、多数意見が、尊属殺人は一般殺人に比して一般に高度の社会的道義的非難を受けて然るべきであるとしているのにかかわらず、現実には、本件の場合ほど極端な例はないにしても、やむにやまれぬ事情のもとに行なわれた犯行として強い社会的道義的非難を加えることの妥当でない事例が少なくないことを示している。

(引用終了)

 

 そして、上の昭和32年の最高裁判所判決について次のように論評している。

 

(以下、同判決の田中二郎裁判官の意見から引用、セッション番号は省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 最高裁判所自体も、冷遇に苦しめられ、亡夫の父母等を殺害しようとした未亡人に刑法二〇〇条を適用した原判決を破棄し、同条の「配偶者の直系尊属」とは現に生存する配偶者のそれを指すものとし、刑法二〇〇条の適用を否定せざるを得なかつたのである。

 その結論は妥当として支持すべきものであろうが、同条の解釈としては問題のあるところで、右の結論を引き出すためには、根本に立ち帰つて、刑法二〇〇条そのものの合憲性について検討を加えるべきではなかつたかと思う。

(引用終了)

 

 ところで、この判決で唯一合憲の判断を示した裁判官は、被告人の境遇に同情を示しつつも以下のように述べている。

 

(以下、下田武三の反対意見より引用、セッション番号は省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 なお多数意見は、(中略)特殊例外の事案について、立法府の策定した実定法規をもつてしては、適切な量刑に困難を感ずることがありうることは否定しえないところであり、本件のごときもまさにその例外的事例ということができるのであつて、被告人のおかれた悲惨な境遇を深く憐れむ点において、わたくしもまた決して人後に落ちるものではない。

 しかしながら、情状の酌量は法律の許容する範囲内で行なうことが裁判官の職責であり、その範囲内でいかに工夫をこらしてもなお妥当な結果に導きえない場合が生じたとすれば、(中略)恩赦、仮釈放等、行政当局の適切な措置にまつほかはないのであつて、多数意見のごとく憐憫に値する被告人の所為であり、かつ、科刑上も難点の存するがゆえに、ただちにさかのぼつてその処罰規定自体を違憲、無効と断ずることによりこれに対処せんとするがごときは、事理において本末転倒の嫌いがあるものといわざるをえないのである。

(引用終了)

 

 ・・・正直、こんな状況にさえ違憲審査権を行使せず政治部門の措置に期待するしかないというのであれば、違憲審査権を持つ意味はないのではないか、と考えられないではないが。

 

 

 最後に、この判決と関連する件で気になることが一つあるため、それについて触れてこの判決から離れることにする。

 

 昔、浦和事件と呼ばれる事件があった。

 事件の概要は次の通り。

 戦後直後、心中を図ろうと子供を殺したが、自分自身が死にきれずに自首した事件が発生した。

 そして、この事件に対し浦和地方裁判所が被告人に対して執行猶予付有罪判決を宣告した。

 ところが、参議院の法務委員会がこの事件を取り上げ、この判決について量刑不当決議を行ったところ、最高裁判所がこの決議に抗議した上、学会は最高裁判所を支持する、という事態になってしまった。

 

ja.wikipedia.org

 

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 結論を述べれば、この事件を通じて、①国政調査権は国会の機能を十全ならしめるための補助的権能に過ぎないこと、②憲法41条前段で国会は国権の最高機関と述べているが、これは政治的微笑、じゃない、美称に過ぎないこと、そして、③国政調査権の行使する際に司法権を独立を蹂躙するような調査はできない、という現在の通説が確定した、と言われている。

 

 ここで触れたいのは、これらの見解の当否ではない。

 この事件がどんな予期せざる結果を招いたか、である。

 

 最高裁判所は国会(参議院法務委員会)に対して「裁判所のやった事実認定や量刑に口出しするな」と抗議した。

 もちろん、審理中の事件について調査するだけではなく、過去の事件について調査するのも現在進行中の類似の事件に影響を及ぼすからダメ、ということになっている。

 確かに、司法試験の独立を考慮すれば、量刑不当決議の危険性は十二分に理解できる。

 しかし、この結果、国会が裁判所の量刑やら事実認定を敬遠してしまったのであれば?

 そう考えると、案外この事件は微妙な結果をもたらしているのではないか、と。

 

 もちろん、これは完全な妄想である

 しかし、日本の刑法は宣告系の範囲が非常に広い(例えば、殺人罪であれば下限は懲役1年3月、最高刑は死刑である)。

 そのため、司法権の独立というマジックワードが量刑に対する国会のコントロールを封殺しているのではないか、と。

 この事件と盲目的予定調和説が変な反応を示したのではないか、と。

 

 

 今回はこの辺で。

 次回は選挙訴訟における平等権の取り扱いについて見ていく予定である。