今回はこのシリーズの続き。
今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。
13 第2章_「水=通常性」の研究_(三)を読む
これまで「水」による作用、つまり、「通常性」による作用の効果についてみてきた。
ここから「通常性」について話を進める。
そして、最初に出てくるキーワードは「日本的状況倫理」と言われているものである。
本書によると、「(日本的)状況倫理」とは、次のような形を採るものを示す。
「この情況であればこの対応が正しく、あの情況であればあの対応が正しい」というように「情況」に対応することを模範とする行動倫理
「この情況において『Aという情況』を無視して評価するのは妥当でない。『Aという情況』であれば、このような行為を採るほかはなかった。よって、行為者に責任はなく、責任は行為者をAという情況にもっていった人間にある」という考え方
この点、後者の考え方は「空気」による決定を強いられた人間が後の時代の人間に対する「なぜ?」に対して、「当時の空気に照らせば、この決定をするよりほかはなかった。それ以上の弁明をするつもりはない」と似たもののように見える。
しかし、「空気」と異なり「情況」は具体的・客観的に説明が可能のものなので、その点は異なる。
状況倫理が(積極的に)用いられるべきであろう事例として次の事件を取り上げる。
今から約50年前、父親から妊娠・出産等の結果を伴うような性的虐待を10年以上受け続けた娘が、父親からの虐待から抜け出すために父親を殺害するという事件が起きた。
当時、父親などの尊属を殺害した場合、適用される法律は尊属殺人(当時の刑法200条)であり、条文に記載されている刑罰(法定刑)は「死刑か無期懲役」という極めて重いもの(強盗殺人・強盗致死と同等)であった。
もちろん、裁判官が背景事情を考慮して条文に記載された刑よりも下の刑を選択して減刑することは可能である(刑法66条から72条までにその旨の規定がある)。
しかし、それにも限度があり懲役3年半の実刑判決までしか下げられなかった。
また、正当防衛(成立すれば違法性阻却により無罪になる)や過剰防衛(成立すれば場合によって刑が免除されうる)が成立するためには、犯行の瞬間に危険が差し迫っていなければならないところ、後述する控訴審判決では「殺害直前に虐待を受けていた事実はあれども、犯行(殺害)の瞬間においてはそのような危険は存在せず、また、差し迫ってもいなかった(『急迫不正の侵害』の要件を充足しない)」という事実認定がなされている。
この事件に対して「情況倫理」を全く使わないで考えてみよう。
当時の刑法200条に従えば、尊属殺は死刑または無期懲役。
法定刑を形式的にあてはめれば最低でも無期懲役ということになる。
しかし、この事件に対して無期懲役刑を宣告しようものなら、情況倫理を用いて次のような反論を受けることは必至である。
「長年性的虐待を受けていた娘がその状況を脱するため敢えて犯行に及んだのだぞ。その『情況』を無視して、無期懲役(特段の事情がない限り一生刑務所)なんてそんな馬鹿な判決あるかっ。そもそも、この事件は被害者たる父親が虐待していなければ発生していないではないか。」
この点、日本の刑法は情況倫理を用いて柔軟に対応するためなのか、裁判官に対する信用が極めて厚いためなのか、裁判官の宣告できる刑の幅はかなり広い。
事実、控訴審の東京高裁は女性に対して宣告できる刑のなかで最も軽い刑である「懲役3年6月の実刑判決」を言い渡し、さらに、女性の服役期間が最も短くなるように未決勾留日数も全部算入するという手段を採った。
「違憲立法審査権を行使しない」という条件であれば、控訴審の裁判官は服役期間を短くするために法律上可能なことを総て行ったと言ってもよい。
さらに言うと、違憲立法審査権が規定されていない大日本帝国憲法を前提とするならば、これが裁判官のできる最大限のことでもある。
この「3年6月の実刑判決」は刑法200条に記載されている「無期懲役」と比較すればかなり軽い。
しかし、本件情況を考慮すれば「3年6月の実刑判決でさえ重い」と言うことができる。
特に、尊属殺ではなく通常の殺人罪ならば情況によって付けられる「執行猶予」が付けられない(執行猶予を付すためには懲役3年以下の有罪判決でなければならない、なお、通常の殺人罪ならば法定刑の下限が懲役3年であった関係で執行猶予を付すことが可能である)。
つまり、今回において、娘を虐待した相手(殺害された被害者)は実の父親だったのでこのようなことになったが、仮に、相手が尊属でなければ通常の殺人罪の適用となり、その場合は執行猶予が付きうる。
そのため、この事件は上告され、最高裁判所の審判を仰ぐことになった。
そして、その上告審判決では執行猶予付有罪判決になったのだが、判決の具体的な内容については本件と関係ないので省略する。
ここでは、本書で掲載されていないケース、そして、情況倫理を使うことを是とするケースを挙げた。
仮に、上の事件において「情況」を除外して、刑法200条の成否と関連する事実だけを抜き出せば、「某年月日、某所で娘が尊属たる父親を殺意を持って死亡させた(殺害した)」で終わってしまう。
ちなみに、起訴状において検察官が裁判所に対して示す事実(公訴事実)はこれだけである(もっとも、刑事裁判では「犯罪の確定」という手続と「量刑の確定」という手続の2つが行われる、後者の判断に必要な関係で公訴事実以外の事実も裁判所には提出される)。
これだけの事実関係だけで上記事件を論評すれば、明らかに見当はずれになってしまうだろう。
さて、状況倫理を用いるべき例の紹介はこの辺にして、情況倫理の形式をみてみる。
第一に、情況倫理において重視されるのは「対応方法」であり「行為」ではないということである。
だから、固有名詞を入れ替えてしまえば情況倫理による説明は総て同じ形式を採る。
そのため、「同じ形式になるならば等しくその論理を成立させる」というスタンスで状況倫理を適用した場合、情況倫理による弁明はいつでも成立することになってしまう。
それはまずいので、「情況」の具体的事情によって弁明の成否を判断する(妥当な判断である)となると、今度は基準が不明確になって恣意的な判断を許すことになってしまう。
つまり、情況倫理による弁明は常に成立するか、恣意的に許されたり許されなかったするかのどちらかの状況を招いてしまうのである。
次に、情況倫理に含まれる考え方に欠落されているものとして「個人の責任」というものがある。
この点、刑事事件など法の適用が問題になる場面では状況倫理をいくら積み上げたところで、法律の規定を無視することはできない。
上の事件では「執行猶予が付いた」(女性は判決後に直ちに釈放された)とはいえ「有罪判決」であり、個人の法的責任は認定されている。
これ以上、上の事件を使うのは精神的にきついので、情況倫理を否定的に扱っている本書の例を出す。
もっとも、こちらも「リンチによる事件」が題材になっているので、重い話ではあるが。
本書の例では、「情況」として「国家権力による苛烈な弾圧」という情況が挙げられている。
しかし、その「情況」において、つまり、苛烈な弾圧を受けた人間全員がその「情況」に対応してリンチをしたかと言われればそうではない。
つまり、情況倫理を用いた場合、「具体的な個人」の観点が抜け落ちてしまうのである。
「具体的な個人」の観点が抜け落ちてしまえば、「個人の責任」の話も宙に浮いてしまう。
本書に掲載されている別の例で考えてみよう。
太平洋戦争末期・終了後、日本人の捕虜収容所において暴力政治が発生し、同胞をリンチにかけるという事実があったと言われている(このことはいわゆる「敗因21か条」でも述べられている)。
この点に対して、「『捕虜収容所の環境が苛烈だった』という情況を考慮すべき」という情況倫理による弁護はもちろん可能である。
しかし、よその民族においても同じような行為があったか。
第二次大戦時にできた収容所において環境が苛烈な収容所は確かにあった。
しかし、本書の記載によれば「英米人捕虜の収容所の中で暴力機構が発生して同胞をリンチにかけた」とか「ソビエトの収容所のドイツ人捕虜の一部がロシア人の権威を借りて同胞をリンチにかけた」例はないという。
状況倫理に世界的な普遍性を持たせるためには、上のような例がなければいけないのだが、それはないようである。
さて、ここで「情況倫理」を別の視点から見てみる。
この点、欧米の人間(一神教の信仰者たち)は「『情況』を免責の理由として考慮することは原則としてない」世界(伝統)を生きている(た)ことになる。
リンチの件で言えば、「当時の可憐な弾圧」と「リンチ」の間の因果関係を認めることを原則としてしない。
例外として認められるとすれば、「法律上によって示された例外的な場合(正当防衛・過剰防衛・緊急避難その他を裏付ける事実)」に限られるだろう。
その意味で、彼らの発想は固定的(悪く言えば、硬直的)である。
さらに言えば、事件の事実関係から「行為」や「結果」など(法的)評価に必要な部分だけを取り出して評価するのである。
ちょうど上の事件で公訴事実だけを取り出したように。
なお、上の殺人事件を欧米人的に考えたらどうなるか。
おそらく、(例外である)正当防衛・過剰防衛の要件である「急迫不正の侵害」の要件において「情況」を引っ張り出して適用の有無を考慮することになる(その範囲で考慮される)と考えられる。
そして、一審裁判所が本事件において「過剰防衛」を認定したように、「過剰防衛・正当防衛が成立する(その際に「情況」を利用する)」と判断されるのではないかと考えられる。
それに対して、我々(私も含まれる)は欧米の人間とは異なり、情況倫理による弁明を用いてしまう。
つまり、「情況を設定した者の情況設定行為に対する批判」が「行為者の犯罪に対する間接的弁護」になると思ってしまっている。
今はこの辺は改善されたそうだが、昔は「刑事事件で被害者の被告人に対する不当かつ些細な行為」を情状弁護で主張することがあったらしいが、これも同じ背景を有する。
これらの弁護の背景には、「『情況への対応』が『(行為の)正当化・免責の根拠』になる」という発想である。
しかし、そうすると、争点が「行為」から「情況」にすり替わってしまう。
また、その裏には「情況に対する自分の対応(行為)は正当である」・「正当である以上、自分の行為によって生じた結果について私は責任を負わない」・「責任を負うのは私ではなく、私をこの情況に追いやった者である」という考えがあることになり、これらの弁明は一種の「自己無謬性」・「無責任性」の主張になってしまう。
その結果、自分の行為は機械的になされた行為ど同等に評価していることとなり、それは個人の選択を認めないことを意味する結果、「人間は皆、同じ情況に対しては同じ反応を示し、同じ行為をし、同じ結果を出す」という考えを持っていることを自白することになってしまう。
この背景には「日本的平等主義」があるのだろう。
このように情況倫理には無責任体制を生んでしまうという問題がある。
そして、情況倫理にはもう一つの問題点がある。
それは、「情況」それ自体の再現不可能性である。
弁明において「当時の情況では」という言葉が用いられる。
しかし、現在の視点で当時の情況を考慮することは可能であっても、当時の視点で当時の情況を考察することは不可能である。
つまり、当時の事実関係を記録などから参照することはできる。
しかし、細かい情況、例えば、感覚や意識まで再現することは不可能である。
できることは「現在の意識で当時の自分を見て、その時点の行動から逆算して当時の意識を探る」ことだけである。
だが、それによっても「当時の情況それ自体」を再現することは本人でさえ不可能であり、他人ならさらに不可能と言うしかない。
その結果、情況は現在の意識による過去への投影という形になる。
それでは、実体(真実)との乖離が小さくないだろう。
そして、質の悪いことに情況倫理を用いる際、人はその乖離に気付かない。
気付いていれば、情況倫理を使うことのまずさを理解できるだろうから。
この点、現在から過去を測定する(過去の事実を確定する)ならば、過去と現在において共通して成立する情況の変化に無関係の尺度を使って一つの基準を作成して測定し、その差を見て現在と過去の違いを求めるほかない。
しかし、この方法は情況倫理では不可能である。
そのために、情況倫理は別の無謬性を持つ尺度を求めざるを得なくなる・・・。
というところで本セッションは終了である。
最後に今回のメモ作成に関して釈明めいたことを。
私はこのメモを作るにあたり、具体例については「本書以外に例がないか」と考えるようにしている。
これは自分の理解をより深めるためである。
あるときは「反軍演説」を挙げ、また、今回はある事件を取り上げた。
今回の事件はとある分野でよく知られた事件である(私が初めて知ったのは中学校のの公民の授業の資料集においてである)。
そして、これを取り上げる必要性については大であるとは言えず、その点は非難されるべきことかもしれない。
ただ、この事件は日本人の情況倫理が有効活用された例・されるべき例であると考えているため、取り上げることにした。
その点はご理解いただきたい。