薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す20 その9

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験・論文式試験の平成10年度憲法第1問をみていく。

 ただ、前回同様、今回は本問を検討していて気になったことを見ていく。

 

12 裁量について

 本問を読んでいて気になったのが、「裁量」という言葉である。

 もちろん、この「裁量」という言葉はこれまでもたびたび登場している。

 

 この点、裁判所が行使する司法権の限界の1つにこの「裁量」がある

 そして、この裁量の根拠となるものは、必ずしも1つに限られない。

 憲法や法令上の規定を根拠としたり、専門的判断が可能であることが根拠であったり、と様々である。

 

 当然だが、「裁量がある」ということは「一定の範囲で選択肢がある」ことを意味する。

 そのため、その裁量の範囲内である限り当不当の問題として処理され、司法審査はなされず、合憲・合法となると言われている。

 

 以上の観点から見れば、「裁量があるならば合法(合憲)」というイメージがつく。

 そして、このイメージから考えれば、神戸高専剣道実技拒否事件は例外ということになるだろう。

 もちろん、教育的専門知識を有するからという理由で「棄教か迫害(退学)か」を生徒に迫る裁量(選択肢)が教育機関にあるとは考えにくいので、この結論は当然の結果とも言いうるが。

 

平成7年(行ツ)74号進級拒否処分取消、退学命令処分等取消事件

平成8年3月8日最高裁判所第二小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/882/055882_hanrei.pdf

(いわゆる「神戸高専剣道実技拒否事件最高裁判決」)

 

 ところで、この最高裁判決では学校の裁量を肯定する一方で、その直後に「慎重な配慮を要する」旨述べている。

 

(以下、「神戸高専剣道実技拒否事件最高裁判決」から引用、セッション番号などは省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 高等専門学校の校長が学生に対し原級留置処分又は退学処分を行うかどうかの判断は、校長の合理的な教育的裁量にゆだねられるべきものであり、裁判所がその処分の適否を審査するに当たっては、校長と同一の立場に立って当該処分をすべきであったかどうか等について判断し、(中略)、校長の裁量権の行使としての処分が、全く事実の基礎を欠くか又は社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超え又は裁量権を濫用してされたと認められる場合に限り、違法であると判断すべきものである(中略)。

 しかし、退学処分は学生の身分をはく奪する重大な措置であり、学校教育法施行規則一三条三項も四個の退学事由を限定的に定めていることからすると、当該学生を学外に排除することが教育上やむを得ないと認められる場合に限って退学処分を選択すべきであり、その要件の認定につき他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮を要するものである(中略)。

 また、原級留置処分も、(中略)同様に慎重な配慮が要求されるものというべきである。

 そして、前記事実関係の下においては、以下に説示するとおり、本件各処分は、社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違法なものといわざるを得ない。

(引用終了)

 

 この裁量を肯定した直後にその裁量を限定するような書き方を見て、国籍法違憲判決が頭をよぎった。

 この判決は目的と手段の間の「合理的関連性」の有無で違憲審査を行う旨述べた後、次のように述べた上、事実上実質的関連性がないことを理由に法令違憲判決を下した。

 

平成19年(行ツ)164号国籍確認請求事件

平成20年6月4日最高裁判所大法廷判決

(いわゆる「国籍法違憲判決」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/416/036416_hanrei.pdf

 

(以下、「国籍法違憲判決」から引用、セッション番号などは省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 立法府に与えられた上記のような裁量権を考慮しても,なおそのような区別をすることの立法目的に合理的な根拠が認められない場合,又はその具体的な区別と上記の立法目的との間に合理的関連性が認められない場合には,当該区別は,合理的な理由のない差別として,同項に違反するものと解されることになる。

(中略)

 したがって,このような事柄をもって日本国籍取得の要件に関して区別を生じさせることに合理的な理由があるか否かについては,慎重に検討することが必要である

(引用終了)

 

 このように見ると、「合理性」という言葉と同じように「裁量」という言葉も幅のある概念なのかもしれない

 

 

 さて、これまでの流れを見ていて、郵便法違憲判決が頭の片隅によぎった。

 

平成11年(オ)1767号損害賠償請求事件

平成14年9月11日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/038/057038_hanrei.pdf

(いわゆる「郵便法違憲判決」)

 

 この判決の興味深い点は、憲法上定められた「法律の定めるところによる」に対する解釈で意見が対立したことである。

 

 まず、判決の記載から確認する。

 最高裁判所は国家賠償請求権を法律によって制限できる場合について次のように述べた。

 

(以下、郵便法違憲判決から引用、セッション番号省略、文章は各文毎に改行、一部省略、強調は私の手による)

 憲法17条は,「何人も,公務員の不法行為により,損害を受けたときは,法律の定めるところにより,国又は公共団体に,その賠償を求めることができる。」と規定し,(中略)法律による具体化を予定している。

 これは,(中略),公務員のどのような行為によりいかなる要件で損害賠償責任を負うかを立法府の政策判断にゆだねたものであって,立法府に無制限の裁量権を付与するといった法律に対する白紙委任を認めているものではない。

 そして,公務員の不法行為による国又は公共団体の損害賠償責任を免除し,又は制限する法律の規定が同条に適合するものとして是認されるものであるかどうかは,(中略),当該規定の目的の正当性並びにその目的達成の手段として免責又は責任制限を認めることの合理性及び必要性を総合的に考慮して判断すべきである。

(引用終了)

 

 規範部分を見ると、国家賠償請求権を法律で制限した場合の審査基準は①目的の正当性、②手段の合理性、③手段の必要性によって判断すると述べている。

 この基準は、森林法違憲判決で示された財産権の制限に関する審査基準よりも厳格である。

 

 ところで、「法律の定めることにより」という部分を「(憲法が)立法裁量を認めたものである」と解釈したこの判決に対して「これは蛇足かつ有害である」と個別意見で批判する裁判官らが現れた。

 批判的な意見を述べたのは、当時の選挙訴訟で多数意見判決や国会に対して批判的な意見を展開していた福田裁判官(行政官出身)と深澤裁判官(弁護士出身)である。

 この意見を引用しよう。

 

(以下、福田裁判官らの意見から引用、セッション番号省略、文章は各文毎に改行、一部省略、強調は私の手による)

 郵便法68条,73条の合憲性を判断するに当たって,憲法17条は,字義どおり,公務員の不法行為に基づく損害賠償請求は,法律が具体的に定めるところにより,その賠償を求めることができると規定していると解すれば必要かつ十分であり,これに加えて立法府白紙委任にわたらない範囲での裁量権を認めた規定であるかどうかを論ずる必要はないのである。

 なぜならば,このように論ずることは,憲法上の権利について,「法律の定めるところにより」とあれば直ちに国会の広範な立法「裁量権」が認められ,司法はそれを前提として「違憲立法審査権」を行使すれば足りるとの考えにつながるものであって,(中略),憲法に定められた三権分立に伴う司法の役割を十分に果たさない結果を招来することとなりかねないからである。

(中略)

 最高裁判所憲法判断は,立法府の「裁量権」の範囲とは関係なく,客観的に行われるべきものであり,多数意見の論理構成は,将来にわたって憲法17条についての司法の憲法判断姿勢を消極的なものとして維持する理由になりかねず,そのような理由付けに同調することはできない。

(引用終了)

 

 なお、この意見において選挙訴訟で福田裁判官自らが述べた追加反対意見を参照している。

 この意見のうち、重要な部分を引用してみよう。

 

平成11年(行ツ)第241号選挙無効請求事件

平成12年9月6日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/775/054775_hanrei.pdf

 

(以下、上記選挙訴訟における福田裁判官の追加反対意見から引用、セッション番号は省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 そもそも違憲立法か否かを判断するに当たっては、憲法の諸規定に反しないか否かの観点から行われるべきことは当然であって、憲法に「選挙に関する事項は、法律でこれを定める」(47条)とあることをもって国会に広範な裁量権が認められると解するならば、それは事実上その法律によって憲法の定めるところを変更ないし譲歩させることを認めるに等しい。

 そうであれば、結局のところ、司法に与えられた違憲立法審査権の行使は、憲法の中に「法律による」という規定があるか否かで内容が異なる二重の基準で行われることになる。

 憲法の保障する基本的人権は、憲法に「法律による」と記されているか否かを問わず、ほとんどの場合法令によってその内容が具体化されているのが現実であり、具体的な法律が憲法に合致しているか否かの審査の基準は、憲法に「法律による」と規定されているか否かによって異なるものではない。

(引用終了)

 

 なお、この意見に対して、滝井裁判官(弁護士出身)が反論している。

 

(以下、滝井裁判官の補足意見から引用、セッション番号省略、文章は各文毎に改行、一部省略、強調は私の手による)

 多数意見は,憲法17条が規定する「法律の定めるところにより」の意義について,「公務員のどのような行為によりいかなる要件で損害賠償責任を負うかを立法府の政策判断にゆだねたものであって,立法府に無制限の裁量権を付与するといった法律に対する白紙委任を認めているものではない」と判示している。

 福田,深澤両裁判官は,この部分について,立法府に極めて広い裁量を認めているとの疑念を残す余地があると懸念しているのではないかと思われる。

 しかしながら,多数意見をそのように解するのは,適当ではない。

 多数意見は,上記引用部分に先立って,「国又は公共団体が公務員の行為による不法行為責任を負うことを原則とした上」としているのである。

 この部分と併せて読めば,憲法17条の趣旨は,国家無答責の考えを廃し,被害者の救済を全うするために国又は公共団体が賠償責任を負うべきことを前提にし,(中略),具体的な責任の範囲について,それぞれの行為が行われた具体的状況を勘案して,一定の政策目的によって例外的に加重若しくは軽減し,又は免除することのあり得ることを認めたものと解することができるのであって,福田,深澤両裁判官の懸念は当たらない。

(引用終了)

 

「この懸念は当たらない」というのは主張としては弱いような・・・。

 もっと強い主張、例えば、最高裁判所の解釈はこのようなものであるため、福田裁判官のような解釈をすることは最高裁判所の解釈とは適合しない」と述べた方がよかったような・・・。

「解することができる」では「じゃあ別の解釈、例えば、福田裁判官らのように考えてもいいのね」と曲解してしまうような・・・。

 ちなみに、このような曲解が生じると批判したのが、平成16年1月の選挙訴訟における福田裁判官の追加反対意見である(この意見は次の読書メモで引用したため、ここでの引用は省略)。

 

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 さて、どう考えるべきなのだろう。

 この点、「法律の定める」という規定によって与えられる立法裁量の範囲を(ほぼ)一定とするのであれば、憲法47条と憲法17条の裁量の範囲が等しくなり、ひいては、福田裁判官らが述べた懸念が的中するということは十分ありうると考えられる。

 実際、投票価値という比較的重要な権利・利益の区別について広範な立法裁量を認める判決を出していたのだから、この懸念は全く当たってないとまでは言えないだろう。

 しかし、現実の立法裁量が常に一定かと言われると、それは現実と異なるように見える

 例えば、憲法17条と憲法29条2項は共に法律で定めることが規定されているが、両者の裁量は同じではない。

 このように「裁量」が権利によって異なるのであれば、最高裁判所としては滝井裁判官が述べている通りなのかもしれない。

 まあ、言葉の一義性を重視する私自身は福田裁判官と同様の感想を持つわけだけれども。

 

 

 では、今回はこの辺で。

 次回は、政教分離日本教について考えたことを述べ、この問題から離れることにする。