今回はこのシリーズの続き。
旧司法試験・二次試験・論文式試験の平成10年度憲法第1問をみていく。
10 信教の自由から見たXらの発表に対する制限の違憲性
今回から、本問で制限される権利を信教の自由(憲法20条1項)とした場合にどうなるかを考えてみる。
この点、本問を信教の自由に対する制限として考えたとしても、論述の構成の大枠は学習権の制限と変わらない。
そのため、その構成に従い、最初に、Xらの自由が信教の自由によって保障されるかどうかを検討する。
もっとも、学習権のように別の権利による保障の是非までは検討しない。
Xらの自由が信仰と関連性があることは明白であり、保障されないという結論はまずないからである。
以上、論述形式で書き切ってしまおう。
まず、本問でYの措置によって制限されたXらの研究発表の自由は信仰の自由(憲法20条1項)によって保障されると言えるか。
この点、Xらが発表しようとしたテーマは自らの信仰する宗派の発展の歴史である。
そのため、Xの発表する行為は、自分の信仰する宗派を外部に紹介・説明する行為と言える。
そこで、Xらの行為は宗教的行為の自由の一部に属するため、信教の自由として保障され、Xらの発表を認めないYの措置は信教の自由に対する制限となる。
以上、憲法上の権利として保障される点を確認した。
ただ、信教の自由として考えた場合、学習権とは異なる点が見えてくる。
この点、信教の自由は、内心における信仰の自由、宗教的行為の自由、宗教的結社の自由の3つの要素を持つと言われている。
ちょうど、学問の自由が、学問研究の自由と研究成果の発表の自由と教授の自由という3つの要素を持つように。
しかし、信教の自由を持ち出た場合、Xらの行為は宗教的行為の自由に含まれるため、彼らの行為により宗教性が生じることになる。
その結果、教育の宗教的中立性との衝突の可能性がより大きくなり、強度な制限を課すことも許されるように見える。
そこで、本問で信教の自由を持ち出すことは果たしてXらの有利になるのだろうか、ということが気になっている点である。
むしろ、Y側こそこのような土俵に持ち込んだ方がよく、Xらがこれを持ち出すのはY側の思うつぼではないのか、と。
この疑問がこれまでの検討で信教の自由を持ち出さずに学習権を持ち出した理由である。
ところで、憲法上の権利の保障を認めても外部的な行為が伴う限りその保障が絶対無制限にならないことは信教の自由であっても例外はない。
そこで、今回のYの措置は合理的な制限と言えるか、権利の重要性、制限される権利の程度、裁量の有無、という3要素を用いて違憲審査基準を定立する。
こちらも論述形式で一気に書き上げてみよう。
もっとも、かかる信教の自由も外部的行為を伴うときは絶対無制約とは言えず、人権相互の矛盾衝突を回避・調整するための実質的公平の原理たる「公共の福祉」(憲法12条後段、13条後段)の制約に服する。
そこで、本問Yの措置は公共の福祉に基づく合理的な制限と言えるか、違憲審査基準が問題となる。
この点、ある個人が生きていく際の拠って立つ位置を決める際に、信仰は極めて重要な役割を担うものであるから、その信仰に基づく宗教的行為の自由を保障することは個人の尊厳や人格的生存を確保するために極めて重要である。
このような権利の重要性を考慮すれば、その制限の違憲性については厳格な審査基準をもって判断すべきとも考えられる。
しかし、公立高等学校における教育は、教育に関する専門的知識を持つ現場の学校関係者が、目の前にある可塑性の高い生徒にあわせながら行うことが想定されている。
とすれば、教育現場においては現場の最高責任者たる校長の裁量を認めざるを得ない。
また、制限される宗教的行為に関しても、その行為・不作為が教義上の義務となっているものもあれば、望ましい行為とされているものもあり、その重要性は同一ではない。
そして、自己の宗派について紹介することは学校外でも十分行えるものである。
とすれば、権利の制限の程度は付随的なものと言わざるを得ない。
以上を考慮すれば、学校内において自分の信仰する宗派を紹介する自由に対する制限は緩やかなものとならざるを得ない。
つまり、校長の判断が著しく妥当性を欠くような裁量の濫用・逸脱に当たるような場合に限り、その措置は違憲になるものと解する。
この点、公立高校の教育現場における裁量と権利の制限の程度を考慮すれば、信教の自由から見ても、それほど審査基準を厳しくすることはできないと考えられる。
その意味では、学習権と同様である。
また、本問の審査基準は神戸高専剣道拒否事件との兼ね合いを考慮しても不合理なものではない。
まず、本問における制限される行為は「自分の宗派の歴史に関するの発表」であり、教義との兼ね合いが乏しい一方、学校の外側で行うということが可能である。
これに対し、神戸高専剣道拒否事件で制限される不作為は「教義上禁止されている剣道」であるから教義との兼ね合いが強いうえ、剣道を実践してしまったら他の場所でどうこうという代替手段がない。
その結果、権利の制限の程度が両者で大きく異なる。
ならば、今回の違憲審査基準が緩やかになること自体は問題なかろう。
違憲審査基準を立てたあとのあてはめは学習権の場合と同様である。
つまり、Xの発表を認めることが教育の政治的中立性の原則に反するというYの主張の合理性を検討することになる。
そして、その際に、政教分離原則から丁寧に論じることになる。
その結果、「YがXらの発表を許可することが政教分離原則違反にならないとしても、政教分離原則から無関係であるとまでは言えない」ため、Yの判断が著しく不合理なものとまでは言えず、本問のYの措置は信教の自由に対する合理的な制限として違憲にならないと考えることになる。
ところで、学習権によりXらの発表が保障されると考えた場合、YがXらの発表を許可することは教育の宗教的中立性に反しない旨の結論になった。
しかし、信教の自由によりXらの発表が保障されると考えた場合、YがXらの発表を許可することは教育の宗教的中立性に反するということはありうるのだろうか。
私自身、ありうるのではないかと考えている。
つまり、Xらの発表を宗教的行為として保障されるとするならば、Xらの発表の目的も主として宗教的なものと評価されることになる。
その評価を承知の上で校長が校内での発表を許可を与えれば、校長の主観的な意図として文化祭を盛り上げる、生徒に多様な知識に触れる機会を与えるといった世俗的目的であったとしても、「Xらの宗派に一定の関心を持たせることを通じて文化祭を盛り上げるということだから、その世俗的目的を達成する手段に宗教的意図がある」となって、許可の目的が宗教的意義を持ちかねない。
また、対外的に公開される文化祭で自己の宗派の宣伝目的を持ったXの発表を許可すれば、たとえそのテーマが「宗派の発展と歴史」として教義から離れたものであるとしても、Xらの宗派に対する援助・助長という効果が生じかねないだろう。
このように評価して、Xの許可が政教分離原則に反するともっていくことは可能ではないかと考えられる。
この意味では、教義に反する剣道を強制されそうになった(そして、それを拒否したために退学処分となった)神戸高専剣道実技拒否事件とは事案が異なる。
このように考えると、様々な意味で、本問と最高裁の事件は違うのだなあ、と気づくことになる。
この意味で、信教の自由から本問を考えてみる意味はあった。
以上で本問自体の検討は終わり。
次回は、本問を通じて考えたことについてみていく。