薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す20 その2

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験・論文式試験の平成10年度憲法第1問をみていく。

 

3 本問で焦点をあてるべき権利

 まず、問題文をもう一度確認する。

 なお、出典元は前回までのものと同様である。

 

(以下、司法試験二次試験・論文式試験・平成10年度・憲法第1問の問題文を引用、なお、文毎に改行)

 公立A高校で文化祭を開催するに当たり、生徒からの研究発表を募ったところ、キリスト教のある宗派を信仰している生徒Xらが、その宗派の成立と発展に関する研究発表を行いたいと応募した。

 これに対して、校長Yは、学校行事で特定の宗教に関する宗教活動を支援することは、公立学校における宗教的中立性の原則に違反することになるという理由で、Xらの研究発表を認めなかった。

 右の事例に関するYの措置について、憲法上の問題点を指摘して論ぜよ。

(引用終了)

 

 ここで、Y校長によって制限されたXらの行為を見てみよう。

 Xらは、「自分の信仰しているキリスト教のある宗派の成立と発展に関する研究発表」をしようとした。

 では、この発表は憲法上の権利の保障を受けるだろうか。

 もちろん、「憲法上の権利の保障を受けない」ということにはならないだろうが、何条によって保障されるであろうか。

 適用条文が複数ありうるため、何を使えばいいかが問題となる。

 

 

 この点、Xらの発表は単なる発表ではない。

 そのため、憲法21条1項の表現の自由によって保障されると考えるのは妥当ではないだろう。

 

 では、「研究発表」に着目して憲法23条の学問の自由と考えるのはどうか

 この点、Xらは発表のために事前に宗派の成立と発展について調査するであろう。

 その意味で、Xらがやることに学問的要素が皆無である、とまでは言えない。

 しかし、それが教師の教育の自由、あるいは、大学の研究発表の自由と同視しうるか、と言われれば微妙な感じがしないではない。

 Xらの意図がどこにあるかはさておいて、その発表を聴く人間がXらの発表を学問研究の発表と考える、という評価は少し難しいのではないか、と考えられるからである。

 

 そこで、「宗派の成立と発展」という発表内容に着目して、信教の自由として憲法20条1項として考えるのはどうか

 確かに、自ら信じる宗派に関する発表であることを考慮すれば、自らの宗派の紹介をすることは間違いない。

 そのため、宗教的行為の自由から派生した行為として評価することはできる。

 また、信教の自由の権利の強さを考えると、この権利を選ぶという選択肢は悪くはないし、この権利を選ぶことが不正解とは考えられない

 ただし、私から見ると少々しっくりこなかったりする。

 

 私が「一番しっくりくる」と考えているのは、憲法26条1項によって保障される学習権としての保障、である

 つまり、「『公立高校の文化祭』という教育の場で行われること」、「発表の準備段階になされる研究のレベルは、大学、企業、あるいは在野の研究者が行うような研究と比較すればそのレベルが下がること」、「内容が『宗派の教義』についてではなく、『宗派の成立と発展』となっていること」ことを考慮すると、学問研究の自由も信教の自由もちょっと大げさではないか、という感じがするのである。

 もちろん、文化祭のイベントだから教育の要素が弱いのではないか、または、高校生の行為だからといって軽く見ているのではないか、という批判がありえても。

 

 

 以上、様々な権利を検討したが、ここでは信教の自由の側面と学習権の側面の2つの面から検討する(つまり、学問の自由と表現の自由から見た検討はしない)。

 そして、まずは、私がしっくりときていると考える「学習権」の観点からみていく。

 

4 Xらの自由が学習権として保障されることについて

 では、まず、憲法上の権利として保障を受けうる旨の部分、つまり、原則論を書いていこう。

 見ておくべき観点は既に見ているため、一気に答案形式で書くことにする。

 

 

 本問で、校長YはXらの研究発表の自由を認めないという措置を行っている。

 そこで、Xらの研究発表は憲法上の権利として保障を受けるのか。

 この点、Xらの発表が「研究発表」である点を考慮し、学問の自由(憲法23条)によって保障されると考えることはできなくはない。

 しかし、Xらが高校生であること、発表の場が公立高校の文化祭という教育の場であることを考慮すれば、発表を聴く第三者らがXらの発表を研究結果の発表として評価するとは考えにくく、妥当ではない。

 また、Xらの発表内容が「自己の信じる宗派の成立と発展」をテーマにしていることから、信教の自由として保障されると考えることもできないではない。

 しかし、Xらの発表は公立Y高校の文化祭の「研究発表」の応募に対して行っているものである上、テーマは「宗派の成立と発展」であって、教義それ自体を対象にしているわけではない。

 とすれば、Xらの発表を宗教的儀式の延長線上にあると評価するのは妥当ではない。

 そして、Xらは公立高校の文化祭の研究発表の応募に対して行ったものである。

 また、発表前になされる研究の手法を見ても、詳細な文献調査にあたる、遺跡調査などをするといった本格的なものではなく、他の関係者から話を聴く、他の研究者が研究した結果を学び、その結果をまとめるといった行為になると考えられる。

 とすれば、発表のためになされる研究は自らの見聞を深めるための行為であってそれは学習行為として評価した方が妥当なものである。

 したがって、Xらの研究発表は憲法26条1項に規定される学習権によって保障されるものと解する。

 そして、本問で保障される学習権は社会権的側面から見た場合の学習権ではなく、自らが希望する学習を妨害されないという自由権的側面から見た学習権である。

 

 

 以上、本問研究発表の準備段階を丁寧かつ具体的に評価して、保障される権利を学習権に選定した。

 もしも、学習権を選ぶなら丁寧な事実の認定・評価は必須ではないか、と考えられる。

 

 確かに、この点に対して違和感を持たれることを否定できない。

 しかし、Y校長が「文化祭では許可できない」と言った際、Xらが「わかりました。では、よそでやるから結構です」と言えるのかどうか。

 言ったか言わなかったかは本問の結論に左右しないからとしても、言えないならば信教の自由や学問の自由は持ち出せないのかなあ、という気がする。

 この点は、必修の剣道の授業を受けて棄教するか、必修の剣道の授業を受けずに原級留置処分(退学処分)を受けるかの二者択一が問題となった最高裁判所判例とは異なるのではないか、と考えられる。

 

 

 以上、憲法上の権利の保障まで進んだ。

 しかし、だからといってこの学習権が無制限に保障されるわけではない。

 そこで、例外の話がこれから始まるわけだが、この続きは次回に回す。