薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

司法試験の過去問を見直す20 その5

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験・論文式試験の平成10年度憲法第1問をみていく。

 

8 権利の制限に関するあてはめにおいて政教分離原則を検討すること

 昔、旧司法試験に合格するための勉強していたころ、「この問題(論文式試験・平成10年度・憲法第1問)に解答する上で重要な点は権利の制限に対するあてはめにおいて政教分離原則に抵触するかどうかを検討することである」と教わった。

 そして、この構成は本問を「学習権に対する制限」として考えた今回の検討でも採用している。

 

 確かに、公教育の宗教的中立性に関するYの主張は、YによるXらの権利の制限を正当化する役割を担っている。

 そのため、Yの主張の合理性・妥当性を丁寧に論じるのであれば、権利の制限に関するあてはめの部分でYの主張の合理性・妥当性を検討する必要がある。

 したがって、上で述べた構成は重要であるし、私自身が今回の検討でこの構成を取っていることからも、私自身がこの点に反対しているわけでもない。

 

 

 ただ、私はその一方で釈然としないものを感じていた。

 今回はこの点を掘り下げていく。

 

 当時の私が想定していた本問の答案は次の構成となっていた(結論としては違憲、合憲の答案も想定していたが今回ほどうまくいっていないためその部分は割愛)。

 なお、私が想定していた、と書いたが、周囲もこれと大差なかったのではないかと考えられる。

 

1、制限されたXらの憲法上の権利は信教の自由である。

2、信教の自由は精神的自由であると共に、信教の自由は民主主義社会における重要な権利であるから、信教の自由の制限に関する審査基準は中間審査基準(または、厳格な合理性の基準)を用いる。

3、あてはめにおいて目的の正当性、手段の合理性は肯定できる。

4、手段の必要性(より穏当な代替手段の有無)を検討する際に、Xらの発表を許可することが政教分離原則に反しないか検討する。

5、4の結論に基づいて結論を出す(政教分離原則に反しなければ違憲政教分離原則に反すれば合憲)。

 

 私が釈然としなかったのは、上の5にある政教分離原則に反しなければ違憲政教分離原則に反すれば合憲」の部分である。

 この一種のシンプルな構成に釈然としなかったのである

 

 この点、信教の自由の重要性を強調すれば、シンプルな構成になって当然とも言える。

 その一方で、文化祭においてXらの発表を許可することが政教分離原則に抵触する、という結論にはかなり抵抗があった

 しかし、この2つを掛け合わせた場合、本問は違憲の結論にしかもっていけないことになる。

 そのため、本問で合憲の結論にもっていくことはできないのか、と悩むことになった。

 

 また、校長の裁量を広めに肯定した場合、違憲審査基準は緩やかになる。

 その結果、Xらの発表を許可することが客観的に政教分離原則に反しなくても合憲の結論に持っていくことが可能となる。

 なぜなら、審査基準を緩やかにすれば、手段の必要性について慎重に判断する必要がなくなるから、場合によっては政教分離原則に触れなくても問いに答えられるからである。

 

 ただ、この場合に政教分離原則について触れる必要はないのか

「問いに答える観点から必要はない」としても、違憲の結論を採用し、Xらの発表を許可することが政教分離原則に反しないかを検討した答案」に内容で負けることにならないか

 もし、内容で書き負けるなら、Xらの発表の許可と政教分離原則についてどのように触れればいいのか。

 当時、そのようなことで考え込んでいた記憶がある。

 

 そこで、今回はそのように考え込んでいたことを考慮し、Xらの学習権の制限という観点から本問を検討し、合憲の結論を導いた。

 また、合憲の結論を導きながら政教分離について丁寧に検討する方法を見つけた。

 これが正解かどうかはさておき、一つの考え方になることは間違いない。

 かくして、私が直観的に持っていた2つの感想である「訴訟なんて大げさな」と「文化祭の生徒の発表に対して宗教的中立性なんて大げさな」を答案に反映させることができた

 

 

 では、他の構成、例えば、「Xらの権利の制限の違憲性」と「Yの宗教的中立性に関する主張の合理性」を分けて論じることは可能だろうか

 今回はこの点について考えてみる。

 

 まず、問題文を確認する。

 

(以下、司法試験二次試験・論文式試験・平成10年度・憲法第1問の問題文を引用、なお、文毎に改行)

 公立A高校で文化祭を開催するに当たり、生徒からの研究発表を募ったところ、キリスト教のある宗派を信仰している生徒Xらが、その宗派の成立と発展に関する研究発表を行いたいと応募した。

 これに対して、校長Yは、学校行事で特定の宗教に関する宗教活動を支援することは、公立学校における宗教的中立性の原則に違反することになるという理由で、Xらの研究発表を認めなかった。

 右の事例に関するYの措置について、憲法上の問題点を指摘して論ぜよ。

(引用終了)

 

 この点、問題文は「Yの措置について、憲法上の問題点を指摘して論ぜよ。」という形で終わっている。

 つまり、本問は「YのXらの憲法上の権利を制限する措置の違憲性について論じる」ことが求められている。

 とすれば、Yの措置の違憲性と独立してYの主張の合理性を考えるのは問題に答えたことにならない、あるいは、蛇足であるように見える。

 また、Yの措置を違憲とする場合であれば、違憲の結論を出してから「もっとも、YがXらの発表を許可することは政教分離原則に反しないか」と持っていくことが可能である。

 しかし、Yの措置を合憲とする場合、「もっとも、YがXらの発表を許可することは政教分離原則に反しないか」という問いを立てて検討するのは、余計な問題を勝手に作って答えるようなものであり、問題に対して率直に答えていない、論点主義であるように見える。

 そう考えると、Yの措置について合憲の結論を採用する場合、「Xらの権利の制限の違憲性」と「Yの宗教的中立性に関する主張の合理性」を分けて論じること困難であると言えそうである

 まあ、今回の検討で「審査基準を緩やかにしてYの措置について合憲と考える場合のあてはめに政教分離原則を入れる方法」を見つけたので、現時点ではこの点で悩む必要はなくなったのだけれども。

 

 

 以上、本問に解答する際の構成について考えていたことを述べた。

 次回は別の権利の制限、具体的には、本問を信教の自由に対する制限としてみた場合の構成について考える。