薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す20 その4

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験・論文式試験の平成10年度憲法第1問をみていく。

 

7 Yの判断の合理性の検討

 前回、Yの判断の合理性とYの措置の違憲性の関係を示した。

 つまり、Xの発表を許可することが「宗教教育」や「宗教的活動」にあたらない場合、具体的には「目的が宗教的意義を有し、(かつ、)効果が特定の宗教に対する援助・助長・促進・圧迫・干渉となるような行為」にあたらない場合でも、直ちにYの措置が違憲になるわけではない。

 しかし、明らかに「宗教教育」や「宗教的活動」に当たらない場合、具体的には、「その目的が宗教的意義を持たないことが明らかであり、または、その効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進、圧迫、干渉とならないことが明らかである場合」にはYの判断が著しく不合理なものとしてYの措置も違憲になる

 以上の基準を用いてあてはめを行う。

 

 今一度、問題文を確認しよう。

 

(以下、司法試験二次試験・論文式試験・平成10年度・憲法第1問の問題文を引用、なお、文毎に改行)

 公立A高校で文化祭を開催するに当たり、生徒からの研究発表を募ったところ、キリスト教のある宗派を信仰している生徒Xらが、その宗派の成立と発展に関する研究発表を行いたいと応募した。

 これに対して、校長Yは、学校行事で特定の宗教に関する宗教活動を支援することは、公立学校における宗教的中立性の原則に違反することになるという理由で、Xらの研究発表を認めなかった。

 右の事例に関するYの措置について、憲法上の問題点を指摘して論ぜよ。

(引用終了)

 

 以下、論述形式で一気にあてはめを行う。

 

 

 本問についてこれを見ると、Xらの発表のテーマは「Xらの信仰しているキリスト教の一宗派の成立と発展」であり、一宗派の歴史に関することを発表することになっている

 そして、確かに、宗派の歴史について触れる以上、宗派の教義や信者の信仰などについて全く触れないことはあり得ない。

 しかし、教義などは歴史を語る手段に過ぎない

 また、Xらが文化祭で発表する予定だったところ、文化祭では、通常のカリキュラムにはない多様なイベントが行われることが想定され、その多様なイベントに参加することで生徒や関係者の見識などを深めることが予定されている

 そのため、Xらの発表を許可することの主たる目的は多様なイベントを用意することで文化祭を盛り上げることにある

 そこで、Xらの研究発表を許可した場合、その目的が宗教的意義を有すると言うことはできない。

 

 しかし、Xらは自分たちが信仰している宗派の歴史を発表しようとしている

 また、宗派の歴史を発表する折において、宗派の活躍や教義に触れることは不可欠である

 そのため、Xらの発表の動機の中に宗派の発展・拡大といった要素が全くないということはできない。

 そして、許可を出す側のYも、発表対象の宗派がXらの信仰している宗派であることは認識しているものと考えられる。

 とすれば、それを承知でXらの発表を許可した場合、Xらのが信仰する宗派に関心を持たせることに協力するといった要素を完全に否定することはできない

 そこで、その目的に宗教的意義を有しないことが明らかであるとまでは言えない。

 

 次に、発表を許可する効果について考える。

 この点、Yの許可によって効率A高校の文化祭において「宗派に関する歴史」をテーマにした発表がなされることになる。

 そして、前述のとおり、歴史において触れる教義のレベルが付随的であることを考慮すれば、発表を聴くことの主たる効果は宗派に関する知識を取得し、あるいは、宗教史に関する理解を深めることにある。

 また、今回の発表は文化祭でのみでなされ、継続的に行われるわけでもない。

 とすれば、Xらの発表の許可はXらの信仰する宗派に対する援助・助長・促進となるような行為になるということはできない。

 

 しかし、Xらが高校生であり、大人と比較して調査能力に限界があることを考慮すれば、幅広く客観的に調査を行うことは容易ではない

 そのため、自ら信仰する宗派に属する大人の助言や協力を受け、その影響を受ける可能性が高い。

 とすれば、Xらの発表が研究発表、つまり、客観的中立性を維持したものから乖離し、偏った意見の一方的な発表になる可能性がある。

 その結果、許可の意図にあった「聴取者の宗教的知識を深めるとともに宗教史に対する理解を深めることで学習権の実効化を図る」といった目的に反する可能性が否定できない。

 また、文化祭は生徒以外の関係者に公開され、あるいは、周辺都市に居住する一般人にも公開されることが想定される。

 とすれば、不特定多数の関係者や部外者にXらの発表が聴かれる可能性が高い

 そして、通常、発表の動機とXらの発表は無関係ではないことを考慮すれば、発表を聴いた人間たちは、Xらの個性について十分知ることなく、発表のテーマになっている宗派がXらの信仰する宗派であることを知ることになる。

 とすれば、その情報を受け取った部外者が外部においてこの件を取り上げ、社会において問題として知られる可能性があり、その結果、Xらの信仰する宗派に対する特別の関心を抱き、Xらの宗派に対する援助・助長や圧迫などの効果が生じかねない。

 したがって、Yの許可による効果がXらの宗派に対する援助・助長・促進・圧迫・干渉とならないことが明らかであるとまでは言えない

 

 そこで、Yの判断は著しく不合理なものとまでは言えず、Yの措置に裁量の逸脱・濫用があるとまでは言えない。

 以上より、Yの措置はXらの学習権に対する合理的制限と言え、憲法26条1項に反しない。

 

 

 以上、一気にあてはめをしてみた。

 個人的には、Xらの発表を許可するYの措置が「宗教教育」や「宗教的活動」に当たるとは考えておらず、その意味でYの判断が合理的であるとまでは考えていない。

 他方、Yの裁量を濫用・逸脱するレベルである、つまり、Yの判断が明らかにおかしい内容であるとも考えていない

 そのため、本問のXらの学習権の制限の程度が弱いことを考慮すれば、本問のYの措置を違憲とするのはどうか、という感じがしてしまうのである。

 今回の検討ではこの感覚を反映させようにした

 もちろん、この感覚に対してXらの権利の重要性を不当に軽視するものである、という批判がありうることは十分承知しているとしても。

 

 

 ところで、本問の検討の際、「あてはめの部分で政教分離について論じる」という構成を採用している。

 そこで、次回はこの構成の是非について検討して、他の権利の制限と考えた場合について検討していくことにする。