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司法試験の過去問を見直す20 その3

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験・論文式試験の平成10年度憲法第1問をみていく。

 

5 学習権の制限に対する違憲審査基準

 前回、本問のXらの自由が学習権によって保障されることを示した。

 もちろん、この学習権の行使も「公共の福祉」による制約を受ける。

 では、Y校長の措置は「公共の福祉」による制約と言えるのか、違憲審査基準が問題となる。

 

 この点、違憲審査基準の定立に重要になる要素が権利の重要性、制限の程度、そして、憲法上与えられた裁量である。

 以下、これらの要素を考慮しながら、違憲審査基準までの定立までの部分を答案形式で書いてみる。

 

 

 しかし、学習権による保障も絶対無制限なものではなく、人権相互の矛盾衝突を回避するための実施質的公平の原理たる「公共の福祉」(憲法12条後段、13条後段)による制約を受ける。

 そこで、本問Yの措置は「公共の福祉」による合理的な制約と言えるか、違憲審査基準が問題となる。

 

 この点、公立高校内における発表が制限されるだけであれば、同様の発表を他の場所で実行することができる。

 そして、別の発表の機会に同様の準備をすることで、文化祭の発表の準備と同程度の学習を行うことができる。

 とすれば、学習権の制限される程度は間接的・付随的でしかない。

 また、教育が可塑性のある現場の生徒に対応しながら行われること、また、教育に関する専門知識が重要になることなどを考慮すれば、学校内の意思決定においては現場の責任者たる校長に一定の裁量が認められる

 そこで、公立高校内における学習権の制限に対する審査基準は緩やかなものにならざるを得ないものと解する。

 具体的には、校長の措置の根拠が著しく不合理である場合を除き、「公共に福祉」による合理的制限として合憲になるものと解する

 

 

 以上、一気に書き上げてみた。

 この点、学習権を軸に据える限り、違憲審査基準を厳しくすることは難しいかな、と考える。

 では、信教の自由を軸に据えれば違憲審査基準を厳しくできるのだろうか、この点は学習権の制限として本問を検討した後に見ていく。

 

6 Yの宗教的中立性に関する判断とYの措置の合憲性の関係

 では、あてはめを行う。

 最初に、問題文を再掲する(引用元はこれまでと同様である)。

 

(以下、司法試験二次試験・論文式試験・平成10年度・憲法第1問の問題文を引用、なお、文毎に改行)

 公立A高校で文化祭を開催するに当たり、生徒からの研究発表を募ったところ、キリスト教のある宗派を信仰している生徒Xらが、その宗派の成立と発展に関する研究発表を行いたいと応募した。

 これに対して、校長Yは、学校行事で特定の宗教に関する宗教活動を支援することは、公立学校における宗教的中立性の原則に違反することになるという理由で、Xらの研究発表を認めなかった。

 右の事例に関するYの措置について、憲法上の問題点を指摘して論ぜよ。

(引用終了)

 

 この点、問題文に書かれているYの主張は「規範」に対応している。

 そこで、Yの主張のあてはめの部分は、「Y校長の許可は、『文化祭』という『学校行事』で、『Xらの宗派』という『特定の宗教』に関する、『Xらの宗派の成立と発展というテーマの発表』という『宗教活動』に対する、『許可』という名の『支援』であり、『宗教的活動』にあたる」となる。

 したがって、Yの主張の結論部分は「Xらに対する発表の許可することは20条3項に反するものとして違憲になる(ため、自分の措置は合理的である)」ということになる。

 

 

 では、このYの主張を崩すにはどうすればいいだろうか

 この点、憲法20条3項が「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定しているところ、公立高校は「その機関」に該当するから、規範の部分を争うのは難しい。

 しかし、あてはめの部分の「文化祭においてXらの信仰する宗派の成立と発展についての発表を許可することが宗教活動に対する支援、つまり、宗教的活動にあたる」という部分を崩しに行くことはできるだろう。

 そこで、このあてはめの部分の合理性を検討するため、憲法20条3項が禁止する宗教教育や宗教的活動の意義が問題となる

 

 この点、憲法20条3項が政教分離を定めた趣旨は、次の過去問で見てきたとおりである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 そして、本問の検討では、政教分離原則は制度的保障であると考え、政教分離原則に反するかどうかはいわゆる目的効果基準に従って判断する

 この場合、政教分離原則について一通り述べた後に目的効果基準を定立し、Yの主張についてあてはめていけばいい、ということになりそうである。

 

 

 しかし、ここで問題がある。

 仮に、違憲審査基準が手段と目的との間に実質的関連性を要求するもの、あるいは、必要最小限度の手段であることを要求するものである場合、YがXらの発表を許可することが政教分離原則に反しなければ、手段の実質的関連性や手段の最小性が認められなくなるため、直ちにYのXらの発表の制限が違憲となる。

 その意味で、Yの主張の合理性とYの措置の違憲性がストレートにリンクする。

 しかし、今回のような緩やかな基準を用いた場合、Yの主張に合理性がないとしても、直ちにYの制限が違憲となるかは分からない

 何故なら、教育現場にある校長には一定の裁量があるからである。

 この点、Yの主張が完全に合理性がない、著しく不合理であるという場合であれば、Yの措置も違憲になるだろう。

 しかし、微妙だが不合理である、といったレベルでは審査基準にいう「著しく不合理」とまでは言えないだろう。

 その意味で、Yの主張の合理性とYの措置の違憲性がストレートにリンクしない。

 

 そのため、ここで単純に政教分離原則を行ってあてはめをするだけだと、この辺がうまくいかなくなるため、ひと工夫必要になる。

 まあ、この辺で悩みたくなければ、手段の実質的関連性を要求するような基準を使えばいいだけのことではあり、緩やかな基準を選ぶべきではない、ということになるのだが。

 

 この点、ここで注目すべきことは、審査基準を緩やかにした根拠の一つである「現場の校長に裁量がある」という部分である。

 そこで、客観的にXらの発表を認めることが政教分離原則に反しないとしても、Yの宗教分離原則に反すると判断に至った過程が著しく不合理でなければ、Yの措置は違憲にならないと考えればいいことになる。

 

 以下、政教分離原則からYの判断の合理性とYの措置の違憲性の関係まで一気に論じてみる。

 

 

 本問についてこれを見ると、Yは、「生徒であるXらの発表をY校長が許可することが憲法20条3項の『宗教教育』や『宗教的活動』に当たる」と判断して、Xの発表を認めない措置を行った。

 そこで、このYの判断は合理的なものと言えるか、憲法20条3項に定める政教分離原則の意義が問題となる。

 

 この点、憲法20条3項の背後にある政教分離は国家の非宗教性と宗教的中立性を指すところ、その趣旨は個人の信仰の自由の保障を確保することにある。

 このような趣旨を考慮すれば、国家と宗教は完全に分離するのが理想であるとも思える。

 しかし、宗教の社会的機能を考慮すれば、国家と宗教を完全に分離すれば、かえって、様々な国民の便益を確保することができなくなり、不都合な結果を招くことになる。

 そこで、政教分離規定が制度的保障であることを考慮し、政教分離原則に反するような「宗教教育」や「宗教的教育」とは、公権力と宗教が社会通念に照らして相当程度以上のかかわりをもつこと、具体的には、その目的が宗教的意義を持ち、(かつ、)その効果が当該宗教に対する援助、助長、促進、圧迫、干渉等になるような行為をいうと考える。

 そして、教育に関する専門知識を有し、かつ、可塑性ある生徒に対して教育現場で柔軟に対応する観点から現場責任者たる校長に裁量を与えていることを考慮すれば、発表の許可の目的が宗教的意義を持たないことが明らかであり、かつ、発表の許可の効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進、圧迫、干渉とならないことが明らかである場合に限り、校長の判断が著しく不合理であるものとして校長の措置が違憲となるものと解する。

 

 

 以上、Yの判断の合理性とYの措置の違憲性をリンクさせた。

 次回は、この基準に対してあてはめを行う。