今回はこのシリーズの続き。
一つは砂川市のケース、もう一つは那覇市のケースである。
15 砂川政教分離訴訟
まずは、砂川政教分離訴訟についてみてみる。
この訴訟は地方自治体(砂川市)の二つの行為が政教分離規定(憲法89条前段や憲法20条1項後段)に抵触しないかが問題になった事例である。
そして、一方(土地の無償譲渡)は合憲と判定され、他方(土地の無償利用)は違憲と判断した(結論は破棄差戻)。
なお、違憲と判断した判決(所謂、空知太神社に関するもの)はこちらである。
平成19年(行ツ)260号・ 財産管理を怠る事実の違法確認請求事件・平成22年1月20日最高裁判所大法廷判決
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/347/038347_hanrei.pdf
違憲と判断した最高裁判決の特徴、特に、規範定立部分に関する特徴はいわゆる「目的効果基準」を採用しなかったことである。
そのため、「最高裁判所は政教分離に関する従来の考え方を変更したのか、あるいは修正したのか」ということが話題になった、らしい。
私も最高裁判所の判決全文を見てみた。
確かに、規範定立の部分に目的効果基準に関する文言がない。
しかし、「変更・修正の程度が大きい」とまでは言えないような気がする。
そして、「大きいと評価するか」については規範定立までの筋道の違いによるのかなあ、と考えられる。
私が司法試験の過去問に用いた規範定立までのロジックを使うとこうなる。
① 宗教と政治の分離は完全になされることが原則
② 現実において完全分離を貫けば弊害が多い
③ また、政教分離は人権規定ではなく制度の規定(制度的保障)
④ そこで、例外に当たるか否かを「目的効果基準」という規範を用いて考える
つまり、原則修正パターンに乗せて「目的効果基準」までもっていった。
もちろん、「目的効果基準」の部分を「レモンテスト」にしても構わない。
「レモンテスト」の場合、④のところに「原則に忠実にあるべき点を考慮して」が加わるくらいである。
他方、津地鎮祭事件・愛媛玉串訴訟における最高裁のロジックを見るとこのような形になる。
① 歴史経緯によると完全分離が理想
② 完全分離は現実において弊害を招く
③ 政教分離は制度保障であり、かつ、個人の宗教的儀式の強制は別の条項で担保(憲法20条2項)
④ 「国(自治体含む)と宗教団体かかわりあいが相当と超えるもの」は政教分離違反
⑤ ④を前提にして、憲法20条3項の「宗教的活動」に該当するかの判断は目的効果基準に従う
⑥ 目的効果基準の「目的」と「効果」は客観的に判断すること
大きな違いは、目的効果基準の前に④のクッションがあることである。
つまり、「相当性」という大きな規範があり、相当性の判断要素が目的効果基準であり、その目的と効果を客観的に判断することになる。
そして、今回の事件でも①~④までは変わっていない。
変わったのは⑤以降である。
そして、従来の事件は地方自治体からの公金支出(作為)が問題になったのに対して、今回は土地の使用料の不請求(不作為)が問題になっている。
作為と不作為の差を大きいと考えれば、判例の態度は部分修正に過ぎない、という気がする。
もっとも、「変更・修正の大小の評価」については学者の方が緻密な判断ができるだろう。
だから、以上は私の直感的な感想である。
ところで、私のメモブログは「司法試験の過去問を見直すこと」。
この事件を踏まえて、前述の過去問(平成4年度の論文試験・憲法第1問)の規範を変えるかと言われると、「変えても変えなくてもいい、よって、(めんどくさいので)変えない」になる。
また、規範によって結論が変わることもないように考えられる。
さらに、補足意見として藤田裁判官(学者出身)が「例えば、公的な立場で寺社に参拝あるいは寄進しながら、それは、専ら国家公安・国民の安全を願う目的によるものであって、当該宗教を特に優遇しようとする趣旨ではないから、憲法にいう『宗教的活動』ではない、というような弁明を行うことは、上記目的効果基準の下においても到底許されるものとはいえない」と書いてあったことは、参考になった。
つまり、私がこのブログで書いた目的の認定方法は間違ってない(目的の認定の際、自治体等の言い分を形式的に認定・適用するのではなく、その背景などを加えて実質的に認定しても問題ない)こともわかった。
その意味で勉強になった(もっとも、私は今後司法試験を受験することはないが)。
16 孔子廟訴訟
そして、ニュースを見ていた私の目を引いた訴訟が那覇市の孔子廟の訴訟である。
こちらの最高裁判決は次のURLの通り。
令和元年(行ツ)222号・固定資産税等課税免除措置取消(住民訴訟)請求事件・令和3年2月24日最高裁判所大法廷判決
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/039/090039_hanrei.pdf
かなり時間が経過しているので、当時の私の感想は既に記憶にない。
そこで、今、この訴訟を見た感想をここで述べる。
一つ目に考えたことは「儒教は宗教か」ということである。
定義から考えて儒教が宗教でなければ、世俗化・習俗化の検討をするまでもなく政教分離規定との摩擦が発生しないからである。
もっとも、多数意見はこの点を肯定しているし、反対意見も過去の宗教性までは否定していない。
まあ、私は儒教は宗教(一神・非人格・集団救済目的)と考えているので、私の考えていたことと適合するということになるが。
二つ目に考えたことは、「この問題は政教分離の問題というよりも財政問題であり、かつ、地方自治の債務免除(費用の不請求)のハードルが厳しくなった点が政教分離に影響したのかなあ」ということである。
この点、津地鎮祭訴訟・愛媛玉串訴訟は儀式に対して公金を支出している。
つまり、「自治体や政府による宗教活動(地鎮祭等)への関与」等が問題となっていた。
前者は、形式的には宗教的儀式ではあるが実質的には世俗的行事であると判断して公金の支出を認め、後者は形式的にも実質的にも宗教的儀式・宗教的行事であるとして公金の支出を違憲と判断した。
それに対して、砂川政教分離訴訟や孔子廟の事件は団体の活動基盤となる土地の無償利用の許可(使用料の免除・不請求)が問題となっている。
個々の儀式ではなく活動基盤にかかわる便宜供与であるから自治体と団体との関与(援助)の程度は強くなる。
その一方で、団体の習俗化の程度は高い。
つまり、「習俗化が高くなり、宗教性が希薄になった団体それ自体への援助」が問題となっている。
もちろん、「宗教性は希薄になっても、無償利用を許すことは団体の運営それ自体に対する援助であり、関わりあいは相当性を超える、だから違憲」とも言いうるので、結論自体に異議があるわけではないが。
そして、これに地方自治体の債務免除の問題が絡んでいる。
最高裁は自治体の長による債務免除の裁量をほとんど認めていない(この事件でもその判例は引用されている)。
砂川政教分離訴訟はさておき、孔子廟訴訟にはその背後に財政問題を感じてしまった(実際は分からない)。
だから、この訴訟は「債務免除を容認できないという結論が主としてあり、政教分離違反は従かなあ」という感想を持った。
その感想を裏付けているのが、反対意見を述べた林裁判官(行政官出身)の「本件において、(中略)比較的裕福な団体であることがうかがわれるのに、当時の市長が年500万円以上にものぼる使用料を全額免除したこと自体は、公的支援として過ぎたるものではないかという違和感を覚えるものではあるが、本件免除が無効であるということまではいえない以上、第1審原告の請求は棄却するほかない」という部分である。
以上、過去問を検討し、さらには、政教分離に関する最近の判例もみた。
政教分離に関しては思うことはあった(だから、2問目にこれを選んだ)のだが、それについて触れると長くなること、それを書く意欲がかなり減退したので、この過去問に言及するのはこれまでにする(書きたかったことは平成10年の過去問で改めて言及する)。
次回は、平成8年の憲法第1問について検討しようと考えている。