今日はこのシリーズの続き。
『小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。
11 第4章を読む_前編後半
前回、「中国には『法家の思想』に基づく『法律』がある」ことを確認した。
そこで、今回はこの「法律」についてみていく。
前回、「貴族だろうが平民だろうが法に従わなかった者は罰した」ということが画期的であったと述べた。
つまり、身分の上下を問わず、違反した者を罰し、功績を挙げた者は褒美を与える。
その結果、身分が低い者は開墾においても戦争においても一生懸命働く。
かくして、富国強兵策が功を奏することになる。
ところで、この政策を最初に行ったのは管仲である。
そのことを示す言葉が「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」である。
この発言で礼節や栄辱が登場することからも、儒教と法家の思想の違いは優先順位の違い、ということがわかる。
もっとも、儒教と法家の思想には大きな違いがある。
この点、『論語』の「述而第七」(巻第四)の1に「述べて作らず、信じて古を好む」とある(なお、私が『論語』を参照する際に用いている書籍は次の通り)。
つまり、儒教の倫理規範は過去の聖人たる堯・舜・禹の三帝が作ったものが理想であり、孔子であってもこれを述べることができるだけで改正・創作することができないと考える。
この点は、「『聖書』は絶対であって、人間ができることは文言の解釈のみ」というところと共通する部分がある。
もっとも、この点に対して法家の思想家の批判は集中した。
昔と今では社会の実態が全然違うではないか、と。
この点、韓非子は「守株待兎」のたとえを用いて、儒教のこの態度を批判している。
つまり、昔は人口は少なく、経済の規模も小さかった。
それゆえ、儒教の根本規範たる「五倫」や道徳だけで社会は回ったし、君主もあっさりと禅譲した。
しかし、人口は指数関数的に増加するのに対して、食糧は1次関数的にしか増加しないから、社会の構造が違う。
また、社会の成長により「商売相手」という新しい人間関係ができたが、これは「五倫」では統御できない。
また、韓非子の時代は君主と庶民の生活水準は大きく異なるし、役人と庶民を比較しても生活水準が異なるから、その地位をあっさり放棄することはない。
以上の社会変化を考慮すれば、道徳だけではコントロールできず、法律が必要である、というのが法家の思想になる。
そして、法家の思想がよく表れているのが、戦争哲学である。
例えば、孫子は「王の命令で軍隊を編成した以上、軍律は絶対」と述べて、王の助命にもかかわらず軍律に反した王の最愛の美女を処刑してしまう。
この「軍律は絶対」という概念は、ヨーロッパでは近代のオリーバー・クロムウェルの時代以降に確立された思想である。
この「軍律は絶対」という概念は、「軍隊は集団である」という概念が徹底したことによって生じた。
言い換えれば、戦争は「任務の積み上げ」で把握すべきであり、「個人の戦闘の積み上げ」で把握すべきではないということになる。
というのも、「個人の戦闘の積み上げ」の発想だと、個人として勇敢な人がたくさんいても、一斉に勇敢に突撃して一気に大量に殺されてしまうことになるからである。
このような事態を回避するため、組織的対応・部署ごとの役割といったものをきっちりさせる必要があり、その手段として軍律の徹底が必要になる。
中国ではこの発想が春秋戦国時代たる2500年前から存在した。
これに対して、日本においては太平洋戦争前夜でさえ一般国民(当時の帝国臣民)にこの発想があったか微妙である(もちろん、陸海軍にはあっただろうが)。
恐るべきことである。
そして、この中国の戦争哲学は法家の思想に通じることになる。
また、このように見ることで、法家の思想と儒教の違いも明らかになる。
ただ、学術の系統で見れば、法家の思想は儒教から発生している。
だから、法家の思想は儒教の発想を取り入れている。
ただ、優先順位が逆転しているのであたかも別なものに見えることになる。
そして、ここまで見てきた法家の思想で中国は統治されていた。
この点は現在でも変わらない。
この点、焚書坑儒で儒教を弾圧した秦は法家の思想を理想とした。
そして、秦の次の王朝である漢の武帝の時代、武帝は儒教を国教としたが、法家の思想を用いて統治していた。
そのことを裏付けるエピソードとして、儒教に傾倒していた皇太子を父たる皇帝が諫める話がある。
また、明の太祖たる洪武帝(朱元璋)は「明律」を作っており、ここでも法家の思想による統治が見られる。
この明律は体系的かつ精緻な大法典であるところ、当時の世界において最高レベルのものであり、中国の影響を受けた諸外国の手本にもなった。
この明律は人間を信用せず、法に則って厳罰主義で役人を統治する。
そして、洪武帝は大量の重臣、一度に万単位の人間を粛清・処刑した人間としても有名である。
まあ、この一度に何万人も処刑しなければならなくなった背後には中国の宗族があるとしても。
なお、ここで本書では宗族と大量粛清の関係についての補足が入る。
つまり、中国では宗族制度が採用されている。
そのため、個人主義社会では1人粛清すれば足りるところ、中国社会では宗族全員を粛清しなければならないため、1万人くらいの人が連座されることになる。
さらに言えば、この宗族全員を連座させる理由も中国における思想・信仰が関係している。
つまり、中国社会では、「人が死ぬと魂と魄に分かれ、魂は天に昇り、魄は地に潜ってしまうが、子孫のお祭りをすることによって魂と魄が地上に戻ってきて合体して生命がよみがえる」と考える。
そこで、中国社会では「子孫が祖先を祭ること」が重要な意味を持つ。
そこで、生命の復活を阻止するためには祖先の祭りを阻止する必要があり、そのために祖先を祭ることができる宗族を粛清することになる。
このように、中国社会では「先祖を祭ること」が重要であり、キリスト教の普及の障害になるほどでもあった。
さて、スターリンに匹敵するほどの粛清を行った明の初代皇帝洪武帝。
もっとも、彼は法家の思想を表に出したわけではない。
彼の表向きは専ら儒教であった。
そのことは彼の発布したいわゆる「六諭」にも表れている。
また、明の時代、国は大いに栄えた。
文化も発展し、国力も充実し、現在残っている大がかりな建築物も明の時代のものが多い。
また、万里の長城を完成させたのも、この読書ブログで何回か登場する「鄭和の大航海」も明の時代であった。
それを支えたのが、朱元璋の「表向きは儒教、実際は法家」という形の統治である。
これは、儒教により倫理を語る意味がなくなったから、と言われている。
このように、中国は「表は儒教、裏は法家の思想」という統治システムを採用していた。
もっとも、法家の思想は中国の思想において特異的な特徴があった。
それは、中国の思想でありながら、法家の思想だけは家族道徳との関連性がないことである。
儒教を含め、どの思想も家族道徳を基本としているのに、である。
本書では、法家の思想の特異性を示すエピソードとして、呉起のエピソードが紹介されている。
例えば、呉起が曾子に弟子入りしていたとき、母親が亡くなったが、呉起は「死んだものはしょうがない」と述べて学問を続けたため、師の曾子に破門された、とか。
あるいは、呉起が魯の国に就職が決まりかけたところ、妻が斉出身だったため外国に通じているのではと疑われて採用が見送られるやいなや、その妻をさっさと殺してしまった、とか。
いずれも、家族道徳を基本とする他の思想では考えられないことである。
もちろん、法家の思想が積極的に家族を捨てることを勧めているわけではないとしても。
それから、表向きに統治の道具として利用されていた儒教は辛亥革命の嵐には耐えられたが、中国の共産革命の嵐には耐えられなかった。
他方、そもそも表に出ていない法家の思想は否定されることなく現在も続いている。
なお、ここで日本について見ると、儒教は応神天皇の時代に王仁が伝えたと言われている。
そして、江戸時代に朱子学が隆盛を極めることになる。
しかし、法家の思想が入ってこなかったがために、日本は表も裏も儒教一本となり、法術の要素がない日本人は政治音痴になってしまった。
他方、中国は裏向きに利用されていた法術が現在も続いている。
そこで、日本人と対比して裏側で法術を駆使する中国人は政治の名人になった。
著者の小室先生は、日本人の政治音痴の原因を法術がないこと、つまり、本当の意味での冷徹な政治学を知らない点に求めている。
以上、中国に法家の思想をがあること、換言すれば、法家の思想に基づいた「法」があることをみてきた。
もっとも、この「法」は近代社会の「法」とは全然違う性質のものである。
以下、近代社会の法律と法家の法律を比較していく。
まず、中国には、近代社会に必須の「主権」という概念がない。
そのため、絶対王政における「リヴァイアサン」の発想がなく、「法は伝統主義から自由」とか「法を作れば国民をいかようにすることもできる」と言う発想がない。
その結果、「国民を煮るも焼くも自由」という絶対権力を縛り付ける立憲主義という発想がなければ、近代法の基礎である「権力から国民を守るための法」といった発想がない。
以前、『痛快!憲法学』で見てきたとおり(具体的な内容は次の読書メモの通り)、近代法には「主権→絶対王政→近代革命→立憲主義」という流れがある。
また、イスラム教にこの近代法ができるまでの流れが極めて生じにくいということも次の読書メモで見てきたとおりである。
では、中国で以上の近代法の発想が欠けている理由はなぜか。
それは、法家の思想、つまり、「法律は権力者が統治するためにある」という発想である。
そのことを示しているのが、韓非子の「法律を解釈するときは役人を手本とすべき」という言葉である。
もちろん、ここでの役人はマックス・ウェーバーのいうところの行政官僚である。
近代法では法律の終局的解釈権は裁判所にある。
だから、行政官僚と言えども、裁判所の前では一般人と大差ない。
ここには、「法律による行政」、つまり、「法律によって行政から国民を守る」という考えがある。
この発想は法家の法律には全くない。
権力者が国民を統治するための手段が法律なのだから、法律を行政官僚がいかように解釈しても構わない、ということになる。
そして、この「法律」にこめられている発想の違いが、中国との商売で中国以外の企業が苦しむ理由になる。
法律の終局解釈権が裁判所ではなく行政官僚(政府)にある以上、中国政府が「この法律の解釈はかくかくしかじかである」と述べたら、それがどんなに文理上不合理でもひっくり返せないのだから。
もちろん、近代法と同様、法家の思想による法律は変更できる。
もっとも、近代法の立法権者は行政ではなく議会だが、中国における立法権も行政官僚にある。
だから、法律をあっさり変えられてしまって今までやってきたことが通らない、といったことも起きる。
このように、中国の法律は近代法の法律のように、国民を守るための盾として機能しない。
さらに、その背後には中国において伝統的に続いた法家の思想がある。
この法家の思想が日本や欧米の企業を苦しめることになる。
まあ、行政指導が盛んな日本、あるいは、裁判所が行政権の肩を持つ日本の状況は、法家の思想に近いと言えるかもしれないとしても。
ここまで見れば、欧米の人間が言う「中国には法律がない」という意味もはっきりする。
つまり、中国には近代の立憲民主主義に裏打ちされた法律がないのだ、と。
この点、中国において「法律」と呼ばれるものは存在するが、それは韓非子の時代にほぼ完成した法家の思想による法律なのだ、と。
以上、中国の「法律」の概念が近代法の「法律」と全く異なるものであることを確認した。
続きの部分は次回以降に。