今日はこのシリーズの続き。
『小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。
10 第4章を読む_前編前半
第1章から第3章までで中国の共同体たる「宗族」と「幇会(と情誼)」を見てきた。
第4章のタイトルは「中国人意識の源流に韓非子あり」。
第4章では、中国における「法」とその背後にある「法家の思想」についてみていく。
その結果、近代法と中国の法の違いが理解できると考えられる。
本章では、中国で商売した人間の発言が紹介されている。
その発言を引っ張ってくると次のようになる。
(以下、本書176ページより上述の発言部分を引用)
「中国人ほど法律を振り回す人はいない」
「日本であれば、意気投合すれば阿吽の呼吸で、まあ、いいやいいやとなるところが、それが中国人には通用しない」
「中国人ほど法律好きな国民はいない」
「中国には法律がない。中国はまだ法治国家ではなく人治国家だ」
(引用終了)
つまり、「中国では法律が強すぎて、ややこしすぎて困る」という感想と「中国には法律がない」という両極端な主張が混在していることになる。
こはいかに。
この点、「『中国』という空間が一様ではない」からこのような両極端の感想が生じている、と言えなくもない。
しかし、より重要なのが、感想において用いられている「法律」とは同一のものか、という点であろう。
「法律」と言う言葉を用いていたとしても、その意味が異なっていれば感想が両極端になってもおかしくはないからである。
これまでのところで見てきた通り、近代社会・近代資本主義社会で用いられている「近代法」において「事情変更の抗弁(法則)」は原則として認められない。
しかし、中国ではこの「事情変更の抗弁」を盛んに用いられている。
特に、中国政府の事情変更の原則の濫用にアメリカの企業は散々な目にあい、結果、事業撤退、といったことも少なくない。
これらのトラブルの背後には中国社会と近代社会の価値観の違いがある。
価値観の違いがあれば、用いられている言葉の違いがあってもおかしくない。
ちょうど貨幣の交換・言葉の翻訳はできても、貨幣や言葉に刻印された価値観が違うように(詳細は次のリンク先にある読書メモ参照)。
ここで中国における「法」を見る前に、日本社会における「法」について確認する。
本書で登場する川島武宜博士や山本七平氏に従うと、日本には「法」概念が存在しなかったらしい。
しかし、その後、明治になるまでご成敗式目・建武式目などの「式目」や武家諸法度などの「お触れ」ができるが、これらは「法」ではなかったらしい。
もっとも、論理を重視しない(これは次のリンク先にある読書メモで見た通り)日本においては法がなくても気にならなかったので、法概念がなくても問題がなかった。
また、法概念がなかったからこそ、明治の近代化の過程で「条約改正を目的とした近代法の制定」というをヨーロッパ社会から見て無茶なことができた、ともいえる。
ちなみに、新井白石がキリスト教を排斥する結論を採用した(後述の読書メモ参照、ただし、法概念の欠如との関連は別の書籍で触れており、この読書メモでは触れていない)のも、この「法概念の欠如」で説明することができるらしい。
これに対して、中国には文化に根差した法概念が存在し、法律も存在した。
その背後にあるのが「法家の思想」である。
この点、中国は儒教の国であり、特に、儒教は中国の国教であると言われている。
これに対して、マックス・ウェーバーは「中国は儒教が正統であるが、異端として道教もある」と反論した。
この反論は当たっているが完全ではない。
というのも、「中国の統治機構は表向きは儒教、裏向きは法家の思想という二重構造」だったからである。
このことを「陽儒陰法」という。
つまり、中国は儒教と法家の思想を両輪に統治を続けてきたことになる。
以下、裏にある法家の思想(法教)についてみていく。
法家の思想を遡ると管仲に遡るらしい。
このことは、日本で有名な諸葛孔明が理想の政治家として管仲を取り上げていることからもわかる。
この管仲については第2章で「管鮑の交わり」について言及した。
しかし、第4章で注目すべき管仲のエピソードは、「管仲が仕えた主君の糾は相続争いで小白に敗れて殺されてしまい、管仲自身も囚われの身となった。その後、相続争いに勝った小白は家臣(鮑叔牙)から管鮑を推挙されたこともあり、管鮑を宰相に取り立てた」という部分である。
この部分の評価について中国や日本で論争が起きる。
管鮑は主君が殺されたのに殉死しないどころか敵方の宰相になっている。
この点について猛烈な批判が沸き起こり、武士道全盛の徳川時代では管仲を悪く人が多かった。
この返答が、中国理解のポイントとなる。
『論語』の「巻第七」の「憲問第十四」で孔子は次のように述べている。
(以下、後述の書籍から「憲問第十四」の17より書き下し文を引用)
子路が曰わく、桓公、公子糾を殺す。召忽これに死し、管仲は死せず。曰わく、未だ仁ならざるか。子の曰わく、桓公、諸侯を九合して、兵車を以てせざるは、管仲の力なり。その仁に如かんや、その仁に如かんや。
(引用終了)
これを私が私釈三国志風に訳すならこうなるであろう。
(以下、私による私釈三国志風意訳、強調は私の手による)
子路「桓公が公子糾を殺した際、召忽はこれに殉じたけど、管仲は殉じなかった。これでは立派な行為じゃない(仁じゃない)っすよね」
孔子「管仲がいたからこそ、桓公は戦争をしないで諸侯をまとめ上げられたのだ。その功績を考えれば、殉死しないことなど小さいものだ」
(意訳終了)
さらに、その次の18では次のようなことを述べている。
こちらも書き下し文と私の意訳を掲載する。
(以下、「憲問第十四」の18より書き下し文を引用)
子貢が曰わく、管仲は仁者に非ざるか。桓公、公子糾を殺して、死すること能わず、又たこれを相く。子の曰わく、管仲、桓公を相けて諸侯に覇たり、天下を一匡す。民、今に到るまで其の賜を受く。管仲微かりせば、吾れ其れ髪を被り衽を左にせん。豈に匹夫匹婦の諒を為し、自ら溝瀆に経れて知らるること莫きが若くならんや。
(引用終了)
(以下、私による私釈三国志風意訳、強調は私の手による)
子貢「管仲は立派な人とは言えないんじゃないっすか。桓公が公子糾を殺した際、管仲は殉死しないどころか、仇にあたる王様に仕えちゃうんですから。
孔子「管仲のおかげで桓公は諸侯の旗頭になり、天下は収まった。その恩恵は今の人民に及んでいる。管仲のなければ我々は野蛮人に成り下がっていただろう。義理立てして殉死したところで、遺体を片付けられて忘れられてしまう人間のが落ちだ。そんな人間が管仲に勝るわけないじゃん」
(意訳終了)
孔子の主張は「良い政治をして社会をよくすることが重要である」に尽きる。
そして、このことから儒教の目的はよい政治による社会(集団)救済にあることも分かる。
だからこそ、儒教においては、天が奇蹟を起して個人を救済することはない。
この救済の観点から見た場合、仏教の救済は悟りを開いて涅槃に入ることにあり、個人単位の救済になっている。
キリスト教にしても、その救済は神(絶対者)の恩恵により神の国に入ることであり、個人単位の救済になっている。
本書にないイスラム教も然り。
ちなみに、ユダヤ教は集団救済を前提としている。
これに対して、儒教は集団救済の宗教であって、個人救済は直接的には関係しない。
この前提こそ中国の本質が現れている。
例えば、事情変更の抗弁についてについて見た場合、近代社会では契約を守ることが最重要だから、事情変更の抗弁は原則として認められない。
これに対し、中国社会ではよい政治をすることが最重要だから、よい政治のためであれば事情変更の抗弁を乱発し契約を反故にすることもお茶の子さいさい、ということになる。
こうなると、契約を守るという意味で「信用できるか否か」という観点から見ても意味がなく、「道徳の基本が違う」という観点から見た方がいい、とさえいえよう。
そして、この点の理解こそ中国人や中国社会の理解の根本になる。
さて、中国社会にある「良い政治をすれば社会がよくなり(人々も幸せになる)」という儒教の思想。
これに対して、近代ヨーロッパの根本思想は「レッセ・フェール」、つまり、自由放任となる。
これは古典経済学の経済思想であるが、政治についても同様の発想を持っていたことは次の読書メモで見てきたとおりである。
このレッセ・フェールに対応する思想を中国で探していくと、これは老子の思想になるのではないかと考えられる。
他方、現代資本主義では世界恐慌を経てレッセ・フェールが相対化されることとなったが、資本主義社会においてこのレッセ・フェールを相対化させた思想を探していくと、これはケインズの思想になり、これに対応する中国の思想が儒教になる。
また、資本主義社会以外の社会では共産主義革命が起こり、統制経済の発想を持つわけだが、この発想を持つ思想を中国で探すとなんと法家の思想となる。
以上をモデル化してまとめると次のようになる。
(ヨーロッパ)レッセ・フェール・・・老荘の思想(中国)
(ヨーロッパ)社会主義・・・法家の思想(中国)
このように整理したところで、法家の思想を見ていく。
法家の思想の代表者は秦の始皇帝の時代に登場する韓非子である。
韓非子の論文を読んだ秦の始皇帝は感激し、この思想を推し進めて天下の統一を果たす。
だから、始皇帝の天下統一を推進したイデオロギーは韓非子の法家の思想ということになる。
では、この韓非子の思想を要約するとどうなるか。
韓非子は儒教の根本規範たる「礼」で社会を統治するのではなく、「法」をもって社会を統治せよ、と主張した。
そして、この「法」とは君主が臣下を支配するための根本原則であり、人民が従うべき基準でもある。
さらに、韓非子は法の運用の仕方を定めた「術」の重要性を説き、君主は「法」と「術」をもって統治すべきであると説いた。
韓非子が登場したのは今から約二千数百年前である。
しかし、その時代であっても社会で作られた法律は非常に発達していた。
というのも、中世ヨーロッパにはなかった「立法」という概念があったのだから。
また、中国では商鞅(始皇帝の前の時代に秦を強国にした宰相)から王安石の時代まで、大改革のときには法律を作っている。
さらに、法律の体系性から比較しても、十九世紀のヨーロッパの刑法とそん色がないレベルであった。
このことからも、中国では法概念が進歩していたと言える。
さて、韓非子は「良い政治をするためには法律を作れ」と言う。
また、「作った法律を実行するために法律の運用、具体的には、役人の使い方たる『術』を研究せよ」という。
このように法家の思想では「良い政治をするために重要なものは法術である」と述べる。
そして、この背後には、儒教が述べるところの道徳によって人間は制御できない、という前提がある。
筆者によると、韓非子の思想は科学的政治学のテキストとして非常に進歩している、と言う。
というのも、法律の作り方・役人の使い方・統治の方法・政治の手法など細かい点まで研究が進んでいるからである。
この背後には韓非子の時代は春秋戦国時代であって、古代ギリシャや古代ローマのように考え方が自由な時代だったという事情がある。
具体的に見ても、孔子や孟子などの儒教、老子や荘子などの諸子百家、さらには、管仲や商鞅や韓非子といった法教など中国における独創的な思想は春秋戦国時代から始まっているからである。
さらに言えば、韓非子の時代は春秋戦国時代のラストであり、その意味でサンプルが多かったことも進歩している理由に加えてもいいかもしれない。
この点、ヨーロッパにはマキャベリの『君主論』があるが、韓非子の方がマキャベリよりも優れているのも、これらの背景事情によるともいえる。
なお、マキャベリの『君主論』はカトリック教会の影響もあり、道徳的なものに遠慮していたが、それでも『君主論』は悪魔の書などと非難された。
他方、韓非子にはそのような遠慮はない。
その遠慮のなさが韓非子の科学的政治学の業績を生んだと言える。
では、儒教と法教の違いは何か。
このヒントは学校の教科書にも登場する『論語』のエピソードがヒントとなる。
いわゆる「子貢、政を問う」のエピソードである。
これは巻第六の顔淵第十二の七に登場する話だが、私釈三国志風意訳のみを掲載する。
(以下、巻第六・顔淵第十二・六の私釈三国志風意訳)
子貢「政治に大切なことはナンっすか」
孔子「食糧を確保して民を飢えさせないこと、軍備を確保して侵略を防ぐこと、民が君主を信頼することの3点だなあ」
子貢「なんかあって3つのうちどれかを諦めるならどれを選びますか?」
孔子「軍備だな」
子貢「さらになんかあって2つのうちどれかを諦めるならどっちを選びますか?」
孔子「食糧だな。飢えなくても人はいずれ死ぬが、信義をないがしろになった統治は成り立たん」
(意訳終了)
つまり、儒教の場合、優先順位は「道徳(信義)、経済、軍備」の順番になる。
これに対して、法教の場合、優先順位は「経済、軍備、道徳」という順番になる。
だからといって、儒教が軍備をないがしろにしているわけでも、法教が道徳をないがしろにしているわけでもない。
孟子は経済政策を重視していたし、韓非子も道徳の重要性を説いている。
ただ、優先順位はこうなる、と言っているだけである。
日本教から見た場合、「信義だけ、または、法だけでなんとかしよう」と見えてしまう面があるとしても。
本書では、法教と儒教の違いをエピソードが紹介されている。
例えば、日本の教科書に登場し、かつ、日本教の核心を示しているする『論語』の重要なエピソードの葉公のエピソード(巻第七・子路第十三の18)。
孔子は「羊をちょろまかした父を息子を告発した」と述べた葉公のエピソードに対して、「父は自分のしたことを子に隠す(子を悩ませないために)。子は父のしたことを隠す(告発しない、父を守るために)。直きことはこの中にある」と述べ、告発した息子の行為を褒めなかった。
これに対して、韓非子は「孝行息子など国からみたら逆臣である」と孔子の反応を非難している。
ただ、孔子は羊をちょろまかすことを奨励したわけでもない点は留意しなければならないだろう。
また、管仲のエピソードとして刺客列伝(曹沫の部分)にはこんな話がある。
なお、元の文章はこちらのサイトのものを参考にしている。
概略は次の通り。
戦争で敗れた魯と戦争で勝った斉の講和会議のこと、刺客たる魯の曹沫は桓公を人質にして戦争で取られた領地の返還を迫った。
桓公は領土の返還を約束し、その身は解放されたが、脅迫による約束に過ぎないと領土の返還約束を反故にしようとする。
これに対して、管仲が「小さいことを言いなさんな。約束を守れば小さい土地を失うだけ、約束を反故にすれば天下の信頼を失いまっせ」(私釈三国志風意訳)と諫める。
つまり、法家では信義すら政治に利用するのである。
さらに、呉起に関するエピソードも本書では紹介されている。
呉起の時代、土地を持っていたのは貴族であり、その土地の人民も貴族の物であり、君主は人民に直接課税をすることができなかった。
そこで、呉起は法律を改正し、開拓を奨励し、開墾から得られた利益を国に納税させることにした。
その際、納税を怠った者は貴族だろうが平民であろうが、容赦なく罰していった。
この点、呉起の画期的なことが法の画一的適用である。
当時は、貴族と平民で適用される法律が異なっていたし、「刑は士大夫にはのぼらず」という言葉もあった。
しかし、呉起は法を貴族にも平民にも適用していったのである。
以上、第4章の4分の1まで見てきた。
次回は、法家の思想について細かく見ていく予定である。