薫のメモ帳

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『日本人と組織』を読む 4

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人と組織』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

4 第4章「ユダヤ人に学ぶ口伝律法」を読む

 本章は日本のある傾向から話が始まる。

 つまり、「『日本には「何々」が足りない。この足らない状況をどうにかしなければならない』という信念をエネルギーにして色々成し遂げてきた」ということから話が始まる。

 この「何々」には様々なものが入る。

「欧米化」だったり、「生活用品」だったり、「家電製品」だったり、「民主化」だったり。

 この結果、日米和親条約から約60年間で欧米列強の仲間入りをした。

 また、戦後も瞬く間に高度経済成長を遂げた。

 特に、日本の電化製品の普及のスピードは統計調査をしている学者たちを呆然とさせるという。

 

 明治の近代化と戦後の高度経済成長、これらは「生活の欧米化」と言えるものである。

 また、生活習慣の変化は意識の変化をもたらす。

 では、この「生活の欧米化」は日本人の「意識の欧米化」をもたらしただろうか?

 さにあらず、現実では「生活の欧米化」により「意識の日本化」という現象をもたらしているらしい。

 本書ではその例として、新年の神社への参拝人数の激増について挙げられている。

 この点は、ピンとくる点とこない点があるが、とりあえず先に進もう。

 

 

 ここから、「生活の欧米化」と「意識の日本化」の関係に話が移る。

 生活の欧米化によって、日本人はドルや英語を知る。

 また、日本語で英語の文章を翻訳したり、円でドルを交換したりできる。

 つまり、貨幣・商品・言語などは交換・流通が可能である。

 

 一方、交換したアメリカの硬貨には「IN_GOD_WE_TRUST」と刻印されている。

 この言葉はアメリカ合衆国の「標語」であり、アメリカの社会的基盤を構成する精神構造から派生したものである。 

 しかし、アメリカのコインが日本に流入したからと言って、日本人が日本の硬貨に「IN_GOD_WE_TRUST」と刻み込むことはないだろう。

 我々にはそのような精神構造を有していないからである。

 

 つまり、ドルと円は総合に流通しあうが、それらに刻印されたものが違う。

 そして、これはドルと円だけではなく、英語と日本語についてもいえる。

 もちろん、英語から日本語への翻訳は可能であり、その逆も可能である。

 しかし、言葉に打ち込まれている刻印は異なり、その刻印の違いを辞書から見ることはできない。

 例えば、「神」と「GOD」の関係を見てみよう。

 確かに、「神」を英訳すれば「GOD」になるし、その逆も然りである。

 しかし、「神」と「GOD」の歴史的な利用法を比較して、両者の刻印を比較すれば、その違いに唖然とすることだろう

 さらに言えば、日本人がその違いを全く知らないことにも唖然とするかもしれない。

 

 この神とGODの違いは別の単語についてもいえるだろう。

 もちろん、刻印の中に踏み込まない限り問題は生じない。

 しかし、刻印に踏み込んで考える必要が生じた場合、辞書には何も書いてない。

 また、刻印は各国の人々の精神構造に由来する以上、それを変えることはほぼ不可能だろう。

 

 

 なお、前章までに言及してきたことは「『組織』に込められた刻印」についてである。

 欧米の「組織」に刻印されているものは「IN_GOD_WE_TRUST」である。

 つまり、「我々は神を信じる。よって、私は相手を信じる」という形式で相互信頼を確立しているところ、その形が「我々は契約書を信じる。」・「我々は定款・社則・社規を信じる」と変化し、これらが組織への信頼を構成することになる。

 

 では、日本に刻印されているものは何か。

 アメリカの言い方になぞらえて言うならば、日本に刻印されている内容は「WE_TRUST_EACH_OTHER」だという。

 確かに、言われてみれば納得できる。

 

 となると、生活の欧米化に伴う問題は2種類に分かれることになる。

 一つは、「足りないものを補う」という戦略で解決される問題。

「刻印に関連しない問題」はそれで解決できるだろう。

 しかし、もう一つの、「刻印から派生する問題」はそれでは対処できないだろう。

 この場合、刻印の内容を参照しながら考えていくしかない。

 

 

 このようにして話は日本の刻印に進む。

 日本の刻印、しかも、最大の刻印は何か。

 それは日本社会は「血族社会的純血種社会」で「口伝律法の社会」であることだという。

 

 血族社会的純血種社会であることが現れている点は何か。

 それは、「日本では日本人の労働力だけで組織を運営すべきものである」ということが当時において当然の前提になっており、少子化に伴う労働力不足を解決する手段としての「労働の自由化」という問題にノータッチだったという点である。

 もっとも、そこから約40年経過した現在から見れば、日本の労働力だけで日本は運営できない状況になりつつあり、それゆえに起きている問題として「外国人技能実習生の問題」などがあるわけだが。

 

 では、何故このような前提があったのか。

 日本の中に「外国人等異なる人種が入れてなお組織を運営する方法論ががなかったから」となる。

 では、何故それがなかったのか。

 他の国の歴史を見ながら考える。

 

 

 ここで、話は二千年前のイスラエルに移る。

 というのも、当時のイスラエルの滅亡の過程と明治から太平洋戦争に至る日本の過程がよく似ているからである。

 

 まず、当時のイスラエルを見ていく。

 当時、ユダヤ人たちはヘレニズムの世界に組み込まれ、さらには、実質的にローマ帝国に支配されながら、ヘレニズムの一国とならなかった。

 それがために、バル・コクバの乱等を経てユダヤ人・ユダヤ文化は壊滅的なダメージを受けることをなる。

   

 では、ヘレニズムの一国とならなかった原因は何か。

 その原因は、第一に「強固なセム族的伝統」、第二は「異常と言えるほどの教育の普及」、最後に「口伝律法の存在」である。

 この点、教育が支配者層だけにとどまっていれば、支配者階級を打破して庶民にヘレニズム文化を教育するという手段でなんとかなる。

 現実において、ローマはガリヤ地方においてこの方法で教化に成功している。

 しかし、教育庶民まで普及し、さらに、口伝律法という不文律で民族全体が動くとなると、文化的併合は不可能になる。

 

 ここで重要になるのが「口伝律法」である。

 口伝律法は文章化を禁じた関係でこのような名称になっているが、イスラエル滅亡後これが成文化されて「ミシュナ」となっている。

 この口伝律法の趣旨は次の3点であった。

 

1、口伝律法と聖書の律法が同一ではないことを示す

2、口伝律法を施行法・特例法・細則として利用する

3、時代の流れに変化させることを想定して成文化による固定を防止する

 

 もちろん、この戦略は一定の成果を納めた。

 子供に基本的なことを教えるなら口伝で十分である。

 また、複雑なこと、つまり、口伝律法とトーラー(聖書)をリンクさせることは律法学者がやればよく、一般人がそんな複雑なことを把握しなければならないこともない。

 もっとも、この場合、一般人は口伝律法を絶対化してしまう。

 さらに、なんらかの原因で律法学者を含む支配者層が徹底的に壊滅し、トーラーの権威を破壊したところで、口伝律法の権威は庶民の間で生き続けてしまう。

 しかも、庶民はその背景を知ることなく、口伝律法に縛られて生きることになる。

 背景が分かれば、背景にテコを入れて改宗させることも可能であるが、トーラーと口伝律法をリンクさせていた律法学者は既に潰してしまっている関係で改宗もさせることもできない。

 その結果、彼らに対してはどうすることもできないという奇妙な状況になってしまったわけである。

 それゆえユダヤ教徒が生き残れたとも言えるわけだが。

 

 

 さて、これを明治時代の日本にあてはめてみよう。

 まず、ユダヤ民族滅亡の原因となった3つを日本に置き換える。

 

1、「強固なセム族的伝統」→「日本的仏教・日本的儒教による伝統」

2、「異常と言えるほどの教育の普及」→「江戸時代の寺子屋、明治時代初期の学制による全国民の教育」

3、「口伝律法の存在」→「口伝的不文律の存在」

 

 安政の五か国条約から大日本帝国の発布まで約30年しかない。

 このスピードはイスラエルのケースよりも急である。

 たった30年の短期間で日本の伝統的な「口伝的不文律」を消し去ることは不可能である。

 そのため、この口伝的不文律は「教育勅語」として復活する。

 この教育勅語貝原益軒の『大和俗訓』を下敷きにしていることはこれまで述べた通りである。

 

 当然だが、これにより明治憲法教育勅語の優先関係が問題となった。

 そして、教育勅語の発布により教育勅語が優先すると受け取った。

 このことは御真影に対して敬礼にとどめ、最敬礼しなかったために問題となった内村鑑三不敬事件を見ても明らかである。

 もちろん、内村鑑三の敬礼が法律に触れないことは明らかである。

 もっとも、口伝律法に触れていたため、彼は「空気」による弾圧を浴びることになった。

 

 また、「口伝律法」の違反に対する抗議は不可能であることも分かる。

 これは「空気」をまとっているから、とも言えるが、「抗議すべき実体」がないからである。

 その結果、口伝律法が反論不可能な絶対的な力をもつことになる。

 これはイスラエルの例とあわせてみれば理解できる。

 

 その後、聖断とそれに伴う民主化によって教育勅語が消えた。

 しかし、明文たる教育勅語は消えても、口伝律法それ自体は残っている。

 だから、口伝律法違反に対して対抗手段がなく、ますます口伝律法は絶対化され、猛威を振るうことになる。

 そして、ますます口伝律法から脱却できなくなってしまったのである。

 この辺は「空気」の猛威を振るい、かつ、「空気」が免責となる原因と重なるのかもしれない。

 

 

 以上を確認したところで、外国人労働者の受け入れの話に戻す。

 この点、海に隔てられた等の条件がないのに外国人労働者が入り込めず、雑居もできなかった場所がある。

 それが、前述のイスラエルである。

 二千年前の当時、イスラエル地方はローマの属州となっていた。

 まあ、特別な州法を定められる状態ではあったらしいが。

 

 ただ、ローマから派遣された総督はエルサレムに住めなかった。

 なんと、総督はカイザリアに常駐、必要なときのみエルサレムに出張し、しかも、軍旗を布で隠すほど神経を使ったという。

 恐ろしい気遣いである。

 

 ところで、当時のイスラエルが持っていた特徴は今の日本にもある。

 ならば、イスラエルの事例における問題は我々の問題として参考にすることができる。

 そして、その背後にあるのが日本の「刻印」の問題なのである。

 

 

 以上が本書のお話。

 うーむ、参考になった。

 コロナが発生する前、労働力をどうするかという問題に対して移民が云々、という話があった。

 あれがどうなったか、労働力が減少する事実に変更はないので、その問題は残存しているが、今回の話はまだ引きずっているなあ、と感じる。