今回はこのシリーズの続き。
『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。
4 「第1章_イスラムが分かれば、宗教が分かる_第1節」を読む(後編)
前回はイスラム教が日本に浸透しない原因を見ていくために、イスラム教について「規範」の観点から見てきた。
つまり、イスラム教においては前述した六つの内容を内心で信じている(疑問を持たない)だけではダメで、五つの行為を実践する義務がある(最後の巡礼は自発的義務ではあるが)。
また、イスラム教を奉じる社会(イスラム社会)では宗教に基づく「規範」と「規範による社会運営」ががっちりできていることがわかる。
以上の観点からキリスト教をみてみる。
すると、キリスト教には「規範」がないことが分かる。
もちろん、規範の有無と教え(教義)の素晴らしさが無関係であることは当然の前提である。
この点、「ばんなそかな」と考えるかもしれない。
しかし、キリスト教のバイブルなどから重要な言葉を出してみる。
例えば、「狭き門より入れ」・「人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ」・「汝らの敵を愛し、汝らを責めるもののために祈れ」といった言葉を出す。
これらはこれまでの「規範」と言いうるであろうか。
答えはノーである。
「狭き門」とは何か、「入る」とは何か、「敵」とは何か・・・。
また、福音書の記載が曖昧であり、あるいは、存在しない場合、具体的な規範(基準)をどのように決定するのか。
さらに、バイブルの次の法源は何か。
そういった基準もない。
この点、イエス・キリストのこれらの言葉は「心構え」としては十分成立する。
でも、遵守と違背の境界が不明確である以上、「規範」にはならない。
もっとも、キリスト教に規範がないのは、キリスト教はユダヤ教から生まれた宗教であり、かつ、ユダヤ教の規範を否定することで生まれた宗教であることに起因する。
そこで、キリスト教を見る前にユダヤ教とユダヤ教の規範について確認する。
『日本人と組織』(今回と関連する読書メモは次のとおり)で見てきたが、ユダヤ教は契約宗教である。
そして、ユダヤ教における法源、つまり、「規範」の基準となっているものとして、「トーラー」と「タルムード」がある。
この点、トーラーは神(ヤハウェ)が預言者モーセに与えた契約の内容である。
ヤハウェがモーセに与えた契約のうち、重要なものとして「十戒」がある。
しかし、具体的に与えたものは「十戒」だけではない。
十戒と同時に詳細な規定をも与えている。
これは十戒を規範として機能させるための当然のことである。
本書では具体例として、神に礼拝する際の規定の一部が挙げられている。
極めて詳細であり、日本教徒からするとうんざりする長さである。
しかし、「規範」として機能する、つまり、基準を満たすか満たさないかを具体的に判定しようとしたら、こうならざるを得ない。
あるいは、社会的妥当性を失って破綻して、地上から消え失せるかの二者択一である。
また、日常の生活を規範で管理しようとした場合、詳細な規定が必要となる。
そこで、できたのが「タルムード」である。
このタルムードというのは、ユダヤ教の律法学者(イスラム教でいう法学者)が「ミシュナ」という昔から伝わる口伝をまとめて、学者の議論と解釈を加えて出来上がったものである。
このタルムード、ものすごい分量になる。
例えば、バビロニア版タルムードというもの二百五十万語以上もあるらしい。
しかし、これだけ膨大な規定であっても、日常生活を規律するには十分ではない。
そこで、ユダヤ教も様々な法源を用いて結論を出すシステムができている。
ちょうど、イスラム教がたくさんの階層の法源(コーラン・スンナ・イジュマーその他)を用意しているように。
以上、ユダヤ教と規範の関係についてみてきた。
このようなユダヤ社会で出現したのが、イエス・キリストである。
『日本人と組織』で見てきた通り、イエス・キリストは預言者として振る舞ったが、その振る舞いは律法学者から見て到底容認できるものでなかった。
例えば、イエス・キリストとその一派がユダヤ教のタルムードの定めに従わなかった際、イエス・キリストはパリサイ人からの追求に対して「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」と返答したと言われている。
この返答、アニミズムにしてパンティズムの日本教徒が普通に言いそうな発言だな、という感じがするが、それはさておき。
このような神の規範たる律法を無視して、律法を破る行為がユダヤ社会を刺激したのは間違いない。
イエス・キリストは十字架にかけられることになる。
この点、福音書その他を見る限り、イエス・キリストの意図は不明である。
律法を完全に廃止する意図だったのか、あるいは、律法を修正する意図だったのか、
さて、律法の相対化(否定)により十字架にかけられたイエス・キリスト。
その後、キリスト教が発展したのはパウロの時代に入ってからである。
このパウロがキリスト教を発展させたのであり、パウロなくしてキリスト教はない。
パウロはパリサイ人であって、最初は律法に忠実なキリスト教徒の迫害者であった。
ところが、あるときに回心して熱心なキリスト教の伝道者となる。
そして、最終的にローマ皇帝ネロに処刑されることになる。
パウロは律法について「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」と述べた。
つまり、「規範に基づく行動によって人は(宗教的に)救われない、大切なのは行動ではなく信仰である」と述べたのである。
これによりキリスト教の本質から規範が消え、ユダヤ教から独立することになる。
では、このパウロの結論の理論的根拠(宗教的根拠)は何か。
それが「原罪論」である。
いわゆるアダムとイブが禁断の木の実を食べて神の怒りを買って、その結果、楽園から追放されるという「楽園追放」の物語である。
旧約聖書の楽園追放の物語はユダヤ教においても当然の前提である。
しかし、ユダヤ教では伝説かおとぎ話のように考えており、あまり重視されなかった。
それに対して、この楽園追放に光を当て、キリスト教の中心に据えたのがパウロである。
パウロが考えた理論は次のとおりである。
楽園追放の物語にあるとおり、人間は原罪を背負っている。
つまり、人間は不完全な存在・必ず悪をなすような存在である。
したがって、欲望に負けてしまい、律法が守られることはない。
それゆえ、真摯に神を信仰し、神による救済を祈るようになる。
この点、神が人間に律法を与えたのは、人間に律法を守らせるためではなく、律法を守ることのできない状況を可視化することで、自分の原罪を思い知らせ、その結果、真摯に神に信仰するためである、と。
だから、「律法を守る」といった外面的行為それ自体には意味がなく、「神(イエス)への信仰、自己の原罪への強い自覚」にこそ意味がある、と。
このように考えることで、キリスト教はユダヤ教と決別することになる。
パウロがキリスト教を作ったというのはこのような背景があるからである。
このパウロの発想、日本教徒がよく使う「具体的なルールに意味はない、大事なのは魂・精神である」という言葉と親和性がある。
この辺は興味深い。
さて。
啓典を信仰の基礎に置くユダヤ教(トーラー)、キリスト教(バイブル)、イスラム教(クルアーン)。
その中で、キリスト教と他の二者とは大きく異なることになる。
シンプルに言えば、キリスト教は「信じる者は救われる」という宗教である。
ユダヤ教とイスラム教と比較したら、いや、仏教や儒教から見ても仰天するような発想である。
具体的な行動が必要ないのだから。
もちろん、「何故、信じる者は救われる」と言えるのか、その理由が気になる。
パウロの回答は、「人間は原罪を負っている、しかし、イエス・キリストが十字架にかけられることで、その原罪がキャンセルされた。だから、我々は神の万能を称え、神を信じなければならない」だそうである。
本書では「わかったような分からないような」と評している。
ここで本書から少し離れる。
この発想に似た宗教が日本にある。
それは浄土真宗である。
かなり単純化してしまうと、両者には次のような共通項がある。
・人間が不完全で罪深き存在である、という前提
・その不完全な人間を救済してくれる超越者(イエス・キリスト、阿弥陀如来)の存在
・その救済対象への信仰
・自力の否定
この点はあとで触れることになるだろうから、ここではこの辺で。
もちろん、キリスト教のこの説明に対して突っ込みをいれることはできる。
例えば、「原罪から解放された」と言えるなら、何故、現在の我々は不完全なのか。
あるいは、我々は感謝する(信仰する)必要があるのか、などなど。
現に、明治時代の代表的なクリスチャンの内村鑑三はキリスト教のこの奇妙さを実感し、それを認める旨の発言をしている。
ただ、キリスト教はローマ帝国の迫害にもかかわらず世界中に広がった。
さらに、キリスト教は近代文明の基礎となり、資本主義・自由(立憲)主義・民主主義といった現代のシステムの要になっている。
この辺については既にこれまでの読書メモで見てきたとおりである。
以上、イスラム教やキリスト教と「規範」との関係についてみてきた。
ここで、話は一段抽象化させ、「『宗教』とは何か」についてみていく。
そして、規範は人間に一定の行為(作為)を要求する。
つまり、宗教は人間の行動を規律する。
この部分から考えると、「宗教はエートス(行動様式)である」という結論が出てくる。
例えば、ユダヤ教徒なら豚肉を食べない。
イスラム教徒なら1日5回の礼拝を行う。
儒教徒ならば君に対して忠、親に対して孝であろうとする。
このように宗教であれば、独特の道徳律がある。
その結果、各宗教の信徒は独自のエートス(行動様式)をもたらす。
そして、イスラム教はそれが最も徹底していることになる。
つまり、外面的行為を見ることで、その人がイスラム教徒か否かが分かる、というわけである。
ここから話を江戸時代の「踏み絵」に移す。
「踏み絵」とは、キリスト教でないことを証明・確認するために庶民にイエス・キリストの絵などを踏ませるといった行為のことを指す。
本来のキリスト教から見た場合、踏み絵は宗教的規範と関連するか。
シンプルに考えればノー、ということになる。
前述したとおり、信仰と行為を切り離したのがキリスト教なのだから。
行為と信仰を切り離せたからこそ、キリスト教はローマ帝国の弾圧をはねのけられたのだから。
だから、教義の原点に返って考えれば、踏むことを拒否しなくてもいいし、踏むことに良心の呵責を覚える必要もなかった、ということになる。
もっとも、イスラム教の場合はこうもいかない。
イスラム教に規範がある以上、礼拝を拒否することはできないからである。
よって、隠れキリシタンであることは可能であっても、隠れムスリムであることは不可能、ということになる。
ただ、現実を見渡せば、キリスト教にも「規範」があるように見える。
例えば、現在(令和4年)、中絶の権利にまつわる問題はアメリカ合衆国を二分する大きな宗教的問題・憲法問題となっている。
また、カトリックは堕胎や離婚を禁止している。
さらに、修道院では厳しい戒律(規範)に従って禁欲的な生活を送っている人々がいる。
これらは「規範」ではないのか。
この点、堕胎の禁止・離婚の禁止は、宗教を根拠とし、外形的な行為が対象で、明確な基準が存在することを考慮すれば「規範」である。
ただ、これらの規範を作ったのは修道院や教会であって、啓典(聖書)から必然的に発生する要請ではない、いうことになる。
キリスト教が信仰のみの宗教と考えた場合、本来、教会のような組織はいらない。
というのも、大切なのは信仰であって、行為ではないからである。
ちなみに、カトリック教会の都合とキリスト教の本質との乖離を問題にしたのが、マルティン・ルターらの宗教改革者である。
「免罪符にせよカトリック教会の儀式にせよ、本来のキリスト教や聖書とは関係ないじゃないか」と批判してキリスト教を本来の姿に戻そうとしたのが、宗教改革の始まりであり、プロテスタントの始まりである。
この点も修道院についても同様である。
ここで、「日本にイスラム教が何故浸透しないのか」という問題に戻る。
その答えは「規範」にある。
日本の通常性(山本七平の言うところの「酵素」、内村鑑三のいうところの「雨」)は規範を形がい化して名目化させてしまう作用があるところ、「規範そのもの」ともいうべきイスラム教は日本の通常性(規範の形がい化作用)と共にはじきとばされてしまうのである。
といっても、今一歩ぴんと来ないであろうし、反論もあるだろう。
そこで、次節から、「日本が宗教などの持っている『規範』をどれだけ骨抜きにしてきたか」ということをみていくことにする。
以上が本節のお話。
日本が「規範」を骨抜きにしてきたという話は「『空気』の研究」でみてきた。
それが次節から歴史的に見ることができるわけである。
これは楽しみである(といっても、私は既にこの本を読んでいるわけだが)。
あと、本書で、「キリスト教は無規範宗教・イスラム教は規範宗教」という形で対比した。
世界の三大宗教の二つをこのような二項関係で見るのは非常に興味深い。
あたかも、古典派とケインズ派の関係と言うべきか。
とすると、「キリスト教とイスラム教」と「仏教」を見た場合、なんらかの二項対立があるのだろう。
その辺は興味があったら自分なりにみてみたいと考えている。