今回はこのシリーズの続き。
『日本人と組織』を読んで学んだことをメモにしていく。
3 第3章「日本の組織が持つ二重拘束性」を読む
本章は日本の企業・組織における社則・社規の取り扱いから話がスタートする。
つまり、日本の企業・組織において社則・社規などが次のように扱われていることを確認する。
1、自分の会社組織の社則・社規を読んだことのある人はほとんどいない
2、自分の会社組織の定款と社則・社規の関係を把握・意識している人はいない
3、日常業務と社則・社規は実質的には無関係
別に、これが悪いという意味ではなく、これが現実という話である。
(なお、「『空気』の研究」を学んだ際、「日本においては『現実の指摘自体が悪である』という道徳規範がある」ことを知ったが、その点はさておく。この点の詳細は下記ブログの通り)。
ただ、西欧人がこれを聴いたら仰天することは間違いないだろう。
その心中を文字にすればこうなる。
会社の目的と目的を達成する主要な手段は定款に記載されている。
また、社則・社規は定款に書かれた目的・手段を具体化したものである。
よって、社則・社規は日常業務の準則にもなっているはずである。
それならば、社則・社規を把握・意識せずして日常業務などできようはずもないではないか?
また、日常業務と社則・社規が実質的には無関係と言うならば、ルールを知らない彼らは洗脳された状態で業務を遂行しているのか?
それとも、「神の見えざる手」の如く、自分勝手に振舞いながら、結果として業務を遂行しているということなのか?
この点、欧米の組織は「マニュアル」に従ってなされる。
そのマニュアルは電話帳の如く分厚い本となっており、そのマニュアルに従う義務があり、かつ、それで足りるということになっている。
さらに、労働者は「マニュアルに従います」と誓約して企業に入り、「マニュアルに従った対価」として労働賃金をもらうわけである。
ちなみに、企業だけではなく、軍隊に関してもマニュアルが徹底している。
これは欧米と日本の作戦要務令を比較すれば明らかである。
欧米の場合、作戦要務令はマニュアルになっている一方、日本の作戦要務令は抽象的であり、それを読んだだけでは、現実において何をすればいいか分からない。
さて、問題点は次の2点に集約されるだろう。
1、何故、会社の目的に沿った業務が社則・社規抜きで可能なのか?
2、何故、日常業務と関連性のない定款・社則・社規を作成するのか?
ここでは1を考える。
「洗脳」や「神の見えざる手」がないと考えるなら、「社則・社規・マニュアルとは異なるルールが存在し、それに従っている」という答えにならざるを得ない。
つまり、多様な価値観・伝統的生き方を持っているアメリカであれば、マニュアルがなければ各自がバラバラに動いてしまい、統率が取れなくなる。
そのため、「体系化・精密化したマニュアル」が必要であり、かつ、「マニュアル遵守の誓約」も必要となる。
他方、日本ではこれらが必要ない。
つまり、我々は既に「組織内規範」を身に着けており、マニュアルがなくてもそれを実践すればよいという状況にある。
このことは、日本には「統一的秩序体系」が存在することを意味することになる。
では、その秩序体系とは何か?
1つに、礼儀の作法とそれに基づく敬語体系としての日本語がある。
次に、年齢による意識の類型的変化である。
まず、「年齢による意識の変化」についてみてみる。
当時のNHK放送世論調査研究所の調査を見てみると面白い傾向が見られる。
そして、その傾向から次の仮説が成り立ちうるらしい。
・宗教、天皇、国家、国旗への意識に関する年齢毎の調査結果は時間の経過によって大きく変わらない。
・特に、五十五歳での意識は時代に関係なく一致している
例えば、本の出た時点の二十年前の調査を見ると、「二十代は宗教に無関心、四十代は宗教に関心があり」という結果がある。
しかし、本が出たタイミングの調査結果も同じ傾向が示されている。
もし、二十年前の二十代が宗教に無関心であり、かつ、そのまま二十年が経過したなら、「現在の調査結果において四十代は宗教に無関心」となるはずである。
しかし、二十年前の四十代と現在の四十代が同様の結論となってしまうのである。
つまり、ミクロ(個人)で見れば「二十代の人間は二十年間の間に宗教に関心を持つようになった」とも言える現象は、マクロ(日本全体)で見れば「四十代の日本人の二十年間、宗教に関する関心の程度が変わらない」になってしまうわけである。
この現象は多少の差はあれ、宗教に限った話ではない。
この点、「時代の変化」がないわけではない。
しかし、時代の変化は若い世代だけ、というわけではなく、全世代が受けるはずである。
そのうえで、上の仮説を前提とするなら、調査結果は時代の変化と加齢による変化の両方の影響が受けていることとなり、時代の変化のみを引き抜くことが難しい。
ところで、この調査から浮かび上がる「日本全体の分布の恒常性」という仮説。
この仮説の背後にある「加齢による意識変化の一定性」はどこから来るのか。
これは、日本の組織、または、年功序列システムとの関連性が大きいと考えられる。
次に、日本語、特に、「敬語」についてみてみる。
本書によると、敬語は年々複雑化しているらしい。
つまり、敬語はもともと上下関係を利用されていたわけだが、その後、対等な関係で利用するための「ていねい語」ができ、上の者が下の者につかう敬表現としての「ていねい語」ができた。
つまり、社会が複雑になるにつれて敬語も複雑になっていったことになる。
さて、敬語の複雑化、この背後には「礼儀作法」があるらしい。
つまり、昔は「礼」が秩序であり、かつ、「礼儀作法」があれば支障のない世界であった。
しかし、その後、礼儀作法が廃れ、代わりに、「言葉における礼儀」としての敬語の体系が複雑化したのだそうだ。
そして、「下から上」だけではなく、対等関係、果てには「上から下」の関係を規律するようになった、と。
この点はマナーの複雑化とオーバーラップしているように見えるがどうなのだろうか。
敬語について少し触れたところで、「日本語」に関する本格的な話に移る。
話は新入社員教育についての相談から始まる。
欧米ならマニュアルの徹底で済む話だが、日本では「組織への組み込み」ということも加わるので、簡単ではない。
この新入社員教育に対する著者(山本七平氏)の返答は明瞭である。
「その会社の自社語を叩きこみ、かつ、自社語以外使えないようにせよ」と。
その教育効果の具体例として挙げられているのが帝国陸軍である。
帝国陸軍は軍隊語を新人に叩き込み、外部環境と遮断し、軍隊語以外の使用に対して制裁まで加えた。
そんなことを三カ月続けた結果、ほとんど人間が軍隊語と軍隊での礼儀作法が身に着き、かつ、一般社会の言葉と礼儀作法に従えなくなるのである。
つまり、日本語は敬語体系によって社会秩序を構成している。
よって、自社に適合するように言葉を微調整して自社語を作成し、その自社語を新入社員に強制すれば、そのまま組織に順応するであろう、というわけである。
ちなみに、同じ業界でも同じ対象に対して別の言葉をあてることがあるらしい。
例えば、距離を測定する同じ構造の機械のことを陸軍は測遠機と言い、海軍は測距機といったらしい。
また、同種の企業が合併した際、同じ対象にそれぞれが別の言葉をあてていることに驚き、これを統一するのに大分苦労したという話も紹介されている。
では、これらは何を意味するか。
これは、言葉の違いは組織の内容の違いを表す。
そして、その差はルールが違う以上の違いである。
また、その組織が機能体ではなく共同体になっていることを意味する。
この点、言葉が共同体を作るということは日本特有のものではない。
ただ、企業が共同体になることは日本特有かもしれない、という。
例えば、イギリスには「労働者語」・「管理者語」があり、あるいは、「貴族語」といったものもある。
これは階級の違いが言葉に現れており、また、会社の中でも別の言葉を用いている。
さらに、方言のように、地方やコミュニティ毎の言葉というものもある。
他方、日本では社内の身分によって使う言葉を分けてはいない。
つまり、日本では組織が全員同じ言葉を用いて、上下の秩序は敬語によって成り立たせている。
そして、言葉はその人間の意識の在り方を決定する。
身分によって同じ言葉を用いた場合、階級毎に横の連帯が生じる。
ならば、日本のように「会社内は同一の言葉、上下間は敬語で制御」という言葉の使い方によって、日本人の意識が決定されても不思議ではない。
そして、「敬語=言葉が秩序になる」ならば、言葉・敬語の誤用はそれ自体が秩序の破壊を意味し、トラブルを引き起こす誘因となる。
「言葉の些細な違いくらいで」と言ってはならない。
言葉が秩序・マニュアルだと考えれば、言葉の誤用は欧米における契約違反なのだから。
では、日本語によってどんな意識を形成するだろうか?
まず、敬語は年齢による意識の類型化をもたらすだろう。
何故なら、年齢によって使う敬語が変わるのだから。
結果として、同期・同年代の同一意識を将来することになる。
そして、それはその意識に応じた地位を要求し、要求が満たされないことが不満になる。
まあ、その要求は「敬語による地位の要求」であって、権限・収入の要求ではないが。
では、このような敬語と自社語は何を生むだろうか。
その結果生まれるのが「ミュステーリオン」である。
「ミューステリオン」というのは次の性質を持っている。
1、その集団における独特の言葉の存在
2、その言葉は集団内でのみ使用可能、集団外においてこの言葉の意味は分からない
3、集団外にその言葉の意味を漏らせば、その者は集団から追放(除名)
この点、共同の秘密が団体の結束を固めることは妥当な経験則であって、現代でも活用されている。
だから、存在すること、利用すること自体がまずいことにはならない。
「ミューステリオン」の具体例になりうるのが、「死海写本」で有名になったクムラン宗団である。
このクムラン宗団に関する文章は他にもあるし、解読もされている。
しかし、「死海写本」に登場する「義の教師」が誰なのか判明していない。
また、クムラン宗団の実体は未だ分かっていない。
この「集団内の秘密」こそが「ミュステーリオン」である。
あるいは、ロッキード事件における「知りません」・「存じません」もこれに殉じる、じゃない、準じたものと言えるかもしれない。
内部では仮に総ての社員が知っているようなものであっても、外部には誰も話さない。
日本での内部告発をした場合、仮に、その結果として社会がよくなったとしても、告発された会社が改革して大いなる発展を遂げたとしても、その告発者は非難される事だろう。
この背後にあるのが一種の「ミューステリオン」である。
なお、ミューステリオンがあることは、合理的組織がないことを意味しない。
前述のクムラン宗団においても立派なマニュアルが存在した。
つまり、ミューステリオンによって組織の維持・団結を確保する。
他方、運営はマニュアルに従うことになる。
このように、ミューステリオンと合理性の二重性はどんな組織にも存在する。
例えば、企業を見てみる。
企業は、利益追求のために不可欠な機密情報を持っている。
そのマル秘を「秘」にしている忠誠心の対象が常に一種のミューステリオンの役割を果たしている。
だから、二重性それ自体問題ではない。
では、日本の企業においてこのミューステリオンによる問題点はないのか。
この点、二重拘束がうまく機能すれば大きな力を発揮する点は間違いない。
これは明治の近代化、高度経済成長を見ても明らかである。
しかし、逆に働くとどうなるか。
ミューステリオンが大きな力を発揮すると集団は柔軟性を失ってしまうのである。
また、ミューステリオンがあると不要になっても存在意義を主張することになってしまう。
この点、共同体や宗教団体の場合、それらが存在すること自体に価値がある。
ならば、共同体や宗教団体が不要になるといったことが生じにくい。
これに対し、企業は営利追求等の目的のために結成されたわけで、「存在すること自体に価値がある」といったことが比較的少ない。
そのため、情勢の変化によって目的が不要になった、目的が達成できなくなった場合、本来ならその組織は不要になるわけだが、その場合でも組織の存在意義を主張し続けるようになる。
これが企業が二重性を持った時の問題点となる。
以上が本章のお話。
二重拘束性の話は参考になった。
まあ、それは自分がとんでもない思い違いをしていたことの裏返しであるわけだが。