今回はこのシリーズの続き。
今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。
8 第1章_「空気」の研究_(七)を読む
ここまで読んだことで、次のことが分かってきた。
日本人が「空気」に支配されるメカニズム
日本人を「空気」で支配するためのメカニズム
「空気」の性質
「空気」の支配を回避する方法
日本における「空気」
日本において「空気」に対する制御が困難になった原因
日本において「空気」が猛威を振るった出来事
これまで日本における「空気」の支配の具体例を見てきた。
例えば、人骨に感情移入した結果、人骨に支配されて体調を崩すという原始的物神論的なもの。
または、「公害廃絶」などの絶対的(とされる)命題・名称を臨在感的に把握による生じる「言語による『空気』の支配」のケース。
さらには、御真影・遺影デモ等の偶像による「空気」の支配というもの。
こうやってみるとバラエティ豊かである。
本セッションでは「明治時代以降の天皇制」について話から始まる。
これは天皇陛下(教育勅語・御真影)が偶像(礼拝の対象)になった上、偶像への帰依の感情が絶対化された結果生じたとみることができる。
ところで、本書では面白いことを述べている。
しかし、明治時代以降、天皇家が「我こそは現人神ぞ」と宣言した証拠はなく、つまり、畏れ多くも天皇家以外の何者かが天皇陛下を現人神にしたことになる。
だが、「誰が天皇陛下を現人神にしようとしたのか」という追究がなされたという話は聴いたことがない。
もちろん、犯人は「空気」であり、「天皇制」とは典型的な「空気」の支配のシステムなので追及しても無駄ではあるが。
(この点については少々違和感があるが、違和感は保留する)
さて、「空気」の支配によるシステムとしての天皇制。
この場合、天皇陛下はいわば「偶像」であり、臨在感的把握の対象ということになる。
すると、人々にとって天皇陛下は感情移入の対象であっても、それ自体が意思を持つことは想定していなかったことになる。
それが証拠に、二・二六事件を起こした青年将校たちは昭和天皇が自分たちの決起(クーデター)に対して激怒した(自らの意思を表明した)ことに対して、まるで奈良・東大寺の大仏が突如立ち上がって口を利いたかの如くに驚いている。
また、戦後でも先の天皇陛下(今の上皇陛下)が退位する旨の言葉を述べたときは、、、さすがに、ここで書くのはやめておこう。
明治時代以降の天皇制は天皇陛下が親政を行うようなシステムではなかった。
天皇陛下が自ら意思決定することは誰も考えていなかった。
また、天皇陛下御自身も「君臨すれども統治せず」というスタンスでいらっしゃった(詳細は『痛快!憲法学』参照)。
では、このシステムは何だったのか。
本書によると、「偶像的対象への臨在感的把握に基づく感情移入によって生ずる空気的支配体制」なのだそうである。
なにやら分かりにくいのでよりスパッと言うなら、「天皇制とは『空気』の支配によるシステム」ということになる。
この点、日本において「空気」の支配の際に偶像化された対象がバラエティ豊かであることは既にみた。
ここで、偶像の対象は言葉や命題でも良い。
このことは日本における「言葉狩り」の現象を見れば明らかである。
何故なら、「言葉狩り」において問題になるのは、言葉の持つ意味内容よりも、「その言葉を臨在感的に把握してこれを偶像化することによって生じる空気」だからである。
ところで、前のセッションで「日本はアニミズムの世界であるが、世界には一神教で構成されている地域(中東・欧米などユダヤ教・キリスト教・イスラム教の世界)がある」旨述べた。
それらの一神教の世界では偶像崇拝・偶像の存在が基本的に許されず、我々から見て文化的価値がある偶像でさえ破壊されてしまった。
また、この世界では言葉の偶像化も許されないことになる。
その結果、言葉も相対化され、対立概念で把握されることになった。
これをさらに進めると、相対化が唯一許されない「神の名」については逆に言葉にする(口にする)ことが許されないことになる。
というのも、「神の名」を口にすれば、「神の名」が臨在感的に把握されて偶像化し、その結果、「神の名前」に対する偶像崇拝を将来し、「神」を冒涜することになるからである。
事実、ユダヤ教では神の名前を述べることを禁止している。
この一神教の世界では神以外は相対化されるため、「言葉」や「命題」も当然相対化されるし、かつ、相対化されるように把握されなければならない。
例えば、「正義は必ず勝つ」という命題がある。
日本人が好み、かつ、絶対化していそうな命題である。
しかし、欧米人に対して「『正義は必ず勝つ』という命題は正しい(全称命題である)」などと言われれば次のような反論を受けることは必須である。
曰く、「正義は必ず勝つ、というのならば、敗者は必ず不義なのか。権力者はみな正義なのか」と。
なお、この欧米人の反論に対して、日本人が本音で回答するならば、「然り。勝者は正義で、敗者は皆不義なり」と返答しそうな気がして怖い。
何故なら、事大主義に照らせばこの返答になるのだから。
あるいは、「正しいものは報われる」という。
これに対しては、「報われなかったものは不正だったのか」という反論を受けるだろう。
この話は『ヨブ記』の主題でもある。
このような反論はあらゆる方向に広がっている。
そして、言葉・命題の相対化によって「『命題』によって醸成される『空気』の支配を防ぎ、よって、『空気』のせいでどうにもできない事態を可及的に防いでいる」のである。
逆に言えば、「空気」が醸成されても問題ない部分、例えば、音楽や祭事においてはこのような相対化による対策を行うことなく、「空気」に支配される(浸る)のだろう。
目的は「空気」の暴走による悲劇を回避することにあるのであって、「空気」自体の殲滅にあるわけではないから。
そして、「空気」の暴走による悲劇を回避するために、特に、「多数決によって決定される場における『空気』の排除」を徹底している。
多数決で決定する場面で「空気」の支配が発生させると致命的な悲劇が起きうるし、また、その例は山ほどあるからである。
この点、太平洋戦争のときに日本において「死の臨在による『空気』の支配」があった旨話した。
しかし、これは日本にだけあったわけではなく、どこにでもあった。
当然、古代人にもあった。
それに対して、古代人は死の臨在する決定においては「死の臨在による支配」を極力排除しようとした。
もっとも、それでも誤判が生じてしまった事実は否定できないのだが。
さて、日本。
日本では相対化が起きない代わりに絶対化される対象が時間によって変化する。
そのため、前提が同じで時と場所を変えて多数決を行うと、結果が異なることがある。
これは場所や時間の変化によって支配される空気(絶対化される対象)が異なるためである。
それゆえ、本書で筆者(故・山本七平)は「日本で多数決が必要な場合、一人に二票を与え、一票は議場で投票させ、もう一票は飲み屋で投票させたらいいのではないか」と述べている。
また、前提が同じでも時間と場所が異なるため、時間を引き延ばすという選択肢もありえた。
特に、戦争のような重大な決断が必要でなければ、つまり、戦争のようなことをしなければ、大きな支障が生じることはなかったのだろう。
逆に、明治の近代化、高度経済成長の時代など先進国を模倣を目標としている場合は先進国に「空気」的に支配され(先進国を偶像の如く絶対的に信仰し)、それに従っていけば大過はなく、安全だったとさえ言える。
よって、日本は「空気」の支配を危険視せずに安全であると考えたり、あるいは、問題視する必要がなかったと言える。
というところで、本セッションは終了している。
色々勉強になった、という感想を持ったところで次回へ(次で、第1章の「『空気』の研究」は終わり)。