薫のメモ帳

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『数学嫌いな人のための数学』を読む 11

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

11 第2章の第3節を読む(後編)

 前回は、形式論理学の「同一律」・「矛盾律」について細かく見てきた。

 今回はその続きである。

 

 

 ニコライ・イワノビッチロバチェフスキー(18世紀の数学者)が出現するまで、数学者・科学者の役割は「現実に存在する『客観的真理』を発見すること」と考えられていた

 ロバチェフスキーはこの「学問教」と言ってもよいイデオロギーを転覆させることになる。

 詳細はの第4章に譲るが、ロバチェフスキーは「非ユークリッド幾何学」を作った。

 

 この点、過去において「ユークリッド幾何学」の前提にある「ユークリッド空間」は「絶対的に存在するただ一つの空間」と考えられていた。

 しかし、ロバチェフスキーにより、このユークリッド空間は絶対的なものではなく「一定の前提によって設定された空間」に過ぎないことが示されたのである。

 

 その結果、過去において「自明な真理」とみなされていた「公理」が「仮定」に格下げされることになった

 また、学者の役割も「真理の発見」から「『一定の前提』におけるモデル作成者」に格下げされることになった

 

 というわけで、様々な変化をもたらしたロバチェフスキーの「革命」であるが、ここで記録しておかなければならないのは、この革命の手段として「背理法」が用いられていること、である。

 

 

矛盾律」についてはこの辺にして、最後に「排中律」に移る。

 排中律は「AやBの『中』間を『排』除する」発想ということになる。

 その意味で、排中律矛盾律の先にあるものとも言える。

 

 例えば、「神との契約(律法)を履行したか違反したかの判断」において、「『履行した』が、同時に、『違反した』」とか「『履行しなかった』が、同時に、『違反もしなかった』」ということもない。

 さらに言えば、その中間もない

 この「中間のない」というルールが排中律である。

 

 アリストテレスはこの排中律を確立した。

 矛盾律と同様、数学はこの排中律を厳守しなければならない。

 排中律にヒットしたら論理はストップする(説得は破綻する)。

 

 もちろん、近代資本主義の裁判では排中律は用いられている。

 もっとも、日本の裁判・訴訟・調停などの現状を見ると、この排中律が遠ざけられているのは前回見てきたとおりである。

 

 以上が、形式論理学の3つのルールであった。

 次に、「全称命題」と「特称命題」についてみていく。

 

 

 まず、全称命題とはすべてに関する命題であり、例外のない命題である。

 逆に、特称命題とは特定の事項に関する命題であり、例外のあることが問題にならない命題である。

 

 例えば、「すべてのカラスは黒い」という命題を考える

 これは「すべての~」という形をとるため、全称命題である。

 

 さて、この命題を突き崩すにはどうすればいいだろうか

「すべて~」とあると大変そうに見えるがさにあらず、「たった一つの黒くないカラスを突きつける」ことで足りる。

 その意味では簡単である。

 

 また、全称命題を否定した場合、その否定された命題は特称命題になる

 つまり、「すべてのカラスは黒い」を否定した場合、「『すべてのカラスが黒い』わけではない」となり、「カラスには(一部に)黒くないカラスが存在する」となる。

 逆に、特称命題を否定した場合、その否定された命題は全称命題になる。

 つまり、「(一部の)カラスは黒い」という命題はカラス全体に対する命題ではないので特称命題であるが、これを否定した場合、「黒いカラスは(一部においても)存在しない」となり、これは「すべてのカラスは黒くない」という全称命題に転化する。

 よって、「あるカラスは黒い」という特称命題を突き崩すには、全部のカラスが黒くないことを示さなければならないことになり、「すべてのカラスは黒い」を否定する場合と比較して膨大なコストが必要になる。

 

 以上の全称命題と特称命題の説明をしたところで、数学の話に移る。

 基本的に、数学の定理は全称命題の形式をとる

 例えば、「二等辺三角形の二角は等しい」という定理を考えた場合、「すべての二等辺三角形の二角は等しい」ということになり、「一部の二等辺三角形の二角が等しい」にはならない。

「一部の二等辺三角形の二角が等しい」ではそうでない場合もあることになってしまい、説明にならないからである。

 よって、数学の定理は一つの反証を突きつけることによって瓦解する。

 数学の定理の条件はこのように厳格である。

 

 もっとも、この特徴は数学に限られる。

 法律(訴訟や裁判)の論理はここまで忠実ではない。

 そのことを示すのが「例外のない規則はない」という法格言である。

 まあ、法の存在意義は論理的貫徹よりも社会正義の実現(具体的妥当性の実現)なので、「論理的ではない」と言われても「だからどうした」の一言で片が付くのだが。

 

 以下、本書では練習問題が掲載されている。

 問題は「与えらえた命題を否定する」わけだが、順に解いていくと次の通りになる。

 

1 すべての猫は動物である → 一部の猫は動物ではない

2 すべての人は死ぬ → 一部の人は死なない

3 すべての生徒は優等生である → 一部の人は優等生ではない

 

「すべてのAはB」の否定は「一部のAはBではない」であって、「すべてのAはBではない」となる点に注意が必要である。

 

 

 本書はここから中国の論理学が形式論理学に至らなかった理由が示されている。

 端的に理由を述べれば、「説得の対象が『絶対神』ではなく、『個々の君主』だったから」となる

 つまり、「君主という一個人の説得が目的だった関係で、忖度などによる説得が重要なことが少なくなく、内容や論理の正しさが必ずしも要らなかったから」ともいえる。

 

 この点、形式論理学ユークリッド幾何学ギリシャで発展した。

 それが、古代イスラエルで発展したのは「『一神教絶対神と人間との契約という概念』を維持・運営していくために、論理学の発展が必要だったから」ということになる。

 つまり、古代イスラエルの民の救済の必要十分条件が「契約・律法の履行」にあるから、「履行した」・「違背した」の結果が明確である必要がある。

 さらに、この絶対神は嫉妬深いところがあり、契約を違背しようものなら直ちに民を皆殺しにしかねない。

 それは、ノアの洪水やゾドムとゴモラの例に見ることができる。

 よって、神の代理人たる預言者の重要な任務の一つは「民(人間)の擁護」にもあった。

 その擁護の際には、説得の内容に誤りがあってはならないので、論理と論争の技術が発展していった。

 

 この点は、法廷における論争の技術として発展したギリシャの論理学も同様である。

 神との論争で、人間の代表たる預言者が神に勝つこともありうる。

 また、神が人間の契約違反を主張した際、神との論争に敗れれば民は皆殺しである。

 この観点から見れば、代理人の説得は命がけの行為である。

 

 一方、中国はどうか。

 もちろん、中国では説得・弁論が重視されていた。

 また、その説得・弁論は命がけであった

 さらに、『史記』では論客たちの論旨の雄大さ・緻密さ・豪華さに相当の紙幅を割いており、その素晴らしさが見て取れる。

 この点で日本と中国は異なる。

 

 しかし、説得・弁論の目的は「個々の君主の説得」である

 そのため、「論理の完璧性」・「内容の正確性」よりも「相手(君主)に対する忖度・推測」の方が大事にならざるを得ない。

 その結果、「相手に受け入れやすくため、正確性や論理性を犠牲にする」という手段が合理的になってしまった。

 これでは、ギリシャイスラエルのような「究極的に正しいものを、そのまま押し付ける」という手段が論理になりえなくなる。

 

 著者は、以上が中国の論理学が形式論理学にまで昇華できず、中国の数学が近代数学に再編できなかった理由と述べている。

 まあ、社会的必要性がなければ別に昇華する必要はないのではないか、と言われればそれまでなのだが。

 

 

 以上で第2章は終わり。

 論理学それ自体を純粋に見る機会はこれまでなかったが、こうやって見ると論理学っておもしろいなあ、と感じる次第である。

 次回は第3章についてみてみる。