今日はこのシリーズの続き。
『小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。
16 第5章を読む_後編前半
今回は、「歴史は繰り返す。『一度目は悲劇、二度目は茶番』かはさておいて」という発想に立って、中国の王朝交代に関する歴史を見ていく。
前回、マルクス史観とユダヤ教の歴史観は類似していること、また、これらの歴史観と中国人の歴史観は真逆であることを示した。
この点を見て、人によっては「あれ?」と考えるかもしれない。
この点、著者は毛沢東のエピソードをもって返答している。
つまり、中国人はマルキストであっても実質的には中国史観に立脚している人が多い、と。
具体的には、毛沢東は『三国志(演義)』を読み、古を鏡にすること、つまり、歴史を十分に活用して革命を成功させた、と。
ところで、本書で紹介されているのは明の建国者たる朱元璋である。
以前の読書メモでも触れた通り、朱元璋は大粛清を行う一方、法体系を完備し、官僚システムを能率化して、完璧な独裁システムを築いた。
つまり、朱元璋は秦の始皇帝が行おうとした「法家の思想による国家システム」を完成させたと言える。
そのため、韓非子が死後もずっと中国社会を見ていたならば、法術完備の政治家として朱元璋を見出すことであろう。
実際、朱元璋の統治システムは中国や日本の手本となった上、ヴォルテールもこの統治システムに理想的な官僚制を見出したのだから。
以上の意味で、朱元璋は偉大な皇帝であった。
しかし、朱元璋は古を鏡としなかったがため、政策を誤り、朱元璋の死後、「靖難の役」という皇族間の激烈なバトルが発生し、方孝儒が中国的殉教を実践することになる。
そして、「靖難の役」は、過去にあった「呉楚七国の乱」や晋の「八王の乱」にそっくりなものであった。
以下、明の「靖難の役」へ至る道と過去の「呉楚七国の乱」と「八王の乱」の説明がなされていく。
まず、「靖難の役」の前夜までについて。
明の皇帝朱元璋は漢の劉邦を尊敬して、彼の皇子を王に封じて各地に配置した。
もっとも、その王の権限は、呉楚七国の乱以後の王のようなものである。
つまり、その王らは領地と軍隊を持たず、それらを預かっていただけであった。
そして、皇帝の勅書が届いて初めて指揮権が発動する。
まあ、そのときに軍隊を指揮できなければ意味がないので、それぞれの王は相応の軍事的知識を持っていたことは容易に想定されるが。
さて、明を建国した当初、明はモンゴル帝国(元)を北京から追い払ったが、滅亡させてはいなかった。
一方の元はモンゴルに帰り、いわゆる「北元」を再興し、満州を含む広大な領地を持って、中国の奪回をもくろんでいた。
そこで、明は北方に警戒し、辺境には塞王が配置し、そこには強大な軍隊を持っていた。
そして、具体的に北方で大軍を率いていたのが、当時の燕王の朱棣である。
朱棣は北方の守りを固め、あるいは、戦って勝つなどして、朱元璋の期待に応えた。
朱元璋も朱棣を信頼し、長男の皇太子が亡くなったときは、孫ではなく朱棣を皇太子にしようと考えたくらいである。
もっとも、このときは儒学者の諫言もあり、皇太子の子供を皇太孫にすることとなった。
さて、その後、洪武帝朱元璋は崩御し、皇太孫が即位し、建文帝となった。
そして、様々な儒学者が抜擢された。
彼らは「古をもって鏡とする」との規範で現状を観察した。
その結果、気付く。
現状は、前漢の呉楚七国の乱や西晋の八王の乱の前夜と同様ではないか、と。
本書は、呉楚七国の乱の状況についての説明に移る。
秦は中央集権制(郡県制)を目指したが、たった15年で滅びてしまった。
その次にできたのが漢である。
漢の高祖劉邦は諸侯をまとめあげて項羽を破ったこともあり、その者たちを列侯に封じ、領地を与えた。
その結果、皇帝の直轄地がわずかになってしまい、王の領地の方が多かったところもあるくらいである。
この諸侯王の領地は「国」と呼ばれ、統治権こそ持っていたが、その統治権は皇帝によって規制されていた。
その意味で、独立国家とまでは言えず、昔の諸侯とは異なる。
しかし、時と共に諸国は独立し、場合によっては中央政府に対する反抗の機運も高まってきた。
そこで、文帝の時代、賈誼である。
賈誼は、「古の制度に反するから、諸侯のうち広大な領地を持つ者は縮小させていくのがいい」と主張した。
興味深いのは、根拠が先例であって、政治力学などの社会科学法則ではない、ということ。
ここにも「古をもって鏡となす」の精神が生きている。
この点、文帝はこの策を実行しなかった。
実行されたのは、文帝の次の皇帝、景帝の時代である。
これに対して、呉や楚、あわせて7国の王がこれに反抗し、直ちに挙兵した。
これが呉楚七国の乱である。
呉楚七国の勢力は侮りがたく、漢王朝にとっては危機的状況であった。
ただ、皇帝側の名将の活躍もあり、反乱は3ヶ月で平定された。
その結果、漢は中央集権国家への道を歩き始めることになる。
しかし、この反乱は中国に貴重な教訓を残した。
封じられた王が兄弟・近親であっても、力を持ちすぎれば皇帝の脅威になる、と。
そして、三国時代が終焉したころ、同様の事件が起きる。
後漢の献帝は、曹操の息子の曹丕に皇帝を禅譲し、曹魏が建国される。
この曹魏はやがて司馬一族に乗っ取られる。
やがて、曹魏は蜀漢を滅ぼした後に西晋に禅譲し、この晋が孫呉を降伏させて中国を統一した。
司馬炎は近親者を王にし封じ、中には有力な王もいた。
その結果、有力な王たちが政権奪取を狙い、反乱が頻発、この結果、晋は急激に弱体化する。
これが「八王の乱」であり、ほどなく西晋は滅亡、五胡十六国時代へと移行する。
以上の歴史を、建文帝に採用された儒学者たちが知らないはずがない。
そのため、儒学者たちは「このままでは、呉楚七国の乱や八王の乱が再来する」と考えた。
もちろん、その背後に「歴史は繰り返す(以下略)」があることは言うまでもない。
この点、現代人から見たら、「ばんなそかな。これらの反乱から既に1000年も経過していて、時代が違うのに同じことが起きるはずがない」と考えるかもしれない。
これについて、同様に考えたのが、朱元璋である。
彼は、「法家の思想に基づいて完璧な統治システムを築いたのだ。前回と同じようなことが起きるはずがない。さらに言えば、その発想は親族の情を割くものである」と言って、朱棣を塞王に封じることに反対した儒学者を粛清した。
しかし、中国人は基本的にそのようには考えず、「歴史は繰り返す」と考える。
その結果、建文帝は王の権力削減に取り組み、事実、多くの王が廃された。
しかし、朱棣は自分の番になりそうだと気付くや否や、「君側の奸を排除する」と考えて挙兵し、4年に渡る戦いの後、首都南京を攻略する。
これが「靖難の役」であり、朱棣は皇帝永楽帝となり、一方の建文帝は行方不明、また、周囲にいた儒学者は粛清されることになる。
なお、この粛清された中の一人に方孝儒がいる。
この人は幕末の志士のバイブルとなった「靖献遺言」に登場する1人である。
以上、王朝の衰退に関する歴史法則についてみてみた。
気になるところがないではないが、なかなかに面白い。
残りは次回に。