薫のメモ帳

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『小室直樹の中国原論』を読む 17

 今日はこのシリーズの続き。

 

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小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

17 第5章を読む_後編後半

 前回は、中国における「歴史は繰り返す(以下略)」の実例を見てきた。

 今回は、この続きである。

 

 ここまで、中国人の歴史に対する執念、「歴史は繰り返す」という法則の存在に言及した。

 ここから、話は近現代へ移る。

 

 まず、著者は、「現代の中国人は歴史に関心がないため、『歴史からエートスを抽出する方法』は有効ではなくなっていないか」という質問に答える形で「現代の中国人のエートスを知る際の歴史の学習の重要性」について説明する。

 つまり、「歴史からエートスを抽出する方法は体験談を読むより勝る」と。

 

 確かに、エートスを抽出するための調査が存在するわけではない。

 しかし、その一方で、体験談はその体験談を書く側、つまり、調査をした人間に科学的素養がなければ、その体験談はデータとしても信用性がなく、使用できない。

 このことを示しているのが、人類学の歴史である。

 この点については、次の読書メモにて触れている。

 

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 人類学の発展の概要を述べるならば、マリノフスキーは物理学を手本にして人類学における科学的方法を導入し、ラドクリフ・ブラウンはデュルケーム社会学的方法を応用することによって、科学として成立させた。

 その意味で、科学的素養が欠いた、または、科学的調査方法を欠いた体験談はそもそもデータになりえない。

 

 ところで、本書では、マックス・ヴェーバーから始まる比較歴史学的方法を用いて、中国について分析している。

 その理由は、国史の記述が正確であること(崔杼のケースを想定されたし)、中国史が同じようなことを何度も繰り返すから、比較歴史学的データとして十分利用できるから、である。

 

 この点、「『呉楚七国の乱』が発生し(事実の発生)、その理由(『藩屛となる皇族が勢力を持ちすぎたため』)を考察し(法則の理論化)、同様の理由に基づいて再び同様の事件(八王の乱、靖難の役)が再現される」という流れは、物理学における法則の発見・証明のプロセスと同様である。

 そして、物理学と異なり社会学は実験ができないため、社会科学的法則の発見には反復された歴史が重要になる。

 もちろん、「歴史が必ずしも繰り返される」とは限らないとしても。

 

 なお、「歴史における事件には固有の意味があって、同一事件は二度と起きない」という思想もある。

 確かに、この思想をその人が採用すること自体、憲法19条に保障される思想良心の自由の保護範囲ではあろう。

 また、日本教はこの思想と整合的なもののようにも見える。

 しかし、この発想を採用すれば、歴史における類似性を否定することになるため、社会法則を発見することは不可能になる。

 

 

 ここで、話はヘーゲルの世界史に移る。

 ヘーゲル中華帝国の持続性に驚いている。

 というのも、西洋では革命の後には社会構造が変わることが多いのに対して、中国では易姓革命があっても、変わるのは統治者の姓であって、社会構造・社会組織・規範は変わらないから、である

 

 この点、ヘーゲル史観もマルクス史観も進歩史観を前提としている。

 しかし、中国史観は進歩史観ではない。

 それを見たヘーゲルは中国を「持続の帝国」と述べ、中国は自らを自ら以外の者へと変えることができないと結論付けている。

 

 なお、中国の歴史家もこのことは認識しているようである。

 例えば、近代中国に黄宗羲という偉大な学者がいた。

 あるとき、その学者が正史を全部読破しようとした

 そして、司馬遷の『史記』を半年で読み終えた。

 しかし、『史記』を読み終えて振り返ったところ、「『史記』は読み物として面白く、様々な感動が残っているが、覚えていることは何もない」ということとなった。

 その理由が「無数に起きた『似たような事件』を整理できなかったから」だそうである。

 

 その後、この偉大な学者は『漢書』の読破に挑んだが同じような結果となった。

 そのため、この偉大な学者は正史を読み続ける試みを断念したという

 

 では、正史がダメなら、ダイジェストならどうか

 宋の時代、中国の偉大なる学者司馬光が歴史書資治通鑑』を編集した。

 この書は戦国時代から宋の前代たる五代十国時代までの歴史のダイジェストが書かれている偉大な名著である。

 

 司馬光はこの史書を約20年かけて作り上げた。

 そして、世の絶賛を受け、人々は「この本は立派である」と述べた。

 しかし、具体的な言及がなかったそうである。

 というのも、歴史を重視する中国人であっても、億劫で誰も読んでいなかったから、らしい

 唯一の例外だった司馬光の親友は、忌憚のない意見を求められた際、「読むには読んだが、何が書かれていたが覚えていない」と感想を述べたという。

 つまり、正史同様、似た事件が延々と続いているため、その際を覚えられないのである。

 

 このような「似たような事件が延々と繰り返される」という事象は物語としては用をなさないだろう。

 しかし、科学者にとっては格好のサンプルである。

 何故なら、類似の事件から共通項を抽出し、そうなる理由を考察してモデルを作ることにより、社会法則を発見できるから、である。

 

 なお、以上のエピソードについて、本書は次の書籍を引用している。

 

 

 

 この点、物理学などの自然科学と異なり、社会科学では実験ができない

 それゆえ、実証のスピードが自然科学と圧倒的に異なるため、社会科学の進歩のスピードは遅くならざるを得ない。

 しかし、社会において同型の事件が何度も起きてくれれば、その事実を実験結果と同様の扱いをすることによって、法則の抽出が可能となるだろう。

 もちろん、ヴェーバーの手法を用いることもできる。

 その意味で、国史はこの手法を用いて理論を作る際の絶好のサンプルとなる

 

 そして、類似する事件が頻発することは、それらの事件はランダム、あるいは、個人の意図的な何かによって発生したわけではなく、ある法則に対して発生していることを示している

 よって、国史の中から中国人の本質を発見しうるし、中国史から中国人のエートスを抽出することができる

 

 なお、これに対しては、中国人の主観の方が重要なのではないか、という疑問がわくかもしれない。

 しかし、次の読書メモにあるように、中国人の主観や歴史知識は中国人のエートスとさしたる関係はない。

 何故なら、社会法則は人間の主観(意志・意識)と関係なく独立に作動するからである。

 なお、この現象のことをマルクス「人間疎外」と述べている。

 

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 例えば、ジャガイモなどの物の価格は所有者や栽培者の意志とは関係なく独立に市場法則によって決められる。

 市場に「価格よ、あがれ」と命令しても意味がない。

 そのことを知らなかったスーパーエリート(天保の改革の際の水野忠邦、戦後日本の大蔵官僚)は経済政策において大失敗をすることになる。

 まあ、この錯覚こそマルクス主義に反するものなのだが、マルクス主義の末裔たるスターリンさえこの錯覚を抱き、結果としてソビエト帝国を崩壊させたので、水野忠邦以下略の錯覚をどうこういうのはやや気が引けないではないが。

 

 この「社会は人間によって形作られるが、社会法則は人間の意志・意識からは独立に動く」というルール、この人間疎外の理解こそ社会理解の急所である。

 

 本書では、失業を通じて人間疎外の例を挙げている。

 つまり、失業は経済法則によって発生し、個々の意識によってどうにかなるものではない。

 そして、ケインズ派は「失業は有効需要の不足によって発生する」という経済法則を主張し、セイの法則が恒常的に発生すると考える古典経済学派は「失業は自発的なものに限り発生する」という経済法則を主張した。

 ここで、各々の主張する経済法則の妥当性は問題になるが、経済法則によって失業の発生メカニズムが決まると述べている点では同様である

 それは、ガンを治療したければ医学の知識が、空を飛びたければ物理学や工学の知識が必要なのと同様である。

 逆に、医学や物理学や工学の内容を誤解していれば、治療や飛行機の設計でとんでもない失敗を招くこともありえるところ、それと同様である。

 

 ここで、本書は大恐慌時代のケースを具体例にして説明する。

 1930年代の経済はケインズ経済学がまさに妥当する領域だった。

 しかし、古典経済学派全盛こともあり、当時の権力者はそのことに気付かず、世界はファシズムに雪崩れ込んだ。

 また、当時において失業をなくすのに成功したのはヒトラーだけであった。

 つまり、アウトバーンの建設で有効需要を増大させるとともに、シャハトの貨幣政策でインフレーションを抑え、ドイツは経済を立て直すことになる。

 

 以上の例に限らず、社会法則は人間の意志・意識とは関係がない。

 よって、国史の法則は中国人の歴史認識と関係なく作動することになる。 

 

 なお、四大社会科学者の一人に入っているフロイトは、歴史法則は人間の意志・意識よりも深いところにあり、無意識によって決定される、と述べている。

 また、フロイトは個人の精神分析を対象としているように見えるが、本当の意図は民族単位の精神分析にあったという意見もある

 これについては、岸田秀が述べていることであり、私自身は今後彼の本も読む予定でいる。

 

 フロイト理論を前提とした場合、「歴史法則に作用する人間の無意識は極めて深いところにあり、人間の意識ではどうにもできない」となる。

 この発想はデュルケームに応用され、「民族の集団的無意識」として重視されるようになった。

 

 デュルケームの主張のアウトラインをつかむと次のようになる。

 個人に無意識があるように、民族にも無意識がある。

 個人の無意識は幼児体験によって形成されるように、民族の無意識は民族の起源によって形成される、と。

 以上を前提とすれば、歴史を貫徹する社会法則は滅多なものでは変わらない、ということになる。

 この結論はヴェーバーの結論と同趣旨である。

 

 以上より、中国の理解において中国史の歴史は極めて重要となる。

 もちろん、これらの社会学者の理論を前提とすれば、というif文があるとしても。

 

 

 以上が本章のお話。

 何故、中国人のエートスを知る上で中国の歴史が重要になるのか、ということを見てきた。

 学問的根拠がどこにあるのかもわかって、非常にわかりやすい。

 

 ただ、こうやって見ると、日本教と社会科学はつくづく相性が悪いな、と考える。

 日本教は人前神後であり、人間の意志(精神)をより大きく評価する。

 日本教徒が上のフロイトデュルケームの主張を見たら、内容を理解する前に嫌悪感がきそうではないか。

 あるいは、社会科学を用いることそれ自体が反日本教的ではないか

 どうなのだろう。

 

 次回は第6章について見ていく予定である。