薫のメモ帳

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『小室直樹の中国原論』を読む 15

 今日はこのシリーズの続き。

 

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小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

15 第5章を読む_前編後半

 前回、歴史に名の残すために命を惜しまない中国人、歴史を残るために執念を燃やす中国の歴史家(太史)についてみてきた。

 また、インドと比較してなお中華文明における歴史学のすごさについても確認した。

 今回はこの続きである。

 

 もっとも、今回触れる部分は既に次の読書メモでも触れている部分も少なくない。

 そこで、重複部分については簡単に触れながら進めていく予定である。

 

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 上で述べた読書メモ、前回の読書メモなどを通じて、歴史に名を残す者たち、歴史書に真実を遺そうとする太史の執念について触れた。

 このことから、「後世に語り継がれること」が中国人にとっての救済になることを示す。

 

 ただ、歴史の影響はこれだけではない。

 歴史を遺すことに執念を燃やした結果、「歴史を見れば中国が分かる」という状況になった。

 そのことを示しているのが、中国で長らく読まれてきた『貞観政要』に登場する次の一説である。

 

(以下、『貞観政要』の任賢篇の一説を引用、引用元は本書、なお、各行ごとに改行、強調は私の手による)

 それ銅をもって鏡となせば、もって衣冠を正すべし。

 古ともって鏡となせば、もって興替を知るべし。

(引用終了)

 

 

 上の言葉に、中国の歴史観をワン・ワードで言い表している。

 つまり、「良い政治をしたければ、歴史に学べ」と。

 

 この『貞観政要』は代表的名君と言われた唐の太宗と名臣たちの問答集である。

 そして、長らく帝王学を学ぶための最高のテキストと言われていた。

 現に、日本でも北条政子北条泰時(政子の甥)・徳川家康らも参考にしたと言われている。

 なお、山本七平もこの本については一冊書籍を出しており、次の『山本七平ライブラリー3』に収録されているし、近代以降の天皇陛下も学ばれている、らしい。

 

 

 なお、「良い政治をしたければ、歴史に学べ」という命題が成立するためには、ある条件がある。

 それは「歴史法則は変わらない」ということである。

 というのも、時代によってころころ法則が変わるようであれば、歴史=過去の目撃者の記録を見ても意味がないから、である。

 

 以上をまとめれば、中国人は歴史法則は変わらないと考えるため、歴史に名を残すために執念を燃やし、良き政治をするために歴史を学ぶ、ということになる。

 

 一方、これと別の発想を持つのがユダヤ人(ユダヤ教徒)となる。

 この点、歴史を重視する点においてはユダヤ人も中国人も変わらない。

 しかし、その理由はユダヤ人が歴史法則が変わらないと考えているから、ではない。

 

 この点、ユダヤ教絶対神(主)との契約を基本とするところ、主は全能の力を持つと考える。

 ユダヤ教徒が主との契約を守れば、ユダヤ教徒の繫栄が約束される。

 その一方、ユダヤ教徒が主との契約を違えれば、ユダヤ教徒は風前の灯火となる。

 また、聖書(旧訳聖書)を見れば、神の怒りが様々なところに出てくる。

 ノアの洪水然り、ゾドム・ゴモラ然り、バビロン捕囚然り。

 その意味で、ユダヤ教徒にとっては、絶対神たる主との契約は絶対の意味を持つ。

 

 また、全能の力を持つ主が法則に介入すれば、法則は変化してしまう

 したがって、ユダヤ教徒から見れば、歴史=過去の事実は、現在の契約が維持される範囲でしか意味を持たないことになる。

 つまり、中国人と異なり、ユダヤ人は「歴史法則は変わらない」と考えないことになる。

 

 

 本書は、ここからユダヤ教における歴史観に話題が移る。

 ただ、これまでの読書メモと重複する部分が少なくないので、重複しないを除き簡単に述べるにとどめる。

 

 中国人(個人)の救済は「歴史に名を残すこと」。

 これに対して、(古代)ユダヤ教徒にとっての救済は「神との契約の更改による民族の繁栄」。

 バビロン捕囚の憂き目にあったイスラエル人たちはここに活路を見出した。

 

 ところで、悪魔の教団において、啓典に反することを行うことがその教団の儀式になるという。

 つまり、啓典に反することを行うことで神への反逆や瀆神の意思を明らかにするわけである。

 

 しかし、聖書に書かれた古代イスラエル人の行いは悪魔の教団の行為の比ではない、と著者(小室先生)は言う。

 なお、この点は旧訳聖書をなんとか読んだ私も同意見である(さらに言えば、「よくここまで正直に歴史を残したなあ」とさえ考える)。

 なにしろ、旧訳聖書の士師記列王記(上下)・歴代誌(上下)でにおいて、「主の目から見て悪とされる行為を(行い)」という表現がやたら目に付いたのだから。

 これらの行為は「異教の神を拝む行為」を指し、当然だが、『出エジプト記』にある十戒に抵触する。

 

 そして、その結果がバビロン捕囚となる。

 その憂き目を契機に古代のユダヤ教が産まれる。

 そして、そのドグマは「神との契約を守れ。さすれば、神は契約の更改を行い、ユダヤ民族は世界の主人公になるべし」となる。

 さらに、契約の更改が行われれば、法則は全部変わりうる。

 ならば、古代ユダヤ教徒の発想で見れば、歴史法則も契約の更改によって変わりうると考える。

 

 

 以上、ユダヤ教歴史観と中国人の歴史観を比較した。

 なお、この点についてはキリスト教ユダヤ教側、イスラム教は中国側である

 ただ、その原因などについては上の読書メモでみてきたため、ここでは簡単に触れるにとどめる。

 

 ちなみに、著者(小室先生)は、ユダヤ教歴史観という言い方でピンとこないならば、マルクス史観をイメージすればいい、という。

 マルクス史観は、社会の変化を「原始共産制奴隷制封建制→資本制→社会主義共産主義」と考える。

 そして、社会制度が変化する際に生じる「革命」はユダヤ教における「契約更改」に相当する

 また、革命によって社会法則は変化すると考える。

 したがって、マルクス史観とユダヤ教歴史観はぴったりであり、それらと比較することで中国人の歴史観を理解することができる、と述べている。

 

 

 以上、歴史観についてみてきた。

 ユダヤ教キリスト教マルクス主義は歴史法則を不変とは考えず、中国社会とイスラム教は歴史法則を不変と考える。

 とすると、「では、日本教は?」という疑問が生じる。

 

 この点、自然信仰、日本的儒教、あるいは、天皇教から考えると、中国側(歴史法則は不変)と考えているように見える

 ただ、「そもそもそんなことに関心を持っていないから分からない」という感じもしないではない。

 どうなんだろう。

 

 次回は、中国における歴史法則の普遍性について具体的な歴史をみていく。