今日はこのシリーズの続き。
『小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。
14 第5章を読む_前編前半
今回から第5章に移る。
第5章のタイトルは「中国の最高聖典_それが『歴史』」。
「中国人や中国社会における歴史の重要性」についてみていく。
この点、中国において歴史が重視されていることは次の読書メモでも触れている。
そこで、上の読書メモで触れている部分については軽く確認するにとどめる。
第5章は、「歴史」による中国人への具体的影響について説明すると述べた上で、次の言葉が紹介されている(出典は『新五代史』)。
「豹は死して皮を留め、人は死して名を留む」
この点、良いことを行った者として名を留められれば最高だろうが、そうでなくても、悪行の限りを尽くした者として名をとどめた方が無名よりマシ、ということになる。
そして、そのためであれば、自分の生命や身内の命だろうが差し出すことも厭わない。
その代表例が文天祥であり、本書には記載がないが方孝儒も加えられるであろう。
文天祥はモンゴルの攻勢に対して最後まで抵抗し、最終的に処刑された。
この文天祥は吉田松陰といった尊王攘夷運動に奔る幕末の志士たちによって熱狂的に崇拝され、文天祥の「正気の歌」については長らく愛唱されることになる。
この点、文天祥は「人生自古誰無死、留取丹心照汗青」と述べて、フビライの仕官を蹴る。
この言葉は、「死なない人間などいない、ならば、歴史に忠義を貫いた男として名を遺し、後世の模範となろう」という意味である。
つまり、文天祥は歴史の模範となるために死を選んだ。
言い換えれば、歴史に殉じたことになる。
これは中国的殉教というべきものでもある。
この文天祥の態度は、第1章で述べた刺客列伝で紹介された予譲の態度にも通じるものである。
彼は、「暗殺するのであれば、一旦仕官をして、油断した時を狙えばいいではないか」という友人の忠告に対して、「私がそのような手段を選ばず、苦難の道を選ぶのは、後世の人々に二心を抱いて主君に仕えることを戒めるためのものである」と返答した。
このことから、中国では「『歴史に名声を遺すこと』が個人の救済になる」ということができる。
ところで、他の宗教から見た場合、キリスト教の「救済」は「神から恩恵により永遠を命を得ること」になる。
また、イスラム教では「死して緑園に入ること」を指す。
このことから、中国では歴史書が聖典として機能するということができる。
また、歴史家は歴史書を記す際、あたかも、聖書に対する態度と同じような態度を示すことになる。
本書では、歴史家の情熱の具体例として『正気の歌』に登場する斉の太史(歴史官)のエピソードが紹介されている。
このエピソードは、「斉の大臣だった崔杼が君主の荘公を殺害して独裁者になったところ、そのときの太史は歴史書に『大臣の崔杼が君主を弑した」と真実を記した。崔杼は直ちにその太史を殺したが、その太史の弟が再び同様のことを書き、弟を殺すやさらにその弟が、、、という展開になったため、崔杼は諦めた」というものである。
このように、中国人が歴史に殉じるなら、歴史家は歴史を記すことに殉じる。
また、正気の歌には、斉の太史と晋の董狐が歴史家として登場する。
これらのことからも中国人に対する歴史への思いの重さが理解できる。
ここで、東洋圏における文化的先進国だったインドと中国の文化の比較(優劣)についての話に移る。
この点、文化の優越について「どちらからどちらに流れていったか」で判断するならば、多くの点に関してインドの方が優れていたということができる。
仏教をはじめ、さまざまなものがインドから中国に流出していったのだから。
しかし、歴史学については中国の方が圧倒的に勝っていた。
というのも、インド人は何兆年、何億年といった時間スケールでものを考える。
また、インド人は抽象的な一般真理を重視する。
その結果、インド人は歴史のような細かいものに興味を持たず、その結果、インド歴史学は発展しなかった。
また、釈迦の産まれたタイミングについて100年単位の誤差があり、しかも、その年代を推定する資料がインド以外の国の資料による、といった状態になっていた。
というのも、インドに近い別の国々では、インドだけではなく中国からも影響を受けており、その部分については歴史学の恩恵を受けているから。
もちろん、この歴史学の恩恵が仏教に対する科学的研究のためにも役に立っている。
以上、読んできた。
最後のインドについての項目は、日本を知る上で何か役に立ちそうな気がする。
機会があれば、インドとヒンズー教について調べてみようかなあ。