今回はこのシリーズの続き。
司法試験・二次試験・論文式試験の平成7年度の憲法第1問を見ていく。
3 公共の福祉による正当化のための一般論
前回は本問要求によって制限される放送の自由・視聴の自由が憲法上の権利として保障されうることを確認した。
よって、ここからいわゆる「正当化」の議論に移る。
ただ、一般論の部分はこれまで述べたことと大差ないので、一気に書いてしまおう。
もっとも、これらの自由も無制限に保障されるわけではなく、「公共の福祉」(憲法12条後段、13条後段)による制約を受ける。
そこで、本問要求は「公共の福祉」による合理的な制約と言いうるか、違憲審査基準が問題となる。
この点、「公共の福祉」とは人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的公平の原理であることを考慮すれば、合理的な制約と言いうるには、制限する目的・必要性、制限される権利の内容・性質、具体的制限の態様・程度を比較衡量することによって決定すべきものと解する。
以下、放送編集の自由、及び、視聴の自由について合理的な制約と言いうるかを検討する。
この点、視聴の自由も放送も自由も精神的自由に属するため、経済的自由に対する制約において想定される立法裁量や合憲性の推定は存在しない。
もっとも、上の比較衡量のままあてはめに移るのはあれなので、審査基準を具体化していくことにする。
また、ここからは放送事業者と視聴者で立場が異なることから、個別に検討していくことにする。
もちろん、似通う面はあるだろうが。
4 放送の自由に対する違憲審査基準について
最初に、放送事業者の放送編集の自由について審査基準を定立する。
論じ方は原則修正パターンでいいだろう。
ただ、修正の部分で「放送」の特殊性について新聞と対比しながら触れていくことになる。
まずは知識の確認から。
放送に対する特別の規制を肯定する事情は次のとおりである、と言われている。
1、放送の特殊性(いわゆる「お茶の間効果」)
放送は音声と映像が組み合わさった「動画」という形を伴うところ、視聴者はこの動画を一方的・受動的な形で視聴することになるため、表現の影響を受けやすい。
これに対して、新聞は「停止画像と文字」という形しか伴わず、かつ、読者は「個々の新聞の記事を選んで読む」という積極的な態度を通じて情報を受領するため、テレビと比較して表現の影響を受けにくい。
2、電波の希少性
放送に必要となる電波は有限かつ希少であることから、放送事業者の枠には限界がある。
これに対して、新聞には電波の希少性に対応するような制限はない。
3、放送の公共性
放送は一般国民が廉価で情報を受領できるという意味で公共性がある。
この点は、新聞も大差ない。
以上をまとめてしまえば、放送事業者はある種の特権階級であり(電波の希少性)、公共性の高い放送で「動画」を流すことにより視聴者への影響が大きくなる(お茶の間効果)、ということになる。
したがって、放送事業者は国家権力との関係で権利を保護すべきと言える一方、放送事業者から国民の権利を守るということも考えなければならないことになる。
この点、新聞も一種の特権があることは間違いないが、表現手法による影響力や希少性を考慮すれば、放送事業者ほどではない、ということは言えようか。
また、本問は1995年(平成7年)の出題であるところ、平成7年というとWINDOWS95が発売された年であり、インターネットはようやく始まったかどうか、という時代である。
それゆえ、本問出題は30年前のことであり、この議論が現時点でも成り立つだろうか、という疑問はもっともである。
確かに、インターネットの発達といわゆる多チャンネル化によって放送メディアの権力は多少は相対化されているように見える。
しかし、日本において見る限り、当時の放送メディアに匹敵するインターネット放送は存在しないだろう。
また、情動的なものや空気によって動くといった日本の現状も過去と現在で大きく異ならない。
この2点を考慮すると、放送・動画による影響力はさほど変わらないように見える。
そのため、当時と現在とで価値判断を変える必要はないのかな、と考えられる。
さて、新聞との対比をしながら違憲審査基準を定立していこう。
なお、表現の自由の重要性は原則論部分で謳いあげることにする。
どうせあとでひっくり返すけど。
この点、表現の自由は、表現活動を通じて自分の人格を発展させるという自己実現の価値と、表現活動を通じて国家の意思形成に参加するという自己統治の価値を有する極めて重要な権利である。
また、表現の自由に対する不当な介入があった場合、議論自体が封じられることにより民主制での自己回復が困難になる。
これらの点を、表現の自由の制限に対する審査基準は厳格なものを用いるべきとも考えられる。
しかし、「静止画像と文字しか用いられない新聞記事を読者が選んで読む」という新聞のケースとは異なり、放送という表現手法は映像と音声を動画に乗せて情報を一方的に送信するものであり、かつ、視聴者は受動的に番組を視聴することが多いことから、発表者による表現の影響を強く与えかねないものである。
また、財力と紙があれば発行可能な新聞と異なり、放送に不可欠な電波は希少かつ有限であり、万人が用いられるものではない。
さらに、新聞と同様、放送は国民が廉価で情報を受領・共有するためのメディアであって公共性を有する。
以上を考慮すると、新聞の場合と異なり、放送編集の自由の要保護性は視聴者の利益の保護との関係で相対化せざるを得ない。
また、編集に対する制約であれば、放送内容それ自体に対する制限ではないため、別の編集で同じメッセージを伝達することは可能であるから、制限の程度は間接的である。
以上を考慮すれば、放送編集の自由に対する制限は目的が重要であり、手段が実質的関連性を有する場合に合憲になる、という厳格な合理性の基準によって判断すべきものと解する。
・・・と審査基準を立ててみた。
これらの議論を通じて内容の違憲審査はできるだろうが、文面審査の部分、つまり、明確性の原則をスキップしているような気がしないではない。
だから、この点は実質審査で正当化してから改めて検討しようと考えている。
以上、審査基準の定立は終わった。
次回は、具体的なあてはめをして、文面審査(明確性の原則)についてみていく予定である。