薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

司法試験の過去問を見直す15 その6(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 司法試験・二次試験・論文式試験の平成元年度の憲法第1問を検討していく。

 なお、今回もこの問題を再検討して感じたこと・考えたことを述べていく。

 そして、平成19年度・平成9年度の過去問検討で気になっていた「外国人の人権享有主体性」についてもみていく。

 ついでに、対比の関係で「法人の人権享有主体性」についても見ておく。

 まあ、今回も平成11年度の過去問検討の場合と同様、尻切れトンボに終わることになるだろうが。

 

9 外国人の人権享有主体性再考_人権の固有性

 前回、外国人の人権享有主体性を肯定する根拠の一つである国際協調主義についてみてきた。

 この国際協調主義については、これまで注目したことはなかったため前回調べたことは非常に勉強になった。

 

 今回は「人権の固有性」についてみてみる。

 といっても、前回までと共通する部分が少なくないだろうが。

 

 

 まず、人権の固有性とは何か。

 簡単に述べれば、「人権の根拠は『人間である』に由来する」という人権の性質をいう。

 より言葉を足せば、「人権は神・天皇・国家権力などから恩恵などによって与えられるものではなく、『人間である』ことに由来して認められる」ということが人権の固有性ゆえの結論、ということになる。

 この点から考えると、生物学的に見た場合、外国人も「人間である」ことには変わりはないから、これまた人権享有主体性を認められることになる。

 また、生物学的に見た場合、未決・既決・死刑囚などの在監者であっても「人間である」ことに変わりはないため、これまた人権享有主体性が認められることになる。

 

 もちろん、人権享有主体性を肯定するということは原則論に過ぎない

 それゆえ、人権享有主体性が肯定されたとしても、①一般論として憲法上の権利の保障が受けられないということ、または、②一般論として憲法上の権利の保障が受けられるとしても例外的に権利の制限が許される、ということはありうる。

 ①については平成17年度の過去問で飲酒の自由を憲法上の権利として認めない見解を採用した例があるし、外国人には参政権は保障されない。

 さらに、②については色々な過去問において「公共の福祉」による正当化を行っていることからも明らかである。

 

 そう考えた場合、人権の固有性を根拠に人権享有主体性を認めるという論点に意味があるのか、という疑問は日本教徒にとっては当然の疑問と言える。

 しかし、人権享有主体性を認めるかどうかをめぐって世界で起きた事件などを考えると、この議論をする実益が見えてくる。

 それらの事件の概要は次の読書メモで登場している。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 単純に言えば、人権享有主体性を否定することは「汝は『人間』なりや?」という問いに「No!」で答えることになる。

 そして、ここで「No!」と答えれば、相手に対して何をしてもいいことになる。

 その結果、何が起きたかは上の読書メモの歴史が示すとおりである。

 新大陸(現アメリカ大陸)の原住民に対するキリスト教徒の行い、十字軍、17世紀の宗教戦争、19世紀の欧米列強の世界侵略、、、。

 上の例においては,、「人間とは『白人』のことである」とか「人間とは『キリスト教徒』のことである」と考えられていた世界のお話である。

 なんとも恐ろしい世界である。

 

 このようなことを踏まえた場合、「誰それに人権はない(認める必要はない)」とあっけらかんと言われると、結構怖いものを感じる。

 端的に言えば、人権が否定をすれば憲法36条の適用もないはずなので、残虐な刑罰や拷問も可能であるし、憲法31条の適用もないので法律の手続きによらずに刑罰を課すことも可能であり、後者はリンチを合法化することになってしまう。

 もちろん、現実に国家権力がこのようなことをするとは考えていないし(非常時ならいざ知らず)、日本教には言外の理があるため、人権享有主体性を否定したところで日本教徒が(過去、白人がやったような)価格調整のために黒人奴隷を海に突き落とすといった行為をする、または、突き落とした行為などをした日本教徒に対して他の日本教徒が称賛する、というのはいささか考え難いが。

 

 

 また、人権享有主体性を否定しても、権利の制限を許容しない、自由を肯定する、ということは可能である。

 そして、このような恩恵的な発想、いわゆる「包摂モデル」は日本教とは親和的なように思われる。

 しかし、この場合、外部的事情や恩恵を根拠にして自由を肯定することになる。

 だから、この構成で自由を肯定しても人権の固有性とは両立しない、ということになる。

 

 などと考えてみると、人権の固有性と日本教の相性はよろしくなさそうに見える。

 これは自由主義との相性の悪さとパラレルに見える反面、単純すぎる気もする。

 単純すぎる理由は私の理解と能力の限界からくるものなんだがどうなんだろう。

 これ以上考えると収拾がつかなくなるので、今回はここで話を終わらせるけど。

 

10 法人の人権享有主体性について

 次に、法人の人権享有主体性についてみていく。

 法人の人権享有主体性については(旧)司法試験の勉強時代に次のように教わっている。

 

 確かに、法人は自然人ではない。

 しかし、法人は社会的に実在し、現代社会における重要な構成要素である

 また、法人の人権享有主体性をすることで法人の構成員の人権を保障することにもつながる

 そこで、性質上可能な限り人権規定の適用が認められる。

 

 この根拠を言いかえれば、法人は現代社会において人のような存在として機能している、現に見られている、というところであろうか。

 まあ、その背後には法人固有の権利を肯定した方が法律関係が明瞭になる、法人の権利は究極的に構成員に帰属する、といった事情もあるとしても。

 

 

 ところで、法人の人権享有主体性関係で問題となる論点が法人の政治献金や寄付の自由であった。

 これは平成13年度や平成20年度の過去問で問題となった。

 判例としても、八幡製鉄事件・国労広島地本組合費請求事件・南九州税理士会事件・群馬県司法書士会事件その他がある。

 そして、企業の政治献金を全面的に認めた八幡製鉄事件については批判も少なくなかった、と記憶している。

 そのようなこともあり、本問において法人の政治的表現の自由は国民と同程度の憲法上の保障を受けない、とする答案もあったと記憶している。

 

 確かに、「個人VS法人」という関係を取り出せば、法人は強大な社会的権力に見え、それを放置することが国民の権利の希薄化につながる、ということもあるかもしれない。

 そして、この関係は法人が大企業の場合に限られない。

 ただ、「法人VS国家」という関係で見れば、ほとんどの法人は弱小と言わざるを得ない

 また、憲法は国家との関係を規律するものである。

 このように考えた場合、個人との力関係をもって憲法上の保障のレベルを国民よりも下げていい、ということにはならないのではないかと考えられる

 もちろん、国民の権利の保護を目的として法人に限定して制限することが「公共の福祉」による制約として許容されることは十分ありうるとしても。

 これは、個人的なパワーバランスを理由にして一定の条件を満たす個人の言論の自由について憲法上の保障の外においていいか、という問題を考えてみればいい。

「公共の福祉」による制約が可能か、という議論はできても、そもそも憲法上の権利の保障を受けない、というのはまずあり得ないだろう。

 

 また、企業の政治献金について憲法上の権利の保障を弱めて考える、または、否定する見解もある。

 そして、もしも、企業を「純然たる営利追求の機能体」として考えるのであれば、企業の政治献金は営利追求目的そのものに外ならず、社会貢献の要素などないだろうから、企業にそんな自由を憲法上の権利として保障する必要はない、または、国民と同程度の保障を受けないという主張も十分ありうるかもしれない。

 しかし、日本の企業は大企業であっても共同体化しているため、「純然たる機能体」として考えることは現実と適合していない

 また、CSR(企業の社会責任)といったことなどを考慮すれば、責任を果たす手段に関する意思決定の自由を観念することができるから、「社会貢献を通じた営利追求」といったことも想定できる。

 そうやって考えると、企業の政治献金につき憲法上の権利を否定するのはどうなのかなあ、という気もする。

 もちろん、国民と異なる特別な制約を課すことが「公共の福祉」による合理的な制約になりうるとしても。

 どうなんだろう。

 

 

 以上で本過去問の検討を終了する。

 次回は、平成6年の過去問を検討しようと考えている。

 まあ、既にこの問題の検討は終えているが。