薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す15 その5

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 司法試験・二次試験・論文式試験の平成元年度の憲法第1問を検討していく。

 なお、今回からはこの問題を再検討して感じたこと・考えたことを述べていく。

 そして、平成19年度・平成9年度の過去問検討で気になっていた「外国人の人権享有主体性」についてもみていく。

 

8 外国人の人権享有主体性再考_国際協調主義

 少し前に、在監者の人権享有主体性について見てきた。

 というのも、人権を「国家が国民に保障する最低限のハードル」として見た場合、未決の在監者・既決の在監者に保障する人権の程度が「その政府の人権の保障の程度」としてみることができるからである。

 だから、「そもそも在監者(未決・既決)の人権享有主体性を認めない」という結論を採用するならば、「人権などないと認めるに等しい」ということになる。

 

 ところで、このような見方は外国人についても同様のことが言える。

 そこで、この辺を見ていきたい。

 そして、これらの結論から日本教の空気の背後にある価値判断(『空気の研究』における日本的・無意識的・通常性)についてみていく

 

 なお、最初に確認。

 仮に、色々見ていった結果として、「人権を認めない」という結論が出てきたとしても、それについてどうこう言うつもりはない。

 もちろん、国家権力の恣意的な行使は許されないと言えても、「立憲民主主義憲法に反する国家システムを理想と考える自由」は思想良心の自由で保護される範囲であり、思想言論の自由市場で保護される範囲でもあるから。

 さらに言えば、日本的通常性は黒船来航前からあるものなのだから、近代的なものに反していることも当然ありうる話のだから。

 そして、人権があるとしても個々の具体的な権利の制限が正当化されないわけではないことも当然である。

 

 

 この点、マクリーン事件最高裁判決による外国人に対する人権保障の結論とその結論を支える根拠は次のとおりである。

 

結論、権利の性質上日本国民のみをその対象とするものを除き保障される

根拠、人権の固有性(憲法11条、97条)と国際協調主義(98条2項)

 

 ここでは、これまであまり見てこなかった国際協調主義(98条2項)を確認する。

 

 国際協調主義、これは、権利保障を認める「必要性」を支える根拠にもなっている。

 もちろん、個人の権利保護の必要性に比べれば重視すべき要素ではないとしても。

 

 気になったのは、「国際協調主義」の中身である。

 そこで、定義を確認してみた。

 

ja.wikipedia.org

 

 (以下、上サイトから引用)

 国際協調主義ならば、自国の利益(国益)のみを追求するのではなく、諸外国と友好的に協力し合いながら共存しようという考えになる(中略)。国際協調主義というのは、軍国主義大国主義と相対するという主義である(中略)。特定の外国のみとであったり、特定の外国の集団のみと協調することなく、国際社会と協調をするということである。

(引用終了)

 

 以上はウィキペディアの記載であるが、憲法にはこのことに言及している条文がある。

 それは前文の第3段である。

 

憲法前文第3段

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 

憲法98条2項

 日本が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

 

 憲法は英文を日本語訳したものしたのであって、その点で理解しづらい。

 そこで、私釈三国志風に意訳(意訳であって直訳ではない)してみる。

 

(以下、意訳)

 孟子は「君主に大事なのは仁義である。利益だけを追求してはいかん」と言った(『孟子』)が、いずれの主権国家も自国の利益だけを追求して他国を無視してはならん

 この国際協調主義という政治道徳のルールは普遍的なものなのだ。

 我が国はすべての主権国家がこの国際協調主義に従う責務があると考える

 もし、国際社会を「主権国家が皆対等であって、その範囲で主権が維持される社会だ」と考えるならば。

 

 当時、第二次世界大戦の戦禍の直後であったこと、日本国憲法の背後にはアメリカのニューディーラたちの込めた理想があることなどを考慮すれば、まあ、分からないではない。

 しかし、「この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」って、国家権力に対する命令書たる憲法に書くものとしてはあれであろう。

 なにしろ、国家権力に対する命令書としての近代憲法に他所の主権国家の責務について言及しているのだから

 

 ちなみに、責務というのは「責任と義務」であって、場合によっては強権によって強制させることをも意味する

 また、「信じる」と書くことは信仰表明と取られても抗弁できない

 とすれば、この前文は日本のリターンマッチの野心を示して、、、というのは冗談であるが。

 

 さらに言えば、『痛快!憲法学』で見た通り、憲法は契約書である。

 その観点からこの前文を見た場合、「とんでもない契約書にサインしてしまったなあ」と考えないではない。

 まあ、憲法は国家と国民との契約に過ぎず、仮に、外国に関することを述べても外国は関係ないということができるとしても。

 あと、あの状況で署名しない以外の選択肢があったとも考えないが

 

 

 さて、憲法の前文に話が入りすぎてしまった。

 国際協調主義に戻ろう。

 

 面白いのは、この国際協調主義の中身である。

 上では、「特定の外国のみとであったり、特定の外国の集団のみと協調することなく、国際社会と協調をする」ことを内容としていることである。

 

 まず、国際協調主義のモデルは「神(造物主)と人間(被造物)」というキリスト教のモデルに似ている。

 まあ、キリスト教社会が発祥の地であるから当然と言えなくもない。

 もちろん、国家と国民という近代社会のモデルにも似ている。

 

 他方、このモデルは日本の一君万民モデルにも似ている。

 もちろん、キリスト教の発想は固定倫理・日本は状況倫理という差異があるとしても。

 逆に、最近、読書メモで言及している中国の二重規範性から考えると、国際協調主義の発想は中国の社会構造から見れば整合性が悪いと言えそうである。

 

 

 ところで、ウィキペディアによると国際協調主義に相対する概念に軍国主義大国主義(覇権主義)があるらしい

 

ja.wikipedia.org

 

ja.wikipedia.org

 

 この点、軍国主義とは外交において戦争を重視すること、戦争以外の国家活動を戦争のための手段と考える発想を指すらしい。

 この点は、次のメモで言及しているので、これ以上は立ち入らない。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 次に、大国主義(覇権主義)とは大国がその影響力を拡大させる目的で、様々な要素を用いて弱い国に介入して主権を侵害することを指すらしい

 ちなみに、ウィキペディアの記事では、張香山(中華人民共和国の外交官)が「1975年のソ連(当時)の行為に覇権主義的行為であると評価したもの」として次のことが列挙されている。

 

(以下、ウィキペディアの記事から引用)

1、外国に派兵し、侵略し、奴隷化している

2、世界に広く軍事基地をおき、他国の主権を侵害している

3、軍隊を派遣し、他国を侵略し、民族自決の闘いを弾圧している

4、海軍艦隊を拡張し、全世界の海をわがもの顔にしている

5、兵器を大量に販売し、世界最大の軍事商人である

6、核兵器を大量に開発し、核独占をはかり、他国を恐喝する道具としている

7、軍事予算を拡大し、軍備を拡張している

8、他国の内政に干渉し、他国政府の転覆をはかっている

9、周囲の領土を不法に占領し、返還しない(日本の北方領土、中国の珍宝島

10、従属国から搾取し、経済協力の名を借りて“第3世界”からも搾取している

11、他国の共産党に自分の政策に従うよう、強要

12、帝国主義政策を推進するため、一連の理論をデッチあげている

(引用終了)

 

 なかなかに興味深い記述である。

 他山の石として見るため、このブログに記載しておく。

 

 

 こうやって見ると、大事な前提として、国際協調主義は「みんななかよく」といった日本的協調主義とは無縁なものであることが分かる。

 ある種のアサーティブ・コミュニケーションによるものである、とも。

 また、20世紀の二回の世界大戦から得られた教訓を引き継いでいる点もみておくべきであろう。

 

 ところで、この国際協調主義は日本教と適合的なのだろうか

 人権概念よりは相性がよさそうな気がしないではないが、正直よくわからない。

 がっちりとした規範がある点は日本教と整合性が悪いと考える一方、一君万民のモデルそれ自体は類似性があると言えなくもないのだから。

 

 あと、国際協調主義は弱者側がよって立つべき考え方だなあ、ということも見えてきた。

 覇権主義の否定という点は大国に鎖をかけるようなものなのだから

 

 

 以上、人権云々という前に、外国人の人権主体性を支える根拠たる国際協調主義についてみてきた。

 続きについては、次回以降に。