今回はこのシリーズの続き。
司法試験・二次試験・論文式試験の平成元年度の憲法第1問を検討していく。
4 外国人の政治的表現の自由の保障の程度
まず、問題文を再掲載する(引用元は前回と同じ)。
(以下、司法試験二次試験・論文式試験・平成元年度憲法第1問の問題文を引用)
法人の「政治的表現の自由」について、外国人の場合と比較しながら、論ぜよ。
(引用終了)
前回、法人にも外国人にも政治的表現の自由が保障される点は確認した。
しかし、日本国民と同程度の保障が及ぶか、という問題は別途検討する必要がある。
まず、外国人についてみていく。
昭和50年(行ツ)120号在留期間更新不許可処分取消
昭和53年10月4日最高裁判所大法廷判決
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/255/053255_hanrei.pdf
(いわゆる「マクリーン事件判決」)
(以下、同判決から引用、各文毎改行、セッション番号や一部を中略、強調は私の手による)
前記の事実によれば、上告人の在留期間更新申請に対し(中略)これを許可しなかつたのは、上告人の在留期間中の無届転職と政治活動のゆえであつたというのであり、原判決の趣旨に徴すると、なかでも政治活動が重視されたものと解される。
思うに、憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきであり、政治活動の自由についても、わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるものを除き、その保障が及ぶものと解するのが、相当である。
しかしながら、前述のように、外国人の在留の許否は国の裁量にゆだねられ、わが国に在留する外国人は、憲法上わが国に在留する権利ないし引き続き在留することを要求することができる権利を保障されているものではなく、(中略)外国人に対する憲法の基本的人権の保障は、右のような外国人在留制度のわく内で与えられているにすぎないものと解するのが相当であつて、在留の許否を決する国の裁量を拘束するまでの保障、すなわち、在留期間中の憲法の基本的人権の保障を受ける行為を在留期間の更新の際に消極的な事情としてしんしやくされないことまでの保障が与えられているものと解することはできない。(中略)
前述の上告人の在留期間中のいわゆる政治活動は、その行動の態様などからみて直ちに憲法の保障が及ばない政治活動であるとはいえない。
しかしながら、上告人の右活動のなかには、わが国の出入国管理政策に対する非難行動、あるいはアメリカ合衆国の極東政策ひいては日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約に対する抗議行動のようにわが国の基本的な外交政策を非難し日米間の友好関係に影響を及ぼすおそれがないとはいえないものも含まれており、被上告人が、当時の内外の情勢にかんがみ、上告人の右活動を日本国にとつて好ましいものではないと評価し、また、上告人の右活動から同人を将来日本国の利益を害する行為を行うおそれがある者と認めて、(中略)、その事実の評価が明白に合理性を欠き、その判断が社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかであるとはいえず、他に被上告人の判断につき裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつたことをうかがわせるに足りる事情の存在が確定されていない本件においては、被上告人の本件処分を違法であると判断することはできないものといわなければならない。
また、被上告人が前述の上告人の政治活動をしんしやくして在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由があるものとはいえないとし本件処分をしたことによつて、なんら所論の違憲の問題は生じないというべきである。
(引用終了)
この判例には批判が少なくない。
その批判を簡単に述べれば、「表現の自由を在留制度の枠内でしか認めていない」という点になる。
この点について細かく見るため、在留制度に関する最高裁判所の主張も確認する。
(以下、同判決から引用、各文毎改行、セッション番号や一部を中略、強調は私の手による)
憲法二二条一項は、日本国内における居住・移転の自由を保障する旨を規定するにとどまり、外国人がわが国に入国することについてはなんら規定していないものであり、このことは、国際慣習法上、国家は外国人を受け入れる義務を負うものではなく、特別の条約がない限り、外国人を自国内に受け入れるかどうか、また、これを受け入れる場合にいかなる条件を付するかを、当該国家が自由に決定することができるものとされていることと、その考えを同じくするものと解される(中略)。
したがつて、憲法上、外国人は、わが国に入国する自由を保障されているものでないことはもちろん、所論のように在留の権利ないし引き続き在留することを要求しうる権利を保障されているものでもないと解すべきである。(中略)
出入国管理令上も在留外国人の在留期間の更新が権利として保障されているものでないことは、明らかである。
(中略)、法務大臣に一定の期間ごとに当該外国人の在留中の状況、在留の必要性・相当性等を審査して在留の許否を決定させようとする趣旨に出たものであり、そして、在留期間の更新事由が概括的に規定されその判断基準が特に定められていないのは、更新事由の有無の判断を法務大臣の裁量に任せ、その裁量権の範囲を広汎なものとする趣旨からであると解される。(中略)
このような点にかんがみると、(中略)、所論のように上陸拒否事由又は退去強制事由に準ずる事由に該当しない限り更新申請を不許可にすることは許されないと解すべきものではない。
(引用終了)
この部分を踏まえてみていくと、最高裁判所は「在留資格は憲法上(法律上)の権利・利益ではない。そのため、在留資格を制限することは表現の自由(憲法上の権利)の『制限』にならない」にならないと主張しているようである。
つまり、いわゆる三段階審査論の流れで見れば「『保護』はされるが『制限』がない」と主張しているように推測される。
確かに、これは「在留制度の枠内でしか憲法上の権利を認めていない」ことにほかならず、その意味で上述の判例に対する批判は妥当である。
しかし、この判決を「表現の自由を保障していない」という点から批判するのは少しポイントがずれていないか、と考えられなくもない。
何故なら、この判決の主張に従えば、「海外である宗教一派が国際的テロ事件を起こしたことを理由にその一派の信者の在留資格をはく奪しても信教の自由の制約にならない」ということになるからである。
とすれば、本問(平成元年度の過去問)では、この事件の在留資格の部分に深入りするのは避けた方がいいかもしれない。
以下、在留資格を切り離してみていこう。
この点、最高裁判所は「上告人の在留期間中の政治活動は、その行動の態様などからみて直ちに憲法の保障が及ばない政治活動であるとはいえない」と述べており、「日本の政策に対する非難・抗議活動」であることを憲法上の権利から除外する理由にはしていないようである。
しかし、その一方、「『わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動』でない政治的意見表明」って具体的にどんなものだろうか、という疑問が浮かぶ。
というのも、政治的表現は政治的意思決定・実施に影響を及ぼす目的で行うものだからである。
二分論的に考えれば、「わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動」ならば、政治的表現に該当するような気がしないでもない。
というのは大げさなので、ざっくりとボーダーラインを引けば、「『国外に関する事実の表明(専門的な解説も含まれる)、国民を補佐的する立場・連帯する立場としての意見表明』を明白に逸脱するもの」が除外対象になるということになるように思われる。
なお、ここで「明白に逸脱するもの」という形で除外範囲を狭めているのは、国民の知る権利への寄与、権利としての政治的表現の自由を考慮してのことである。
では、このように考える根拠を考えてみる。
以下、一気に書き切ってしまおう。
では、法人や外国人にも国民と同程度の政治的表現の自由が保障されるか。
まず、外国人について検討する。
確かに、個人としての表現の自由の重要性や外国人の政治的意見表明による国民の知る権利への貢献については前述のとおりである。
しかし、政治的表現の自由は権利の性質上日本国民をその対象とする参政権としての性格を有する。
そして、参政権を国民に保障した趣旨は、国民主権(前文・1条)の下、国民が国家の 政策的意思決定について選択を行い、また、その選択に伴う結果に対して責任を持つことにある。
このように考えた場合、外国人に対して国民と同程度の保障を認めることは、前述の選択権や責任を希薄化させることになりかねず、ひいては国民の主権者としての意識を希薄化させてしまう。
よって、外国人には国民と同程度の保障は認められないと解する。
もっとも、前述の事情を考慮すれば、表現の自由の保障される範囲は広く認められること、例外的に制限されるに過ぎないことには注意する必要がある。
例えば、国外の事情を事実として説明し、または、専門的立場から解説するもの、国民を連帯する立場や補佐する立場からなされる政治的表現が保障されることは言うまでもない。
こんな感じで書いて見た。
この点、外国人にも日本国民と同程度の保障を認める見解もなくはないが、その見解は採用しないでみた。
とはいえ、これなら大きな間違いはないと考えられる。
次に、法人の政治的表現の自由についてみていきたいが、既に分量が多くなっている。
よって、これについては次回に。