今日はこのシリーズの続き。
『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。
8 第2章の第1節を読む
第2章のタイトルは「数学は何のために学ぶのか_論理とは神への論争の技術なり」。
そして、第2章の扉絵に登場するのがアリストテレスである。
アリストテレスは形式論理学の礎を築いた古代ギリシャの偉人な哲学者である。
第1章では、歴史を通じて数学の重要性についてみてきた。
第2章では、論争と論理学について詳しく見ていくことになる。
そして、第1節のタイトルは「論理とは論争の技術なり_東西の論争技術」。
この点、論理の存在意義(目的)は「論争における勝利」にあることを示している。
もっとも、社会における論争の相手によって論争の価値・中身も変わる。
そこで、様々な社会の論理や論争について見ていくことになる。
そもそも、数学は何故学ぶのか。
本書では、「予備校講師にして数学と経済学の参考書で有名になった」細野真宏氏の答えが紹介されている。
つまり、「数学を勉強することの意義は論理的思考力を身に着けるためである」と。
そして、「論理性から見た場合、数学・経済学で要求される論理性は同種のものである」とも。
では、「論理」とは何を意味するのか。
「論理」とは論争のための技術を指す。
そして、この「論理」こそ(近代)数学の生命線である。
さらに、ヨーロッパでは論争の相手が神(クリエーター)であることは前章でみてきた。
本章はここから話を進めていくことになる。
ここから話は「国際法」に移る。
現在の国際法はヨーロッパから発生した。
というのも、ヨーロッパではラテン語という共通語とキリスト教という共通の宗教をもっていたからである。
この点、中世ヨーロッパから絶対国家が出現したことは、これまでの読書メモでみてきたとおりである。
この過程で、自然法とローマ法の伝統の中から人間の法としても国際法が育っていった。
その国際法の理論の体系化を行ったのがオランダのグロティウスである。
グロティウスの著名な書籍として『戦争と平和の法』である。
そして、ドイツの三十年戦争の講和条約たるウェストファリア条約によって主権国家や国際法の概念ができた。
この点、国際法のきっかけは「戦争」にあったわけだが、当時の戦争の悲惨さを見れば無理もなかった。
前述のドイツの30年戦争は、ドイツ人口の3割近い人口が殺しつくされたといわれているからである。
そのため、国際法の中心は戦時国際法である。
そして、戦争の惨禍を少しでも軽減させるために戦時国際法が発達していった。
そして、各主権国家は戦時国際法を利用して相手国の戦争行為を批判していくようになる。
また、国家間の論争の際、国際法が盛んに用いられるようになる。
なお、小室先生はここで「日本は例外である」と続けていく。
なんと、太平洋戦争が終わって間もないころ、国際法を講義していた横田喜三郎教授は「戦時国際法は雲散霧消してしまい、もはや存在しない」と主張してしまった。
また、彼の国際法の教科書から戦時国際法の部分が完全に欠落していた。
この影響ゆえか、日本では戦時国際法についてちんぷんかんぷんになってしまうことになる。
まあ、日本は憲法9条と日米安全保障条約がセットであり、かつ、日米安全保障条約は対米従属を前提とするため、ちんぷんかんぷんであっても大問題にならなかったのだが。
以上の西洋の論争の歴史、つまり、論理の発展をまとめると次のようになる。
2、古代アテネにおけるデモクラシーと裁判を通じた形式論理学への昇華
3、近代国際法による論理と論争技術の発展
もっとも、偉大な文明を築いた社会はヨーロッパだけではない。
そこで、以下、別の世界の論理についてみていく。
ここから題材は中国に移る。
この点、日本とは異なり、中国では論争・討論・説得が重視されている。
雄弁家が立身出世を極めたという話は中国では少なくない。
また、君主の側から見ても、有能な人間を用いて政治を行えば、効率の良い富国強兵が可能である。
そして、能力の判定の際には、遊説の士と君主(と役人)との間で論争・討論・説得が行われる。
その結果、ヨーロッパだけではなく、中国でも論理が極度に発展した。
もっとも、ヨーロッパと異なり、中国の論理は形式論理学まで発展しなかった。
中国社会では揣摩臆測の論理・情誼をたかめる論理が発展していったのである。
その具体的な論理の形を春秋戦国時代の歴史からみてみる。
春秋戦国時代、中国は多くの国に分かれて争っていた。
そのため、各国の君主はこぞって有能な人材を集めていた。
そして、有能な人材を得た国は栄え、そして、失った国は亡ぶ。
その辺は日本の戦国時代と同様である。
そのため、庶民(人民)も立身出世して大臣や将軍になるために、他国に赴いて仕官した。
当時の中国は階級社会ではあり、下層民で貧困にあえいでいた庶民も少なくなかった。
もっとも、その庶民にも戦国時代では大抜擢のチャンスがあった。
この辺も日本の戦国時代と同様である。
もっとも、日本では槍働きで立身出世することはあっても弁論を重く用いられることはなかった。
日本では、弁論が優れていることは口先だけに過ぎないことであって、軽蔑の対象だったのである。
他方、中国では、弁論が優れた者が抜擢されることがあったのである。
その意味で「舌さえあればなんとかなる」という命題が成立したのである。
つまり、遊説家は弁論を用いて、君主の心を忖度して論争を仕掛けてこれを説得する。
説得に成功すれば、出世して重用される。
もちろん、説得を聴いてくれる君主を探すのは困難であるし、説得に失敗すれば刑罰を受け、または殺されることがあるとしても。
その例として本書に取り上げられているのが遊説家の蘇秦と張儀である。
蘇秦は雄弁術を学んだが、はじめは散々失敗した。
蘇秦の妻は蘇秦に遊説をやめるように説得したが、蘇秦は「自分の舌がまだあるなら、十分である」という趣旨のことを述べたという
その後も、蘇秦は遊説と放浪を繰り返し、最終的には、燕の文侯に熱弁をふるう。
この蘇秦の熱弁は「燕が侵略されず、平和でいられた理由の解明」を内容とするもので、素晴らしいものであった。
そして、蘇秦は燕で仕えることになる。
さらに、蘇秦は秦以外の各国に行って、各国が同盟して秦に対抗することを提案し、六国による大合従を結成させるのである。
結果、蘇秦は六国の宰相になる。
洛陽の貧乏人だったころと比較すれば、雲泥の差である。
また、張儀も弁論を駆使して出世した人である。
張儀は蘇秦の弁論によって作り上げたこと六国合従を解体し、秦を盟主とする連衡を作り上げた(『史記』の「張儀列伝第十」)。
二人が雄弁で作り上げた「合従連衡」は今でも国際政治における高名な術策を示す言葉になり、「張儀・蘇秦の術」と言えば、説得術の極限を示す言葉になっている。
それくらい、二人の討論術は素晴らしいものだったのである。
以上のように、中国で論理が重視されていたことは、蘇秦と張儀の二人が『史記』に残っていることからもわかる。
このように、中国でも弁論術が大きな役割を果たしていた。
この点では、古代ギリシャと同様である。
では、この中国の雄弁術・討論術はどのようなものであったか。
まず、中国の討論術は「説得術」であった。
つまり、目的は「説得」であって論破ではない。
君主を納得させ、遊説家たる自分の説を採用させようと考えさせることが目的であった。
その意味で、中国の討論術は政治権力と大いに関係があった。
この点は、ギリシャやインドの討論とは異なることになる。
何故なら、インドやギリシャでは政治権力とは無関係だった、距離があったことから、純粋に哲学を追究できる階層(人々)が生まれたからである。
それに対して、中国では哲学を追究する階層は産まれなかったからである。
中国では論争は神ではなく、君主(人)を納得させる道具だった、ということになる。
では、どうすれば権力者たる君主の心をつかむことができるのか。
そのためには、君主と深い信頼関係を結ぶこと、つまり、「深い情誼」ともいえるべき関係を結ぶことが重要になる。
この点、中国では昔も今も「情誼の深さ」が人間関係における極めて重要な要素である。
それゆえ、君主を説得する際にもこの情誼の深さが重要になる。
というのも、情誼が深ければ説得も容易であるし、その逆も当然だから。
韓非子は歴史を参照しながらこの点を強調している(『韓非子』より)。
もちろん、君主の進言の困難さを「説難篇」において説明している。
そのエッセンスを述べれば、「すべて説くことの難しさは、君主の心を見抜き、それに合わせて説得すること」となる。
本書では、「君主の心を見誤ったがために、正しい内容の進言が裏目になるケース」を二つ取り上げられている。
ここまで述べたことから何が分かるか。
この点、古代ギリシャのアリストテレスは次のことを述べている。
1、あることが『正しく、かつ、正しくない』ことはあり得ない(矛盾律)
2、あることが『正しい』か『正しくない』以外の選択肢はない(排中律)
3、『正しいこと』は『正しい』(同一律)
そして、この3つこそ形式論理学の基本である。
しかし、これまでみてきた中国の論理・論争をみてみると、中国では真か偽かは一義的・客観的に決まっているわけではないことになる。
何故なら、君主の心によっていかようにも変わりうるのだから。
このことから、韓非子は「形式論理学に対する否定」を明確に述べていないとしても、韓非子の論理(説得)の趣旨は形式論理学の否定になる。
つまり、古代中国においてとある命題(文章)の成否(真偽)は、両者の情誼の深さと話し手の聞き手の心に対する理解度、というとある命題の真偽はその内容と関係ないところで決まることになる。
以上をまとめれば、中国では論理の目的が違うため、ヨーロッパで発展した形式論理学が中国で発展しなかったことになる。
以上、ヨーロッパと中国についてみてきた。
では、日本についてはどうか。
この点、ヨーロッパが「神に対する論争」を重視し、中国が「人(君主)に対する説得」を重視するならば、日本は「論争それ自体」を軽視・無視していることになる。
この点、日本人(日本教徒)は口喧嘩を本番とみなさず、手を出したほうが早いと考える傾向がある。
その観点から日本人以外の口喧嘩のひどさを見ると、「これだけ罵詈雑言を重ねて、本番(手を出すとき)になったらどうするのか」と心配になる。
だが、心配はない。
彼らから見れば、「口喧嘩が本番であって、日本教徒が想定する本番(暴力による喧嘩)がない」のだから。
逆に、「手の方が早い」などと言い出せば暴漢扱いされてしまう。
本書では、日本の大宰相の一人、伊藤博文を暗殺した安重根の話が紹介されている。
本書によると、安重根は日本の元勲の一人たる伊藤博文を暗殺したにもかかわらず、当時の日本人に安重根を尊敬する者が少なくなかった。
それを示すエピソードを本文から掲載(引用)する。
(以下、本文64ページから引用)
満鉄で筆頭理事で伊藤の寵愛を受けていた田中清次郎は、「あなたが今まで会った世界の人々で誰が一番偉いと思うか」との問いに対して、言下に「それは、残念であるが、安重根である」と言い切った。
(引用終了)
本書ではそのエピソードは次の書籍から引っ張った旨書かれている。
当然だが、寵愛された人、しかも、日本の近代化の立役者を殺した安重根が憎くないはずがない。
にもかかわらず、田中は上のように述べた。
また、監獄に拘束された安重根の待遇は丁重だったらしい。
極刑にならないはずがないとはいえ、その待遇は国士と言うべきものであった。
他にも、安重根に接した者たちが彼に敬意を示すエピソードがあるらしい。
「ばんなそかな?」というべきか。
では、何故、そのような事態となったのか。
結論から述べれば、安重根の論理と態度が見事だったから、ということになる。
この点、安重根の主張の要旨は「伊藤暗殺の理由は韓国の独立のみならず、日本のためである」というものであった。
これが詭弁か否かはさておき、彼の主張を見てみよう。
1、日露戦争の宣戦布告の詔勅において明治天皇は「日本の戦争目的は韓国の独立を全うして、東洋平和を守ることにある」と宣うた。
2、この詔勅は韓国人を感激させ、対日協力に向かう韓国人もいた。
3、他方、伊藤は日韓併合を目的として様々なことを行い、韓国の独立を奪って、東洋の平和を乱した。
4、3における伊藤の行為は1に述べた詔勅に反している。
5、それゆえ、私は逆賊伊藤を暗殺した。
この主張を額面通り受け取れば、安重根は勤王の意志と瓜二つ、ということになる。
安重根は最終弁論で以上のことを陳述した。
明治維新の幻影が残っているこの時代、彼の論理と暗殺実行は一定の日本人の尊敬を集めた。
また、日本人は論理を重視しないが、納得できないものではなかった。
この一貫した弁論こそ安重根に敬意が集まった理由である。
ただ、日本人は生命を捨てて人を討つとき、弁論や論理を使うことがない。
その点は、大きく異なる。
また、伊藤博文は日韓併合を積極的に望んでいなかった(統監就任時は否定さえしていた)という見解がある。
とはいえ、当時の伊藤博文は韓国統監であった以上、意に染まぬ政策を行ったからといってその責任が免れるわけではない。
この辺も、日本とそれ以外で評価が分かれる点になるのかもしれない。
本節の最後は日韓関係の問題を論理の点から見ていく。
前に述べた通り、中国と中国と儒教の影響を大きく受けた韓国は論理を重視する。
他方、日本は論理を重視しない。
その結果、要らぬ誤解の最大の根源になる。
例えば、日韓併合の際、日本は「朝鮮を征服したのではなく、対等に合邦した」と発言した点が挙げられる。
もちろん、不平等条約を改正して列強の一員の座を占めた日本と韓国が実質的に対等ということはあり得ない。
論理を重視しない日本なら、上の対等合邦の発言は、「僧の嘘は方便と言い、武士の嘘は武略と言う」で片付くことである。
また、インドを植民地にする際、イギリスはこんな発言はしないし、ほのめかしもしなかった。
それゆえ、インドはイギリスの統治に苦しんだが、余計な発言に振り回されることはなかった。
これに対して、韓国の場合はそうはならなかった。
韓国人は日本人と対等という言葉に感激したが、これが嘘であるとは思わなかった。
客観的事実を見れば、イギリスのインドに対する態度その他と比較すれば、日本の韓国に対する態度は極めて寛大であったと言われている。
義務教育・近代化のインフラ整備、その他。
しかし、この客観的事実と上の発言を比較すればどうか。
ちなみに、上の発言を伺わせる詔勅をウィキソースから拾ってきたので、参照してみる。
(以下、日韓併合に関する明治天皇の詔勅の一部を引用、協調部分は私の手による)
韓國皇帝陛下及其ノ皇室各員ハ倂合ノ後ト雖相當ノ優遇ヲ受クヘク民衆ハ直接朕カ綏撫ノ下ニ立チテ其ノ康福ヲ增進スヘク產業及貿易ハ治平ノ下ニ顯著 ナル發達ヲ見ル至ルヘシ而シテ東洋ノ平和ハ之ニ依リテ愈々其ノ基礎ヲ鞏固ニスヘキハ朕ノ信シテ疑ハサル所ナリ
(以下、引用終了)
上の発言を比較すれば、日本政府の具体的にやった他の列強に見られなかった近代化へのインフラ整備は「自分たち(日本人)の発言した内容の実践(履行)」で終わってしまう。
それどころか、日本と韓国で差が生じれば(これはなくなることはないと言ってよい)、「発言内容と違うではないか(嘘ではないか)」ということになってしまう。
ここにこそ、問題の根があるように考えられる。
なお、アメリカのジョセフ・グルー(太平洋戦争前のアメリカの駐日大使)はこの点について「日本人の驚嘆すべき自己欺瞞の能力」と述べている。
もちろん、日本人同士であれば、結果的に差別をすることになっても、「差別して当然」といったことは絶対に言わない。
また、日本人(日本教徒)はこの態度で外国ともやれると勘違いする。
他方、イギリスがムガル帝国を滅ぼしたとき、インド人とイギリス人が対等になるわけがないし、また、このような発言をすることもない。
アメリカも然り。
逆に、「対等だ」などと発言するならば、それを対等な状態を実現する決意のあるときだけである。
上の結論は論理的な帰結であり、論理を重視するならどこでも同じ結論になる。
しかし、日本はその論理を重視しない国である。
それゆえ、発言と態度が一致していなくても、さらに言えば、強者の発言と態度が一致していなくても大きな問題にならない。
それが、日本以外の反発を招く。
著者は、「論理に日本人の無知と言動が、外国人の不信を増幅させる」と述べている。
そして、「日本人の論理に対する無知による損失ははかりしれない」とも。
中国とヨーロッパの論理の違いは非常に参考になった。
また、日本とそれ以外の違いにも。
今後も本書から論理に対する態度の違いその他を勉強していきたい。
では、よいお年を。