薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す6 その5(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成18年度の憲法第1問をみてみる。

 もっとも、今回は本問を前提に考えたことなどについてみていく。

 

7 「放送の多様性や質の低下の防止」という規制目的

 この問題、このブログ上で私は結論を違憲に導いた。

 当時の司法試験業界(!)でも多数派は違憲だったと推測している

 

 この点、違憲の理由として重要な要素になるのが、「想定されている損害が大きい」・「一発免許取消という制裁が厳しすぎる」ということだろう。

 しかし、もう一つ気になる要素がある。

 それが、「放送の多様性や質の低下の防止」という規制目的である。

 つまり、「近代国家において、これは政府(政治部門)の仕事なのか」という素朴な疑問こそ、本問の最大の疑問点である。

 

 もちろん、この素朴な疑問の背後には「政府(政治部門、ないし、多数派)はこのような一見もっともな理由を掲げて、言論弾圧をしてきたではないか」というものもある。

 しかし、ここではそのような「政府の濫用的意図」は考えない。

 

 

 この点、近代主義、つまり、夜警国家的に考えた場合、放送の質・多様性のレベルをどうするべきかは、「自由放任」である

 この辺については次のメモで述べられている。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 当然、具体的な名誉棄損とか具体的な虚偽の風説が流布された場合、政治部門はそれらに対応する必要がある。

 しかし、それ以上については「ノータッチ」である。

 この観点から考えれば、この規制目的は目的において違憲ということになる。

 

 しかし、日本国憲法において自由主義近代主義の要素は原則のラインまで相対化されている。

 また、現代的権利の「知る権利」は現代社会においては極めて重要な権利である。

 よって、その「知る権利」の充実化という観点から見れば、目的において違憲ということはできない。

 

 もっとも、最初に述べた「素朴な疑念」は手段の検討において、各要素の重みを変えることになる。

「原則論から考えればこれは政府の仕事ではない」という要素は「厳格な合理性」の有無、つまり、実質的関連性の有無を考える上で大きな要素となっている。

 損害・制裁・実効性の有無について評価する際の。

 

 となると、この細かい評価が合憲か違憲かを分ける要素になるのではないか。

 もちろん、どちらの評価を採るかによって点数が大きく変わるということはないとしても。

 

 

 そして、この点の評価をめぐる問題に付随して現れる問題が「日本国民(日本国憲法の制定者)はパターナリズムに基づく制約をどこまで受忍するのか」という問題である

 パターナリズム・温情主義。

 基本的に、日本は戦後までこのパターナリズムで回ってきた。

 戦後に法体系が入れ替わったからとしても、その名残はあちこちに残っている。

 その最たる具体例こそ応用憲法こと刑事訴訟法の248条に定めた起訴便宜主義である。

 

刑事訴訟法第248条

 犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる。

 

 この起訴便宜主義は、罪を犯した(適法な証拠による立証が可能である)場合であっても、検察官に起訴しない権限を付与したものである。

 刑罰権の行使は国家権力が最も現れる場面。

 その際に、犯罪があっても起訴しなくてもいい、という権限を行政(検察)に与えている。

 

 もちろん、起訴便宜主義の背後には「刑法の謙抑的・補充的要素」がある。

 だから、起訴便宜主義=パターナリズムとはならない。

 しかし、起訴しない条件に条文上の制約がなく、検察官に無制限の裁量を与えているように見えること、現在の検察・裁判実務から考えれば、この背後に温情主義がある点は否定できない

 

 当然だが、温情主義だからダメということはない。

 また、現状を見る限り、「どちらかと言えば『いい』システム」とはなっているだろう。

 特に、コストの面から考えると。

 ただ、副作用がないわけではない。

  

 少し具体例で道がそれすぎた。

 本題に戻そう。

 

 

 放送の質・多様性という要素も、放送業界の問題であるということは否定できない。

 また、「公共性が強い」(だから規制が許される)とか「第四の権力」(権力に対する独立性の観点から規制は許されない)とか言われているとしても、これらの要素はどちらか一方の結論に持っていけるものでもない。

 よって、本問の規制はパターナリズムの要素が見られることになる。

 当然、「国民VS放送業界」という観点から見れば他者加害の要素があるので、純然たるパターナリズムに基づく制約ではないとしても。

 

 このパターナリズムをどこまで受け入れるか、パターナリズムは例外に過ぎないという価値観をどこまで容認するのか

 そして、国民(憲法の設定権者)はどのように考えるのだろう。

 そんなことが気になった。

 

 まあ、日本教的には(特別な空気がない限り)逆の結論になるような気がする

 

8 補償と賠償について

 本問の出題趣旨に「補償・賠償」についての言及があった。

 当時、非常に驚いた記憶がある。

 

 確かに、本問の規制を経済的自由に対する規制と考えれば、損失補償の請求(憲法29条3項)に発想が及ばないことはない。

 また、最高裁判所は、憲法29条3項の損失補償請求権は具体的権利(法律の成立なくして主張できる権利)と考えている(いわゆる河川付近地制限令事件最高裁判決)。

 よって、本問でも損失補償について言及することはできないでもない。

 

 もっとも、本問法律を合憲と考えた場合、損失補償は認められるのだろうか。

 確かに、「法律上に言及がないこと」は請求できないことの理由にならない。

 しかし、本問の広告規制は放送業者であれば誰でも課せられる制約になる。

 このことを考えると、「特別な犠牲」とは言い難いように思われる。

 よって、合憲の場合、補償は不要、ということになるだろう。

 

 

 では、違憲の場合の賠償についてはどうだろうか。

 本問法律が可決・公布された場合、規制基準が明確である(数値で判断できる)ことを考慮すれば、行政裁量が強い法律には見えない。

 ならば、国賠で争う場合、立法不作為が争点になるように考えられる。

 そして、本問法律制定行為が違憲・違法とまでは言い難い。

 ならば、特段の事情がなければ賠償が通る可能性もなさそうである

 

 

 こうやって考えると、合憲にしない限り、答案に書けることは少なそうである。

 そして、「答案に対する反映」という観点から見ると、「司法試験委員会は合憲の方が妥当だと判断している」という推測もできないではない。

 正直、よくわからないが。

 

 

 以上で本問の検討を終わる。

 次に検討する過去問は、既に検討を開始している平成14年度の過去問である。