今日はこのシリーズの続き。
『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。
13 第3章の第2節を読む(前編)
前節では、日本教徒が無意識に持っている「空」の思想と数学的思考の相性の悪さについてみてきた。
今の日本を見るに、本書の説明は非常に説得的に感じられる(「単純に過ぎるのではないか」という疑問はあると考えられるが、そもそも学問は単純なモデルからスタートするものである)。
第2節のタイトルは「資本主義的私的所有権の絶対性と抽象性」。
似たような話は既にいくつかのメモで触れている(具体的なメモは次の通り)が、「数学と資本主義の関係」と「日本の現状」を加えて見直していくことにする。
日本教徒の数学の論理(同一律・矛盾律・排中律)の不在、これが日本の資本主義と民主主義にどのような影響を与えたか。
それを見ていくのが本節である。
上の読書メモでも触れられているが、近代資本主義の前提にある重要な要素が「私的所有権」である。
そして、この「私的所有権」には①所有権の絶対性、②所有権の抽象性という特徴がある。
また、これまでの歴史を見る限り、この「私的所有権」という概念は近代資本主義のみが持つ特徴である。
ここで、日本で私的所有権が法律上保障されている条文・判例などを確認しておく。
まず、憲法29条1項で財産権不可侵の原則を明示し、同時に我が国が私有財産制度を保障することが示されていると言われている。
以上のことは次の最高裁判所を根拠にすることができる。
昭和59年(オ)805号共有物分割等事件
昭和62年4月22日最高裁判所大法廷判決
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/203/055203_hanrei.pdf
(いわゆる「森林法共有林事件」)
次に、「所有権の抽象性」については次の2つの条文が参考になるのではないかと考えられる(なお、ここでは不動産のみ対抗要件の条文を掲げる、動産は「占有」概念がかなり複雑なので省略する)。
民法176条
物権の設定及び移転は、当事者の意思表示のみによって、その効力を生ずる。
民法177条
不動産に関する物権の得喪及び変更は、(中略)その登記をしなければ、第三者に対抗することができない。
つまり、不動産の譲渡を受けた場合、その所有権を第三者に主張するために必要なものは「譲渡に関する当事者の合意」(契約書は必ずしも不要)と「所有権移転登記」だけである。
不動産の管理状況・占有状況がどうなっているかどうかということはほとんど関係ない。
つまり、不動産の管理・占有状況とは独立して所有権を主張できるわけで、これぞ所有権の抽象性を示していることになる。
また、所有権の絶対性については以前掲げた民法206条が参考条文になる。
民法206条
所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する。
以上を前提として、この所有権に話を移す。
この所有権が近代国家の主権と同じ構造をしているということは以前のメモで述べた通りである。
そして、近代国家以前のヨーロッパには近代国家に存在する絶対的な主権はなかった。
この主権に関しては次のメモが参考になる。
その結果として、というわけではないが、近代国家前のヨーロッパにも私的所有権はなかった。
私的所有権に関する資本主義と伝統主義の衝突の具体例として、本書はアメリカのハワード・ヒューズの例が掲載されている。
これは次のようなお話である。
ハワード・ヒューズの父親は削岩機会社で大成功を収めたが、ハワードが18歳のときに亡くなった。
そこで、ハワードが父親の会社の権利・財産を継いだ。
ところが、ハワードはその会社を売り払って映画会社を立ち上げようとする。
周りの親族はこれを見て大慌て、「若旦那の暴挙」と大反対をし、親権を発動して裁判になった。
もっとも、アメリカは資本主義の国、「遺産をどう使おうが当人の勝手(所有権の絶対性)」という理由によりハワードが勝利した。
その後、ハワードは映画会社を成功させ、事業をどんどん拡大させていくことになる。
これが資本主義のモデルタイプである。
この背後には、「資本主義では資本家(所有者)が決定の責任とリスクを負う」というものがある。
もっとも、これをみて「うーん」と思う日本教徒が多いだろう。
その直感は決して間違いではない。
というのも、資本主義の国でなければこのようなことは基本的には生じないのだから。
例えば、伝統主義の国で、かつ、所有と経営が分離している場合、若旦那は所有者だが決定しない、また、経営者が従前の伝統に従って削岩機会社の経営を続けることになるのだから。
本書はここで資本主義に必要とされる「創造的破壊」について触れられている。
これについては次のメモが参考になる。
そして、資本主義においては「革新(=創造的破壊)」こそ資本主義の命である。
これがなければ、資本主義は瓦解してしまう。
この「革新」という資本主義の命を絶やさないため、抽象性と絶対性の両性質を兼ね備えた私的所有権とそのような所有権を持った資本家の存在が重要になる。
何故なら、所有なき経営(委任を受けて業務を行う取締役をイメージせよ)においては、資本主義体制であっても会社の前提を崩すことはできないのだから(それは委任の範囲外である)。
また、所有権に抽象性と絶対性が備わった結果、所有権が形式合理化(計算可能化・数学化)した。
その結果、資本家も自分の決定に対する合理的計算が可能となって、合理的経営ができるようになったのである。
しかし、このような所有権は資本主義以外ではなかった。
もちろん、それは日本もヨーロッパも変わりはない。
本書では、鎌倉時代に作られた貞永式目の「悔還し権」が紹介されている。
また、中世ヨーロッパでも上級所有権・下級所有権のような概念があり、土地の譲渡や相続においては多数の当事者がかかわることになった。
この点は以前のメモで述べたとおりである。
もちろん、所有権の絶対化が適さない例も現実に存在する。
それゆえ、現代においても一定の例外がある。
例えば、共有・合有・総有といった複数の所有者がいる場合。
あるいは、地上権・永小作権・入会権・地役権といった物権。
ただ、これらは例外として扱われている。
そしrて、私的所有権の特色はいわゆる「交換対象としての商品」や「財貨」の特色と同様である。
このことを鋭く指摘したのがかのマルクスである。
そして、商品においても絶対性や抽象性といった特徴を挙げることができる。
では、「商品の絶対性」はどこから来たのか。
それは商品交換から生まれたと言われている。
そのため、資本主義においては商品交換が生命線であり、これがストップすれば資本主義はストップすることになる。
そのことは、資本主義の発生条件のうちの客観的な部分(大量の資本・高度な技術・商業や流通の発達)からもわかる。
また、商品には貨幣や物品だけではなく、証券・サービス・労働・情報が含まれている。
このことから、商品にも所有権の抽象性の要素があることがわかる。
また、商品の流通を考える際には、「商品の資本主義的生産」と「商品の資本主義的消費」の要素が含まれている。
資本主義的というとわかりにくくなるが、具体化すると「利潤の最大化のための生産」と「効用の最大化の消費」という言い方にできる。
ぶっちゃけて言えば、「利益を高めるために合理的に生産して販売しよう」・「快楽や目的をより達成得られるようにするため合理的に購入して消費しよう」となる。
イメージするなら、「製造過程の無駄を省いて利益を上げる」とか「同等の商品を安く買って消費する」といったものがいいだろう。
この点、イメージ(安く買う、利益をあげる)から逆算した場合、商品の流通における資本主義的生産・消費に対して「こんなの当然ではないか」と考えるかもしれない。
しかし、「商品の資本主義的生産・消費」は市場の自由がなければ成立しない。
さらに言えば、市場がレッセ・フェールだから当然なのである。
そして、市場の自由は資本主義だからこそ達成されたのであって、すべての経済においてそうなのではない。
このことは、現在の弱者保護のための福祉的ルールを見ればイメージできるが、ここでは、中世のギルドの例が挙げられている。
例えば、中世のギルドは各企業を厳しく統制していた。
その結果、ギルドのルールを無視して利潤の最大化を目指すことができなかった。
あるいは、フランス革命前夜のフランスでも工業の統制が行われていた。
このような例は枚挙にいとまがない(徳川時代の日本も一種の「専売」制度があった、この点はいずれ、山本七平氏の書籍の読書メモで確認したい)。
以上をまとめると、我々が一種の当然と考えている「利潤・効用最大化のための生産・消費」は資本主義だからできたことであって、資本主義以外の社会であればギルドや慣習や政府が人民の所有権に介入しまくっていた。
その結果、決められたルール以外の使用ができず、合理性追求など不可能だったのである。
ところで、本書では「マイナスの所有の数学化」というタイトルのコラムがある。
このコラムは数学と経済学のイメージの双方に役に立ちそうなので考えてみる。
数学においてマイナスの概念は導入しがたいかもしれない。
しかし、資本主義においてマイナスの概念はある程度すんなり入る。
というのは、具体的なイメージが容易だからである。
例えば、「財産がマイナス」とは「所持している財産よりも借金が多い」とイメージできる。
また、「所得がマイナス」とは「利益よりも損失が多い」とイメージできる。
もちろん、そんな事業は長続きしないだろう(道楽目的や持ち出し覚悟のボランティアでもない限り)。
また、このような事業を継続するよりは別の仕事をした方がいいとも考えられる。
よって、例外的な場合に該当するであろうが。
さらに、「マイナスの価格を持つ商品」も「お金を払わなければ引き取ってもらえない商品」とイメージできる。
ところで、これらの「マイナス」概念も商品の抽象化・絶対化から発生している。
というのも、所有と占有が分離していなければ(商品の抽象化が成立しない)、マイナスの所有はあり得ないのだから。
この「所有概念の数学化」は時代を経るにしたがって成長・発展した。
まずは、プラスとマイナスの概念の導入からである。
加減概念は商品交換からスタートし、貨幣を経て一般化した。
というのも、商品を交換するためには、交換の基準が必要となるからである。
しかし、価値が一元的に指標化できるとは結構すごいことである。
さらに言えば、米ならば米の範囲で同一と言われ、数量計算されうることももっと驚くべきことかもしれない。
これらは我々が当然だと思っている部分でもあるが。
以上、所有権の絶対性について確認した。
ここから、所有権の抽象性についてみていくわけだが、相応の分量になってしまったので、続きは次回に。