薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

司法試験の過去問を見直す9 その1

 これまで「旧司法試験・二次試験・論文式試験憲法第1問」を見直してきた。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 これまで見てきた過去問は、平成3年度・4年度・8年度・12年度・14年度・15年度・16年度・18年度の8問。

 今回から平成11年の憲法第1問を見ていく。

 

 今回のテーマは「受刑者の人権」である。

 前々回(平成14年)が「『少年』のプライバシーと知る権利」、前回(平成16年)が「前科者のプライバシー(と知る権利)」がテーマであったが、今回も「罪を犯した人の人権」がテーマになっている。

 平成11年から16年までの間にこれだけ集中するとは興味深い。

 

1 旧司法試験・論文試験・憲法・平成11年第1問

 まず、問題文を確認する。

 もっとも、法務省のサイトに問題文がなかったため、私が受験当時に用いていた教科書(具体的には次のリンクのもの、ただし、版は当時のもの)からお借りした。

 

 

(旧司法試験・二次試験・論文式試験・平成11年度・憲法第1問)

 受刑者Aは、刑務所内の処遇改善を訴えたいと考え、その旨の文章を作成して新聞社に投書しようとした。刑務所長は、Aの投書が新聞に掲載されることは刑務所内の秩序維持の上で不相当であると判断して、監獄法第46条第2項に基づき、文章の発信を不許可にした。

 右の事案に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。

(問題文終了)

 

 問題文中の「監獄法第46条」というのは平成11年当時の法律である。

 この法律は2002年ころに起きた事件をきっかけに大幅に改正され、現在では「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」となっている。

 当時の条文と現在の対応する条文を掲げると次の通りとなる。

 また、当時の条文についてはこちらのサイトのものをお借りしている。

 

http://roppou.aichi-u.ac.jp/joubun/m41-28.htm

 

(旧)監獄法第46条

第1項 在監者ニハ信書ヲ発シ又ハ之ヲ受クルコトヲ許ス

第2項 受刑者及ビ監置ニ処セラレタル者ニハ其親族ニ非サル者ト信書ノ発受ヲ為サシムルコトヲ得ス但特ニ必要アリト認ムル場合ハ此限ニ在ラス

 

(現在)刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律

第126条 刑事施設の長は、受刑者(未決拘禁者としての地位を有するものを除く。以下この目において同じ。)に対し、この目、第百四十八条第三項又は次節の規定により禁止される場合を除き、他の者との間で信書を発受することを許すものとする。

第128条 刑事施設の長は、犯罪性のある者その他受刑者が信書を発受することにより、刑事施設の規律及び秩序を害し、又は受刑者の矯正処遇の適切な実施に支障を生ずるおそれがある者(受刑者の親族を除く。)については、受刑者がその者との間で信書を発受することを禁止することができる。ただし、婚姻関係の調整、訴訟の遂行、事業の維持その他の受刑者の身分上、法律上又は業務上の重大な利害に係る用務の処理のため信書を発受する場合は、この限りでない。

 

 また、本問に関連する憲法上の条文は次のとおりである。

 

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

第21条1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

第34条 何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。

 

 さらに、関連判例として、次の判決がある。

 

平成15年(オ)422号損害賠償請求事件

平成18年3月23日最高裁判所第一小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/855/032855_hanrei.pdf

 

平成7年(行ツ)66号発信不許可処分取消等事件

平成11年2月26日最高裁判所第二小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/789/062789_hanrei.pdf

 

昭和52(オ)927号損害賠償請求事件

昭和58年6月22日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/137/052137_hanrei.pdf

(いわゆる「よど号ハイジャック新聞記事抹消事件」)

 

 

 典型的な人権問題(自由を行使しようとしたら制限がかかった事案)である。

 そこで、最初に「制限された行為が憲法上の権利にあたりうる」ことの確認を行う。

 この確認は原則論として極めて重要だから。

 

2 憲法上の権利の認定

 本問は、「受刑者Aが刑務所から文章を発信しようとしたら、刑務所長からそれを不許可にされた事案」である。

 そして、Aが生物的に見て「人間」ではない、日本人ではない(日本国籍がない)といった事情を本問からうかがうことができない。

 そのため、憲法学的に見た場合、Aの人権主体性については争いがないことになる日本教から見た場合の話は別途考える)。

 

 つまり、Aの文章の発信が憲法21条1項の「表現の自由」によって保障されうるので、刑務所長の不許可処分はその「表現の自由」の制約にあたる

 

 以上、原則論を確認した。

 あっさりと終わったが、重要なのでこの点は確認しなければならない。

 

 

 ただ、人権問題のメインはいわゆる「正当化」の部分である。

 そこで、この「正当化」についてこれから検討していくわけだが、それらについては次回に。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 8

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

8 第2章の第1節を読む

 第2章のタイトルは「数学は何のために学ぶのか_論理とは神への論争の技術なり」

 そして、第2章の扉絵に登場するのがアリストテレスである。

 アリストテレス形式論理学の礎を築いた古代ギリシャの偉人な哲学者である。

 

 第1章では、歴史を通じて数学の重要性についてみてきた。

 第2章では、論争と論理学について詳しく見ていくことになる。

 

 そして、第1節のタイトルは「論理とは論争の技術なり_東西の論争技術」

 この点、論理の存在意義(目的)は「論争における勝利」にあることを示している

 もっとも、社会における論争の相手によって論争の価値・中身も変わる。

 そこで、様々な社会の論理や論争について見ていくことになる。

 

 

 そもそも、数学は何故学ぶのか。

 本書では、「予備校講師にして数学と経済学の参考書で有名になった」細野真宏氏の答えが紹介されている。

 つまり、「数学を勉強することの意義は論理的思考力を身に着けるためである」と。

 そして、「論理性から見た場合、数学・経済学で要求される論理性は同種のものである」とも。

 

ja.wikipedia.org

 

 では、「論理」とは何を意味するのか。

「論理」とは論争のための技術を指す。

 そして、この「論理」こそ(近代)数学の生命線である。

 

 さらに、ヨーロッパでは論争の相手が神(クリエーター)であることは前章でみてきた。

 本章はここから話を進めていくことになる。

 

 

 ここから話は国際法に移る。

 現在の国際法はヨーロッパから発生した。

 というのも、ヨーロッパではラテン語という共通語とキリスト教という共通の宗教をもっていたからである。

 この点、中世ヨーロッパから絶対国家が出現したことは、これまでの読書メモでみてきたとおりである。

 この過程で、自然法とローマ法の伝統の中から人間の法としても国際法が育っていった。

 

 その国際法の理論の体系化を行ったのがオランダのグロティウスである。

 グロティウスの著名な書籍として戦争と平和の法』である。

 そして、ドイツの三十年戦争講和条約たるウェストファリア条約によって主権国家国際法の概念ができた。

 

 

 この点、国際法のきっかけは「戦争」にあったわけだが、当時の戦争の悲惨さを見れば無理もなかった。

 前述のドイツの30年戦争は、ドイツ人口の3割近い人口が殺しつくされたといわれているからである。

 

 そのため、国際法の中心は戦時国際法である。

 そして、戦争の惨禍を少しでも軽減させるために戦時国際法が発達していった。

 

 そして、各主権国家戦時国際法を利用して相手国の戦争行為を批判していくようになる。

 また、国家間の論争の際、国際法が盛んに用いられるようになる

 

 なお、小室先生はここで「日本は例外である」と続けていく。

 なんと、太平洋戦争が終わって間もないころ、国際法を講義していた横田喜三郎教授は戦時国際法は雲散霧消してしまい、もはや存在しない」と主張してしまった。

 また、彼の国際法の教科書から戦時国際法の部分が完全に欠落していた。

 この影響ゆえか、日本では戦時国際法についてちんぷんかんぷんになってしまうことになる。

 まあ、日本は憲法9条日米安全保障条約がセットであり、かつ、日米安全保障条約は対米従属を前提とするため、ちんぷんかんぷんであっても大問題にならなかったのだが。

 

 以上の西洋の論争の歴史、つまり、論理の発展をまとめると次のようになる。

 

1、モーセ預言者の神に対する古代イスラエル人の弁証

2、古代アテネにおけるデモクラシーと裁判を通じた形式論理学への昇華

3、近代国際法による論理と論争技術の発展 

 

 もっとも、偉大な文明を築いた社会はヨーロッパだけではない。

 そこで、以下、別の世界の論理についてみていく。

 

 

 ここから題材は中国に移る。

 この点、日本とは異なり、中国では論争・討論・説得が重視されている。

 雄弁家が立身出世を極めたという話は中国では少なくない。

 また、君主の側から見ても、有能な人間を用いて政治を行えば、効率の良い富国強兵が可能である。

 そして、能力の判定の際には、遊説の士と君主(と役人)との間で論争・討論・説得が行われる。

 

 その結果、ヨーロッパだけではなく、中国でも論理が極度に発展した。

 もっとも、ヨーロッパと異なり、中国の論理は形式論理学まで発展しなかった。

 中国社会では揣摩臆測の論理・情誼をたかめる論理が発展していったのである。

 その具体的な論理の形を春秋戦国時代の歴史からみてみる。

 

 春秋戦国時代、中国は多くの国に分かれて争っていた。

 そのため、各国の君主はこぞって有能な人材を集めていた

 そして、有能な人材を得た国は栄え、そして、失った国は亡ぶ。

 その辺は日本の戦国時代と同様である。

 

 そのため、庶民(人民)も立身出世して大臣や将軍になるために、他国に赴いて仕官した。

 当時の中国は階級社会ではあり、下層民で貧困にあえいでいた庶民も少なくなかった。

 もっとも、その庶民にも戦国時代では大抜擢のチャンスがあった。

 この辺も日本の戦国時代と同様である。

 

 もっとも、日本では槍働きで立身出世することはあっても弁論を重く用いられることはなかった。

 日本では、弁論が優れていることは口先だけに過ぎないことであって、軽蔑の対象だったのである。

 他方、中国では、弁論が優れた者が抜擢されることがあったのである

 その意味で「舌さえあればなんとかなる」という命題が成立したのである。

 つまり、遊説家は弁論を用いて、君主の心を忖度して論争を仕掛けてこれを説得する。

 説得に成功すれば、出世して重用される。

 もちろん、説得を聴いてくれる君主を探すのは困難であるし、説得に失敗すれば刑罰を受け、または殺されることがあるとしても。 

 

 その例として本書に取り上げられているのが遊説家の蘇秦張儀である。

 蘇秦は雄弁術を学んだが、はじめは散々失敗した。

 蘇秦の妻は蘇秦に遊説をやめるように説得したが、蘇秦は「自分の舌がまだあるなら、十分である」という趣旨のことを述べたという

(この辺は司馬遷の『史記』の「張儀列伝第十」に詳しい)。 

 その後も、蘇秦は遊説と放浪を繰り返し、最終的には、燕の文侯に熱弁をふるう

 この蘇秦の熱弁は「燕が侵略されず、平和でいられた理由の解明」を内容とするもので、素晴らしいものであった。

 そして、蘇秦は燕で仕えることになる。

 さらに、蘇秦は秦以外の各国に行って、各国が同盟して秦に対抗することを提案し、六国による大合従を結成させるのである

 結果、蘇秦は六国の宰相になる

 洛陽の貧乏人だったころと比較すれば、雲泥の差である。

 

 また、張儀も弁論を駆使して出世した人である。

 蘇秦張儀にはかなわないと認めていたほどの雄弁家である。

 張儀蘇秦の弁論によって作り上げたこと六国合従を解体し、秦を盟主とする連衡を作り上げた(『史記』の「張儀列伝第十」)。

 二人が雄弁で作り上げた合従連衡は今でも国際政治における高名な術策を示す言葉になり、張儀蘇秦の術」と言えば、説得術の極限を示す言葉になっている。

 それくらい、二人の討論術は素晴らしいものだったのである。

 

 

 以上のように、中国で論理が重視されていたことは、蘇秦張儀の二人が『史記』に残っていることからもわかる。

 このように、中国でも弁論術が大きな役割を果たしていた。

 この点では、古代ギリシャと同様である。

 

 では、この中国の雄弁術・討論術はどのようなものであったか。

 まず、中国の討論術は「説得術」であった

 つまり、目的は「説得」であって論破ではない

 君主を納得させ、遊説家たる自分の説を採用させようと考えさせることが目的であった。

 その意味で、中国の討論術は政治権力と大いに関係があった。

 

 この点は、ギリシャやインドの討論とは異なることになる。

 何故なら、インドやギリシャでは政治権力とは無関係だった、距離があったことから、純粋に哲学を追究できる階層(人々)が生まれたからである。

 それに対して、中国では哲学を追究する階層は産まれなかったからである。

 中国では論争は神ではなく、君主(人)を納得させる道具だった、ということになる。

 

 では、どうすれば権力者たる君主の心をつかむことができるのか

 そのためには、君主と深い信頼関係を結ぶこと、つまり、「深い情誼」ともいえるべき関係を結ぶことが重要になる。

 この点、中国では昔も今も「情誼の深さ」が人間関係における極めて重要な要素である。

 それゆえ、君主を説得する際にもこの情誼の深さが重要になる

 というのも、情誼が深ければ説得も容易であるし、その逆も当然だから。

 韓非子は歴史を参照しながらこの点を強調している(『韓非子』より)。

 

 もちろん、君主の進言の困難さを「説難篇」において説明している。

 そのエッセンスを述べれば、「すべて説くことの難しさは、君主の心を見抜き、それに合わせて説得すること」となる。

 本書では、「君主の心を見誤ったがために、正しい内容の進言が裏目になるケース」を二つ取り上げられている。

 

 ここまで述べたことから何が分かるか。

 この点、古代ギリシャアリストテレスは次のことを述べている。

 

1、あることが『正しく、かつ、正しくない』ことはあり得ない(矛盾律

2、あることが『正しい』か『正しくない』以外の選択肢はない(排中律

3、『正しいこと』は『正しい』(同一律

 

 そして、この3つこそ形式論理学の基本である。

 しかし、これまでみてきた中国の論理・論争をみてみると、中国では真か偽かは一義的・客観的に決まっているわけではないことになる。

 何故なら、君主の心によっていかようにも変わりうるのだから

 このことから、韓非子は「形式論理学に対する否定」を明確に述べていないとしても、韓非子の論理(説得)の趣旨は形式論理学の否定になる。

 つまり、古代中国においてとある命題(文章)の成否(真偽)は、両者の情誼の深さと話し手の聞き手の心に対する理解度、というとある命題の真偽はその内容と関係ないところで決まることになる

 

 以上をまとめれば、中国では論理の目的が違うため、ヨーロッパで発展した形式論理学が中国で発展しなかったことになる。

 

 

 以上、ヨーロッパと中国についてみてきた。

 では、日本についてはどうか。

 この点、ヨーロッパが「神に対する論争」を重視し、中国が「人(君主)に対する説得」を重視するならば、日本は「論争それ自体」を軽視・無視していることになる。 

 

 この点、日本人(日本教徒)は口喧嘩を本番とみなさず、手を出したほうが早いと考える傾向がある。

 その観点から日本人以外の口喧嘩のひどさを見ると、「これだけ罵詈雑言を重ねて、本番(手を出すとき)になったらどうするのか」と心配になる。

 だが、心配はない。

 彼らから見れば、「口喧嘩が本番であって、日本教徒が想定する本番(暴力による喧嘩)がない」のだから。

 逆に、「手の方が早い」などと言い出せば暴漢扱いされてしまう。

 

 本書では、日本の大宰相の一人、伊藤博文を暗殺した安重根の話が紹介されている。

 本書によると、安重根は日本の元勲の一人たる伊藤博文を暗殺したにもかかわらず、当時の日本人に安重根を尊敬する者が少なくなかった。

 それを示すエピソードを本文から掲載(引用)する。

 

(以下、本文64ページから引用)

 満鉄で筆頭理事で伊藤の寵愛を受けていた田中清次郎は、「あなたが今まで会った世界の人々で誰が一番偉いと思うか」との問いに対して、言下に「それは、残念であるが、安重根である」と言い切った。

(引用終了)

 

 本書ではそのエピソードは次の書籍から引っ張った旨書かれている。

 

 

 当然だが、寵愛された人、しかも、日本の近代化の立役者を殺した安重根が憎くないはずがない。

 にもかかわらず、田中は上のように述べた。

 

 また、監獄に拘束された安重根の待遇は丁重だったらしい。

 極刑にならないはずがないとはいえ、その待遇は国士と言うべきものであった。

 他にも、安重根に接した者たちが彼に敬意を示すエピソードがあるらしい。

ばんなそかな?」というべきか。

 

 では、何故、そのような事態となったのか。

 結論から述べれば、安重根の論理と態度が見事だったから、ということになる。

 この点、安重根の主張の要旨は「伊藤暗殺の理由は韓国の独立のみならず、日本のためである」というものであった。

 これが詭弁か否かはさておき、彼の主張を見てみよう。

 

1、日露戦争の宣戦布告の詔勅において明治天皇「日本の戦争目的は韓国の独立を全うして、東洋平和を守ることにある」と宣うた。

2、この詔勅は韓国人を感激させ、対日協力に向かう韓国人もいた。

3、他方、伊藤は日韓併合を目的として様々なことを行い、韓国の独立を奪って、東洋の平和を乱した

4、3における伊藤の行為は1に述べた詔勅に反している。

5、それゆえ、私は逆賊伊藤を暗殺した。

 

 この主張を額面通り受け取れば、安重根は勤王の意志と瓜二つ、ということになる。

 安重根は最終弁論で以上のことを陳述した。

 明治維新の幻影が残っているこの時代、彼の論理と暗殺実行は一定の日本人の尊敬を集めた。

 また、日本人は論理を重視しないが、納得できないものではなかった。

 この一貫した弁論こそ安重根に敬意が集まった理由である。

 

 ただ、日本人は生命を捨てて人を討つとき、弁論や論理を使うことがない。

 その点は、大きく異なる。

 

 また、伊藤博文日韓併合を積極的に望んでいなかった(統監就任時は否定さえしていた)という見解がある。

 とはいえ、当時の伊藤博文は韓国統監であった以上、意に染まぬ政策を行ったからといってその責任が免れるわけではない。

 この辺も、日本とそれ以外で評価が分かれる点になるのかもしれない。

 

 

 本節の最後は日韓関係の問題を論理の点から見ていく。

 前に述べた通り、中国と中国と儒教の影響を大きく受けた韓国は論理を重視する。

 他方、日本は論理を重視しない。

 その結果、要らぬ誤解の最大の根源になる

 例えば、日韓併合の際、日本は「朝鮮を征服したのではなく、対等に合邦した」と発言した点が挙げられる

 もちろん、不平等条約を改正して列強の一員の座を占めた日本と韓国が実質的に対等ということはあり得ない。

 論理を重視しない日本なら、上の対等合邦の発言は、「僧の嘘は方便と言い、武士の嘘は武略と言う」で片付くことである。

 また、インドを植民地にする際、イギリスはこんな発言はしないし、ほのめかしもしなかった。

 それゆえ、インドはイギリスの統治に苦しんだが、余計な発言に振り回されることはなかった。

 これに対して、韓国の場合はそうはならなかった。

 韓国人は日本人と対等という言葉に感激したが、これが嘘であるとは思わなかった。

 

 客観的事実を見れば、イギリスのインドに対する態度その他と比較すれば、日本の韓国に対する態度は極めて寛大であったと言われている。

 義務教育・近代化のインフラ整備、その他。

 しかし、この客観的事実と上の発言を比較すればどうか

 ちなみに、上の発言を伺わせる詔勅ウィキソースから拾ってきたので、参照してみる。

 

(以下、日韓併合に関する明治天皇詔勅の一部を引用、協調部分は私の手による)

 韓國皇帝陛下及其ノ皇室各員ハ倂合ノ後ト雖相當ノ優遇ヲ受クヘク民衆ハ直接朕カ綏撫ノ下ニ立チテ其ノ康福ヲ增進スヘク產業及貿易ハ治平ノ下ニ顯 ナル發達ヲ見ル至ルヘシ而シテ東洋ノ平和ハ之ニ依リテ愈々其ノ基礎ヲ鞏固ニスヘキハ朕ノ信シテ疑ハサル所ナリ

(以下、引用終了)

 

ja.wikisource.org

 

 上の発言を比較すれば、日本政府の具体的にやった他の列強に見られなかった近代化へのインフラ整備は「自分たち(日本人)の発言した内容の実践(履行)」で終わってしまう。

 それどころか、日本と韓国で差が生じれば(これはなくなることはないと言ってよい)、「発言内容と違うではないか(嘘ではないか)」ということになってしまう。

 ここにこそ、問題の根があるように考えられる

 なお、アメリカのジョセフ・グルー(太平洋戦争前のアメリカの駐日大使)はこの点について「日本人の驚嘆すべき自己欺瞞の能力」と述べている。

 

 

 もちろん、日本人同士であれば、結果的に差別をすることになっても、「差別して当然」といったことは絶対に言わない。

 また、日本人(日本教徒)はこの態度で外国ともやれると勘違いする。

 他方、イギリスがムガル帝国を滅ぼしたとき、インド人とイギリス人が対等になるわけがないし、また、このような発言をすることもない。

 アメリカも然り。

 逆に、「対等だ」などと発言するならば、それを対等な状態を実現する決意のあるときだけである

 上の結論は論理的な帰結であり、論理を重視するならどこでも同じ結論になる。

 しかし、日本はその論理を重視しない国である。

 それゆえ、発言と態度が一致していなくても、さらに言えば、強者の発言と態度が一致していなくても大きな問題にならない

 それが、日本以外の反発を招く。

 

 著者は、「論理に日本人の無知と言動が、外国人の不信を増幅させる」と述べている。

 そして、「日本人の論理に対する無知による損失ははかりしれない」とも。

 

 

 中国とヨーロッパの論理の違いは非常に参考になった。

 また、日本とそれ以外の違いにも。

 今後も本書から論理に対する態度の違いその他を勉強していきたい。

 

 では、よいお年を。

司法試験の過去問を見直す8 その7(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成16年度の憲法第1問についてみていく。

 なお、今回が最終回である

 

 この点、前回までは憲法的な観点で問題をみてきた。

 最終回の今回は、憲法以外の観点から問題をみていく。

 

7 「憲法上の権利の制約」から「制約の正当化」という手順

 平等原則違反や政教分離違反の問題を除けば、人権に関する憲法上の問題の検討方法は次の手順になる。

 

1、本問で「制約」されている個人の自由が「憲法上の権利」になりうることの認定

2、1を前提に本問自由に対する制約が正当化されるかの検討

 

 かの『憲法上の権利の作法』(本のリンクは次の通り)で用いられている「三段階審査論」の言葉を借りれば、1で「『保護範囲』と『侵害』」を、2で「正当化」を論じることになる。

 

 

 旧・司法試験(もちろん、今の司法試験も)の憲法人権の答練(答案練習会の略、過去問に準じた論文式の問題を本番と同じ時間配分で解く演習のこと)の際、この手順を外して書いたことはおそらくない。

 また、1が人権不可侵の原則、2が人権不可侵の原則の例外と考えれば、1と2で「原則と例外」について考えていることになる。

 この「原則と例外」の発想は司法試験のどの科目にも共通するものだから、非常にオーソドックスな発想である。

 もちろん、この手順は最高裁判所の判決でも見られるし、いわゆる司法試験委員会の「採点実感」でも見られる。

 

 

 しかし。

 この「原則と例外」という発想それ自体が日本教に適合するのか、というのが私が気になった問題である。

 この意味については、次の書籍の記載が参考になる。

 

 

 詳細は将来の読書メモに譲るが、本書の第3章第1節によると日本人(日本教徒)に数学がなじまない理由をワンワードで説明すると、形式論理学を否定する発想を持ってしまったから」だそうである。

(近代)数学は形式論理学を前提としているが、同様に、近代法もその背景に形式論理学ある(現実にあわせるために多少相対化されているとはいえ)。

 ならば、近代法の一つたる憲法憲法的思考方法と日本教との相性もよくないと推測することは不自然ではない。

 

 正直、1と2を分けた議論を見ていれば、日本教徒は「なんで1と2について順を追って議論するんだ。2の検討だけで十分ではないか。まどろっこしいではないか」と考えるかもしれない

 もちろん、2の議論をする際、1の結論は一定の重要性があり、2に影響する。

 それゆえ、1をすっ飛ばして2から議論を始めると空中戦または疑似的宗教戦争になる(「人権」と「公共の福祉」の文言がストレートに衝突して、一方を恣意的に強調しあう空中戦になる)とか、その場の空気で簡単に結論がひっくり返る、といった事態になってしまうことが容易に推測されるのだが。

 

 なお、「原則と例外を分けるのはどうか(まどろっこしい)」という発想は他の場所でも見られるのではないかと考えられる。

 例えば、「規範(法)と感情(道徳)」を分けるところ、「事実の認定と評価」を分けるところで。

 この辺をさらに深く見ていけば、『「空気」の研究』での述べた多神教・状況倫理の日本と一神教・固定倫理の近代の対比というものに突き当たるかもしれない(この点に関する読書メモは次の通り)。

 

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 こういう観点から考えても、憲法日本教は相性が悪いなあ」と考えるのである。

 もちろん、事大主義と立憲主義の相性の悪さとは別で。

 また、それを「悪い」というつもりは全くない(しょうがないので)けれども。

 

8 違憲審査基準の審査密度について

 憲法の枠内で考えた場合、本問法律の違憲審査基準はプライバシー権の制限に対しては厳格な基準に、知る権利の制限に対しては緩やかな基準になった。

 これは最高裁判所判例を踏まえながら組み立てたものである。

 

 では、日本教的に考えた場合、本問法律の違憲審査基準はどうなるのだろうか?

「そのときの『空気』を征した権力者の意向による」という事大主義的な結論がもっとも無理のない結論のような気がするが、敢えて踏み込んでみる。

 

 本問法律でバランスが求められている国民の権利は、自分の子供を犯罪から守るための親権者の知る権利と本問前科者たちの前科情報を秘匿する権利(プライバシー権)である。

 となると、「過去に犯罪を犯した者のプライバシーなど保護に値しない。常習犯ならなおさら」とか「子供のためなら国民(前科の有無を問わない)のプライバシーなど気にしなくてどんどん公開してよい」というような「空気」ができ、これまで検討してきた具体的な違憲審査基準の審査密度が全く反対になる、ということがありうるかもしれない。

 

 どうなのだろう。

 この点、破産者マップ事件の際にはプライバシー権の方に軍配が上がったように見える(あくまで私の印象に過ぎず、現実にはわからない)。

 もっとも、そうなったのは多くの国民にとって他人事であり、かつ、無関心でいられたから、ともいえる。

 本問法律の場合、子供を持つ親にとって極めて切実な問題になる。

 ならば、逆の方向に突っ走る可能性も否定できないように考えられる。

 

 なお、この場合に個人情報保護法が云々といってもあまり意味がないと考えられる。

 過去において「空気」が「反軍演説」もろとも帝国議会の発言の自由を封じたこと、ロッキード事件刑事訴訟法認められていない司法免責まがいのことを認めたことなどを考えれば、法律如きで「空気」を止められるとは到底思えないからである(この辺の詳細は『痛快!憲法学』の次のメモ参照)。

 

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 とはいえ、正直「わからない」以上のことは言えない

 より知りたければ、これまでの具体的な事件について「空気」の状況を確認しながら、具体的に検討しないといけないのかもしれない。

 

 

 以上で本問の検討を終了する。

 次回は、平成11年度の過去問を検討してみようと考えている。

 ちなみに、平成11年度のテーマは受刑者の人権。

 今回、ここで書いた問題について再び考えることになるかもしれない。

司法試験の過去問を見直す8 その6

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成16年度の憲法第1問についてみていく。

 

6 本件情報を求める側から見た場合の憲法上の問題点_後編

 前回から、公開を求める親権者側から見た場合の憲法上の問題の検討を始めた。

 つまり、本問法律をプライバシー権(前科情報を公開されない自由)の制限ではなく、知る権利(政府・自治体の情報を知る権利)の制限から検討することにした。

 

 そして、前回は「『知る権利」の制約」という観点から見て、本問法律が合憲になることを確認した

 この結論は、「情報の公開を求める権利・自由」の請求権的性格を考慮すれば、当然の結果ともいえる。

 もっとも、この法律を見れば、「何故、13歳未満の親権者に請求権者を限定するのだ。子供に対する危険の防止という観点を考慮すれば、13歳未満と13歳以上で差を設ける理由はないではないか。よって、本問法律は差別している」という疑問を持つことは可能である。

 そこで、今回はこの観点から検討を行う。

 つまり、本問法律は平等原則(憲法14条1項)違反ではないか、という憲法上の問題についてみていく。

 

 もっとも、憲法に関する基本的な内容は次のメモと同じである。

 そこで、基本的な内容は簡単に述べるにとどまる。

 

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 つまり、憲法14条1項は「法の下の平等」を定めている。

 そして、「法の下の」とは、法適用の平等だけではなく、法内容の平等をも意味し、立法権もその拘束を受ける。

 また、「平等」とは、形式的・機械的平等ではなく、実質的・相対的平等を意味する。

 よって、憲法14条1項は、法律の内容に対する平等を要求している一方、不合理な差別を禁止しているのみであり、合理的な区別は許容している、と。

 

 

 では、本問法律は合理的な区別によるものと言いうるか。

 具体的な違憲審査基準が問題となる。

 そして、次のメモで見てきた通り、ここで審査基準を決めるための具体的な要素は、①14条1項の後段列挙事由に該当するか否か、②差別・区別によって制限される権利・自由の内容、③憲法上、立法裁量の大小を基礎づける条文の3点である。

 

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 まず、親権者が監督する子供の年齢は14条1項の後段列挙事由に該当しない

 この点、親権者という点が「社会的身分」に該当するのではないかと疑問を持つかもしれないが、ここで問題なのは親権者か否か、ではなく、13歳以上の子供を持つ親権者と13歳未満の子供を持つ親権者の違いである。

 ならば、「社会的身分」の問題であるということは難しいのではないかと考えられる。

 

 次に、制約される権利の内容を見ると、知る権利のうちの情報公開請求権に属するものである。

 この権利が表現の自由(民主主義の前提となる重要な権利)から派生したものであるであるが、情報公開請求権それ自体は請求権的性格があり、立法による調整が不可欠である以上、その範囲で裁量があることは前回述べたとおりである。

 ならば、②情報公開を求める自由という制限されている権利・自由の重要性・要保護性はやや下がると言わざるを得ない

 

 さらに言えば、再婚禁止規定では憲法24条2項が立法裁量を制約する方向で働いていたが、③情報公開の請求の場面においてはこれに準じる条文がない

 

 以上を考慮すれば、違憲審査基準を厳格にする事情はなく、緩やかな審査基準を用いるべきであると考えられる。

 具体的には、いわゆる合理的関連性の基準(①目的が正当、②手段に合理的関連性がある場合に合憲)によって判断すべきものと考える。

 

 

 以下、あてはめを行う。

 本問法律が区別を設けた目的は、本件情報の請求権者を制限することによって、本問前科者たちの前科情報の拡散を防止することにある。

 一般に、前科情報が国民にとって他人に知られたくない情報であること、この情報の公開を望まない自由がプライバシー権の一内容をなすことを考慮すれば、区別の目的は正当である。

 また、情報の請求者を限定しなければ、本件情報が拡散するおそれ(抽象的な危険)があることを考慮すれば、請求者の範囲を制約することは区別の目的を促進するものである。

 そして、刑法では13歳未満の子供の性的な同意が無効になっている(刑法176条・177条)ことを考慮すれば、13歳未満の子供と13歳以上の子供で保護の必要性の程度が質的に変化することになる。

 とすれば、13歳未満の子供を持つ親権者に限って請求権を認めるという手段は法的に見て不自然なものではない。

 以上を考慮すれば、区別の手段は目的との関係で合理的関連性があると言える。

 

 したがって、本問法律は合理的な区別と言える。

 以上より、本問法律は平等原則との関係では合憲である。

 

 

 現実問題、前科情報を求める側から見て、本問法律を違憲と主張するのは厳しい。

 よって、こちら側の問題はプライバシー権の問題と比較すれば優先順位が下がる。

 また、プライバシー権との関係で本問法律を違憲にすれば、この部分は検討する必要がない。

 さらに、プライバシー権の問題を差しおいて知る権利の問題を手厚く論じれば、それは積極ミスになる。

 とすれば、こんなところになるであろうか。

 

 

 以上、憲法的観点から本問の検討を行った。

 次回、憲法外の事情を見て、本問の検討を終えたい。

旧司法試験(二次・論文・憲法第1問)の過去問検討の効用

 去年、私は『痛快!憲法学』の読書メモを作成した。

 

 

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 この本を読書メモにした理由は、憲法の前提について非常にわかりやすく書かれており、一度その内容をまとめておきたい」でと考えたからである。

 そして、この読書メモを見る過程でこの本をざっと読み直したのだが、新たな発見などがあり非常に勉強になった。

 

 

 ところで。

 この本を読んだころ、私は日本国憲法に対する関心をほとんど失っていた。

 その理由は「現時点で日本国憲法は死んでいるから」「現時点で憲法の復活(再生)を国民が望んでいるように見えないから」の2点。

 

 もっとも、「近い将来、「国家権力」や「空気」(日本教的権力)の暴走を憲法で制御できなかったために、国家的な悲劇が再び起きるかもしれない」という推測はしている。

 その規模はさておいて。

 なお、この悲劇には少子化による生産人口の減少」とその減少に伴う諸々の結果もこれに含めていいかもしれない。

 それについては、次のブログが参考になる。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

 とすれば、「具体的に憲法は権力をどうコントロールしているのか」とか「憲法の再生(蘇生)を望まない日本人のメンタリティはどこから来るのか」といった問いはいずれ出てくると考えられる。

 

 

 この点、後者についての手掛かりが小室直樹先生や山本七平先生の書籍である。

 これは「読書メモの作成」という作業を通じて行っていく。

 ただ、もう少し読書を行ったら「現在の社会現象を通じて考える」といった作業が必要になるかもしれない。

 

 一方、前者の把握も必要である

 そこで、憲法に関する問題についても考えてみることにした。

 とはいえ、現在発生している事件(憲法訴訟)それ自体を取り上げるのは事実関係が確定しない以上扱いづらい。

 また、過去、私は旧司法試験を受験しており、その際に、憲法を学んでいる。

 そこで、旧司法試験(二次・論文)の憲法の人権に関する過去問を通じて憲法との接点を増やすことにした

 

 ここでやりたかったのは二点。

 一つは、過去問のケースにおいて「憲法」はどう考えるのか

 これは、過去問に対して憲法の立場で答えるというものであり、かつ、司法試験の論文(回答)を作ることと等しい。

 もう一つは、過去問のケースにおいて「日本教」はどう考えるのか

「その場の『空気』で決まる」としか言いようがないが、それでも傾向のようなものが見えるのではないか。

 どんな結果になるかはさておき、とりあえずやってみよう。

 この二点に注目しながら、過去問をみていくことにした。

 

 

 ところで、「憲法」から見た場合、一つ注意していることがある。

 それは、最高裁判所の判決文を重視する、というスタンスである。

 

 この点、現在の司法試験ではこれは常識であり、当時の旧司法試験においても「最高裁判所などの判決を重視するのは常識だったのではないか」との疑問を抱くかもしれない。

 しかし、旧司法試験の憲法(と刑事訴訟法)においては必ずしもそうではなかった。

 私が司法試験の勉強をしていたのは次の本が出現する前(私が司法修習生になったころにこの本の初版が出版された)である。

 しょうがない面もないとは言えない。

 

 

 

 実際には判例が下敷きになっていたものは多数あった。

 もっとも、「判例を下敷きにして云々」という意識が明確だったものは多くない。

 また、様々なケースにおいて「最高裁判所の判断と答案の結論が一致するだろう」という考えもなかった(むしろ、判例とは結論が逆になるだろう、という意識すらあった)。

 

 例えば、猿払事件に似たケース(酒税法事件でも可)を考えるとする。

 最高裁判所(当時は堀越事件や世田谷事件の前)の規範やあてはめに従えば合憲だが、当時の私は最高裁判所の規範を使うことも、結論を合憲にすることもなかった。

 これは具体例だが人権に関する問題は万事がこんなもんである。

 それは私が通った予備校とそこで私が初めて触れた憲法の基本書(リンクは以下、ただし、私は全訂版でリンク先は最新版)による影響もあるかもしれない。

 

 

 この基本書は唯一読書メモの価値があると思っている基本書であるが、まあ、そんな感じであった。

 

 もっとも、今回は最高裁判所のみ(判決・多数意見・補足意見・意見・反対意見)に依拠してものを考えることにした(基本書から考えるというスタンスは採用しないことにした)。

 また、「さすがにこれは同意できない」という場合(平成3年の過去問のケースなど)であっても、最高裁判所の基準に従うならどうするのか、ということをできる限り考えるようにしている。

 もっとも、どこまでできているかわからないが。

 

 

 以上のスタンスで、旧司法試験・二次の論文式試験憲法第1問の過去問をみていった。

 そして、約2年間で、平成3年・4年・8年・15年・12年・18年・14年・16年の過去問を検討し、または、検討中である。

 

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 この過去問を通じて、様々なテーマをみてきた。

 表現の自由政教分離・集会の自由・平等・違憲審査基準・営利的言論・知る権利・プライバシー権・・・。

 もちろん、平成元年から20年までの過去問は12問残っているから、それらを見れば、さらに様々なテーマに触れることができるであろう。

 

 改めて見直すと学ぶ面が多い。

 正直、「条文と判決だけで試験に受かるではないか」と考えるくらいである。

 まあ、当時、合格の秘訣は「定義・趣旨・条文」と言われており、判決から定義と趣旨を、条文から定義とその趣旨を拾ってくることができれば、まあ、これは当然のこととも言いうるが。

 

 もっとも、憲法的に見た場合の比率が重く、日本教的に見た場合の比率が軽い

 比率の大小関係はしょうがない点があるにせよ、もう少し、日本教的観点の検討を増やしてもいいのではないか、とは考えている。

 

 

 では、今回はこの辺で。

読書と読書メモの効用

  去年からこのブログを開設し、「読書メモ」を作成することにした。

 この「読書メモ」と「旧・司法試験の二次試験の論文式試験憲法第1問(人権)の過去問の検討」がこのブログの二本柱である。

 

 そして、このブログを開設して約2年が経過し、約240個の記事を作成した。

 そこで、今回、「読書メモ」とその背後にある「読書」について振り返ってみる。

 

1 読書の効用

 去年と今年の2年間でたくさんの本を読んだ。

 図書館から借りてきて読んだり、古本屋で見つけた専門書を買って読んだり、自宅にあった本を読んだり、Kindleで買って読んだり、AmazonUnlimitedで読んだり。

 

 読んだ本をひたすら並べてみる(タイトルのみを表示)。

 もちろん、プログラミングなどの技術系の専門書・資格(FPや基本情報技術者など)を取るために読んだ(演習した)参考書や演習書・漫画・ラノベなどは除外してある。

 

 

『哲学の教科書』

功利主義入門_はじめての倫理学

『死刑_その哲学的考察』

カール・マルクス_「資本主義」と闘った社会思想家』

『寝ながら学べる構造主義

『不干斎ハビアン(以下略)』

『世界を読み解くためのギリシアローマ神話入門』

『日本の神々』

ゾロアスター教

三輪山(以下略)』

『日本人のためのイスラム原論』

古事記と聖書_日本開闢の闇はこれでしか解けなかった』

『よくわかる古事記_神々の時代と日本の姿』

『「天皇」の原理』

『教養としての聖書』

敗戦処理首脳列伝_祖国滅亡の危機に立ち向かった真の英雄たち』

中東戦争全史』

『神霊の国_日本_禁断の日本史』

『逆説の日本史・テーマ編・英雄の興亡と歴史の道』

『逆説の日本史・16・江戸名君編』

天皇の日本史』

『英傑の日本史(以下略)』

『なぜ必敗の戦争を始めたのか_陸軍エリート将校反省会議』

石原莞爾の世界戦略構想』

『日本史で読み解く日本人』

北一輝

『江戸三百藩_バカ殿と名君~うちの殿様は偉かった?』

天皇125代と日本の歴史』

『日本史を精神分析する_自分を知るための史的唯幻論』

『参勤交代の真相』

『謙信びいき』

『大名格差_江戸三百藩のリアル』

昭和天皇の悲劇_日本人は何を失ったか』

『虜人日記』

足利義満_消された日本国王

『江戸の卵は1個400円!~モノの値段で知る江戸の暮らし~』

『大いなる謎_平清盛

『徳川某重大事件_殿様たちの修羅場』

『日本辺境論』

『ものぐさ精神分析

『もう一つの戦略教科書「戦争論」』

『戦争学』

『今さら聞けない!政治のキホンが2時間で全部頭に入る』

『戦争の社会学_はじめての軍事・戦争入門』

『「一票の格差違憲判断の真意(以下略)』

憲法義解』

憲法講話』

『痛快!憲法学』

『私の最高裁判所論_憲法の求める司法の役割』

日本国憲法の誕生_増補改訂版』

憲法と平和を問いなおす』

『図解・ピケティ入門_たった21枚の図で「21世紀の資本」は読める!』

『経済学をめぐる巨匠たち』

『現代の金融入門』

『経済学は難しくない』

『参謀は名を秘す_歴史に隠れた名補佐役たち』

『オタク的想像力のリミット_歴史・空間・交流から問う』

『言語とフラクタル_使用の集積の中にある偶然と必然』

統計学が最強の学問である』

『数学嫌いな人のための数学_数学原論

『数学の歴史物語_古代エジプトから現代まで』

『数学再入門_心に染みこむ数学の考え方』

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』

山本七平の思想_日本教天皇制の70年』

『空気の研究』

『日本はなぜ外交で負けるのか』

『一下級将校の見た帝国陸軍

山本七平

『戦争責任と靖国問題_誰が何をいつ決断したのか』

『現人神の創作者たち』

裕仁天皇の昭和史_平成への遺訓_そのとき、なぜそう動いたのか』

日本教社会学

『コウシヨク中将の処刑』

『日本人と組織』

『「有名人になる」ということ』

『自己プレゼンの文章術』

『不幸になる生き方』

「うつ」からの社会復帰ガイド』

『大学時代にしなければならない50のこと』

『願いがかなうクイック自己催眠』

『独学大全_絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』

『完全教祖マニュアル』

『難しいことはわかりませんが、お金の増やし方を教えてください!』

『独学大全公式副読本_「鈍器本」の使い方がこの1冊で全部わかる 』

超訳_カーネルギー_人を動かす_エッセンシャル版』

天皇論「日米激突」』

『大国・日本の復活(以下略)』

憂国論_戦後日本の欺瞞を撃つ』

性風俗のいびつな現場』

『新聞の運命_事実と実情の記事』

『暴君誕生_私たちの民主主義が壊れるまでに起こったことのすべて』

愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』

『愚民社会』

『修羅の都』

もっこすの城_熊本築城始末』

三国志_完全版(全十巻セット)』

『真田三代_上』

『真田三代_下』

『長宗我部三代記』

『山形殿_最上義光

『ばさらの群れ』

『戦始末』

『有楽斎の戦』

『業政駆ける』

『悪名残すとも』

『軍師島左近

『雑賀乱る_反骨の兵たち』

山県昌景_武田軍団最強の「赤備え」を率いた猛将』

『天地鳴動』

北条時宗_元寇に挑んだ若き宰相』

北条氏康_信玄・謙信と覇を競った関東の雄』

『加賀百万石』

『うつろ屋軍師』

『天を裂く』

徳川家光

『維新の肖像』

『伊達三代記_晴宗・輝宗・政宗、奥州王への道』

『奥羽の二人』

『悪党の戦旗_嘉吉の乱始末』

『戦国秘譚_神々に告ぐ(上)』

『戦国秘譚_神々に告ぐ(下)』

『ペルソナ_脳に潜む闇』

うつ病九段』

『わがままに生きろ。』

学問のすすめ_現代語訳』

福翁自伝_現代語訳』

『新訂_孫子

『原文・現代語訳_やせ我慢の説:勝海舟榎本武揚への批判とその回答』

『ザ・メンタルゲーム(以下略)』

『不屈の棋士

『将棋の400年史』

『評伝_小室直樹_上_学問と酒と猫を愛した過激な天才』

『評伝_小室直樹_下_現実はやがて私に追いつくであろう』

 

(ここまでが去年、ここからが今年)

 

『武器になる思想~知の退行に抗う~』

『「宗教化」する現代思想

社会主義の誤解を解く』

イスラムの読み方_その行動原理を探る』

クルアーン_やさしい和訳』

ヒンドゥー教_インドの聖と俗』

歎異抄

キリスト教神学で読みとく共産主義

『「教行信証」を読む_親鸞の世界へ』

『大いなる謎_平清盛

『徳川某重大事件_殿様たちの修羅場』

『日本軍兵士_アジア・太平洋戦争の現実』

『これが本当の「忠臣蔵」_赤穂浪士討ち入り事件の真相』

『晩節の研究_偉人・賢人の「その後」』

『現代語訳_戦陣訓』

『現代語訳_軍人勅諭

『日本の名著_貝原益軒_14』

院政とは何だったか_「権門体制論」を見直す』

石原莞爾_現代語訳_日本の国防』

『脱亜論(現代語訳)_時代背景解説』

『もうひとつの応仁の乱_享徳の乱長享の乱_関東の戦国動乱を読む』

『日本を創った12人』

『関東戦国史_北条VS上杉55年戦争の真実』

『敗者列伝』

『その時、歴史は動かなかった!?じつにアヤシイ「日本史の転換点」』

『日本史の一級史料』

『日本はいまだ近代国家に非ず_国民のための法と政治と民主主義』

韓非子帝王学

『職業としての政治』

君主論

『「憲法上の権利」の作法_第3版』

『数理社会学シリーズ1_数理社会学入門』

『危機の構造_日本社会の崩壊のモデル』

『日本資本主義崩壊の論理_山本七平「日本学」の予言』

『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』

社会学の根本概念』

小室直樹の中国原論』

『統計処理ポケットリファレンス_Excel&R対応』

『私の中の日本軍(上)』

『私の中の日本軍(下)』

『日本人とは何か(上巻)_神話の世界から近代まで、その行動原理を探る』

『日本人とは何か(下巻)_神話の世界から近代まで、その行動原理を探る』

『危機の日本人』

『静かなる細き声』

山本七平のイエス伝_なぜイエスの名はこれほどにまで残ったのか』

『宗教について』

山本七平ライブラリー7_ある異常体験者の偏見その他』

山本七平武田信玄論_乱世の帝王学

山本七平ライブラリー6_徳川家康

『日本人と中国人_なぜ、あの国とまともに付き合えないのか』

山本七平ライブラリー15_聖書の常識』

山本七平ライブラリー3_帝王学

『江戸時代の先覚者たち_近代への遺産・産業知識人の系譜』

『21世紀最強の職業_WEB系エンジニアになろう_AI・DX時代を生き抜くためのキャリアガイドブック』

『AIを天職にする_機械学習エンジニアになりたい人のための本』

『僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない』

ウクライナ危機の真相_プーチンの思惑_Wedgeセレクション』

メタバースとは何か_ネット上の「もう一つの世界」』

『信長死すべし』

『里見義堯_北条の野望を打ち砕いた房総の勇将』

『吹けよ風_呼べよ嵐』

『現代語訳_三河物語

『天人唯一の妙、神明不思議の道_山崎闇斎

 

 

 全部で約200冊ある

 去年と今年の2年間、暇だったとはいえ、すごい冊数である。

 よく読めたものだ。

 

 この点、ジャンルはばらばらである

 図書館で本を借りる際には小室直樹氏・山本七平氏を意識していた、というのはあったが、AmazonUnlimitedで借りる場合はそんなことは意識しない。

 だから、どーでもいいような本も歴史小説もある。

 あと、自然科学系の書籍は少ないと考えられる(もちろん、技術書として読んだものはこのリストから除外されている)。

 

 また、読み方もてんでばらばらである

 散歩しながら読んだり、図書館から借りてきて読んだり、持っている本に付箋やマーカーを引きながら読んだり、後述するような読書メモにしたり。

 読んだことを覚えている本もあれば、今見直して「あれ?こんな本読んだっけ」というものも。

 

 なお、「読書メモ」にした、しているものと将来の「読書メモ」の候補は次のとおりである。

 

(以下、読書メモを作成、または、作成中)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(以下、読書メモを作成したいと考えている本)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もちろん、読んでないが「読書メモ」にしたい書籍もいくつかあるのだが。

 

2 読書メモの効用

 一方、この2年間で「読書メモ」としていくつかの本の読書メモを作成した。

 

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 以上は既に完了したが、現在進行形として次のものがある。

 

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 読書メモを作成した結果、それぞれの本に対する理解が深まった。

 その意味で、読書メモの作成は非常に役に立った。

 そこで、読書メモの作成は来年以降も続けていきたいと考えている。

 

 ただ、この読書メモの作成自体が結構な負担になっている。

 さらに、メモ化したい本がたくさんあって、このまま全部をフォローしようとすると数年単位の時間が必要になる。

 また、1記事の文字数が5000文字を超えることもあり、それを年間120記事分作成するとなると負担が重い。

 そこで、来年以降は少し簡略化していく必要があるかもしれない。

 

 

 なお、読んでないが将来を考慮すれば読書メモにしたい本は次のとおりである。

 

 

 

 この二つは日本を見る上で重要と思われるので、是非、読んでメモにしたい。

司法試験の過去問を見直す8 その5

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成16年度の憲法第1問についてみていく。

 

5 本件情報を求める側から見た場合の憲法上の問題点_前編

 ここまで、前科情報を公開される側から見た場合の憲法上の問題点をみてきた。

 結論は合憲にしたが、違憲の結論も十分ありうると考えられる。

 なお、本番ならば私は違憲にするであろう(時間的制約による)

 

 

 ところで、問題文を見ると、親権者側から見て次のような不満を感じるかもしれない。

 

 何故、13歳以上の子供を持つ親権者は請求できないのか

 何故、同一市町村に限定されているのか(子供が別の市にある私立小学校に通っている場合、私立小学校の市の情報が分からなければ意味がない)

 何故、常習犯に公開範囲が限定しているのか

 などなど。

 

 そこで、本問法律を「知る権利」の制限と構成することはできなくはない。

 もちろん、プライバシー権の観点から見れば問題の重要性がだいぶ下がるとしても

 また、前科情報の公開の観点から違憲にした場合、この点を論じる実益はないとしても(合憲にする場合は双方から見て合憲にする必要があるが、違憲にする場合はどちらか一方を違憲にすればいい)。

 そこで、「知る権利」の観点から本問法律の合憲性を検討する

 

 とはいえ、いわゆる「情報公開請求権」の憲法上の保障と違憲審査基準の定立については、こちらと同様に考えることができる。

 そこで、規範定立までの部分は簡単に述べることにする。

 

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 また、本問法律を親権者の情報公開請求権の制限とみるためには、争点を具体的にする必要がある。

 そこで、①13歳以上の親権者に情報公開請求を認めない点、②公開範囲を同一市町村に限定している点、③公開範囲を常習者に限定している点の3点を憲法違反(憲法上の問題)の具体的な争点にしてみる

 まあ、最も重要になるのは①の点だろうが。

 

 この点、「知る権利」が憲法上保障されるかが問題になる。

 しかし、マスメディアの発展により国民が情報の受け手に固定されてしまった状況を考慮すれば、表現の自由を再構成することにより知る権利も憲法21条1項によって保障されるものと考える。

 また、知る権利が自由権たる表現の自由を再構成することによって保障された点を考慮すれば、いわゆる情報公開請求権は保障されないように見える。

 しかし、情報化社会と言われる現代において情報の価値は重要であること、行政国家現象の著しい現代において政府・自治体の持つ情報は民主的コントロールの観点から重要になること、国民主権国家において国家の情報は国民の情報であることを考慮すれば、情報公開請求権も知る権利の一内容として憲法21条1項により保障される

 そのため、本問法律の①13歳以上の親権者に情報公開請求を認めない点、②公開範囲を同一市町村に限定している点、③公開範囲を常習者に限定している点はこの情報公開請求権という憲法上の権利の制限といいうる。

 

 もっとも、情報公開請求権も絶対無制約ではなく、「公共の福祉」(憲法12条後段・13条後段)による制約を受ける。

 そこで、本問法律は公共の福祉による制約と言えるか、情報公開請求権の制限に対する違憲審査基準が問題となる。

 この点、情報公開請求権が表現の自由によって保障されていること、また、表現の自由のもつ自己実現の価値・自己統治の価値を考えれば、違憲審査基準は厳格になるとも考えられる。

 しかし、政府・自治体の情報をどのように公開するかについてはその手段(請求権者と公開情報の範囲)について政府・自治体の事情を考慮せざるを得ない。

 また、前科情報と政府・自治体に対する民主的コントロールとは関連性が乏しい。

 さらに、情報公開請求権は政府・自治体に対して一定の請求を行う権利であり、自由権の制限とは事情を異にする。

 そこで、前科情報の公開の制限に関する審査基準は緩やかにせざるを得ず、合理的関連性の基準(目的の正当性と手段の合理的関連性)によって判断すべきものと考える。

 

 これを本問について見ると、情報公開の範囲を制限する目的は本件前科者のプライバシー権を保護することにある。

 前科情報を公開されないことは前科者における常識的な希望であること、みだりに私生活上の情報を公開されない権利はプライバシー権の一内容になっているところ、プライバシー権憲法13条後段の幸福追求権の一内容として憲法上の保障を受ける。

 したがって、目的は正当である。

 さらに、前科情報を公開することは本件前科者のプライバシー権を直接、かつ、具体的に制限することになる。

 ならば、①13歳以上の子供を持つ親権者の請求を制限すること、②公開範囲を同一市町村内に制限すること、③公開範囲を常習者に制限することはプライバシー権保護という目的との関係で合理的関連性を有すると言える。

 したがって、本問法律は情報公開請求権に対する「公共の福祉」の制約と言える。

 以上より、本問法律は知る権利との関係では合憲である。

 

 

 この点、合理的関連性の基準であてはめをする以上、あっさりしたあてはめになる。

 また、こちらの結論を違憲にするのは難しいだろう。

 というのも、プライバシー権の制限から見れば具体的な利益衡量が必要になる一方、情報公開請求の観点から見れば、立法裁量は強くなるだろうから。

 ただ、これでは検討した気分にはなれないかもしれない。

 

 ところで、一部の親権者に請求権を制限している点は、情報公開請求権の違法な制限から攻めるよりも、平等原則違反から攻めた方がいいような気もする。

 そこで、次回は平等原則違反から本問をみてみる。

司法試験の過去問を見直す8 その4

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成16年度の憲法第1問についてみていく。

 

4 「公共の福祉」によるプライバシー権の制約_あてはめ

 まず、問題文を確認する。

 

(旧司法試験・二次試験・論文式試験・平成16年度・憲法第1問)

 13歳未満の子供の親権者が請求した場合には,国は,子供に対する一定の性的犯罪を常習的に犯して有罪判決が確定した者で,請求者の居住する市町村内に住むものの氏名,住所及び顔写真を,請求者に開示しなければならないという趣旨の法律が制定されたとする。この法律に含まれる憲法上の問題点を論ぜよ。

(問題文終了)

 

 次に、規範を確認する。

 

(以下、前回のブログで示した規範部分を引用)

 具体的には、①情報開示の目的が正当であり、②プライバシーに優越する利益が存在し、③開示の範囲が必要最小限度にとどまっている場合に前科情報の開示する法律が合憲になるものと考える。

 そして、②プライバシーに優越する利益の有無を判断する際には、情報開示が目的の実現にとって必須であるか、代替手段がないかなどを考慮しながら判断すべきと解する。

(引用終了)

 

 以下、あてはめに移る。

 なお、ここでは結論を合憲にもっていくことにする。

 

 

 まずは、①目的について

 本問法律の目的は、「子供に対する一定の性的犯罪を常習的に犯して有罪判決が確定した者」(以下、この人たちのことを「本件前科者」と書く。)に関する情報を取得することにより、親権(民法818条)と監護義務(民法820条)を有する自分の子供を性犯罪の被害者にならないように事前に実効的な対策を実行し、子供を性犯罪の被害から守る点にある。

 可塑性の富んだ子供が性犯罪の被害者になれば、その子供の健全な成長は完璧に損なわれる上、その被害回復も極めて困難である。

 とすれば、子供を性犯罪の被害から守ることは子供の人格権(憲法13条後段参照)を確保するための必要不可欠な手段であると言ってもよい。

 したがって、本問法律の情報開示の目的は正当である。

 

 

 この部分について特に言うべきことはないだろう。

 なお、ここで見ておきたいのが、「親権を有する自分の子供」に限定した点である。

 もし、「自分の子供」から「子供一般」まで範囲を拡張すると、請求権者が親権者に限定されている理由が困難になる。

 例えば、祖父母など親族に子供がいる場合、私立小中学校の教諭や児童福祉に携わる私人にも請求権が認められてもいいと考えられるから、である。

 

 

 では、②優越する利益の有無についてはどうか。

 この点、前科情報は個人にとって特に知られたくない情報である。

 このことは重大犯罪の前科であれば、なおさらである。

 

 また、本問法律は、請求によって開示された前科情報(以下、「本件情報」と書く。)について、情報の共有・公開を制約する旨の規定はない。

 とすれば、親が子供を祖父母や叔父叔母・知人などに預ける際に、預ける相手に本件情報を提供することはありえる。

 また、情報共有が外部からの判別が困難であること、本件情報が子供を守るうえで極めて重要な情報になることを考慮すれば、本件情報を得た親権者が13歳以上の子供を持つ親権者・私立小学校や中学校の教諭・児童福祉関係者と本件情報を共有することは可能かつ容易である。

 その結果、本来請求できない人間との間で本件情報が共有される可能性は低くない。

 

 また、その地方に住む子供たちの安全を考えた、また、正義感に燃えた請求権者が本件情報をインターネット上や通学先の学校や地元団体で公開し、被害の防止を呼び掛けるといったことも起こりうる。

 そして、このような請求権者が複数現れてインターネット上で意気投合すれば、破産者マップのような公開サイトができる可能性がある。

 この公開サイトが実現したら、一定の前科を有する者たちの前科はインターネット上で公開され、場合によっては顔写真まで公開されることになる。

 そうなれば、本件前科者らの生活基盤を崩壊させかねず、生活基盤を壊された本件前科者らが社会を逆恨みし、再犯を犯してさらなる被害者を増やすといった悲劇の拡大再生産が起きることになりかねなくなる。

 

 

 まず、本問法律の問題点から書いてみた。

 本問法律の最大のネックは請求権者の守秘義務がない点であろう。

 破産者マップに準じる前科マップについては妄想めいているようにみえるが、現に破産者マップができてしまった以上は「可能性すらない」と切って捨てることはできないだろう。

 

 ここで見ておくべきなのが、前回取り上げたいわゆる「前科照会事件」の反対意見である。

 

(以下、「前科照会事件」の反対意見から再引用、重要でない部分を中略する)

 上告人京都市の中京区長は、(中略)本件回答書が中央労働委員会及び裁判所に提出されることによつてその内容がみだりに公開されるおそれのないものであるとの判断に立つて前記官公署間における共助的事務の処理と同様に取り扱い回答をしたものと思われるのであるが、(中略)被上告人の名誉等の保護に対する配慮に特に欠けるところがあつたものというべきではないから、同区長に対し少なくとも過失の責めを問うことは酷に過ぎ相当でない。 

(引用終了)

 

 反対意見は「区長には『相手が情報を拡散しない』という合理的期待があったし、その意味で被上告人の名誉にも配慮しているのだから、本件は違法ではないし、違法であったとしても過失があるとは言えない」と述べている。

 つまり、この反対意見によっても、開示者たる自治体側には「相手はみだりに情報を開示しない」という前提に立っている。

 ならば、相手の態度が不明だったり、(共有であれ)拡散される可能性がある本問法律はさらに違憲の結論に傾くことになるだろう。

 そして、この部分を強調すれば、本問法律は違憲の結論になっても全く不思議ではない。

 

 しかし、ここから合憲にひっくり返していく。

 

 

 この点、親権者が一定の前科を有する者たちの住所と顔写真がわかれば、子供をその近くに一人で近づかせない、やむを得ず近くに行く場合は親権者が同行するか、最低でも2人以上で近づくようにするといった対策を行うことができ、これにより性犯罪の被害にあう可能性を相当程度下げることができる。

 とすれば、本問法律による本件情報の開示は子供を性被害から守る上で極めて実効性の高い手段の一つになると言える。

 

 また、子供を性犯罪から守る方法として、身の守る方法を教えるといった手段、本件前科者に対する出所後の政府による矯正教育の継続といった手段が考えられ、それらの手段と比較した場合、本件情報の公開は不必要な手段とも考えられる。

 しかし、身の守る方法を13歳未満の子供に教えたところで、腕力や頭脳において子供は大人にかなわないのが現実である。

 また、突発的事態に襲われた子供がパニックになる可能性が高い。

 とすれば、身の守る方法を教えたところで教えたとおりにできるという可能性は低く、この代替手段は実効性が乏しい。

 また、本件前科者が常習犯であることを考慮すれば、政府による出所後の矯正教育の実効性は疑問であるし、教育を拒否するといったこともありうる。

 とすれば、この代替手段も実効性が乏しい。

 

 

 このようにもっていくことで、本問法律による手段の合理性・必要性は示され、合憲に引っ張ることができるだろう。

 ただ、上で述べた本問法律のネックに対するフォローは不可欠である。

 そこで、手段の相当性について以下、言及する。

 

 

 なお、本問法律には開示された情報をどうするかに対する規定がないので、みだりに情報が拡大される可能性があることは否定できない。

 しかし、破産者マップのようなものを作ろうとすれば、相応のコストがかかる。

 つまり、破産者の情報は官報に記載されているのに対して、本件情報は自治体ごとに請求しなければ得られず、その点でコストが高い。

 また、前科情報の安易な公開はプライバシー侵害を懸念する者たちによる批判を覚悟しなければならない。

 それらの点を考慮すれば、インターネット上に本件情報が拡散し、破産者マップのようなものが出現する可能性は高くないと言える。

 

 また、請求権者の周囲で情報が共有されたとしても、情報の共有だけで済めば前科者に対する積極的な働きかけがないのだから、前科者への不利益は大きくならない。

 

 さらに、その情報を活用して前科者を居住する地域から追い出すといった積極的な手段に出ることもありうるが、本件前科者の生活基盤を下手に破壊すれば、再犯に走る可能性もあるし、報復される可能性もある。

 とすれば、親権者らが敢えて積極的な手段に出ることは考え難い。

 また、本問法律が情報の扱い方に対して制約していないとしても、刑法(脅迫罪・名誉棄損罪・住居侵入罪など)や民法民法709条など)に抵触する行為は既に制限されている

 そのため、情報の拡散が無制限に可能であるわけではない。

 

 最後に、前科情報は公開裁判による有罪判決によって一度は公開された情報である

 ならば、その情報が再び蒸し返されることは既に予見されていると言える。

 

 以上のように考えれば、本問法律の情報開示は、子供を性犯罪から守るという手段から見た場合、必須であり、かつ、有効な代替手段も存在しない。

 よって、本件情報の開示は②プライバシーに優越する利益が存在する場合にあたる。

 

 

 最後に、③公開範囲の最小性についてみていく。

 そして、本問法律は、請求権者を親権者全体ではなく、13歳未満の子供を持つ親権者に限定されている。

 また、得られる情報の範囲も請求者の居住する市町村内に住む者に限定されており、子供の生活圏の範囲外の情報は得られない。

 さらに、公開されている対象も常習犯に限定されており、被害を受ける可能性を無視できないものに限定している。

 以上を考慮すれば、本問法律による情報開示は③開示の範囲が必要最小限度にとどまっている場合にあたる。

 

 したがって、本問法律によるプライバシー権の制限は、「公共の福祉」による制約と言える。

 以上より、本問法律は合憲である。

 

 

 以上、合憲のあてはめを行った。

 

 この点、日本で本問法律のようなものが存在していないことを考慮すれば、結論としては違憲の方がよいような気がする。

 というのも、刑法・民法による制約では不十分であると考えられるからである。

 特に、2004年当時ではなく、インターネットの発達が進んだ現時点で考えるなら、情報拡散に対して制約がない本問法律はさらに違憲の方向に引っ張られるような気がする。

 

 なお、国家による情報提供とインターネット上の情報の抹消要求は同視できないと考えられる。

 というのも、情報提供は新たに情報を産み出すのに対して、抹消請求は既に出回っている情報のストップであり、性質が逆方向になるからである。

 だから、次の最高裁決定と結論をそろえる必要はない。

 

平成28年(許)45号

投稿記事削除仮処分決定認可決定に対する抗告審の取消決定に対する許可抗告事件

平成29年1月31日最高裁判所第三小法廷決定

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/482/086482_hanrei.pdf

 

 

 以上、前科者のプライバシー権から見た場合のあてはめをしてみた。

 もっとも、この点において合憲とするならば、親権者などから見ても合憲であることを確認する必要がある。

(もちろん、試験本番においてこの点が必須であったとは考えていない、出題趣旨によると問題点になりうるというだけであり、優先順位としては前科者のプライバシーには明らかに劣後する)

 もっとも、それらの検討については次回に。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 7

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

7 第1章の第5節を読む

 本節(第1章の第5節)のタイトルは、「最高の役人は最悪の政治家である_マックス・ヴェーバーが発見した『解』が存在しない政治の現実」である。

 

 第1章の第1節では、「古代イスラエルの宗教」を通じて「論理学」について見た。

 第1章の第2節では、「幾何学の三大難問」を通じて「数学」について見た。

 第1章の第3節では、「マゼランの大航海」を通じて「存在問題」について見た。

 第1章の第4節では、「方程式の解」を通じて「存在問題」をさらに見た。

 そして、第1章の第5節は、数学を表面的にしか取り扱わない日本社会をみていく。

 

 なお、「最高の役人は最悪の政治家である」社会学マックス・ヴェーバーの言葉である。

 数学(論理学)がここで社会科学(政治学)や現実の政治と交錯することになる。

 

 

 前回、方程式という言葉が日本社会で氾濫しているということを述べた

(なお、本書では「広く用いられている」という表現がなされている)。

 本節ではここから話が始まる。

 

 この点、日本教徒がこの「方程式」を比喩として用いた意図は「その答えとその道筋」を示すことにある。

 そして、方程式に解があること、四次以下の代数方程式において方程式に解法があることも前回示した通りである。

 これらのことを考慮すれば、この比喩が適切でないということは到底不可能である。

 

 しかし、と著者は続ける。

「方程式」などの数学の言葉を比喩に使うならば、「解は存在するのか」とか「解法は存在するのか」というような意味で用いてほしかった、と。

 何故なら、問題の解決において「どうやって問題を解決するのか」という手段よりも、「そもそも『解決できる問題』であるか」とか「『解決できる』としてその方法が存在するのか」という問題の方がより重要であるのだから、と。

 数学の論理を社会に活用するならば、存在問題こそに意味があるのだから、と。

 

 話はここから日本の現状に移る。

 つまり、そもそも日本では「解がない方程式」や「解があっても解法が存在しない方程式」のことを教えたがらない

 これでは、数学を学んだとしても数学を社会に応用できないではないか、と。

 

 著者は話を(日本の)官僚に移して、マックス・ヴェーバーの名言を紹介する。

 つまり、「最良の官僚は最悪の政治家である」と。

 

 この点、近代社会における官僚(依法官僚も同じ)は機械的に法律を適用する機械のようなものである。

 つまり、「法律」や「命令」という解法が存在する状況で、解法(法令)を現実に効率的に適用する存在が官僚である。

 当然だが、法律の適用に間違いがあってはならない。

 その一方で効率性が求められる。

 それゆえ、よき官僚は簡単になれるものではなく、相当の訓練を必要とする。

 しかし、その結果、官僚は「現在する問題には解法が存在する」ことが当然の前提になってしまう

 

 一方、現実の政治では「解がない問題」や「解があってもその解法が存在しない問題」がある

 そして、これらの問題に対処するのが近代社会の政治家である。

 しかし、前述の訓練の結果、近代社会の官僚は「解法は存在する」という前提で政治的な問題をみてしまう。

 そして、政治家がその前提で問題に取り組めば、解がない場合、解法がない場合にとんでもない悲劇を巻き起こしてしまう。

 よって、理想的な官僚は政治家に向かない

 これぞ「最良の官僚は最悪の政治家である」という言葉の意味である。

 

 この点、「日本の官僚を近代主義の官僚とみなせるのか」と言われると少々わからない

(小室先生の時代はさておくとしても、現代に即して考えればさらに考えさせられることになる)。

 ただ、マックス・ヴェーバーの前述の主張に従えば、仮に、近代主義の官僚であると考えたとしても、政治家に向かないことになる。

 そして、日本ではその官僚が(近代主義的)政治家に転身している。

 かくして、「(解のない状況において)問題解決ができない日本」が出来上がった、というのが小室先生の主張らしい。

 具体例として、本書ではデフレ対策について述べられている。

 

 

 本節の話はこれまでの小室先生の本に関する読書メモで出てきている。

 以下は、それらの話を踏まえた感想をまとめておく。

 

 小室先生は数学を社会に生かす場合、重要なのは「具体的な解法」よりも「存在問題」ということを述べている。

 一方、現実では「存在問題」よりも「具体的な解法」の方が重要になっている。

 まあ、この点は私も散々見せつけられてきたので、実感がある。

 このことから「日本には数学それ自体を社会に生かす意思がない」という推測ができる。

 

 また、小室先生が指摘するように、そもそも日本では「解がない方程式」や「解があっても解法が存在しない方程式」のことを教えたがらない

 この原因として、そもそも存在問題それ自体を知らないという可能性がある。

 ただ、「『解や解法がない問題』の存在を認める意思がない」という推測もできる。

 

 と、以上2点の妄想的推測をしてみると、その背後に(小室先生が主張した)日本的・盲目的予定調和説が見える。

 この辺をまとめた読書メモは次のとおりである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

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 この点、日本的・盲目的予定調和説の特徴に「自己の所属する共同体の技術信仰」と「自己に所属しない技術などの軽視・無視」がある。

 ならば、数学が自己の所属する共同体との関連性が乏しければ、数学を活用しようという意思が皆無であっても全く不思議ではない

 もっとも、数学との関連性が高ければ問題ないかというとそういうことにもならない。

 この場合は数学に対する絶対信仰が生じてしまうからである。

 

 また、日本的・盲目的予定調和説は「自己の所属する集団の任務の完遂」が目的化するから、「解法が存在しない」とか「解が存在しない」といった事情を認められるわけがない。

 何故なら、解法や解が存在しないことを認めたら前提が吹き飛んでしまうからである。

 

 このように見ると、上に述べた私の二つの妄想的推測はあながちあっているのかもしれない。

 そして、本節が投げかける問題の根っこはかなり深いように見える(もちろん、日本についての言及は後の章でも触れている)。

 とすれば、数学軽視の状況を反転することなど到底無理ではないか、と。

 

 

 次回から2章について見ていく予定である。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 6

 今日はこのシリーズの続き。

 

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『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

6 第1章の第4節を読む

 本節(第1章の第4節)のタイトルは「n次方程式には『解』ある_ガウスが発見した『解』の存在」である。

 

 第1章の第1節では、「古代イスラエルの宗教」を通じて「論理学」について見た。

 第1章の第2節では、「幾何学の三大難問」を通じて「数学」について見た。

 第1章の第3節では、「マゼランの大航海」を通じて「存在問題」について見た。

 第1章の第4節では、「方程式の解」を通じて「存在問題」をさらに見ていく。

 

 

 第1章の扉絵に表示されていたガウス(カール・フリードリッヒ・ガウス

 このガウスは歴史的な数学者のうち群を抜いている。

 これと同等と言える数学者はアルキメデス(紀元前3世紀)やアイザック・ニュートン(17世紀)であろうか。

 

ja.wikipedia.org

 

ja.wikipedia.org

 

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 さて、このガウス

 逸話も事欠かないらしい。

 本書で紹介されている逸話は次のような逸話である

(なお、この逸話に出てくる具体的な数値にはばらつきがあるらしい、もっとも、ここでは本書の記載に従う)。

 

(以下、ガウスの逸話について、本書38ページの記載の要旨を掲載)

 小学校3年のとき、算数の先生が「50から500までの整数を全部足したらいくつになるか」と出題した。

 先生は「この問題を解くのに30分はかかるだろう。ならば、その間、ゆっくりすることができる」と考えていた。

 もっとも、ガウスはあっさりと回答したため、教師の目論見は完全に外れてしまった。

(逸話の要旨終了)

 

 他にも、19歳のころ、ガウス正十七角形をコンパスと定規のみで作図するという偉業を成し遂げた。

 そして、歴史的発見というべきものが「n次方程式には必ず解が存在する」というものである。

 なお、nは自然数であり、また、解には虚数解(複素数解)も含むものとする。

 

 ここで見ておくべきことは、この数学的な発見だけではない。

 ガウスの発表の方法についても見ておく必要がある。

 

 この点、地動説に対するカトリック教社会の反発についてはこれまで様々なところで言及した(これが記載された重要な読書メモは次のとおり)。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 同じように、ガウスの時代、「虚数」が実在しないと考える学者たちもいた。

 そのため、ガウスは「そもそも虚数を実在しないと『信仰』している学者たちが、自分の説明を理解できるのか」ということを懸念した。

 また、ガウスは「『複素数の導入』によって数学が大きく進歩する」という確信もあった。

 そこで、ガウスはあらかじめ実数に限定した理論を論文にして博士論文を提出した。

 その後、ガウス複素数まで理論を拡張することになる。

 

 ここで、ガウスの発見(証明した)内容をもう一度確認する。

 存在問題に引き付けた場合、次のような内容になる。

 

「n次方程式には少なくても1個以上の解(複素数も含む)が存在する」

 

 ここで重要なのが、「少なくても1個以上」の部分である。

「1個以上存在する」ならば「確実に存在する(存在しないことはない)」と言えるのだから。

 その意味で、ガウスの主張は存在問題に対する証明になっている。

 

 ところで。

 日本教徒がこのガウスの発見を見たとき、次の感想を持つのではないかと思われる。

 曰く、「方程式の解など、実社会生活とは無縁のものではないか」

 曰く、「そのような問題を考え続ける数学者は日本教的に奇妙奇天烈な存在ではないか」

 本書に書かれていないことを追加すれば、「このような証明を称賛する西洋社会は奇妙な社会ではないか」ということも加えていいかもしれない。

 

 この点、最初の感想である「実社会生活との関連性の乏しさ」についてはその通りであろう。

 しかし、ガウスによる代数方程式の解の存在問題を解決(証明)によって数学(代数学)に大きく貢献することになる。

 そして、数学を道具として利用する社会科学や自然科学にも大きな貢献をなすことになる。

 

 この点、ガウスがしたことは「存在するのかしないのかわからない」という状態を「存在する」と確定させたことになる

 これにより、代数方程式の解を求めるための諸々の行為が(とりあえず)無駄でないことが判明したからである。

 とすれば、これにより代数方程式の研究に対する数学者たちの士気は大いに高まったであろう。

 太平洋に乗り出していったマゼラン一行のように。

 

 なお、本書では具体例として神学が用いられている。

 神学における存在問題は「神が存在するのか」であるところ、この存在問題は極めて重要になる。

 というのも、神が存在しないなら、神が存在しないと証明されたら、神についてどれだけ緻密な理論を述べたところで無意味であり、砂上の楼閣と化すからである。

 

 そして、実際のところ、この存在問題は身近な例でも置き換えられる。

 例えば、「列車で東京から札幌まで行こう」と考えた場合、仮に、青函連絡トンネルがなければ、列車で札幌まで行く手段は存在しない。

 そのため、そのことを知らずに「列車で札幌まで行く手段」をいくら調べたところで無意味(無駄)になる。

 もちろん、現実では青函トンネルを使って列車で札幌まで行けるわけだが。

 

 以上のように、存在問題は極めて重要な問題になる。

 しかし、人々はその重大さに気付かないし、考えようとしない。

 これぞ一大事である、と小室先生は述べている。

 

 

 ところで、本節では、コラムとして数(自然数・整数・実数など)と方程式の解に関する話が紹介されている。

 少しだけ触れておく。

 

 数の概念を拡張していくと、

 

 自然数→整数(負の数に拡張)→有理数(分数まで拡張)

 →実数(無理数まで拡張)→複素数虚数と実数と虚数の複合体まで拡張)

 

という感じになる。

 そして、一次方程式の場合、自然数・整数・有理数によって解を表示することができる

 他方、二次方程式の場合、複素数まで拡張しないと解が表示できない場合がある複素数を用いれば解を表示できる)。

 

 そして、三次方程式の場合(解法はカルダノが示した)、数を複素数からさらに拡張しないといけないのではないかと考えられたが、複素数の範囲で解が示すことができた。

 四次方程式も然り(解法はフェラーリが示した)。

 いずれも16世紀のお話である。

 

 では、五次方程式はどうか。

 この点、これについてはわからない状態が19世紀まで続いた(前述のガウスにしても、「解法はほぼ存在しない」と考えてはいたらしいが、証明まではしていなかった)。

 そして、1825年、アーベルという数学者によって代数学的に五次方程式は解けない」ことが証明された。

 つまり、「解を求める手段が存在しない」と証明されたのである。

 なお、ここでいう代数学的に」とは「四則演算と根号のみを用いるという制限が課せられている」ことを指す。

 作図の制限と同じようなルールだと考えてもらえればいい。

 

 このように、五次方程式の解法が存在するのかが未確定の状況で、ガウスは「(とりあえず)解が存在する」と証明したわけである

 もちろん、五次方程式だけではなく、n次方程式においても。

 さらに言えば、解は複素数で表現できることも示したわけなので、複素数を構成する虚数についてもその存在価値を高めることになった。

 というのも、それまでは「虚数は想像上の数である」(その名前、IMAGIBARY_NUMBERの通り)という考えが強かったのだから。

 

 なお、アーベルの証明はガロアによってさらに精密化された。

 そのこともあり、現在では「ガロアの定理」と呼ばれている

 もっとも、ここでは歴史的意義から見ている関係でアーベルの名前を出している。

 

 

 さて。

 ガウスが証明した「n次方程式には、複素数の範囲で解が1個以上存在する(重解を複数回カウントすれば、n次方程式にはn個の解が存在する)」ということ。

 また、「五次以上の方程式は代数的な解法がない」という「ガロアの定理」。

 この二つの証明こそ数学の意味・重要性を示している。

 というのも、この二つを組み合わせれば、「答えは存在する、しかし、その答えを我々は知ることができない(方法がない)」となるのだから。

 

 そして、著者は嘆く。

 この事実は念入りに日本教徒に教えるべきであるのに、そのような形跡は欠片も見当たらない、と。

 というのも、日本では「恋愛の方程式」だの「出世の方程式」だの「方程式」という言葉が氾濫している。

 そして、この方程式と代数方程式を関連させるならば、「恋愛」にも「出世」にも「解が存在するが、一般的な解法はない」ということでなければならない(4次以下の代数方程式は全体のn次の代数方程式から見ればごく一部に過ぎない)。

 しかるに、現実はどうか、と。

 この点、「方程式」という言葉を濫用している人間、受け取る人間が「解があるが解法がない」という前提で用いているならばまだよい。

 しかし、現実では、濫用している人間もそれを受領する人間も「解も解法も存在する」という前提で話をしている。

 この前提、果たして現実と適合するか否か。

 しなければ、これほどの茶番(本書では「悲喜劇」という言葉が使われている)もないだろう、と。

 

 

 以上が本節のお話。

 とても面白かった。

 

 なお、「日本教徒」という表現は著者の表現ではない。

日本教徒」というのは私が考えた「典型的日本人」の言い換えである。

 

 それから、最後の悲喜劇は次の節の話とリンクしている。

 ただ、本章の最終節については次回に回すことにする。