今回はこのシリーズの続き。
今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。
14 第2章_「水=通常性」の研究_(四)を読む
前セッションで「水」の発生源=通常性の背景にある「(日本的)情況倫理」の適用例についてみて、その性質についてみてきた。
簡単に述べれば、情況倫理とは次の性質を持つ。
① 「情況倫理」とは、「一定の環境(『情況』)にあれば、人は同じ行為を採用する」ことを前提とする規範である
② 「情況倫理」において、特定の行為が「特定の情況」の存在によって正当化(免責)される
③ 「情況倫理」の下では、個人の個別の意思決定は観念されておらず、その結果、個人の責任という観点が希薄である
④ 「情況倫理」は、形式的に適用すると総ての行為が免責されかねないこと、実質的に適用しようとすると基準が不明確になるという特徴がある
⑤ 過去の「情況」を現在に再現することは不可能であり、過去の事実(真実)と「情況」の間に乖離が生まれる(「情況」における虚構性)
さて、本セッションに移る。
本セッションは対比の観点から欧米の固定倫理に関する話から始まる。
この点、欧米と日本を単純化してみると、次のような対比が見られて面白い。
日本_多神教_絶対化の対象が複数(時間によって帰依の対象が異なる)_状況倫理
欧米_一神教_絶対化の対象は一つ(時間によって帰依の対象が異ならない)_固定倫理
固定倫理の世界では、倫理・規範の適用時に人間が規範に関与することはできない。
つまり、尺度(規範)は非人間的であり、また、非人間的であることによって公平性・平等性を担保しているとも言える。
例えば、身近な例として、身長・体重を測定する場合を考えよう。
身長を巻き尺などで測定する、あるいは、体重を秤を使って図る。
固定倫理的に考えるならば、「体重を測定したら体重計の目盛りは84.9キロを示した。よって、私の体重は84.9キロである。」で終わりである。
このときに、私の情況を考慮して測定された数値に介入する(変更する)ことはできない。
具体的には、「体重測定の15分前にご飯を食べたので、目盛りから1キロ差し引き、体重を83.9キロとする。」といったことはできない。
そうするためには、測定ルールに「直前にご飯を食べていた場合は目盛りの結果から1キロ差し引いた値を結果とする」と規定されている必要がある。
当然だが、「体重84キロ以上だと健康指導を受けることなり、指導者と本人の負担が増加するといった『情況』を考慮して、83.9キロとする」といったことが論外なのは当然である。
これが欧米における「基準」であり、それを支える「倫理」である。
上述の例は重さの計測に関するものであるが、人を規律する規範にも同様の背景がある。
この点は、「欧米の宗教たるキリスト教が『契約教』である」ことを考慮すれば、理解しやすいのかもしれない。
この点、固定倫理が悪い方向に作用すれば、現実を無視した機械的な適用となり、現状に適した妥当な解決が不可能になる、という副作用をもある。
そこで、固定倫理の世界では、ルールを細分化することによって現実に適した妥当な解決を可能にしていく。
もちろん、一度妥当になっても、時代の変化などにより妥当でなくなることは当然ある。
その場合、再びルールに例外を加えたり、変更を加えるのである。
その結果、固定倫理の世界において概念・定義の数は大量になる。
また、ルールそれ自体も複雑化する。
そして、情況倫理を背景とする我々から見れば、「なんで覚えることがたくさんあるのだ」・「なんでこんなことが必要なのだ」・「なんと非人間的なシステムなんだ」という感想を持つことになる。
ここで、固定倫理が複雑化した例として、刑法総論で学ぶ「犯罪の成立条件」についてみよう。
なお、この例は本書の記載にはない。
中国の有名な言葉に「法三章」がある。
その一章では「人を殺したら死刑」となっている。
つまり、「ある人が他人を殺したら、その人に殺人罪が成立する(死刑になる)」というルールを規定したことになる。
このルールを固定規範に即して考えてみよう。
なお、固定規範として具体的に利用するのは日本の刑法理論である。
(日本の刑法理論自体は固定倫理を背景にしているし、身近なものなので使いやすい)
「人を殺したものは殺人罪が成立」、これを機械的に適用することになる。
つまり、①他人を殺傷する行為、②「他人の死亡」と言う結果、③因果関係、④事実の認識(故意)の4つの条件が満たされれば、殺人罪が成立することになる。
しかし、このルールに例外がない場合、不都合が生じるのは明らかであろう。
そこで、日本の刑法の体系に沿ってみた場合、次の例外的な場合には犯罪が成立しないことになっている。
例外に当たる場合、殺人罪については犯罪不成立(無罪)であり、別の犯罪が成立する可能性があるだけである。
なお、キーワードだけを列挙する。
・被害者の同意がある場合
・法令・業務行為として行う場合
・正当防衛に該当する場合
・緊急避難に該当する場合
・刑事未成年の場合
・責任能力が完全にない場合
・被害者の同意がある、法令行為である、業務行為である、正当防衛である、緊急避難であると誤信した場合(「違法阻却事由に関する事実の錯誤」)
・法令上、本件行為に殺人罪が適用されないと誤信し、その誤信につき相当の理由がある場合(「法律の錯誤」、違法性の意識の可能性すら存在しない場合)
・期待可能性の不存在
通常、ここで列挙したことは例外にあたるため、現実に生じる可能性は低く、また、裁判で争点になることはそれほどない(通常は、上の①から④までの事実が問題となり、かつ、それで足りる)
しかし、可能性が低くても現実に生じることはある。
その場合に機械的な適用をすれば不当な結論になることは明らかである。
そこで、例外にあたる事由を上のように列挙していくのである。
この点、私は司法試験に受かるレベルまで知識を定着させた関係で、現段階ならすらすらこの流れが書ける。
しかし、普通の日本人がこれを見たら、「なんじゃこりゃ」・「めんどくせー」と言う羽目になるだろう。
事実、私も流れを把握するのに時間がかかったわけだし。
また、各キーワードに書かれた部分はそれなりに複雑である。
だから、刑法理論を網羅するのは結構大変である(ただ、理論がかっちりしている分、民法・商法に比べれば楽、というのはある)。
なお、例外を大量に作って対応するのが固定倫理の対応法であるが、「情況倫理」の対応法は「『情況』によって判断する」の一言で終わる。
全部免責しかねない、または、基準が不明確である(恣意的な適用を許すことになる)などの不都合は前述したが、シンプル、かつ、作成コストが少ないのは間違いない。
以上、固定倫理の対応法と具体例についてみてきた。
そして、日本の近代化において、この固定倫理によって作られたシステムは日本に導入された。
しかし、我々はこの作法を拒否してきた。
このことは、民事訴訟における「裁判による和解」による解決の割合の多さ、刑事裁判において裁判官の宣告可能な刑の範囲の広さ、立法権から行政権への委任立法の多さなどに見ることができる。
ここでは、民事訴訟の例を挙げよう。
XはYに対して金を貸し付けたがYが返済しない。
そこで、XはYに対して「私はXはYに対して金を貸した。お金を返せ」と主張して、訴訟を提起した。
この訴訟の審判対象(訴訟物・貸金債権)が成立するための要件(条件)は①金銭の授受と②返還合意の2点であるところ、事実関係においてこの2点に争いはない。
この場合、固定倫理規範の世界なら、「判決をもらって、判決に基づく執行手続きへ移る」となるだろう。
しかし、日本の訴訟では裁判所を仲介とする和解の試みがなされる(裁判官が和解を試みることができる法令上の根拠は民事訴訟法の89条)
つまり、判決文が書ける段階になったとしても、その直前に裁判官は両当事者に対して和解を試みるのである。
そこでは、あらゆる事情、つまり、情況が考慮される。
例えば、ここでは被告(債務者・借主)の現段階の資産状況(返済可能額その他)なども考慮される。
もちろん、債権の存否に被告の現段階の資産状況などは考慮されない。
しかし、被告が自発的に借金を返してくれる場合、そのコストは強制執行よりも安い(判決だけではただの紙切れである、次の執行手続によって金銭の回収が必要であるところ、その手続きのコストはゼロではない)。
また、和解によって解決した場合、判決よりも履行の可能性は高いと言われている。
さらに、裁判上の和解は判決と同等の効力があり、裁判上の和解条項を相手が破った場合、債権者側はただちに強制執行手続を行うことができる。
そこで、原告(債権者・貸主)にも和解に応じるメリットがあり、和解を選択することもある。
なお、和解というのだから原告側も譲歩することになる。
例えば、利子を放棄する、一括返済ではなく分割返済を許す、一定の金額を支払ったことを条件に残りの借金を棒引きにする、などなどなど。
この結果、日本で訴訟提起された民事訴訟のうち、3~4割が和解によって解決されている。
また、裁判官も和解による解決を好む、という傾向がある。
訴訟において相手が出頭せずに、請求認容判決が出ることも考慮すれば、この割合はものすごい高さである。
具体例はこの辺にして。
情況倫理の世界の人間から見た場合、固定倫理の世界の規範・概念・定義は複雑で見てられないという話をした。
そのため、情況倫理の世界の人間が固定倫理の世界の人間に対して、「なぜそのような(複雑な)基準を定めたのか」と言われれば、「固定倫理を用いて現実に対応するためである」という回答が得られるだろうが、一歩進んで「何故、情況倫理ではなく固定倫理を採用しているのか」と問えば、おそらく「昔からそうなっている」くらいの理由しか得られないだろう。
少なくても日本人であれば回答できないに違いない。
それは、物理学の知識を使って万有引力の現象を公式によって説明できるとしても、万有引力の法則が発生した原因それ自体を説明できないことと似ている。
ただ、固定倫理の世界は自らのルールを明示し、かつ、不都合があれば修正するという作業を続けてきた。
ちょうど農作業に使う道具を作成し、不都合があれば、改良・修正してきたように。
そのため、情況倫理の世界に生きる人間は次の例で生じる問いに答えられないことになる。
本書で「ある音楽教師が生徒を評価する際に全員を『オール3』にした例」が紹介されている。
この音楽教師は「教育の原点に立ち返った結果、全生徒を『オール3』に評価すべきである」と考え、それを実践した。
では、「この音楽教師の行為は正しいのか、正しくないのか、結論とその根拠を述べよ」と言われて、明快に解答できる日本人は少数だろう。
この点、固定倫理の世界に生きていれば、規範は明示的に存在しているので、その規範を根拠に掲げて、その規範を本件に適用して評価して、結論を述べればいい。
なお、この「規範を掲げ、規範を事例に適用し、結論を出す」、この形式は法的三段論法そのものであり、法律実務の文章の基本である。
もちろん、この音楽教師の行為に対してどんな感想を持つかは自由である。
しかし、本書によると、この音楽教師の発想は非常にまじめで保守的な日本人の発想である、という。
つまり、情況倫理に生きる我々日本人の発想を煮詰めていくと、このような結論になるのは必然である、というのである。
この点、「『情況倫理』の論理の形式は同じだから、全部免責されてしまう」ことを情況倫理の性質の一つとして掲げた。
この「免責」には「(問題行為をしなかった)他人と同じ評価をし、他人と異なる処分(ペナルティ)を科さない」という意味が含まれる。
とすれば、上の情況倫理の性質の文章の言葉を置き換えれば、「『情況倫理』の論理の形式は同じだから、『全部同じ評価』になってしまう」になる(評価が同じならばペナルティが科さず、結果として免責されることになる)。
「全部同じ評価」は音楽の教師が行った「全生徒オール3」と同じである。
ここで「情況倫理」が存在意義について見えてくることになる。
「『情況』による免責」は「『情況』による他者と同等の評価」に置き換えられる。
つまり、「情況」を用いることで現実では差異があるものに対しても同等の評価が下せることになる。
ならば、「情況」は「同等の評価を下すための手段」であると言える。
これは固定倫理の世界と比較すれば分かりやすい。
例えば、身長を測定する。
測定方法・評価方法は機械的であり、そこに人は介入できない。
その結果、客観的な差異があれば、その差異は明確化される。
場合によっては、その結果が明らかになることで背の低い人間が「チビ」と差別され、不利益な扱いを受け、あるいは、いじめの対象になることもあるだろう。
しかし、差別の問題が発生するからといって目盛りを人ごとに変えて全員を同じ数値にすることはない。
ルールを追加して、差別的な取り扱い・いじめなどの人格を毀損する行為を禁止するだけである(そして、ルールはさらに複雑化する)。
逆に、目盛りを人ごとに操作して、または、結果を操作しようとすれば、適用方法が平等ではなくなり、かえって、不公平な扱いとなる。
これは欧米における「平等」の意味が「神の前の平等」から出発していることなどからすれば明らかである。
この原理は身長・体重だけではなく、法適用においても同じである。
そして、正確な測定が難しくなったとしても、測定方法・適用方法を複雑化・精密化する(そして、日本人はついていけなくなる)ことで対応する。
そこには「人間それ自体を基準にする」という発想はない。
一方、日本社会は「横並び社会」という言葉もあるように、我々は「オール3」をつける傾向に強い。
そして、その「オール3」という評価を導くために尺度(目盛り)に加えられる操作が「情況」なのである。
ならば、情況を振りかざす人間がこの音楽教師に安易に批判を加えようものなら、その批判は直ちにその人間にブーメランの如く返ってくるだろう。
また、このことを下敷きにすると、情況倫理の欠点のように書いた「『情況』の虚構性」も別の意味が浮き上がってくる。
つまり、「情況」の存在理由(同等の評価を行うための手段)を加えて考えると、「情況は虚構」であることは必然であることが分かる。
「人間を尺度の基準」として、かつ、「人間がオール3である(同じ)」という前提が真であると仮定する場合、平等な人間に属する一人の人間が奇行・犯罪に走った場合、その奇行・犯罪こそは「異常な情況が存在すること」の証明になってしまう。
とすれば、逆に「情況」の存否は問題にならないし、他の「情況」との比較は無用になる。
例えば、共産党のリンチの件における「特高の弾圧が苛烈だった(ので、リンチをしても免責される)」という情況説明に対して、「他にも苛烈な情況にありながらリンチをしない例はあった(多かった)」と反論をしても、「いや、それは情況が同じではない」と一蹴するだけで相対的に比較するといったことが行われない。
なお、「情況が違う」と一蹴し、また、ある種の無規範状態を容認してしまえば、事大主義になることは容易に想像がつくが、一貫性はある。
ただし、それだけではなく余計なことをすることで奇妙なものが露出してしまうのである。
それを、共産主義のリンチに関する反論を手掛かりに見てみる。
「情況」を用いた反論は情況倫理からすれば当然である。
しかし、一方で「『正しい』歴史的認識に立った取り組み」などと言い出すので奇妙なことになる。
これこそ反論を述べた人間が、現在の情況を過去に投影し、現在の情況に対応して発言していること、つまり、日本的情況倫理によっていることの裏付けである。
このことを詳しく見るため、この反論の要旨を並べてみる。
そして、(1)固定倫理、(2)情況倫理、(3)それ以外に分けてみる。
(1)の部分は「リンチは悪、誰がやろうが例外ではない」となる。
単純である。
(2)の部分は「本件リンチは苛烈な情況の下でなされたので、その責任は行為者ではなく、『情況』を作出した者にある。そのためには、『正しい歴史認識に立った冷静な取り組み』必要となる。」である。
情況倫理の観点から見れば、単純である。
しかし、この反論は(3)のそれ以外として「苛烈な情況は存在したがリンチは存在しなかった。(以下略)」と続く。
(2)を読んだ後に(3)を見れば「あれ?」となるだろう。
(2)はリンチが存在したことを前提として反論している(反論の説得力はさておく)のに対し、(3)はリンチが存在しないことを前提として反論しているからである。
本書では「つじつまの合わない論理」と書いてあるが、同一人物が書いた文章ならばそう評価されてもしょうがない。
というのも、「一人が想定する真実は1つだけ」という前提を置けば、(2)と(3)は前提が両立しないからである。
もっとも、こういう現象は別に今回だけに見られる場所ではない。
ここで、あるフィクションを題材に例に挙げよう。
今から30年前、何者かによってA氏が殺害された。
警察・検察は殺人事件として捜査を行い、容疑者としてY氏が浮上した。
警察・検察はY氏を捜査した。
その結果、Y氏の犯行を疑わせる証拠はあるものの、Y氏にアリバイがあったため、Y氏の犯行の可能性は有罪にできるほど高くないと判断し、Y氏を不起訴処分とした。
その後、事件は迷宮化して時は流れ、Y氏の不起訴処分を基礎づけたアリバイの証拠は時の流れとともに散逸した。
他方、A氏の相続人であり、一人息子のX氏はA氏が殺された後も資料(証拠)を保存していた。
そして、その中にはY氏が犯人である可能性を示す証拠も含まれていた。
事件から25年後、警察の捜査には納得できないと考えたX氏はY氏を相手に「A氏を殺傷したことにより自分は精神的苦痛を受けた」ことを理由に損害賠償請求訴訟を提起し、自分の持っている資料を証拠として全部出した。
この時点で、Y氏はアリバイの証拠は既に紛失しており、また、当時の記憶もあいまいであることから、自分の犯行に対する弁解が十分にできない可能性があった。
そこで、Y氏は訴訟において「①私は犯人ではないのでX氏の請求は認められない。②仮に、犯人だとしても時効が成立する(不法行為の時効は20年)のでX氏の請求は認められない」と訴訟で主張した。
なお、X氏は訴訟提起をメディアに通知しており、メディアも過去の未解決殺人事件に関すること、ということで取り上げた。
さて、裁判所は関係証拠から事実を認定し、結果、Y氏が述べた①の反論を退け、②の反論を認めて請求を棄却した。
つまり、X氏は訴訟自体は敗訴した。
しかし、X氏は「裁判所がY氏が犯人であることを認めてくれたので満足」とコメントし、控訴はしなかった。
他方、過去の事件を蒸し返され、さらに、裁判所に過去の事件の犯人と認定されてしまったY氏は勝訴はしたものの、社会的制裁を受けたのでこれをなんとかしたいと控訴しようと思った。
しかし、訴訟自体は完全に勝利しており、控訴理由はなく、結局、控訴できなかった。
そして、この訴訟はメディアを通じて日本全国に広まり、Y氏は社会的地位その他を全部失ってしまいました。
めでたくなしめでたくなし。
見てほしいのは、Y氏の訴訟での反論である。
「時効が成立している」という主張は自分が犯人であることを前提としないと成立しないので、「私は犯人ではない」という主張と両立しない。
だが、訴訟や裁判ではこういう前提まで見た場合に両立しない反論を並列して行うことはよくある。
例えば、「①本件暴行事件は犯罪として成立しない。②仮に、暴行事件が成立する場合であっても、本件事件には次のような特徴があるので、刑の決定については寛大なものを求める」といった感じで。
もちろん、このような主張を行うと無罪の主張(①)の説得力がかなり下がるので、あまりやることではない。
しかし、裁判の経過を見て①の主張が認められないことが明らかな場合、弁護人としては予備的に②の主張を行うことはありうる。
この背後には「不利益の最小化」という意図があるが、手段としてこれが容認されていること自体、前提事実の両立性に鈍感なのだろう。
あるいは、結果以外を軽視しているのか。
ちなみに、今回は共産党の例を挙げたが、例は別にもあるらしい。
そして、この反論の形式には「日本人に共通する思考過程」が凝縮されており、それが日本における「通常性」による判断基準であると述べている。
というところで、このセッションは終わり、次回に続く。
今回、具体例の説明でかなり分量をとってしまった。
これからは少し控えようかな。