今回はこのシリーズの続き。
今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。
15 第2章_「水=通常性」の研究_(五)を読む
前セッションまでで通常性の基盤となっている「(日本的)情況倫理」についてみてきた。
また、情況倫理の背景には「日本的平等主義」があることも確認した。
その内容をまとめると次のようになる。
・「情況倫理」が適用された場合、「その行為が『情況』に対応した行為であれば、行為者は責任を負わず、『情況』を作出した者が責任を負う」と考える
・「情況倫理」の前提には「行為に関する個人の具体的意思決定の存在」を否定する点に特徴がある
・「情況倫理」の基準には、「形式だけ見て判断を見れば、全部免責してしまう」・「実質的に見て判断すれば、基準が不明確である」という特徴がある
・「情況倫理」で用いられる「情況」の特徴として、現在から過去を投影してしまう要素が除去できず、真実(事実)と「情況」の間には乖離があり、一定の虚構を含む
・「免責」を「他人と異なる取り扱いの否定」と広く考えた場合、「情況倫理」を形式的に適用すると、「個人の具体的行為による結果を評価せず、一律に扱う」という結果になる
・「情況倫理」において、「情況」は個人の差異を除去するために用いられる
・「情況」の存在意義(個人の差異の除去)から見た場合、「情況」に虚構が含まれることは問題とならず、むしろ虚構が含むことが要請される
・「個人の差異を認めない」という前提で「情況倫理」を適用すると、「異常な行為の存在によって、異常な『情況』があったことの証明になる」という事態が生じる
また、今回も前回取り上げた反論を用いるが、反論の骨子を取り上げると次の3つになる
(一)固定倫理による主張(「建前」が書かれているだけで特段意味はない)
(二)情況倫理による主張(リンチの存在を前提とする反論)
(三)その他(「情況」は存在するが、リンチは存在しないことを前提とする反論)
この点、我々が奇妙に思うのは、(二)と(三)を同時に主張することである。
何故なら、それぞれの前提とする事実が両立しえない(一方では「あった」と言い、一方では「なかった」と言っている)こととなり、「この人は『事実』についてどう考えているか」が不明確になり、結果として自分の主張の信用性を落としかねないからである。
この点、「自分の利益を最大化(損失の最小化)するためにあらゆる手段を尽くし、保険をかける」という観点から見て複数の主張を立てることはあっても、その場合でも、複数の主張を立てた結果のリスクは認識しておくべきだろう。
本セッションは、「両立しない事実から成り立つ複数の主張(本書の言い方だと『辻褄の合わない主張』)をどうしてするのか」という点を掘り下げるところから始まる。
「このような自説の信用性を下げる主張行為をする背景には何があるのか」と言ってもよい。
本書によると、その背後にあるのは「『オール3』的情況倫理」であるという。
換言すれば、「日本的平等主義」を前提とした「情況倫理」と言ってもいいかもしれない(ここで、「日本的平等」という言葉を用いて、単に「平等」という意味を用いなかったのは、欧米の「平等」と「日本的平等」の間に相当の乖離があること意味する)。
それを理解するために、西欧との比較が行われる。
固定倫理を主とする欧米では規範の「機械的な適用」を前提としている。
つまり、適用時に規範を変更することは許されない。
法律関係に置き換えて表現すれば、原則として法律を作るのは議会のみであり、政府と裁判所は法律の範囲内で機械的に執行・裁判できるだけ、ということになる。
そのため、固定倫理社会における不正とは「規範の機械的な適用」を歪めること、つまり、「規範の恣意的な適用」になる。
また、固定倫理の世界では規範の硬直性ゆえにとんでもない悲劇が生じることもある。
それゆえ、「固定倫理だから優秀、情況倫理だからダメ」と言えるわけではない。
それに対して、日本には固定倫理の伝統がなく、むしろ情況倫理の伝統を持っている。
そこに、欧米の情況倫理の思想が「固定倫理を相対化するもの」という要素抜きで日本に入ってきたらどうなるか。
形式的には欧米の情況倫理によって西欧化したように見える。
しかし、実質的には日本的な情況倫理がさらに徹底化されることになるだろう。
そして、「欧米の情況倫理」は権威付けのために利用されることになるだろう。
この情況倫理の扱われ方に「水による作用」と類似の性質を見出すことができる。
「一見、外来の思想・制度が導入されているように見えるが、その実質を見た場合、日本への導入の過程で内容が変容してしまい、外国で通用する思想・制度と日本における思想・制度は大きく異なっている」という部分が。
では、こうなる理由はなぜか。
固定倫理とは対となる状況倫理の世界では、人間が尺度の基準になる。
また、人間が尺度の基準になる以上、総ての人間の測定結果が同様になる必要がある。
そこで、輸入の尺度は人間にあわせて対応・修正していくことになる。
ここで具体例を挙げる。
「人間が尺度の基準になる」ということを具体化すると、「人間の身長の長さを1.5メートルとする」と定義することになる(1.5メートルという数値は適当)。
そして、尺度として定められた結果、「総ての人の身長の長さは1.5メートル」になる。
しかし、現実問題、身長は人によってばらばらである。
そこで、「総ての人の身長の長さは1.5メートル」を維持するために、目盛りの方を伸縮させて調整・変更させることになる。
そうすれば、現実における全員の身長が同じでなくても、「人の身長は1.5メートル」という状況を維持することができるのである。
これに対しては、次のように考えるかもしれない。
「身長や体重、つまり、長さや重さならば人にあわせて目盛りを調整することができるかもしれないが、社会生活は複雑なものだから他の要素・基準を人間基準で作ることはできない」と。
ところがどっこい、それは誤りである。
そして、「人間を基準とした伸縮可能なものさし」に対応する倫理的尺度が「情況」なのである。
つまり、人間を尺度の基準とした世界では、「そもそも人間はオール3(同等)である。しかし、現実を見ると差が生じている。この差を生じさせている原因は何か。それは『情況』である」と考えるのである。
そして、「異常な事件(本の例はリンチだが、別になんでもよい)が起きた場合、その事件が起きたのは行為者が特殊だからではなく、その行為者の直面した情況が特殊だからに過ぎない」と考えるのである。
この「情況」の説明、一見合理的に見える。
しかし、現実に生じた異常性が増大すれば、その説明のために必要な「情況」の説明も通常から乖離していくことになる。
つまり、現実から「情況」が乖離し、虚構度が増大することになる。
その結果、「情況」説明が現実離れしたものになってしまう。
この状態が「情況」が誇大表現を引き起こす背景になり、さらには、間延びした空疎な誇大表現の羅列を引き起こす原因にもなる。
ところで、情況倫理が適用された場合、評価が皆同じになるか、基準が不明確で恣意的に利用されてしまう旨述べた。
つまり、基準として成立するためには不変の要素(固定倫理的な要素)が必要であって、情況倫理をそのまま利用すると基準の支点が存在せず規範として機能しない。
そこで、情況倫理を極限まで適用したケースが一種の支点となって規範を支えることになる。
そして、その支点はどんなものになるか。
それは、「情況を超越した人・集団・象徴」が支点にならざるを得なくなる。
つまり、欧米では固定倫理による現実的妥当性を修正する手段として情況倫理が用いられた。
これに対し、日本では規範の支点として情況倫理が用いられている。
その結果、情況倫理が権威となり、かつ、これに服従することが規範になっているのである。
さて、ここで改めて前述の反論を眺めてみる。
この点、「情況倫理による部分」と「その他の部分」は前提する事実が両立しない。
しかし、絶対基準たる対象は超越者であり、聖なるものであるから、矛盾していることは問題ないことになる。
むしろ、矛盾した点があることこそ支点である証拠であると言える。
その観点から反論の構成を再構成してみる。
つまり、これまで、共産党の反論の構成を次のように見ていた。
(一)固定倫理による主張(一般論)
(二)情況倫理による主張
(『当事者を弁護するための主張』、つまり、リンチの事実を前提として、その部分を擁護するための主張)
(三)その他(???)
つまり、(一)の部分が一般論であり、(二)の部分で具体的な弁護の主張であると考えていた。
この場合、(三)の文章が宙に浮くし、(三)の背景事実と(二)の背景事実は両立しない。
しかし、次のように考えたらどうだろうか?
(一)一般論で見ればリンチは一般的に悪である、それは共産党員でも例外ではない
(固定倫理に基づく一般論)。
(二)しかし、共産党に対する苛烈な弾圧という「情況」下では「一般人であれば」リンチをせざるを得ないような苛烈なものであった。よって、当該情況下で起きたリンチの結果に対する責任は行為者ではなく、情況の作出者が負う
(情況倫理における一般論)
(三)現実において、苛烈な情況は存在したが、リンチは存在しなかった。(だから、共産党員は無謬なる超越者である。)そして、この苛烈な情況の存在を否定し、また、リンチの存在を肯定する者は、この共産党員が無謬な超越者であることを否定する者であり、以下略。
(具体論)
このように、(一)と(二)で一般論を述べ、(三)で具体論を述べていると考えると、別に矛盾した表記でないし、(三)が存在する理由も分かる。
そうすると、この反論は「共産党員を弁護のための主張」ではなく、「共産党の奇跡を証明するための主張」であることが分かる。
まあ、私自身、言われるまで分からなかったが。
とすれば、この主張はただの弁護にとどまらず、宗教的主張になる。
ならば、矛盾だの虚構だのといった反論は意味がないうえ、相手から不敬罪として非難されることになる。
というのは、絶対者がなければ支点が存在せず、支点が存在しなければ基準がなくなり、情況倫理が崩壊することになるからである。
そして、この「絶対者をどこかにおくことで、評価の尺度を設定する」という考えこそ、日本の伝統的な考え方である。
これは「一君万民」と言われていたものであり、「日本的平等主義」の原点である。
そして、この考えが日本的情況倫理を安定化させていることになる。
また、この情況倫理が「当時の『情況』では(以下略)」と言えるだけの一貫性を維持するためには、この極限の無謬性と永続性を保証しなければならなくなる。
というのが本セッションのお話である。
内容自体非常に参考になった。
また、自分が持っていた発想が情況倫理に準拠することも理解できたのは非常に良い収穫であった。
なお、これまでの日本的平等主義・日本的情況倫理の説明を見て、ふと思い出したことがあるが、既に分量が多い(前回は8000字を超え、今回は4000字を超えている)ので、それについては機会を改めることとし、どんどんこの本を読んでいこう。