薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す8 その7(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成16年度の憲法第1問についてみていく。

 なお、今回が最終回である

 

 この点、前回までは憲法的な観点で問題をみてきた。

 最終回の今回は、憲法以外の観点から問題をみていく。

 

7 「憲法上の権利の制約」から「制約の正当化」という手順

 平等原則違反や政教分離違反の問題を除けば、人権に関する憲法上の問題の検討方法は次の手順になる。

 

1、本問で「制約」されている個人の自由が「憲法上の権利」になりうることの認定

2、1を前提に本問自由に対する制約が正当化されるかの検討

 

 かの『憲法上の権利の作法』(本のリンクは次の通り)で用いられている「三段階審査論」の言葉を借りれば、1で「『保護範囲』と『侵害』」を、2で「正当化」を論じることになる。

 

 

 旧・司法試験(もちろん、今の司法試験も)の憲法人権の答練(答案練習会の略、過去問に準じた論文式の問題を本番と同じ時間配分で解く演習のこと)の際、この手順を外して書いたことはおそらくない。

 また、1が人権不可侵の原則、2が人権不可侵の原則の例外と考えれば、1と2で「原則と例外」について考えていることになる。

 この「原則と例外」の発想は司法試験のどの科目にも共通するものだから、非常にオーソドックスな発想である。

 もちろん、この手順は最高裁判所の判決でも見られるし、いわゆる司法試験委員会の「採点実感」でも見られる。

 

 

 しかし。

 この「原則と例外」という発想それ自体が日本教に適合するのか、というのが私が気になった問題である。

 この意味については、次の書籍の記載が参考になる。

 

 

 詳細は将来の読書メモに譲るが、本書の第3章第1節によると日本人(日本教徒)に数学がなじまない理由をワンワードで説明すると、形式論理学を否定する発想を持ってしまったから」だそうである。

(近代)数学は形式論理学を前提としているが、同様に、近代法もその背景に形式論理学ある(現実にあわせるために多少相対化されているとはいえ)。

 ならば、近代法の一つたる憲法憲法的思考方法と日本教との相性もよくないと推測することは不自然ではない。

 

 正直、1と2を分けた議論を見ていれば、日本教徒は「なんで1と2について順を追って議論するんだ。2の検討だけで十分ではないか。まどろっこしいではないか」と考えるかもしれない

 もちろん、2の議論をする際、1の結論は一定の重要性があり、2に影響する。

 それゆえ、1をすっ飛ばして2から議論を始めると空中戦または疑似的宗教戦争になる(「人権」と「公共の福祉」の文言がストレートに衝突して、一方を恣意的に強調しあう空中戦になる)とか、その場の空気で簡単に結論がひっくり返る、といった事態になってしまうことが容易に推測されるのだが。

 

 なお、「原則と例外を分けるのはどうか(まどろっこしい)」という発想は他の場所でも見られるのではないかと考えられる。

 例えば、「規範(法)と感情(道徳)」を分けるところ、「事実の認定と評価」を分けるところで。

 この辺をさらに深く見ていけば、『「空気」の研究』での述べた多神教・状況倫理の日本と一神教・固定倫理の近代の対比というものに突き当たるかもしれない(この点に関する読書メモは次の通り)。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 こういう観点から考えても、憲法日本教は相性が悪いなあ」と考えるのである。

 もちろん、事大主義と立憲主義の相性の悪さとは別で。

 また、それを「悪い」というつもりは全くない(しょうがないので)けれども。

 

8 違憲審査基準の審査密度について

 憲法の枠内で考えた場合、本問法律の違憲審査基準はプライバシー権の制限に対しては厳格な基準に、知る権利の制限に対しては緩やかな基準になった。

 これは最高裁判所判例を踏まえながら組み立てたものである。

 

 では、日本教的に考えた場合、本問法律の違憲審査基準はどうなるのだろうか?

「そのときの『空気』を征した権力者の意向による」という事大主義的な結論がもっとも無理のない結論のような気がするが、敢えて踏み込んでみる。

 

 本問法律でバランスが求められている国民の権利は、自分の子供を犯罪から守るための親権者の知る権利と本問前科者たちの前科情報を秘匿する権利(プライバシー権)である。

 となると、「過去に犯罪を犯した者のプライバシーなど保護に値しない。常習犯ならなおさら」とか「子供のためなら国民(前科の有無を問わない)のプライバシーなど気にしなくてどんどん公開してよい」というような「空気」ができ、これまで検討してきた具体的な違憲審査基準の審査密度が全く反対になる、ということがありうるかもしれない。

 

 どうなのだろう。

 この点、破産者マップ事件の際にはプライバシー権の方に軍配が上がったように見える(あくまで私の印象に過ぎず、現実にはわからない)。

 もっとも、そうなったのは多くの国民にとって他人事であり、かつ、無関心でいられたから、ともいえる。

 本問法律の場合、子供を持つ親にとって極めて切実な問題になる。

 ならば、逆の方向に突っ走る可能性も否定できないように考えられる。

 

 なお、この場合に個人情報保護法が云々といってもあまり意味がないと考えられる。

 過去において「空気」が「反軍演説」もろとも帝国議会の発言の自由を封じたこと、ロッキード事件刑事訴訟法認められていない司法免責まがいのことを認めたことなどを考えれば、法律如きで「空気」を止められるとは到底思えないからである(この辺の詳細は『痛快!憲法学』の次のメモ参照)。

 

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 とはいえ、正直「わからない」以上のことは言えない

 より知りたければ、これまでの具体的な事件について「空気」の状況を確認しながら、具体的に検討しないといけないのかもしれない。

 

 

 以上で本問の検討を終了する。

 次回は、平成11年度の過去問を検討してみようと考えている。

 ちなみに、平成11年度のテーマは受刑者の人権。

 今回、ここで書いた問題について再び考えることになるかもしれない。