今回はこのシリーズの続き。
旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成18年度の憲法第1問についてみていく。
3 公共の福祉による制約_違憲審査基準の定立
前回、広告放送、つまり、営利的言論の自由が21条1項によって憲法上の権利として保障されうることを確認した。
そのため、本問法律が「公共の福祉」(憲法12条後段・13条後段)による制限として正当化されなければ違憲となる。
では、本問法律は「公共の福祉」による制限といえるか。
「営利的言論に対する違憲審査基準」が問題となる。
まず、原則論として表現の自由の崇高さを高らかに謳いあげるのはありである(論文試験で「謳いあげる」というのもあれだが)。
どうせ後ほどひっくり返すのだから不要だと言えなくもないが、一応、言っておこう。
つまり、表現の自由には、言論活動を通じて自己の人格を発展させるという自己実現の価値と言論活動を通じて国家の意思形成に参加するという自己統治の価値があるところ、表現の自由を不当に制限すると民主制の過程における自己回復が困難であるから、表現の自由の制限に対する審査基準は厳格な審査基準を用いるのが原則である、と。
この表現の自由の制約に関する原則論はこちらで既に述べたとおりである。
しかし、本問法律で規制されているのは営利的言論である。
そして、コマーシャルのような営利的言論は営業・宣伝のために行うのであって、国家の意思形成に参加するために行われるわけではない。
このことを考慮すると、営利的言論において自己統治の価値が希薄になる。
その結果、権利の重要性・要保護性は他の精神的自由と比較すれば、やや低下することになる。
また、発表時間の割合に上限を設けるといった制限は、営利言論の内容とは関係ない制限、つまり、内容中立規制に該当する。
つまり、内容中立規制の場合、言論内容それ自体に制限がかかるわけではない。
そのため、言論の内容に対する規制、いわゆる内容規制と比較して制限の程度は強くない。
以上を考慮すると、本問法律に対する審査基準に厳格審査基準それ自体を用いるのは妥当ではなく、やや緩和された基準を用いるべきであると考える。
具体的には、規制目的が重要な公共の利益の実現にあり、規制手段が規制目的と実質的関連性を有する場合に合憲と考える、いわゆる「厳格な合理性の基準」を用いるべきであると考える。
この答案の流れも平成18年に書いた答案と同様である(内容中立規制である点に言及したかは忘れたが)。
あてはめの部分でここで触れていなかった問題文の事情に触れ、その検討が詳細であれば大丈夫だろう、とは考えられる。
ところで、出題趣旨を見ると、次のようなことが書かれている。
(以下、出題趣旨を引用、強調は私の手による)
本問は,放送事業者の広告放送の自由を制約する法律が制定されたという仮定の事案について,営利的表現の自由の保障根拠や放送という媒体の特性を踏まえて,その合憲性審査基準を検討し,当該事案に適用するとともに,放送事業者に生じうる損害に対する賠償ないし補償の可能性をも検討し,これらを論理的に記述できるかどうかを問うものである。
(引用終了)
出題趣旨を見ると、審査基準の検討の際、「営利的言論」であることだけではなく「放送」であることをも考慮して検討せよ、と記載されている。
この発想は当時の私にはなかった。
さらに言えば、試験本番、私は「放送である点」は完全にスキップしたような気さえする。
この点、憲法で表現の自由を学んだ際、「放送の自由」については「デモ行進の自由」と同様、個別に学んでいる。
とすれば、「放送」である点を審査基準に反映させることは十分可能であったことになる。
これはどういうことなのだろう。
私が気付かなった原因として次の2つが考えられる。
1、一般に、「違憲審査基準を立てる際には、本問の具体的事情を書き込んではならない」と考えていたため、「放送」の要素を入れることに考慮が及ばなかった
2、いわゆる論証パターンに引きずられた
まず、1から。
一般に、「規範定立部分で『問題文に書かれた具体的事情(固有名詞)』を用いてはならない」と言われている。
規範の一般性が失われてしまうからである。
本問で考えるなら、「東京キー局」・「午後6時から午後11時まで」・具体的な放送事業者(テレビ朝日など)を規範定立の根拠に利用するのはまずいことになる。
しかし、本問の具体的事情それ自体ではなく、具体的事情を含む上位概念・抽象的な概念を用いることは問題ない。
そうしないと、本問事情に対応した具体的な基準が立てられないからである。
本問で考えるなら、「広告放送」(本問の事情)を含む「営利的言論」について言及すること、「上限枠の規制」(本問の事情)を含む「内容中立規制」について言及するのは問題ない。
ならば、「放送」一般について論じても問題ないことになる。
この辺は一般性の要請を重視しすぎた、ということなのかもしれない。
なお、教科書(基本書)などで「放送の自由」を学ぶ際、「放送に対する特殊な規制(中立性の要求その他、新聞にはこのような規制はない)は許されるか(結論は許される)」という問題意識で学ぶ。
また、放送に対する特殊な規制が許される根拠は、放送の公共性・希少性・浸透性の強さ(いわゆる「お茶の間効果」)と言われている。
その結果、放送という特殊性に言及すれば、権利の要保護性の減少と規制の必要性を主張することになり、違憲審査基準は緩やかにする方向に働くことになる。
ただ、2も重要かもしれない。
というのも、司法試験(当時も今も)は本当に時間がなく、時間短縮の要請の観点から、規範定立の部分はコピペで済ませることが多かったからである。
その結果、営利的言論に関する論証パターン(規範定立の根拠と規範の部分をまとめてある一連の文章であり、各自試験前に覚えておくべきもの)を書くことに焦点がいきすぎ、広告放送である点を見過ごしてしまった、ということができる。
この点、「放送」である点はあてはめで詳細に言及するということができる。
というのも、「放送の特殊性」は表現の浸透性の強さと希少性・公共性にあり、「放送」であることによって自己実現の価値や自己統治の価値が緩和される、というわけではないからである。
この点は、自己統治の価値が希薄になるという営利的言論とは異なる。
その意味で規範部分で言及しなくてもダメージは小さいのではないかと考えられる。
また、上ではいわゆる「厳格な合理性の基準」という審査基準を立てた。
ただ、平成18年当時の本番において、私はいわゆる「合理的関連性の基準」によるべきか、それともいわゆる「厳格な合理性の基準(実質的関連性の基準)」によるべきか少し悩んだ。
結局、後者を選んだわけだが。
両者の違いは、審査の密度である。
つまり、いわゆる合理的関連性の基準では、目的と手段が抽象的・観念的・形式的に関連していれば関連性を認めるのに対して、いわゆる実質的関連性の基準では、目的と手段が具体的・実質的に関連している必要がある。
だから、前者の方が違憲審査基準が緩やかになる。
この点、本問の規制は表現の自由に対する規制である。
だから、経済的自由の制約と異なり、立法裁量を認める必要がない関係で、裁判所は具体的な比較衡量ができる。
よって、具体的に審査する厳格な合理性の基準を用いてもいいし、あるいは、用いるべきということもできる。
猿払事件で用いられた基準が合理的関連性の基準である以上、合理的関連性の基準にこだわるべきではないか、そんな疑問もちらつくけれども。
以上、違憲審査基準まで考えた。
次回はこの基準を用いてあてはめを行う予定である。