薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『日本人のためのイスラム原論』を読む 11

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

11 「第2章_イスラムの『論理』、キリスト教の『病理』_第2節」を読む(前編)

 

 前節(第2章の第1節)で、ユダヤ教キリスト教イスラム教が奉じる「神」についてみてきた。

 キリスト教イスラム教・ユダヤ教の奉ずる神は「人格をもった絶対神」である点は共通する。

 しかし、その性格は大きく違う。

 

 第2章の第2節のタイトルは「予定説と宿命論_イスラムにおける『救済』とは何か」。

「救済」の具体的内容について、ユダヤ教キリスト教と比較しながらみていく。

 

 

 この点、古代イスラエル人が信仰した絶対神

 彼らが信仰した絶対の神は苦難をもたらす神、必ずしも幸福をもたらさない神であった。

 また、この神は自らの民でさえ滅すことを厭わない。

 その最たる例が、イスラエルの民がエジプトを脱出してシナイ山の麓で野営しているときにおきたエピソードである。

 

 エジプトから脱出したイスラエルの民はシナイ山の麓で野営する。

 その野営中、神から呼び出されたモーセシナイ山に登り、キャンプを留守にした。

 そのとき、イスラエルの民はエジプトに住んでいたころに拝んでいた犢(こうし)の像を作り、その像を拝みだしたのである。

 

 この行為は偶像崇拝であり、律法に反する行為である。

 これを知った神は怒り狂い、「このような民は皆殺しにしてくれる」モーセに告げた。

 他方、モーセは必死に神を説得する。

 このモーセの説得により神はイスラエルの民の抹殺を思いとどまった、そう聖書は記している。

 

 なんと神は怒りにまかせて自らの民を皆殺しにしようとしたのである。

 せっかくなので、この部分をウィキソースの口語訳旧約聖書から引用してみる。

 

ja.wikisource.org

 

(以下、『口語訳旧約聖書』の『出エジプト記』の第32章を引用、節番号は省略し改行でで対応、強調は私の手による)

 民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。

 アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。

 そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。

 アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。

 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。

 そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。

 主はモーセに言われた、「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。

 彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている」。

 主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。

 それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。

 モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。

 どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、

 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。

 それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。

 モーセは身を転じて山を下った。彼の手には、かの二枚のあかしの板があった。板はその両面に文字があった。すなわち、この面にも、かの面にも文字があった。

 その板は神の作、その文字は神の文字であって、板に彫ったものである。

 ヨシュアは民の呼ばわる声を聞いて、モーセに言った、「宿営の中に戦いの声がします」。

 しかし、モーセは言った、「勝どきの声でなく、敗北の叫び声でもない。わたしの聞くのは歌の声である」。

 モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた。

 また彼らが造った子牛を取って火に焼き、こなごなに砕き、これを水の上にまいて、イスラエルの人々に飲ませた。

 モーセはアロンに言った、「この民があなたに何をしたので、あなたは彼らに大いなる罪を犯させたのですか」。

 アロンは言った、「わが主よ、激しく怒らないでください。この民の悪いのは、あなたがごぞんじです。

 彼らはわたしに言いました、『わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセは、どうなったのかわからないからです』。

 そこでわたしは『だれでも、金を持っている者は、それを取りはずしなさい』と彼らに言いました。彼らがそれをわたしに渡したので、わたしがこれを火に投げ入れると、この子牛が出てきたのです」。

 モーセは民がほしいままにふるまったのを見た。アロンは彼らがほしいままにふるまうに任せ、敵の中に物笑いとなったからである。

 モーセは宿営の門に立って言った、「すべて主につく者はわたしのもとにきなさい」。レビの子たちはみな彼のもとに集まった。

 そこでモーセは彼らに言った、イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』」

 レビの子たちはモーセの言葉どおりにしたので、その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。

 そこで、モーセは言った、「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らって、きょう、主に身をささげた。それで主は、きょう、あなたがたに祝福を与えられるであろう」。

 あくる日、モーセは民に言った、「あなたがたは大いなる罪を犯した。それで今、わたしは主のもとに上って行く。あなたがたの罪を償うことが、できるかも知れない」。

 モーセは主のもとに帰って、そして言った、「ああ、この民は大いなる罪を犯し、自分のために金の神を造りました。

 今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば―。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。

 主はモーセに言われた、「すべてわたしに罪を犯した者は、これをわたしのふみから消し去るであろう。

 しかし、今あなたは行って、わたしがあなたに告げたところに民を導きなさい。見よ、わたしの使はあなたに先立って行くであろう。ただし刑罰の日に、わたしは彼らの罪を罰するであろう」。

 そして主は民を撃たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのである。

(引用終了)

 

「神がモーセの説得を受け入れ皆殺しを思いとどまった」という話は知っていたが、話はこれだけで終わらなかったらしい。

 皆殺しにこそならなかったが、相応の騒動にはなったようである。

 

 

 ところで、このエピソードには古代イスラエル人の宗教センスが反映されている。

 そして、この感覚を把握することがユダヤ教キリスト教イスラム教を理解するカギになる。

 

 そのカギは二点に集約される。

 一つ目は、古代イスラエルの民が奉じた「神」は感情の起伏が激しい人格神である、ということ。

 もう一つ、神に対し「人」は「合理的」に対処した、ということである。

 

 つまり、古代イスラエル人の奉じる神は、太陽神や儒教の「天」のような自然界を抽象化した存在ではなく、意思や感情、そして、人格や個性を持っている。

 また、感情の起伏も穏やかではなく激しい。

 

 さらに、シナイ山で神はモーセから「ここで自分の民を皆殺しにすれば、エジプトの民から『あの神は自分を奉ずる民を騙して連行し、皆殺しにした』と言われますよ」と言われて、皆殺しを思いとどまった。

 このことから、この神様はエジプトの民(自分の民より恵まれている異教徒というべきか)の評判が気になるらしい。

 絶対神ともあろうお方がなぜそのようなことを気にしなければならないのか、よくわからないところではあるが。

 

 

 もう一点、対象を神から人(モーセ)に移すころで別のことがわかる。

 モーセは神を「言葉」で説得した。

 つまり、神に対して人は合理的な対処をした

 この合理性こそが古代イスラエルの宗教の特徴であると喝破したのが、かの大学者マックス・ウェーバーであった。

 

 

 この点、古代に遡ってみれば、イスラエル人の存在感はなきに等しかった。

 そのことをマックス・ウェーバーは「賤民」という言葉を用いて表現した

 読み方は「せんみん」であるが、「選民」ではない。

 

 事実、イスラエル人はエジプトを脱出してカナンにてイスラエル王国を作るが、のちに分裂、結果的に、バビロン捕囚の憂き目にあう。

 その結果、古代イスラエル人の記録は歴史書の片隅に記載されておしまい、ということもありえた。

 ところが、この古代イスラエルの宗教センスからユダヤ教キリスト教イスラム教といった宗教を生み出し、世界を完全に変えてしまった。

 その理由、つまり、古代イスラエル人の宗教の特徴(他の宗教との相違点)は何か。

 その特徴こそ「宗教の合理化」である。

 

 

 話はここで「一神教」に移る。

 この点、古代エジプトでは多数の神々が信仰の対象となっていた。

 古代ギリシャやヒンディー教、過去の日本のように。

 しかし、多神教から一神教に変えようとする試みが行われた。

 つまり、エジプトの王イクナートンは太陽神アテンのみを信仰し、他の神に対する信仰を禁止しようとした。

 もっとも、この試みは失敗し、イクナートンの次の次の王であるツタンカーメン多神教に戻すことになる。

 

 このように、一神教はいきなり一神教ができるのではなく、「多神教における神々が整理されて一つの絶対神に収束する」という形で出来上がる

 そして、そのことは古代イスラエルでも例外ではないらしい。

 

 

 さて、先ほど述べた「宗教の合理化」

 古代イスラエル人は「人格や意思を有する神」を崇拝するだけではなく、崇拝方法も合理的にしていった。

 では、その「合理化」とは具体的に何を意味するのか。

「宗教の合理化」は「呪術からの脱却」という形で具体化されることになる。

 

 この点、宗教と呪術は切っても切れない関係にある。

 例えば、呪術というと「黒魔術」とか妖術師といったものを想定するかもしれない。

 あるいは、五寸釘とか雨乞いとか。

 しかし、宗教学の範囲で見た場合は呪術の範囲はもっと広い。

 例えば、神社で手を合わせて神様に大学合格や安産などを祈る。

 このような「神に対してよい結果をもたらすようお願いすること」も呪術である。

 

 と、このような結論を示すと「呪術が伴わない宗教なんかあるのか」と疑問に思うかもしれない。

 しかし、本来の宗教は呪術は厳禁である。

 そのことは、ユダヤ教イスラム教、キリスト教などの啓典宗教はもちろん、儒教や仏教も例外ではない。

 その点について日本人がピンとこないのは、日本がその意味で呪術の園だからである。

 そこで、呪術の決別と宗教の合理性について深く見てみる。

 

 

 この点、まっとうな宗教は呪術を嫌う

 そのことを理解することがイスラム教をはじめとする宗教を理解する大事な鍵である。

 では、ここで述べる「呪術」とは何か。

 簡単に述べると、呪術とは「人間が神を操ること」をいう

 

 この点、ユダヤ教の「十戒」に関する部分をウィキソースから引用する(リンク元は上と同じ)。

 

(以下、『口語訳旧約聖書』の『出エジプト記』の第20章の第2節から第17節まで引用、節番号は省略し、改行によって対応、強調は私の手による、また、強調した部分が十戒の条項である)

「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。

 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。

 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、

 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

 安息日を覚えて、これを聖とせよ。

 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。

 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。 

 あなたは殺してはならない。

 あなたは姦淫してはならない。

 あなたは盗んではならない。

 あなたは隣人について、偽証してはならない。

 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

(引用終了)

 

 この十戒のうち、日本人にとってピンとこないのが、3つ目の「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。」である。

 何故、神の名前を述べることがダメなのか。

 この規定は他の九か条と同様、重要な規定であり、形式的なものではない。

 とすれば、逆に、「神の名前を述べることに重要な意味がある」ことになる。

 では、神の名前を述べることにどんな意味があるのか?

 この点を理解することで呪術の意味が理解できると考えられる。

 

 

 古代イスラエルの神は自分の名前を明かすのを嫌う。

 そのことは、神がモーセに対してエジプトに行ってイスラエルの民を救ってくるように命じた際にもみることができる(『出エジプト記』の第3章)。

 最初、神はモーセに対して「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(訳は上のウィキソースより、「出エジプト記」の第3章第6節)と名乗るが、本名を明かさない。

 モーセも、エジプトにいるイスラエルの民から「その神の名前は何というのですか?」と質問されて答えられないのも困るので、神の名前を頂戴しようとする。

 そうすると、神は「わたしは、『有って有る者』」と返答したりしている。

 まあ、神は最終的に自分の本名(ヤハウェ)を明かすわけだが。

 

 もちろん、他にもエピソードがある。

 例えば、アブラハムの子孫にしてイスラエルの直接の先祖にあたるヤコブとのやり取りでもそのような傾向を見ることができる。

 ヤコブは神と格闘して、神を負かす。

 そして、彼は神に「どうかあなたの名前を教えてください。」と尋ねるのだが、神は「なぜ私の名前が知りたいのか。」と言って、本名を教えなかった(『創世記』の第32章)。

 

 

 では、何故十戒では神の名前を唱えるのを禁じたのか。

 それは、「人間が神の名前を唱えることが呪術に、神を操ることにつながるから」である。

 

 例えば、先ほどの神にお祈りをして願いをかなえる例を考える。

 神の名前(願いをかなえてほしい人の名前)を述べ、願い事を言い、所定の行為(祝詞を唱える、いけにえを捧げるなど)を行う。

 その結果、神がそのお願いをかなえる。

 このルーチンワークを見ると、神の名前を呼ぶことは「願いをかなえたい人が神を操って願い事を実現する手段」の出発点にあたる。

 これが「神の名を呼ぶことが呪術につながる」の意味である。

 

 呪術の本質は神をして人間の思い通りの行為をなさせしむることだと述べた。

 そして、古来から神を操るための手段として、祝詞だの護摩壇だの生贄などの手段が開発されてきた。

 こうした呪術を知っている人間を魔術師などと言ったわけだが、こうやってみれば古代の宗教の神官も似たようなものである。

 これらの神官たちは「自分は神のしもべである」といった風な顔をしているが、彼らが重用されるのは人間の都合にあわせて神を操る方法を知っているからである。

 もちろん、人の願いを実現するのは神であって神官ではないとしても。

 その意味で、古代宗教の神官とは神と交流・会話する存在ではなく、神を操る存在といえる。

 

 

 この点、このような呪術は世界中にあり、古代エジプトに限った話ではない。

 その意味で宗教と呪術は密接な関係がある。

 人間のわがままさを考慮すれば、これはしょうがない。

 ただ、倫理的な宗教者はこのような呪術を嫌い、なんとか追放しようとする。

 

 この点を仏教を通じてみてみる。

 法前仏後で構成される仏教の世界では釈迦といえども世の法則を覆すことはできない。

 とすれば、仏や操る、あるいは、法則をねじまげる呪術といったものが存在する余地はないように思える。

 しかし、神通力なるものは存在する

 これはテレパシー、未来予知といった超能力のようなものである。

 

 この点、釈迦はこの神通力を持っていた、と言われている。

 しかし、釈迦自身は神通力の開発を奨励しなかった。

 というのも、神通力は修行をすれば自然と備わると考えられていたところ、神通力の取得を目的とするのは本末転倒になってしまうからである。

 

 もっとも、この釈迦の精神は仏教の普及とともに廃れていく。

 本来、仏教では悟りを得るためには出家をしてサンガに入り、修行をする必要があった。

 しかし、仏教が広がり、多数の在家信者が生まれることで、「出家しないで悟りを得る方法はないか」という要求が高まることになる。

 その結果、生まれたのが大乗仏教である。

 

 そして、仏教の広がりと仏教の大衆化は呪術の発達を促した。

 仏や菩薩を動かして人間の願いをかなえる方法が開発されるようになったのである。

 その一方で、仏教の普及に神通力を用いるといったことも行われるようになる。

 

 

 このような宗教に対する呪術の進入は仏教に限った話ではない。

 例えば、儒教についてみてみる。

 集団救済を想定する儒教でも呪術の出番はない。

 このことは、顔回が病に倒れたときに孔子が何もしなかった、つまり、天に対して何もしなかったことからもわかる。

 もちろん、他にもエピソードはある。

 

 儒教においては正しい政治を行うことで集団が救済され、その結果、個人が救済されると考える。

 その意味で呪術に頼ることに意味がない。

 しかし、儒教も時代を経るにつれ、呪術的要素が混入する。

 その過程を経て生まれたものの一つに陰陽道がある。

  

 このように仏教も儒教も呪術による進入を免れることができなかった。

 そもそも、人間の本性から考慮すれば、宗教が呪術の園になるのは不可避的である。

 そのことは山本七平がいうところの日本の「雨」を見ればわかるかもしれない。

 

 しかし、古代イスラエル人は呪術への傾斜を徹底的に拒否し、宗教の合理化への道をまい進することになる

 もちろん、その過程に紆余曲折があるとしても。

 

 つまり、神が絶対にして万能であるならば、人間に神が操れるわけがない

 もし、人間が神を操れるなら、むしろその神のレベルはたかがしれている。

 そのように考えたのである。

 

 イスラエルの神が自分の名前をいうのを嫌った理由はこのことが背景になっている。

 つまり、イスラエルの民が自分の名前を呼び、自分の操ろうとすることを警戒した、嫌った、というわけである。

 まあ、絶対の能力を持つ神なら名前を教えたくらいで操られるわけないと考えそうなものではあるが。

 

 このことで「神を名をみだりに呼ぶこと」を禁止した理由も見える。

「神に願い事をして、その願いを聞いてくれる」と考え、また、お願いをすることは不合理な行為である。

 というのも、「神に願い事をして、その願いを聞いてくれる」と考えることは「神が人間ごときに動かされること」を意味し、「神は万能・絶対である」ということと両立しないから。 

 このように徹底して合理的に考えていくことで、呪術を追放していった。

 その結果、普通の宗教とは逆の方向に進んでいったのである。

 そして、この発想が当時ちっぽけだったイスラエルの宗教が世界を変えた秘訣でもある。

 以上がマックス・ウェーバーの主張である。

 

 

 うーむ、参考になった。

 しかし、こう見ると、日本教のモデルタイプは古代イスラエルの宗教のモデルタイプと真逆に位置するように見えなくもない。

 合理化を徹底したのが古代イスラエルの宗教なら、不合理を徹底したのが日本教というか。

 この妄想(仮説というにもおこがましい超適当な私の思い付き)、暇があったら考えてみたい。

 

 では、今回はこの辺で。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 10

 今回はこのシリーズの続き。

 

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『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

10 「第2章_イスラムの『論理』、キリスト教の『病理』_第1節」を読む(後編)

 前回と前々回は、古代ユダヤ教キリスト教における「神」のイメージを見てきた。

 今回からイスラム教における「神」のイメージをみていく。

 

 

 ユダヤ教キリスト教と異なり、イスラム教における神アッラーは寛大である。

 このことは、クルアーンが「神が慈悲深い」ことを強調していることからも明らかである。

 なお、クルアーンの冒頭については次のウィキペディアの記事が参考になるだろう。

 

ja.wikipedia.org

 

 

 もっとも、アッラーは、過去にモーセ(ムーサー)やイエス(イーサー)などの預言者を派遣した、また、アブラハム(イブラーヒーム)の前に現れた、とも述べている。

 つまり、ユダヤ教の神ヤハウェイスラム教の神アッラーは同じ、ということになる。

 そこで、従来の神のイメージとアッラーの違いに対する説明が必要になる。

 

 では、イスラム教はこの点をどう説明しているか。

 簡単に言えば、ユダヤ教徒キリスト教徒は『神』を誤解している」ということになる。

 

 つまり、「もし、神がユダヤ教徒キリスト教徒が考えているような恐ろしい存在・心の狭い存在・慈悲のない存在だとしたら、ソロモン(ダビデ王の息子)の『異教の神を祀った行為』に対して、ユダヤの民がゾドムやゴモラの民のような皆殺しの結末を迎えていないのは何故だ?」と考えるのである。

 この点、ソロモンの異教の神を祀った行為は十戒の冒頭にある第一条の「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」に抵触する(出エジプト記第20章・第3節、口語訳旧約聖書へのリンクは次の通り)。

 

ja.wikisource.org

 

 異教の神を祀る行為が一神教における大罪であることは言うまでもない。

 その結果、イスラエル王国は分裂し、滅亡した。

 また、イスラエルの民はバビロン捕囚やディアスポラなどの悲劇を味わうことになった。

 しかし、ユダヤ民族は健在である。

 ヨシュア記に出てくるカナンの先住民、創世記に出てくるゾドムやゴモラの結末と比較すれば、「異教の神を祀ったソロモン王の行為に対する処分」としてはかなり寛大である。

 なお、ゾドムとゴモラ偶像崇拝の罪を犯したわけではないのに皆殺しの憂き目にあっている。

 旧約聖書の記載だけではこの程度の処分で済んだ理由が説明できない。

 

 イスラム教ではその理由を「アッラーが慈悲深いから」と説明する。  

 つまり、アッラーは慈悲深い。だから、ユダヤ民族の数々の背信的行為に対して、皆殺しといった厳格な処分ではなく、王国の滅亡と民族離散といった寛大な処分で済ませている。にもかかわらず、それを異教徒たち(ユダヤ教徒キリスト教徒)は『神は恐ろしいもの』と誤解している」と説明するのである。

 まあ、これなら合理的な説明と言いうるし、十分に納得しうるものにはなっている。

 日本教天皇教などから見た場合、別の評価がありうるとしても。

 

 

 ここで、話は神の慈悲深さから教理の整合性・合理性について進む

 つまり、イスラム教はユダヤ教キリスト教と比べて教理の整合性・合理性が高い、という点に進む。

 もっとも、イスラム教はユダヤ教キリスト教の後に生まれた啓典宗教であることを考慮すれば、当然の結果とも言いうるが。

 

 例えば、マホメット預言者であるが、人間に過ぎないと規定した点。

 キリスト教ではイエス・キリストに関する議論が紛糾し、ローマ帝国の皇帝が二ケア公会議が開いた。

 その過程でキリスト教は「三位一体説」を採用していくことになる。

 ただし、二ケア公会議によって事態は収拾せず、その後、カルケドン公会議によって「三位一体説」を確認したことは第1章でみてきたとおりである。

 これに対して、イスラム教では「マホメットは『預言者』だが、人間に過ぎない」と規定し、このような問題が起きないようにしている。

 

 また、「悪魔」に関する扱い方もイスラム教の教義の整合性・合理性を示す根拠になる

 聖書にはいたるところに「悪魔」(サタン)が登場する。

 もちろん、イエス・キリストの前にも悪魔が出現した。

「ルカ福音書」の記載に従うと、悪魔はイエス・キリストに対して様々な誘惑を仕掛けるが、イエス・キリストは悪魔の誘惑を拒み続け、ついには、悪魔は退散する。

 また、イエス・キリストは伝道の途中で様々な奇蹟を起こす一方で、そのたびに「これは悪魔の力を借りたのではない」と釈明する。

 このようにたびたび聖書で登場する悪魔だが、ユダヤ教キリスト教ではこの悪魔の位置づけが曖昧である。

 

 この点、啓典宗教において神は造物主である。

 よって、悪魔も神が作ったことになる

 この場合、キリスト教のようにイエス・キリストが神であれば、「悪魔の力を借りたわけではない」などと釈明する必要はない。

「悪魔であっても所詮は神である私が作った物に過ぎない。神である私が悪魔を操って(命令して)、奇蹟を起こしてやったんだ」と言った方が論理的にすっきりするし、合理的でもある。

 しかし、その神が悪魔との関連性を否定するのは不可解である。

 また、聖書では神が作ったであろう悪魔が神に敵対する

 となれば、「何故、神はそのような悪魔を作ったのだ」ということになり、矛盾しているように見える。

 

 これに対して、イスラム教における悪魔の定義は明快である。

 イスラム教の悪魔は「神が『天使として作った物』が、なんらかの理由で神に罰された結果生まれた者」ということになる

 つまり、「悪魔は神が作った、かつ、悪魔は神に罰せられた。よって、人間は悪魔に近づいてはいけない」ということでこれまた明快な説明がある。

 もちろん、これに対して「では、神は全知全能であるにもかかわらず、結果的であるとはいえそのような失敗作をおつくりになられたのか?」と言いうるとしても。

 

 これまで悪魔の話をもってきたが、天使についても同様である

 ユダヤ教キリスト教では天使について判然としない。

 また、宗教改革の際にルターが天使に関する記載があったものを外典として追放した。

 その結果、天使とは「なんとなく存在していたもの」、「さまざまな傍証から神の召使と推定されたもの」であった。

 他方、イスラム教では天使とは神に仕える清浄な霊であり、六信のうちの二つ目(天使、マラク)になっている

 

 もちろん、後発性を考慮すれば、「そりゃそうだよね」という感想を持つとしても。

 

 

 ところで、ユダヤ教キリスト教と異なり、イスラム教におけるアッラーは慈悲深い神である点が大きく異なることを述べた。

 そのことは「異教徒に対する態度」に現れている。

 

 既に述べた通り、クルアーンでは「宗教に強制なし」と述べている部分がある(クルアーン第2章)。

 特に、啓典の民であるキリスト教徒やユダヤ教徒に対してはより寛大だった。

 少なくても「異教徒は人ではない。むしろ、虐殺することが正義にかなう」といったレベルからかけ離れていることは明らかである。

 

 本書では、歴史的観点からキリスト教徒に対する寛容性を裏付ける事実を二つ挙げている。

 

 一つ目は1453年、コンスタンティノープル(現イスタンブル)の陥落による東ローマ帝国ビザンティン帝国)の滅亡。

 十字軍による一時的な陥落はあったものの約1000年以上続いた東ローマ帝国の滅亡、また、正教会の本拠地であるコンスタンティノープルの陥落がヨーロッパに与えた衝撃は大きかった。

 もっとも、オスマン帝国コンスタンティノープル陥落後もギリシア正教の存続を許した。

 また、キリスト教徒の信仰・教会の自治権も一定の条件付きで認めた。

 現在でもコンスタンティノープル教会は存続しており、正教会の席次においては筆頭の地位を占めている。

 

 

 もう一つの例として書かれているのがコプト教の例である。

 コプト教は三位一体説の解釈において「イエス・キリストは人であり、かつ、神である。ただし、バランスを見れば神性が人性を圧倒している」と考える。

 この発想は三位一体説と矛盾するわけではない。

 この点は「イエス・キリストは偉大なる人ではあるが、神ではない」と述べ、イエス・キリスト教の神性を否定したために異端として排除されたアリウス派と異なる。

 しかし、コプト教会はカルケドン公会議をきっかけに孤立し、一時はエジプト教会からも追放された。

 このまま何事もなければコプト教会は歴史の中に埋没していたことであろう。

 もっとも、イスラム帝国アレクサンドリア征服によって流れが変わる。

 イスラム帝国コプト教アレキサンドリア帰還を許可したのである。

 

 コプト教会の教えはイスラム教の「イエス(イーサー)は預言者であるが、神ではない(人に過ぎない)」という発想からすれば大違いである。

 この点については、異端として排除されたアリウス派の発想の方がイスラム教の教えに近い。

 しかし、当時のイスラム帝国コプト教の存続を許した。

 その後、コプト教はエジプトを中心に活動している。

 

 もちろん、歴史を見れば、逆の例も大いに存在するだろう。

 それでも、カナンの例や大航海時代以後に新大陸やアジア・アフリカで行ったキリスト教徒(カトリックプロテスタント)の行為と比較すれば、その差はある程度明らかである。

 そのことは本書の次の話題によって補強される。

 

 

 話題はここからイスラム教からキリスト教に移る。

 これらのイスラム教の態度に対してキリスト教はどのように応えたか。

 これまでの記載、あるいは、17世紀にヨーロッパ内で起きたプロテスタントカトリックの抗争などを見れば、答えは想像のとおりである。

 

 本書ではその例を二つ挙げている。

 一つ目は十字軍である。

 この十字軍はセルジューク・トルコに対して劣勢となっていた東ローマ帝国カトリック教会に援助を求めることで始まった。

 東ローマ帝国の援助に対してカトリック教会は聖地エルサレムの奪還をもくろみ、十字軍を編成することになる。

 この十字軍の一行、または、聖地エルサレム奪還の熱狂に推されて立ち上がったキリスト教徒がやらかしたことは、このメモでは「まあ、お察しのとおりである」と述べるにとどめる。

 本書では、「宗教に名を借りた『ならず者集団』だったと理解した方が、ずっと実態に近い」とまで酷評されている。

 

 これに対して、イスラム側はどうだったか。

 第1回十字軍が編成されたころ、アラビア社会はセルジューク朝が分裂し、相互に争っていた。

 そのため、イスラム社会は大同団結することができず、領主の中には十字軍に降伏・味方する者もいた(まあ、侵攻してきたならず者集団に領土と領民を蹂躙されるよりもマシな道を選んだ、とも言える)。

 その後、十字軍に対する反撃において主導的な役割を果たすのが、サラーフッディーンサラディン)である。

 このイスラム社会の英雄は、第1回十字軍侵攻時にエルサレムを領有していたファーティマ朝(エジプト中心のイスラム王朝)の宰相であり、後のアイユーブ朝の君主である。

 サラーフッディーンエルサレムを奪回、第3回十字軍ではリチャード1世の攻撃に耐え、守り抜いている。

 その態度はヨーロッパ人を驚嘆せしめ、12世紀に戴冠したドイツ王に対してとある詩人がサラーフッディーンの言葉を引用したと言われている。

 また、捕虜の取り扱いも公平であった。

 たびたび休戦協定を破った者(ルノー・ド・シャティヨン)は容赦なく斬首しているものの、捕虜だからといって直ちに処刑するといったことはなかった。

 総てのイスラム教徒がこのような紳士的態度だったかはさておくとしても、両者の違いは雲泥の差である。

 

 十字軍の話はこの辺としよう。

 本書で取り上げられているもう一つの例がイベリア半島(スペイン)でなされた異端審問(宗教裁判)である。

 

 まず、本書に記載がないイベリア半島の歴史を確認する。

 イベリア半島キリスト教西ゴート王国が支配していた。

 その後、ウマイヤ朝の時代にイスラム教勢力に征服される。

 もっとも、11世紀のコルドバウマイヤ朝の滅亡により、それまでのイスラム教とキリスト教のバランスが崩れる。

 そして、13世紀にはグラナダ王国を除いてイスラム教の王国は駆逐され、1492年にはグラナダ王国も滅亡する。

 

 この点、イスラム教がキリスト教に寛容だった点はイベリア半島でも同様であった。

 無論、人頭税といった負担や社会的な差別があったことは否定できないとしても。

 もっとも、イスラム教に改宗した人間は少なくなく、レコンキスタが終了した後もイベリア半島にはグラナダを中心にイスラム教徒が残留していた。

 また、レコンキスタが完了するまではユダヤ教徒イスラム教徒に対して寛容であった。

 以上、歴史の確認終了。

 

 しかし、レコンキスタの終了、スペイン王国の成立などによりイベリア半島にとってイスラム教徒の運命は大きく暗転する。

 スペイン王国は、改宗か国外退去を迫るようになる。

 それに対して、ムスリムは表面上の改宗でしのごうとする。

 しかし、隠れキリシタンは不可能でなくても、隠れムスリムというのは不可能である。

 何故なら、クルアーンには様々な行動規範があるので、メッカに向かって礼拝していることを見つかれば直ちにばれてしまうから。

 さらに、本書に記載されていないが、スペインは17世紀に隠れムスリムことモリスコを国外追放している。

 

 この辺の話も、新大陸でスペインがしてきたことを見れば「お察しのとおり」と言うしかない。

 

 

 もちろん、「イスラム教が異教徒に寛容である」といっても、近代社会のような「信教の自由」があるわけではない。

 また、異教徒に対して人頭税が課せられていたこと、社会的な区別ないし差別があったのは事実である(もっとも、イスラム教徒には喜捨の義務があった)。

 さらに、後述する通り「寛容だ」といっても限度がある。

 

 しかし、日本やヨーロッパに流布されているイメージの中では「イスラム教の持つ寛容性」は全く見られないと言ってよい。

 本書では、「コーランか、剣か」を参照しながらその点を紹介している。

 

 著者は「コーランか、剣か」というイメージにまつわる有名な話としてイスラム教徒は剣とクルアーンを引っ提げて、全世界を荒らしまわった。被征服者に剣を突きつけて、『クルアーンを信じなければ殺す』と脅かした」という話からこんなことを述べている。

 この話が正しければ、そのイスラム教徒は両手にクルアーンと剣を携えていたことになる。

 では、クルアーンをどちらの手で持っていたのか

 左手にクルアーン、右手に剣を持っていた場合、イスラム教徒にとって不浄の手でクルアーンを持っていたことになるが、これはイスラム教徒としてあるまじき行為ではないか。

 逆に、右手にクルアーンを持ち、左手に剣を持っていたなら、イスラム教徒はみな左利きになるように訓練していたことになるが、戦争という高い合理性が要求されるところでそんな不合理なことをするのか、と。

 まあ、右手、左手云々は冗談であるし、これを論破することはそれほど難しくないとしても(右手で剣を持ち、コーランは背に担いでいたその他)。

 

 

 もちろん、イスラム教が異教徒に対して寛容だ」といったところで限度はある

 そして、イスラム教が絶対許さないものとして「偶像崇拝」がある

 もちろん、ユダヤ教でも偶像崇拝は宗教的大罪である。

 このことはヤハウェモーセに与えた十戒において偶像を拝むことを禁止していることからも明らかである。

 

(以下、ウィキソース出エジプト記第20章の第4節から第6節まで引用、節番号は省略、文毎に改行、ウィキソースのリンクは次の通り)

 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。

 上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。

 それにひれ伏してはならない。

 それに仕えてはならない。

 あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

(引用終了)

 

ja.wikisource.org

 

 よって、古代イスラエル王国でイスラエル人はモーセ十戒を刻んだ石を運んだ箱(聖櫃)を神殿において、それに頭を下げた。

 この点はイスラム教徒も同様であり、イスラム教の聖地、メッカのカーバ神殿に安置されているのは聖なる黒石である。

 ちなみに、クルアーンによると、カーバ神殿を作ったのはアブラハム(イブラーヒーム)とその庶子であるイシュマエル(イスマーイール)であると言われている。

 このイシュマエルの子孫がアラブ人とされている。

 

 

 ちなみに、キリスト教ユダヤ教イスラム教と同じ啓典宗教である。

 しかし、偶像崇拝に対する規範意識が弱い。

 それが証拠に、キリスト教ではイエス・キリストの像や聖母マリアの像があり、それに頭を下げていた。

 これが偶像崇拝にあたることは言うまでもない。

 

 この偶像崇拝を嘆いたのが、宗教改革において大活躍した神学者ジャン・カルヴァンである。

 カルヴァンは「聖書に戻れ」と主張して、各地のイエス像やマリア像などの偶像を破壊していくが、いつの間にか尻すぼみになってしまった。

 このカルヴァンの行為は日本社会から見れば文化財破壊運動であり、過激な行為に見える。

 しかし、聖書から考えれば筋は通っている。

 特に、イスラム教では偶像崇拝は徹底しており、神の像はおろか、マホメットの図画・像を作ることさえ禁じている。

 その点は他人や異教徒に対しても容赦がない。

 

 本書では、タリバン政権によるバーミヤン石仏の破壊の事件について触れている。

 この点、文化財の破壊としてみた場合、タリバン政権の行為に対して非難することは十分可能である。

 また、財産権不可侵その他のロジックによって非難することも不可能ではない。

 しかし、タリバン政権から見た場合、石仏を拝んでいる仏教徒に対して、仏教徒がすべきことは『修行による解脱』であり、仏像などといった『ただの石くれ』を拝む必要はないし、むしろ、解脱から遠のくのではないか」などと反論されることにはなろう。

 これに対してどう再反論するのか、あるいは、行動するのか。

 感情的な反発が生じることは十分あり得るし、それは当然である。

 しかし、感情的な反発だけで終えるのであれば、イスラム教に対する理解もイスラム教徒との交流も不可能である。

 もちろん、理解することとそれに対してどう行動するかは全部別問題である

 また、理解する気がない、交流する気がないというのであれば、構わないとも言いうるが。

 

 

 ところで。

 クルアーンには「聖戦(ジハード)」という言葉がある。

 また、イスラム教では、イスラム教の国家を「イスラムの家」、それ以外の地域を「戦争と家」と区別し、「イスラム教徒は戦争の家をイスラムの家に変える努力をしなければならない。それが聖戦の義務である」としている。

 しかし、これまでの歴史を見る限り、イスラム教は「ただひたすら好戦的な宗教」ではない

 また、イスラム教を奉じるイスラム社会が現在押されているキリスト教社会に反撃し、余勢をかってアジア(インド圏・中華圏・日本)に進出したとき、必ずしもアジア圏において大航海時代の新大陸や19世紀のアジアで起きた惨劇が再来するわけではない。

 その意味で、世間のイメージと歴史との間には乖離がある。

 

 もっとも、それは「これまでの傾向」であって、ヨーロッパの侵略に懲りたイスラム社会が方針を調整することはありうる。

 さらに、イスラム社会の指導者によっては例外的に逆のことが起こることもある。

 それゆえ、無警戒でいいということにはならない。

 

 さらに、これまで見てきたように寛容性の基準が違うだけで、「無条件で寛容」というわけではない。

 この点は、日本における八百万の神々とは態度が異なる。

 そして、現在、イスラム社会から自爆テロのようなことをする人間も出てきている

 これらを見て、「信者に対して自爆テロのような殉教を勧めるアッラーは本当に慈悲深いのか?」と疑問が生じることは無理からぬことである。

 

 これに対する回答は「『殉教(自爆テロ)』と『異教に対する寛容』は矛盾しない」となる。

 ただ、これについて理解するためには、イスラム教における「救済」について理解しなければならない。

 そこで、次節からイスラム教・ユダヤ教キリスト教などにおける「救済」についてみていく。

 

 

 以上が、第2章第1節のお話である。

 うーむ、参考になった。

 

 ふと、イスラム教政権による石仏破壊の話題が出たので、少々気になった思考実験を。

 もちろん、これは本書に書いていない私の個人的感想(意見でさえない)である。

 

 現実ではイスラム社会と日本社会の接点は極めて少ない。

 地政学的にも距離がだいぶ隔てられている。

 しかし、仮に、日本教に拠る日本社会がイスラム社会の間近にあった場合はどうだろう。

 仮に、日本社会がイスラム社会に敵対しなかったとしても、イスラム社会が日本社会に対してその寛容性が発揮されただろうか?

 偶像崇拝に対する彼らの態度を見ると正直分からないところである。

令和4年の半年間の総括

0、はじめに

 7月に入り、令和4年も半分が終了した。

 そこで、この半年を振り返っておく。

 

1、生活記録から言えること

 3か月前の「令和4年の1月から3月までを振り返ったとき」にも同様のことを述べたが、私は令和3年から生活に関する記録を取っている。

 この点、どの範囲まで生活に関する記録を録るかについては開始当初に試行錯誤があったが、令和3年7月以降は次の記録を録ることで固定している。

 もちろん、記録の際にはリカバリーの方法も決めておく。

 大事なのは継続することであって、精度ではないからである。

 

 その結果、次のようなことが分かり、生活に関する私の基礎情報がそろった。

 

「この時間に何をしていたか(何もしていなかったか)」

「どの程度寝たか」

「どの程度歩いたか」

「どの程度食べたか」(内容・時間・カロリーの概算)

「体重はどの程度か」

「お金の出し入れはどうなっているか」

 

 これまでは「結果を評価することによる自己否定・モチベーションの悪化」を懸念して記録は録るだけにとどめ、細かい評価は行わなかった

 しかし、ここ1年半の諸々の活動により、私自身の自己否定の要素が非活性化している。

 ならば、少々細かい分析・評価などをしてもいいのかもしれない。

 

 

 なお、このような記録を録ることで、「あっという間に時が過ぎてしまった。その間、何もできなかった」と考えることがなくなった。

 もちろん、「『やりたいと考えていたこと』をどの程度消化できたか」と考えれば、暗澹たる結果と言うしかない。

 しかし、「具体的にしてきたこと」を記録を見ながら積み上げれば、そこそこの量になる。

 そのことが自己否定に向かうものをいくばくか緩和させていることは間違いない。

 

 また、自分の限界もわかり、かつ、それを受け入れられるようになった

 例えば、ここ1年間、睡眠時間について淡々と記録をつけている。

 よって、この1年間の睡眠時間の95%信頼区間の外側にある睡眠時間まで変える(減らす)のは容易ではない。

 そう考えることで、自己否定の感覚を持つことなく自分の限界を知り、かつ、その限界を受容できるようになった。

 

 もちろん、「もう少し活動時間の割合を増やしたいなあ」と考えることはなくはない。

 しかし、この1年間の傾向として活動時間は増加傾向にある。

 ならば、この増加傾向を捨ててまで生活時間の分配割合を変えに行く必要もないだろう、とは考える。

 別に、何かをしなければならない特段の緊急性もないのだから。

 

2 読書とブログについて

「令和3年から始めたこと」にこのメモブログと読書がある。

 そして、ブログの記事作成は順調に進んでいる。

 また、読書の結果、色々なことが相対化され、過去の私をがんじがらめにしていた呪いが解けた。

 

 この点、前回(令和4年4月)、「読書やブログに分配される時間が多い」という感想を持った。

 しかし、4月以降、読書やブログにかける時間は相対的に減少している。

 他にやること(これらのことはこのブログに書くことはできない)が増えたからであろうが、いいことである。

 

 ただ、7月に入ってからブログの記事作成が遅延気味になっている。

 この点について、週2記事のペースは維持したい

 

3 資格について

 前回でも述べたが、令和元年から令和3年までの間に6つの資格を取った

 また、今年の5月に1つの資格を取った

 ノルマは1年に2つの資格である。

 そこで、今年中にもう1つ資格を取りたい

 具体的に取ろうと思っている資格は「実用数学技能検定1級」であるが、これは一度失敗していることもあり、周到な準備が必要であると考えられる。

 また、次回の試験日は10月30日。

 そろそろ計画を立てないと間に合わなくなりそうだが。

 

 ところで、資格取得の主目的は「学習の習慣化」であり、「資格そのもの」ではない。

 また、現時点において、資格取得を通じて「学習の習慣化」が実現できているとは到底言えない。

 このことは、どの資格を取った際も、直近の一夜漬け・二夜漬け・一週間漬けみたいな感じになっていることからも明らかである

 もっとも、数学検定1級は一夜漬けやそれに準じたもので合格できるようなものではない。

 そこで、数学検定1級を目指す際には「学習の習慣化」という視点を大いに導入しようと考えている。

 

 ただ、学習の習慣化は読書やブログによって達成されている、と言えなくもない。

 メモブログを書くために専門書を読んで、内容をまとめるといったことをしているのだから。

 そのため、学習の習慣化が資格の取得によって達成されないなら、資格の取得という目的自体、やめてもいいのかもしれない

 

 あと、せっかく取った資格を対外的に活かす方法を考えるのもいいかもしれない

 もちろん、「学習習慣の確立・学習の成果」として資格を取ったのだから、活かさなければならない必然性はない。

 ただ、「チャレンジ」という観点からなら考えてみてもいいだろう。

 

4 体重について

 体重については令和2年の年末にガクンと下がり、その後、約1年間横ばいが続いたが、令和4年に入りまた下がりだした。

 少なくても体重の記録を開始して以降、体重が上昇したなどの事情はない。

 

 もっとも、適正体重から見た場合、自分の体重はまだまだ上にある。

 標準のラインまで、肥満のラインに入らない程度までは体重を下げたいところである。

 

5 プログラミングについて

 最近、プログラミングについては縁が遠くなっており、その状態を解消するために、5月にpython3エンジニア認定基礎試験といった試験を受けた。

 

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 もっとも、遠くなっていた縁が近くなったかどうかは微妙である。

 というのも、この資格の勉強はほとんど一夜漬けだったし、その後、猛烈にプログラミングを始めたわけでもないからである。

 

 この点、このブログに書けない「他にやるべきこと」があるといったやむを得ない事情もある。

 ただ、どうしたものかなあ、とは考える。

  

 

 以上、半年を振り返ってみた。

 残り半年は「現状維持」・「健康維持」が目標。

 さて、3か月後や半年後、私はどう振り返っているだろうか。

司法試験の過去問を見直す5 その3

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成12年度の憲法第1問についてみていく。

 

 前回は「憲法上の権利とその制限」について見てきた。

 ここからはいわゆる正当化、つまり、違憲審査基準とそのあてはめについてみていく。

 そして、教育の自由と営業の自由、それぞれの観点から見た場合の違憲審査基準は異なる可能性がある(同じになることもある)ので、権利毎に丁寧に見ていくことにする。

 

4 教育の自由に対する違憲審査基準

 まず、旭川学テ事件最高裁判決における教育の自由の評価を確認する。

 

・親の教育の自由

 子女に対する教育を行う義務に対応した教育の自由・学校選択の自由がある

・普通教育(初等中等教育)における教育の自由

 効果的な教育を行うためには目の前の子供に対応にあわせる必要があるという教育の本質的要請、公権力による不合理な介入は認められない、という意味で教育の自由が認められる

 ただし、児童生徒の批判能力の弱さ・普通教育における親の選択の幅の狭さ・全国一律の教育水準確保の要請を考慮すれば、その自由の程度は弱い

・国による教育への介入の許容性・許容範囲

 教育に携わる人間の自由の調整(これは各当事者の自由の調整にあたることから、「公共の福祉」による制約といいうる)

 子ども自身の利益の擁護のため、あるいは、子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるためのもので、かつ、必要かつ相当と認められる範囲

 

 以上を前提に、学校法人による幼児教育の自由についてまとめると次のようになる。

 

・教育は目の前の子供に対応して柔軟に行うべき、という教育の本質的要請、この本質的要請に対して国家による不合理な介入は認められないことを考慮すれば、憲法23条によって教育の自由を保障することができる

・私学による学校教育は親の学校選択の幅を広げることに資する点を考慮すれば、学習権を保障した26条の実質化に貢献するため、26条によっても教育の自由が保障される。

・もっとも、幼児は普通教育における児童・生徒以上に教育内容に対する批判能力が乏しく、教育者側に強い支配力・影響力があること、教育の自由は学習権に対する責務が伴っていることを考慮すれば、大学における教授の自由と同等に見ることができない。

 

 このように、本問で教育の自由を検討するなら、自由の認定に対する丁寧な検討が不可欠になるようである。

 また、このように見直してみると、当時、司法試験の勉強で見えてこなかった点が見えてくる。

 当時の勉強は何だったのだろうか、と感じないではない。

 

 

 さて、権利の認定・制限の認定は終わったので、次のステップ、つまり、違憲審査基準の設定に進む。

 違憲審査基準について考えるべきことは、権利の重要性・制限の程度・憲法上与えられた国家の裁量である(この辺は以前述べたことと同様である)。

 そして、違憲審査基準を決める大きな枠は「憲法上与えられた立法・行政の裁量」になるので、ここから考える。

 

 例えば、表現の自由に対する制限の場合、制限によって言論活動それ自体が封じられるため、その制限が不合理なものであった場合に政治過程での回復(言論活動による批判、国会や地方議会での討論による法律・条例改正、選挙による国会・議会の配分の変更)が困難であるから、裁判所は厳格な基準で対応することになる。

 他方、本問のような教育の自由を制限したとしても、制限に対する批判は自由であるから、政治過程での回復が困難であるとは言えない。

 また、憲法上、政府・自治体は社会福祉政策を行うことを予定している(憲法25条以下)ので、福祉政策の中に教育に関する政策は含まれている。

 以上の2点を考慮すると、教育の自由の違憲審査基準は合憲性の推定を基本とする「合理性の基準」によるべきだ、ということができる

 その意味では、教育の自由の大きなフレームワークは経済的自由と同じように考えることができる。

 

 もっとも、経済的自由の違憲審査基準については合理性の基準を前提として規制目的二分論がある。

 また、表現の自由の規制に対しても内容規制と内容中立規制で審査基準が異なる。

 これらのことを考慮すると、合理性の基準だけ示してあてはめに移るのはどうかと考えられる

 そこで、憲法から見た場合の権利の重要性と権利の制限の程度を見て合理性の基準を具体化していくことになる。

 

 まず、見落としてはならない重大なことは、幼稚園設立の不認可処分は法人の教育事業の機会を全面的に奪うという点である。

 つまり、「幼稚園を設立する以外の代替手段」を学校法人は採用できない。

 また、別の県で認可をもらえばいい、というのは現実的ではない。

 このことを考慮すれば、制限の程度の重大さを考慮して合理性の基準の範囲であってもより厳格に判断する、といったことは十分に考えられる。

 当時の勉強で見てきた答案はこの部分を強調し、「厳格な合理性の基準」を審査基準に設定して、違憲の結論にもっていったものが多かったと記憶している。

 

 しかし、幼児教育の自由の権利の重要性の程度は大学の教授の自由よりは弱い

 また、教育内容や教育行政に関する専門性については、裁判所は行政の専門知識を尊重せざるを得ない

 さらに、厳格な合理性の基準はいわゆる経済的自由に対する消極目的規制に用いられる基準であり、政治部門(国会・政府・自治体)の専門的判断がそれほど要らないときに用いられる基準である。

 そのような事情を考慮すれば、本問で厳格な合理性の基準をストレートに用いることに躊躇いを感じざるを得ない。

 

 そして、本問のような行政の専門分野に関する不許可処分が問題となった事件に酒税法事件という事件がある。

 酒税法事件の場合、関連する専門分野は租税であって、本問のような教育ではない。

 しかし、政府・自治体の専門的判断が重要になる点では本問と同様である。

 そして、この事件で最高裁判所明白性の原則(著しく不合理である場合に限り違憲)より少し厳しい「著しく不合理であること」を審査基準にした

 そこで、本件もこの基準を用いるのがバランスのいい結論なのかな、という感じがする。

 

 酒税法事件判決の関連部分を引用してみよう。

 この判決は営業の自由から論じているが、考え方は本問にも用いることができる。

 

 まず、判決へのリンクは次のとおりである。

 

昭和63年(行ツ)56号・酒類販売業免許拒否処分取消事件

平成4年12月15日最高裁判所第三小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/281/054281_hanrei.pdf

 

 まずは、許可制(認可制)に関する言及から。

 

(以下、酒税法事件最高裁判決の関連部分を引用、強調は私の手による)

 一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定し得るためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要するものというべきである最高裁昭和四三年(行ツ)第一二〇号同五〇年四月三〇日大法廷判決・民集二九巻四号五七二頁参照)。

(引用終了)

 

 次に、専門判断と基準に関する部分をみてみる。

 

(以下、酒税法事件最高裁判決の関連部分を引用、強調は私の手による)

 また、憲法は、租税の納税義務者、課税標準、賦課徴収の方法等については、すべて法律又は法律の定める条件によることを必要とすることのみを定め、その具体的内容は、法律の定めるところにゆだねている(三〇条、八四条)。租税は、今日では、国家の財政需要を充足するという本来の機能に加え、所得の再分配、資源の適正配分、景気の調整等の諸機能をも有しており、国民の租税負担を定めるについて、財政・経済・社会政策等の国政全般からの総合的な政策判断を必要とするばかりでなく、課税要件等を定めるについて、極めて専門技術的な判断を必要とすることも明らかである。したがって、租税法の定立については、国家財政、社会経済、国民所得、国民生活等の実態についての正確な資料を基礎とする立法府の政策的、技術的な判断にゆだねるほかはなく、裁判所は、基本的にはその裁量的判断を尊重せざるを得ないものというべきである(最高裁昭和五五年(行ツ)第一五号同六〇年三月二七日大法廷判決・民集三九巻二号二四七頁参照)。

 以上のことからすると、租税の適正かつ確実な賦課徴収を図るという国家の財政目的のための職業の許可制による規制については、その必要性と合理性についての立法府の判断が、右の政策的、技術的な裁量の範囲を逸脱するもので、著しく不合理なものでない限り、これを憲法二二条一項の規定に違反するものということはできない。

(引用終了)

 

 これで違憲審査基準は決まった。

 この基準を用いてあてはめを行う。

 

5 教育の自由から見た場合の違憲審査基準に対するあてはめ

 教育の自由から見た場合、憲法上の権利の認定と違憲審査基準によって既に書くことが多い。

 そのことを考慮すると、あてはめの部分を分厚くする必要はないのではないのか、という推測は働く。

 もっとも、あてはめを抜きで結論を出すことは不可能であるから、ここもちゃんと見ていく必要がある。

 

 まず、問題文を確認しよう。

 

(以下、上記教科書から過去問の部分を引用、ただし、版は私が持っているものである)

 学校教育法等の規定によれば、私立の幼稚園の設置には都道府県知事の認可を受けなければならないとされている。

 学校法人Aは、X県Y市に幼稚園を設置する計画を立て、X県知事に対してその許可を申請した。

 X県知事は、幼稚園が新設されると周辺の幼稚園との間の過当競争が生じて経営基盤が不安定になり、そのため、教育水準の低下を招き、また、既存の幼稚園が休廃園に追い込まれて入園希望児及びその保護者の選択の幅を狭めるおそれがあるとして、学校法人Aの計画を認可しない旨の処分をした。

 この事例における憲法上の問題点について論ぜよ。

(引用終了)

 

 不認可の理由を書きぬくと次のようになる。

 

 認可による幼稚園の新設→過当競争の発生→

 教育水準の低下・既存の幼稚園の休廃園の発生→

 入園者(幼児)とその保護者の選択の幅を狭めるおそれの発生

 

 ここで見ておきたいのは生じるであろう不都合の発生確率が「おそれ」である点である。

 明らかに発生するとか、具体的に発生する(蓋然性がある)、とまでは判断されていない。

 その程度の確率しかないのに不認可にしていいのか、という問題はありうる。

 審査基準が厳格な合理性の基準であれば、「抽象的なおそれしかなく具体的な蓋然性がない」ということで違憲になるだろう。

 

 しかし、ここで見るべきはこの判断過程が「著しく不合理か」という点である。

 その観点から見る限り、あるいは、定性的に見る限り、「幼稚園の新設→教育水準の低下・休廃園」という現象はありえない話ではない

 もちろん、競争状態に入ることで逆に教育の水準が向上する可能性もあるし、また、休廃園の理由が経営状態ではなく教育の質にあるのであれば、むしろ認可を認めたほうがいい、という判断は十分ありうるとしても、である。

 そして、裁判所が政治部門の専門判断を尊重するということは、そこに口出しするのはNGということになる。

「上がるか下がるか、確実なことは分からない」となれば、著しく不合理とまでは言えないだろう。

 よって、この基準では合憲ということになる

 せいぜい、「判断過程に利用した事実関係と現実の事実関係との間に著しい乖離があるなどの特段の事情のない限り合憲」という留保をつけるのが精いっぱいではないか、と考えられる。

 

 この点、この結論に対して釈然としないものがあるかもしれない。

 しかし、その場合、合憲の結論を書いた後に「もし、この判断が不当であるように見えても、政治活動による是正が不可能ではないので、著しく不当とまでは言えない」とでもフォローしておけばいいだろう。

 少なくても、この場面が司法積極主義を採用しなければならない場面とも言い難いから。

 

 また、酒税法判決には補足意見と反対意見がある。

 とすれば、違憲にもっていくことも可能である、とは考えられる。

 

 

 以上、教育の自由から見た場合の問題の検討を行った。

 ただ、前回述べた通り、教育の自由よりも営業の自由の方が憲法上の保障の程度は強い。

 そこで、営業の自由で見たらどうなるのか、次回で検討する。

司法試験の過去問を見直す5 その2

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成12年度の憲法第1問についてみていく。

 今回から当分の間は過去問を検討する上での前提知識などの確認を行う。

 

2 憲法上の権利(1)_法人の人権と営業の自由

 本問では、「A学校法人の幼稚園設立計画の申請」に対してX県知事が不認可処分を出した。

 つまり、学校法人Aの幼稚園を設立する自由が制限されたことになる。

 まず、この自由を憲法上の権利とリンクさせなければならない。

 リンクしなければ、憲法上の問題が原則として発生しないからである。

 

 幼稚園の設立目的を金儲け(経済活動)に特化させて考えれば、制限された自由は「法人の営業の自由」に該当する。

 一方、幼稚園の設立目的が学校法人の理念に沿った教育を行うことにあることを考慮すれば、制限された自由は「法人の教育の自由」になる。

 では、これらの自由は憲法上の権利とリンクするだろうか?

 

 

 まず、自由の制限された主体が法人であることから「法人に人権があるか」という人権共有主体性の問題がなる。

 この点は、「一言だけ」触れたほうがいいだろう(触れないのも、長く書くのもまずい)。

 もちろん、現代社会において法人は社会的に実在する重要な構成要素となっているから、性質上可能な限り肯定される」という言い回しを使って簡単に肯定してよい。

 ちなみに、八幡製鉄事件(判決文へのリンクは後述)の最高裁判所の言い回しをそのまま使うなら「憲法第三章に定める国民の権利および義務の各条項は、性質上可能なかぎり、内国の法人にも適用されるものと解すべきである」になる。

 

昭和41年(オ)第444号・取締役の責任追及請求事件

昭和45年6月24日最高裁判所大法廷判決

(いわゆる「八幡製鉄事件」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/040/055040_hanrei.pdf

 

 

 次に、問題になるのが「教育の自由」・「営業の自由」が憲法上の権利と言いうるかである。

 なぜなら、条文が規定するのは「職業選択の自由」・「学問の自由」・「教育を受ける権利」に過ぎず、営業の自由や教育の自由を明文で保障していないからである。

 

 もっとも、憲法22条1項が「職業選択の自由」を認めた以上、選択した職業を遂行する自由、つまり、営業の自由を認めなければ職業選択の自由を認めた意味がない。

 よって、営業の自由も憲法22条1項によって保障されている、と考えられる。

 この点は、一言だけ触れる必要があり、かつ、それで足りる。

 

 一応、このことについて具体的に述べているいわゆる薬事法違憲判決の該当部分を確認しよう。

 

(以下、いわゆる「薬事法違憲判決」の該当部分引用、注釈は私の手による、また、強調も私の手による、判決文へのリンクは引用後に掲載)

 法(筆者注、憲法のこと)二二条一項は、何人も、公共の福祉に反しないかぎり、職業選択の自由を有すると規定している。職業は、人が自己の生計を維持するためにする継続的活動であるとともに、分業社会においては、これを通じて社会の存続と発展に寄与する社会的機能分担の活動たる性質を有し、各人が自己のもつ個性を全うすべき場として、個人の人格的価値とも不可分の関連を有するものである。右規定が職業選択の自由基本的人権の一つとして保障したゆえんも、現代社会における職業のもつ右のような性格と意義にあるものということができる。そして、このような職業の性格と意義に照らすときは、職業は、ひとりその選択、すなわち職業の開始、継続、廃止において自由であるばかりでなく、選択した職業の遂行自体、すなわちその職業活動の内容、態様においても、原則として自由であることが要請されるのであり、したがつて、右規定は、狭義における職業選択の自由のみならず、職業活動の自由の保障をも包含しているものと解すべきである

(引用終了)

 

昭和43年(行ツ)120号

昭和50年4月30日最高裁判所大法廷判決

(いわゆる「薬事法違憲判決」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/936/051936_hanrei.pdf

 

3 憲法上の権利(2)_教育の自由

 では、教育の自由についてはどうか。

 この点は、旭川学テ事件の「教育の自由」に関する最高裁判決の部分を確認する。

 

昭和43年(あ)1614号

建造物侵入、暴力行為等処罰に関する法律違反被告事件

 昭和51年5月21日・最高裁判所大法廷判決

(いわゆる「旭川学テ事件」判決)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/016/057016_hanrei.pdf

 

(以下、旭川学テ事件最高裁判所判決から引用、

 ただし、文毎に改行し、段落は私による注により区別している、

 さらに、カッコは私の注であり、強調は私の手による)

(ここから第一段落)

 憲法中教育そのものについて直接の定めをしている規定は憲法二六条であるが、同条は、一項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と定め、二項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と定めている。

 この規定は、福祉国家の理念に基づき、国が積極的に教育に関する諸施設を設けて国民の利用に供する責務を負うことを明らかにするとともに、子どもに対する基礎的教育である普通教育の絶対的必要性にかんがみ、親に対し、その子女に普通教育を受けさせる義務を課し、かつ、その費用を国において負担すべきことを宣言したものであるが、この規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。

 換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられているのである。

 しかしながら、このように、子どもの教育が、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものであるということからは、このような教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべく、また、決定することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導き出されない。

 すなわち、同条が、子どもに与えるべき教育の内容は、国の一般的な政治的意思決定手続によつて決定されるべきか、それともこのような政治的意思の支配、介入から全く自由な社会的、文化的領域内の問題として決定、処理されるべきかを、直接一義的に決定していると解すべき根拠は、どこにもみあたらないのである

(ここから第二段落)

 次に、学問の自由を保障した憲法二三条により、学校において現実に子どもの教育の任にあたる教師は、教授の自由を有し、公権力による支配、介入を受けないで自由に子どもの教育内容を決定することができるとする見解も、採用することができない。

 確かに、憲法の保障する学問の自由は、単に学問研究の自由ばかりでなく、その結果を教授する自由をも含むと解されるし、更にまた、専ら自由な学問的探求と勉学を旨とする大学教育に比してむしろ知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。

 しかし、大学教育の場合には、学生が一応教授内容を批判する能力を備えていると考えられるのに対し、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されないところといわなければならない。

 もとより、教師間における討議や親を含む第三者からの批判によつて、教授の自由にもおのずから抑制が加わることは確かであり、これに期待すべきところも少なくないけれども、それによつて右の自由の濫用等による弊害が効果的に防止されるという保障はなく、憲法が専ら右のような社会的自律作用による抑制のみに期待していると解すべき合理的根拠は、全く存しないのである。

(ここから第三段落、最高裁判所の主張)

 思うに、子どもはその成長の過程において他からの影響によつて大きく左右されるいわば可塑性をもつ存在であるから、子どもにどのような教育を施すかは、その子どもが将来どのような大人に育つかに対して決定的な役割をはたすものである。

 それ故、子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者が、それぞれその教育の内容及び方法につき深甚な関心を抱き、それぞれの立場からその決定、実施に対する支配権ないしは発言権を主張するのは、極めて自然な成行きということができる

 子どもの教育は、前述のように、専ら子どもの利益のために行われるべきものであり、本来的には右の関係者らがその目的の下に一致協力して行うべきものであるけれども、何が子どもの利益であり、また、そのために何が必要であるかについては、意見の対立が当然に生じうるのであつて、そのために教育内容の決定につき矛盾、対立する主張の衝突が起こるのを免れることができない。

 憲法がこのような矛盾対立を一義的に解決すべき一定の基準を明示的に示していないことは、上に述べたとおりである。

 そうであるとすれば、憲法の次元におけるこの問題の解釈としては、右の関係者らのそれぞれの主張のよつて立つ憲法上の根拠に照らして各主張の妥当すべき範囲を画するのが、最も合理的な解釈態度というべきである

 そして、この観点に立つて考えるときは、まず親は、子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心をもち、かつ、配慮をすべき立場にある者として、子どもの教育に対する一定の支配権、すなわち子女の教育の自由を有すると認められるが、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられるし、また、私学教育における自由や前述した教師の教授の自由も、それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定するのが相当であるけれども、それ以外の領域においては、一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、憲法上は、子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解さざるをえず、これを否定すべき理由ないし根拠は、どこにもみいだせないのである。

 もとより、政党政治の下で多数決原理によつてされる国政上の意思決定は、さまざまな政治的要因によつて左右されるものであるから、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によつて支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤つた知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されないと解することができるけれども、これらのことは、前述のような子どもの教育内容に対する国の正当な理由に基づく合理的な決定権能を否定する理由となるものではないといわなければならない。  

(引用終了)

 

 全部を引用してみたが、かなり長い。

 そこで、最高裁判所の見解を意訳・要約してみる。

 最初は私釈三国志風に意訳できないかと考えていたが、少し難しいので、単なる要約にとどめる。

 

(以下、旭川学テ事件最高裁判決の上記引用部分を私釈三国志風に意訳、意訳である点に注意)

 憲法26条が権利として保障していることは、①国民の学習権と②子どもが国に対して教育内容を整備するよう要求する権利である。

 それを受けて、憲法は、福祉国家の理念に基づいて①国の教育環境を設備する責務を定め、②親の子女に教育を受けさせる義務を定め、さらに、③義務教育の無償を定めた。

 このように見れば、憲法が定めているのは子供たちの学習権を充足するための関係者の責務であって、教育によって子供を支配する権利ではない

 また、教育内容を決定する権限については憲法に明文がない。

 ならば、当然に国会・政府にあると見ることもできない。

 よって、国家教育権説(に基づく検察官の主張)はこれらの憲法規定とは適合しないし、極端であるから妥当でない。

 次に、学問の自由を保障した憲法23条により学校の教師に教育の自由を認めることができるだろうか。

 確かに、学問の自由には教授の自由が含まれる。

 また、公権力の介入を受けないという意味で、現場の教師が目の前の子供に対応した教育を行うべきであるという意味で、教師の教育内容に対する裁量は必要だろう

 しかし、大学の教育と異なり、児童・生徒には批判能力がなく、普通教育の教師には児童・生徒に対して強い影響力・支配力を有する

 また、普通教育は義務でもある関係で、子どもとその親に学校・教師を選択する余地が乏しい

 さらに、普通教育の機会均等を図る点を考えれば、全国的に一定水準を確保すべき要請が強い

 この3点を考慮すれば、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることはできない

 さらに、憲法は教師の教育の自由について「公共の福祉」による制約以外の公権力の介入を避けるべきである旨の規定がない。

 ならば、(弁護人らのよって立つ)国民教育権説を採用することもできない。

 では、どうするか。

 子供の可塑性を考慮すれば、子供の将来はかかわる関係者が決定的な役割を果たす。

 そして、その関係者が教育内容について一定の主張を行うことは当然の成り行きである。

 もっとも、関係者の意見調整は必須であるし、意見調整の方法について憲法は何も言及していない。

 そこで、関係者の主張と関係者の拠って立つ憲法的根拠からその自由の範囲を決定するのが合理的な態度である

 この観点から見た場合、子女を教育させる義務を有する親には子供に対する家庭教育の自由・学校選択の自由が保障される。

 次に、教師には、教育が目の前の子供にあわせた妥当な教育が行われるべきである、公教育の不合理な介入を受けないという意味で教育の自由がある。

 さらに、私学にも同様の意味での教育の自由がある。

 しかし、それ以外の領域については、国にも教育内容を決定する権限があると言える。

 もちろん、国の権限は「子ども自身の利益の擁護・子どもの成長に対する社会公共の利益の関心に応じるためのものであり、かつ、介入の程度も必要かつ相当な範囲」に限られる。

 また、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入は憲法二六条、一三条の規定上からも許されない

 しかし、それは単に「必要かつ相当」な範囲から外れるだけで、権限それ自体を否定する理由にはならない。

(引用終了)

 

 この判決では、普通教育における教師や私学の教育の自由を一定の範囲で認めている。

 しかし、権利の保障の程度は学問の自由(憲法23条)の一内容たる「教授の自由」には及ばない。

 この点は、営業の自由が憲法22条からストレートに認められる点と異なる。

 その点を考慮すると、教育の自由を主戦場にすることは果たして妥当なのか。

 少し微妙な気がする。

 

 なお、旭川学テ事件の教育の自由は普通教育であり、本問の幼児教育とは事情が少しずれている。

 そして、幼児教育は義務教育ではない。

 その結果、普通教育の前提となる「全国一律の要請」が弱い。

 また、親の選択の幅も広くなる。

 ならば、その結果として教育側の自由は広くなるとは言いうる。

 しかし、幼児の年齢が児童・生徒よりもさらに低くなることを考慮すれば、子どもの側に批判能力がない点、教える側に支配力が強い点は普通教育よりも上になる。

 このように考えると、幼児教育と普通教育の事情の違いにより、幼児教育の自由が大学と同程度にあると考えるのは少し無理があると言える。

 

 以上の教育の自由の権利の弱さを考えると、教育の自由のみを展開してしまうと憲法上弱い権利を主張しているのではないか、といった疑問が生じる。

 合憲の結論にするならさておき、これで違憲に引っ張るのは微妙な気がする。

 

 

 以上、憲法上の権利の制限についてみてきた。

 営業の自由なら明白な憲法上の権利の制限と言える。

 逆に、教育の自由だと営業の自由ほど強気に出れない感じか。

 

 もっとも、営業の自由か教育の自由かという点は違憲審査基準とセットで考えたほうがいい。

 そこで、どちらを選ぶかは判断を留保しておく。

 

 次回は、憲法上の権利の制限の正当化について、その違憲審査基準についてみていく。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 9

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

9 「第2章_イスラムの『論理』、キリスト教の『病理』_第1節」を読む(中編)

 前回は「キリスト教の博愛」と「キリスト教徒の異教徒に対する態度」についてみてきた。

 そして、旧約聖書に遡ってキリスト教における隣人愛の『隣人』とは同胞(キリスト教徒)の人間に限る」ということも確認した。

 このことは、例外はあるものの様々な歴史から確認することができる。

 

 今回は一神教についてユダヤ教からみていく。

 なお、このメモブログと本書はマックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』の内容に準じている。

 

 

 

 

 

 ユダヤ教キリスト教イスラム教。

 これらの宗教は一神教であり、かつ、神に人格が備わっている

 この点は、仏教の「法」といった抽象的存在、あるいは、儒教の「天」と異なる。

 もちろん、多神教とも異なるのは言うまでもない。

 

 ところで、ユダヤ人の描いた「神」は通常の宗教とは異なる特徴がある。

 それは「神は我々に苦難をもたらす」と考えていることである。

 

 

 この点、日本では「基本的に神は人間(我々)に利益や幸福をもたらす存在」として考えられている。

 神は大漁豊作といった恩恵をもたらすので祀って祈る。

 逆に、災厄が訪れたら神に祈って解決してもらう。

 日本については次のメモが参考になる。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 つまり、通常、神は人間にやさしく、また、心の広い存在ということになる。

 

 これに対して、古代イスラエル人は「苦難や災厄は神のはからいである」と考えた。

 厳密に考えれば、「神のはからいにより民は幸福にも不幸にもなる」と言うべきか。

 もちろん、神が民に幸福をもたらすこともある。

 しかし、人間の世界では幸福よりも不幸の方が多く、その点は古代イスラエル人も例外ではない。

 その上で、古代イスラエル人は「神は幸福だけではなく苦難をももたらす」と考えた。

 その意味で恐るべき神でもある。

 

 さらに、古代イスラエル人は「神に人格が備わっている」と考えた

 そして、「神を不機嫌にすると神は民に苦難をもたらす」と考えた

 よって、イスラエル人は神を信仰して、機嫌を損ねないようにし、苦難をもたらさないようにしなければならないと考えることになる。

 

 つまり、古代イスラエル人と日本人の感覚では信仰の理由が逆なのである

 日本人は幸福をもたらすために神に祈る。

 古代イスラエル人は不幸を回避するために神に祈る。

 まあ、結果それ自体は似たり寄ったりになるであろうが。

 そして、「この逆転の発想なくして一神教は生まれなかった」というのがマックス・ウェーバーの研究結果にして大発見である。

 

 

 ここから話は古代イスラエル人が抱いていた神のイメージに移る。

 つまり、古代イスラエル人の神への理解を旧約聖書から確認する。

 このことにより、いかに古代イスラエル人が神を恐れていたかが分かる。

 

 まずは、土地を与えると啓示したアブラハムに対する神の命令をみてみる。

 前述のとおり、アブラハムは神に対する信仰が篤かった

 神はそのアブラハムに対して、アブラハムのたった一人の息子であるイサクを子ヤギの代わりに焼いて、神への生贄にせよ、と命令したのである(『創世記』の第22章)。

 神への信仰に対するアブラハムは反問することなく命令を実行しよう、息子を殺そうとする。

 もっとも、神は、息子を殺す直前にアブラハムに対して中止命令を出して、息子のイサクは救われる。

 また、神は天使を遣わしてアブラハムに対する祝福を約束する。

 ただ、神が信仰の篤いアブラハムに試練を課したこと、アブラハムに苦悩をもたらしたことには間違いない。

 

 次に、神のヨブに課した試練をみてみる(『ヨブ記』より)。

 ヨブは模範的な信者であった。

 しかし、神はこの模範的な信者ヨブの所有していた家畜を暴漢に虐殺させ、ヨブを無一文にした。

 次に、子供たちと食事をしていたところに突風を吹かせて家を潰し、ヨブから子供たちを奪った。

 さらに、ヨブの身体に腫物を作って、ヨブを悩ませた。

 

 神はヨブに対してこのようなことをした理由は何か。

 ヨブが罪を犯したので神はヨブに罰を与えたのか。

 確かに、仏教の発想や因果律から考えればそうなる。

 また、神が因果律に拘束されているならばそれが正解になるだろう。

 しかし、全知全能の神が因果律に縛られると考えるのは不自然である。

 とすれば、この発想は間違い、ということになる。

 

 つまり、神は因果律を無視できる。

 よって、善人に不幸をもたらすことも、逆に、悪人に幸福をもたらすこともできる。

 そのため、因果律が無視されたとしても、神を非難してはならない

 ヨブ記が示していたことは以上のことになる。

 

 なお、ヨブ記では神との対話を通じてヨブがこの真理を悟る。

 そして、そのことを悟ったヨブに対して、神は子供を返し、失った財産以上の財産を与えた。

 真理を悟ったヨブは百四十歳まで生きた旨記されている。

 

 他にも旧約聖書に書かれた預言者たちがいる。

 彼ら預言者のうちで幸福になれた者はいない。

 例えば、モーセは神の命令に従い、イスラエルの民を救い出したが、神はモーセ自体に対して何もしていない。

 さらに言えば、モーセはカナンに至る道中で死んでいる。

 

 

 このように、古代イスラエルの民の信仰した神はやっかいなことこの上ない

 真面目な信者に試練を課し、不幸を与え、さらには、不幸を与えらえた敬虔な信者の不平不満を許さないのだから。

 このような神を拝むことに意味があるのか、と考えるのも無理からぬ話である。

 

 ところで、古代のイスラエル人は不幸な境遇にあった

 アブラハムの子孫はエジプトで奴隷となっていた。

 その後、モーセイスラエルの民を救出し、ヨシュアがカナンの先住民を虐殺してイスラエル王国を建国するも、その後、周囲の強国に攻め立てられて王国は滅亡、住民はバビロン捕囚の憂き目にあう。

「何故、我々だけこのような目に遭うのか」と考えても不思議ではない。

 また、「我々の信仰が間違っているのではないか、エジプトの神を信仰するのが正しいのではないか」とも考えたであろう。

 通常の人間ならここで棄教してもおかしくない。

 

 しかし、古代イスラエルの人々は安直な道を選ばなかった

 なぜなら、エジプトの神々を信仰すれば、エジプト文明に消化吸収されてしまい、民族としてのアイデンティティが崩壊してしまうからである。

 そこで、アイデンティティを維持するために考えた信仰が「苦難をもたらす神」への信仰である。

 このような信仰が民族アイデンティティを強化させる。

 そして、出来上がったのがユダヤ教である。

 ただ、次のメモにもある通り、このアイデンティティが民族離散になり、また、イスラエル建国の原因にもなる。

 そう考えてみると、はたしていいのか悪いのか。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

 では、このユダヤ教の特徴は何か。

 まず、ユダヤ教は集団救済の宗教である、ということが言える。

 この点は、集団救済の宗教という点は儒教と同様である。

 しかし、「理想の政治が万民を救済し、万民の救済が個人を救済する」と考える儒教ユダヤ教では救済の意味が異なる。

 ユダヤ教では神の意志によって救済は突如訪れる、と考える。

 また、救済によってユダヤ人はこれまでの不遇な状況から厚遇な環境に急変すると考える。

 これは一発逆転の発想であり、フランス革命ロシア革命にみられる革命思想の原点にもなっている。

 さらに、救済されるためには「律法(規範)の実践」という条件があると考える。

 というのも、規範を破った者に対する神の怒りが旧約聖書のあちらこちらに書かれているからである。

 神はカナンにおいて異教徒を虐殺したが、虐殺したのは異教徒に限られない。

 ゾドムやゴモラはどうか。

 古代イスラエル王国はどうか。

 異国の神を拝めばユダヤ民族であっても神は容赦をしない。

 

 民族皆殺しといった悲劇を回避するためにも、『律法』を守りつつ救済の日を待たなければならない。しかし、神が救済がをもたらした暁にはユダヤ民族にとって一発逆転の状況が生まれる。

 ユダヤ教ではこのように考えることになる。

 

 

 ところで、キリスト教はこのユダヤ教から生まれた。

 ならば、キリスト教の神はユダヤ教の神と変わらないと考えることになる。

 そして、そのことを示しているのが最後の審判の教えである。

 イエス・キリストは人々に次のように警句を述べてまわった。

 

(以下、『マルコ福音書』の第1章14節と15節から引用、節番号は省略、引用元は次のリンク先参照)

 ヨハネが捕えられた後、イエスガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

(引用終了)

 

ja.wikisource.org

 

 この点、「神の国」とは天国のことではない。

 この地上に突如として現れる神の支配する国家である。

「神の意志によって突如現れる点」はユダヤ教と同様である。

 

 この国に入れば、(一度、生物的に死んだ人間も)永遠の命を与えられることになる。

 また、ユダヤ教と異なり、キリスト教の「神の国」に入れるのはユダヤ民族に限られない。

 その意味で、ユダヤ教と異なり、キリスト教個人救済の宗教と言える。

 しかし、神の国」に入ることの人間は「最後の審判」で認められた人間であり、その数は非常に限られている

 そして、「神の国は近づいた」と述べているため、最後の審判も間近に迫っていることになる。

 

 ところで、最後の審判の結果、「神の国」に入れなかった人間はどうなるか。

 この点について、イエス・キリストは次のように述べている。

 

(以下、『マタイ福音書』第11章20節から24節まで引用、節番号は省略、リンク先は次の通り)

 それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。

「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。

 しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。

 ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。

 しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。

(引用終了)

 

ja.wikisource.org

 

 この点、ゾドムの町は神によって焼き尽くされ、その住民は皆殺しに遭った。

 そして、「悔い改めなかった町が負う運命よりもゾドムが被った運命の方がマシだ」とも言っている。

 このことから、神の国に入れなければ、神による滅びを免れないことは確かである

 

 そして、最後の審判は間近だから、仏教のような途方もない時間をかけている時間もない。

 それゆえ、イエス・キリストは福音(ゴスペル)を広めるために必死になった。

 福音を聞けば救われる人、つまり、神の国に入れる人も増えるであろうから。

 その意味で、イエス・キリストにとって「神の国の出現」と「最後の審判によって選ばれなかった人々の滅亡」は現実のものだったことになる。

 

 このことを考えれば、イエス・キリストにおいても神は「滅ぼす者」であって、慈悲深い神ではない。

 

 

 以上のように、ユダヤ教キリスト教の神は人々に容赦ない力を行使する

 それは、アブラハムやヨブのような信仰篤き人間でも例外ではなかった。

 異教の神を拝んだソロモン王に対しても容赦しなかった。

 また、異教徒であれば、なおさらである。

 その意味で「異教徒は『隣人』ではない」ことになる。

 このことが大航海時代やアジア侵略における諸々の行為を平然とできた原因になる。

 まあ、このような信仰があれば、むしろ当然とも言いうる。

 その意味で、当時の白人はキリスト教や聖書に忠実であったともいえる。

 

 

 しかし、この神は「アッラー」になった途端性格が一変する

 アッラーは(大天使ガブリエルを通じて)マホメットを啓示を与える。

 その際、アッラーは自らアブラハム(イブラーヒーム)の前に現れた、あるいは、イエス(イーサー)を預言者として派遣したとも述べている。

 しかし、その態度は全然異なる。

 

 この点、第一章でイスラム教の「六信」を紹介した。

「六信」とは「神」・「天使」・「啓典」・「預言者」・「来世」・「天命」を信じることを指すが、最も重要なものが「神」であることは間違いない。

 では、アッラー(神)を信じる」を何を信じることを指すのか

 規範がしっかりしているイスラム教はその答えをちゃんと用意している。

 まず、アッラーの他に神はいない」から始まる。

 そして、アッラー天地創造絶対神であり、アッラーは全知全能であり、どこでも遍在していること」と続く。

 さらに、アッラーが九十九の美徳を持っていること」も信じる(疑わない)ことが求められる。

 

 ところで、九十九の美質のうち最も大事なものは何か。

 それは「慈悲」である。

 そのことは「慈悲」という言葉がクルアーンで頻繁に出てくる言葉であること、真っ先に出てくる言葉であることからも明らかである。

 

 

 以上、一神教における「一神」についてみてきた。

 次回はイスラム教においてアッラーがどんな存在か、ユダヤ教キリスト教と比較してどのような違いがあるのか、についてみていく。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 8

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

8 「第2章_イスラムの『論理』、キリスト教の『病理』_第1節」を読む(前編)

 第1章では、「規範」という観点からイスラム教・キリスト教ユダヤ教・仏教・儒教、そして、日本教についてみてきた。

 ここで触れていない著名な宗教はヒンディー教、それから、過去に存在したゾロアスター教であろうか。

 そのため、宗教についてある程度網羅的に見たと言える。

 

 ここで、各宗教を規範の観点からまとめておこう。

 

 規範あり(強い)、仏教・儒教ユダヤ教イスラム

 規範なし(弱い)、キリスト教日本教

 

 もちろん比較する要素は他にもある。

 神の数、神の人格の有無、救済対象、救済内容などなど。

 それらは適宜追加していく予定である。

 

 第2章の第1節のタイトルは「『一神教』の系譜_キリスト教の『愛』とアッラーの『慈悲』を比較する」

 キリスト教におけるイエス・キリストの「愛」とイスラム教におけるアッラーの「慈悲」、つまり、神の恩寵という観点から一神教についてみていく。

 

 

 第1章でみてきた通り、キリスト教は信仰ありきで規範がない。

 それに対して、ユダヤ教イスラム教には規範がある。

 その結果、キリスト教イスラム教は大きく違うことがわかる。

 同じ一つの絶対神に帰依する宗教なのに。

 

 この点、キリスト教ユダヤ教の律法を廃止することで独立する。

 この思想を確立したのがパウロであり、そのことが「ローマ人への手紙」に見られる。

 該当する部分を見てみよう。

 

(以下、『ローマ人への手紙』の第3章の28節から、引用元のリンクは次の通り)

わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

(引用終了)

 

(以下、『ローマ人への手紙』の第9章の32節と33節から、節番号は省略)

 しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。

 なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。

引用終了)

 

ja.wikisource.org

 

 この「信仰のみが重要」というキリスト教の発想が特異的であることは既にみてきた。

 というのも、それ以外の儒教・仏教・ユダヤ教イスラム教には明確な規範があるからである。

 しかし、日本人にはこのキリスト教の特異性が分からない。

 なぜなら、日本社会には「宗教的な『規範』をいつの間にか消してしまう作用」があるからである。

 このことは仏教の戒律を廃止していった歴史、儒教孔子一本槍になっていった歴史が参考になる。

 つまり、日本では「形より心」・「戒律より信仰」が常識なのである

 

 

 また、キリスト教は「博愛の宗教」と言われている。

 そこで、この点について歴史を参照しながらみていく。

 

 キリスト教は信仰を求める。

 では、その信仰の具体的内容は何か。

 その内容を律法学者の問いに対するイエス・キリストの回答から確認する。(なお、『マルコ福音書』の記載は次のサイトから引用する)。

 

ja.wikisource.org

 

(以下、上記サイトから『マルコ福音書』の第12章の28~31節を引用、各段を改行で分け、節番号は省略、また、強調は私の手による)

 ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。

 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。

 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。

(引用終了)

 

 つまり、キリスト教において求められる信仰は「神と隣人への愛」となる。

 

 ところで、この戒めは規範として機能しない。

 そのため、「いかなる場合にどこまでやらなければならないか」といった基準がない。

 その結果、要求される「神と隣人への愛」は無条件・無制限ということになり、「見返りがなくてもやらなければならない」といったようなことにもなる。

 神が人に対して無条件の愛を注ぐように

 

 この無償の愛のことを、キリスト教では「アガペー」と言う。

 そして、このアガペーキリスト教の最重要事項となっている

 

 

 この点、規範は「この場合はここまでやらなければならない」という基準が明確である一方で、「ある場合は、あるいは、これ以上はやらなくてもいい」という基準も明確である。

 前者は「義務」としても性質があるが、後者は「自由」としての性質をもつ。

 他方、規範でない場合、宗教的要求は極端・原理主義的になる

 その結果、キリスト教ではクリミアの天使ナイチンゲールアウシュビッツユダヤ人の身代わりとなって死んだコルベ神父、あるいは、マザー・テレサのような人間が現れた。

 これらの方々がなした行為はまさに「アガペーの実践」と言える。

 仏教が勧める善行・慈悲もこれらには負けてしまうであろう。

 

 このアガペーの教義、または、アガペーを実践した行為を見て、「キリスト教を博愛の宗教」と判断するのは相応の理由がある。

 

 

 ところが。

 歴史を見ればわかる通り、キリスト教徒ほど残虐をほしいままにした集団もない。

 このことは、中南米でスペイン人(カトリック)がアステカやインカ帝国を滅ぼし、財宝を奪い、先住民を殺戮しまくったこと、北米でイギリス人(ピューリタン)が先住民を迫害しまくったことが参考になる。

 また、黒人奴隷をあたかも商品のごとく扱った事実も加えてもいいかもしれない。

 この点、どの社会にも「奴隷」は存在した。

 しかし、ピューリタンの奴隷ほど悲惨な例はない。

 ピューリタンの奴隷は各世界の奴隷の中で最も「財産」として扱われたのだから。

 さらには、宗教改革から生じたキリスト教に新旧対立も追加してもいいかもしれない。

 

 これらを行為を実行した連中がキリスト教徒であること、集団としてこれらの行為が行われたこと(個人の暴走ではない)を見て、「キリスト教徒とはなんたる連中か」と考えることは全く不思議ではない。

 

 

 ところで。

 大航海時代キリスト教の宣教師からローマ法王にはこんな悩みが寄せられていた。

「異教徒は人間なりや?」と。

 もし、異教徒が人間ならば、異教徒に対する蹂躙をほしいままにすることはできない。

 イエス・キリストは「汝、殺すなかれ」と言っているから(『マタイ福音書』の19章18節)。

 逆に、異教徒が人間でなければ奴隷にしようが虐殺しようが問題ないことになる。

 そのため、良心的な宣教師からローマ教皇にこのような問い合わせがなされたのである。

 

 この点、この回答が当時の権力関係(パワーバランス)によって決まるということは十分ありうる。

 しかし、教皇が回答する場合、「宗教上の根拠」が必要になる。

 そして、この宗教上の根拠からキリスト教を理解することができる。

 そこで、ローマ教皇の答えの背後にある「宗教上の根拠」をみてみる。

 なお、ローマ教皇の回答の根拠は旧約聖書までさかのぼることになった。

 

 

 旧約聖書で最も有名な物語の一つに「出エジプト記エクソダス)」がある。

 つまり、エジプトの奴隷となっていたイスラエル人を救済するため、神はモーセ(ムーサー)を派遣し、ファラオ(フィルアウン)と交渉する。

 ファラオは奴隷となっていたイスラエルの民の解放を許可しないため、モーセは神の力を借りてさまざまの奇蹟を見せつけ、その結果、ファラオはイスラエルの民の解放を許可する。

 イスラエルの民はエジプトを脱出するが、気の変わったファラオは軍を派遣する。

 このとき、神は海を真っ二つに割ってイスラエルの民を救済した。

 その後、モーセイスラエルの民はシナイ山の麓にたどりつき、神は民に「十戒」を与える、、、といった物語である。

 

 

 この点、十戒が与えられた後、イスラエルの民が安住できる未開の土地にたどりついた、そして、その土地で幸せに暮らした、となれば、この話は「めでたし、めでたし」で終わったであろう。

 

 しかし、実際はそうはならなかった

 イスラエルの民はその後約40年間荒野をさまよい、モーセもその間に死亡する。

 というのも、イスラエルの民が目指した土地がカナン(パレスチナ)であったからである。

 

 イスラエルの民がカナンを目指したのはなぜか。

 この根拠は旧約聖書の『創世記』まで遡ることになる。

 つまり、イスラエルの民の祖先にアブラムという神を深く信仰していた男がいたところ、そのアブラムに対して神が与えると約束した土地がカナンであった(具体的な記載部分は『創世記』の15章)。

 この啓示によりアブラムはアブラハムという名前に改名した。

 そして、アブラハムの子孫がイスラエルの民ということになる。

 

 このカナンの地(現在のパレスチナ周辺)は近くに森もある穏やかな気候の土地である。

 また、東地中海に面しており交通の便も良い。

 つまり、住む土地の条件として好条件である。

 そして、祖先が神からもらった土地という条件も加わっている。

 そこで、イスラエルの民はカナンを目指した

 

 

 もっとも、好条件の土地だったカナンには既に先住民(異教徒)が住んでいた。

 イスラエルの民が「この土地は先祖が神から賜ったのだから住まわせろ、先住民は出ていけ」と言っても相手にされない。

 そこで、神はモーセの後継者にヨシュアを据え、カナンに入るように命じる。

 そして、ヨシュアらはカナンにあった先住民の都市をことごとく攻め滅ぼすことになる。

 その際、攻め滅ぼした都市の先住民を皆殺しにした

 

 これはヨシュア軍団が神の御心(命令)のままに行ったものである。

 このことを『ヨシュア記』の記載から確認する。

 

(以下、『ヨシュア記』の11章の11節から23節までの記載を引用、ソースは以下のリンクより、また、節の数字は省略、さらに、強調は私の手による)

 ヨシュアはこれらの王たちのすべての町々、およびその諸王を取り、つるぎをもって、これを撃ち、ことごとく滅ぼした。主のしもべモーセが命じたとおりであった

 ただし、丘の上に立っている町々をイスラエルは焼かなかった。ヨシュアはただハゾルだけを焼いた。

 これらの町のすべてのぶんどり物と家畜とは、イスラエルの人々が戦利品として取ったが、人はみなつるぎをもって、滅ぼし尽し、息のあるものは、ひとりも残さなかった

 主がそのしもべモーセに命じられたように、モーセヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりにおこなった。すべて主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった

 こうしてヨシュアはその全地、すなわち、山地、ネゲブの全地、ゴセンの全地、平地、アラバならびにイスラエルの山地と平地を取り、

 セイルへ上って行く道のハラク山から、ヘルモン山のふもとのレバノンの谷にあるバアルガデまでを獲た。そしてそれらの王たちを、ことごとく捕えて、撃ち殺した。

 ヨシュアはこれらすべての王たちと、長いあいだ戦った。

 ギベオンの住民ヒビびとのほかには、イスラエルの人々と和を講じた町は一つもなかった。町々はみな戦争をして、攻め取ったものであった。

 彼らが心をかたくなにして、イスラエルに攻めよせたのは、もともと主がそうさせられたので、彼らがのろわれた者となり、あわれみを受けず、ことごとく滅ぼされるためであった。主がモーセに命じられたとおりである

 その時、ヨシュアはまた行って、山地、ヘブロン、デビル、アナブ、ユダのすべての山地、イスラエルのすべての山地から、アナクびとを断ち、彼らの町々をも共に滅ぼした。

 それでイスラエルの人々の地に、アナクびとは、ひとりもいなくなった。ただガサ、ガテ、アシドドには、少し残っているだけであった。

 こうしてヨシュアはその地を、ことごとく取った。すべて主がモーセに告げられたとおりである。そしてヨシュアイスラエルの部族にそれぞれの分を与えて、嗣業とさせた。こうしてその地に戦争はやんだ。

(引用終了)

 

ja.wikisource.org

 

 まとめると次のようになる。

 

 神がヨシュアにカナンへの侵攻を命じた。

 ヨシュアは神の命じたままにカナンに侵攻し、侵攻した都市の先住民を皆殺しにした。

 

 つまり、カナンに住んでいた先住民虐殺の首謀者は神である。

 

 しかも、神は虐殺の手助けさえしている

 例えば、ヨシュア軍団がヨルダン川を渡って最初に攻略した都市がエリコであった。

ヨシュア記』ではエリコ攻略について次のように示している。

 

(以下、『ヨシュア記』の第六章から引用、節番号は省略、強調は私の手による)

 さてエリコは、イスラエルの人々のゆえに、かたく閉ざして、出入りするものがなかった。

 主はヨシュアに言われた、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている。

 あなたがた、いくさびとはみな、町を巡って、町の周囲を一度回らなければならない。六日の間そのようにしなければならない。

 七人の祭司たちは、おのおの雄羊の角のラッパを携えて、箱に先立たなければならない。そして七日目には七度町を巡り、祭司たちはラッパを吹き鳴らさなければならない。

 そして祭司たちが雄羊の角を長く吹き鳴らし、そのラッパの音が、あなたがたに聞える時、民はみな大声に呼ばわり、叫ばなければならない。そうすれば、町の周囲の石がきは、くずれ落ち、民はみなただちに進んで、攻め上ることができる」。

 ヌンの子ヨシュアは祭司たちを召して言った、「あなたがたは契約の箱をかき、七人の祭司たちは雄羊の角のラッパ七本を携えて、主の箱に先立たなければならない」。

 そして民に言った、「あなたがたは進んで行って町を巡りなさい。武装した者は主の箱に先立って進まなければならない」。

 ヨシュアが民に命じたように、七人の祭司たちは、雄羊の角のラッパ七本を携えて、主に先立って進み、ラッパを吹き鳴らした。主の契約の箱はそのあとに従った。

 武装した者はラッパを吹き鳴らす祭司たちに先立って行き、しんがりは箱に従った。ラッパは絶え間なく鳴り響いた。

 しかし、ヨシュアは民に命じて言った、「あなたがたは呼ばわってはならない。あなたがたの声を聞えさせてはならない。また口から言葉を出してはならない。ただ、わたしが呼ばわれと命じる日に、あなたがたは呼ばわらなければならない」。

 こうして主の箱を持って、町を巡らせ、その周囲を一度回らせた。人々は宿営に帰り、夜を宿営で過ごした。

 翌朝ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱をかき、

 七人の祭司たちは、雄羊の角のラッパ七本を携えて、主の箱に先立ち、絶えず、ラッパを吹き鳴らして進み、武装した者はこれに先立って行き、しんがりは主の箱に従った。ラッパは絶え間なく鳴り響いた。

 その次の日にも、町の周囲を一度巡って宿営に帰った。六日の間そのようにした。

 七日目には、夜明けに、早く起き、同じようにして、町を七度めぐった。町を七度めぐったのはこの日だけであった。

 七度目に、祭司たちがラッパを吹いた時、ヨシュアは民に言った、「呼ばわりなさい。主はこの町をあなたがたに賜わった

 この町と、その中のすべてのものは、主への奉納物として滅ぼされなければならない。ただし遊女ラハブと、その家に共におる者はみな生かしておかなければならない。われわれが送った使者たちをかくまったからである。

 また、あなたがたは、奉納物に手を触れてはならない。奉納に当り、その奉納物をみずから取って、イスラエルの宿営を、滅ぼさるべきものとし、それを悩ますことのないためである。

 ただし、銀と金、青銅と鉄の器は、みな主に聖なる物であるから、主の倉に携え入れなければならない」。

 そこで民は呼ばわり、祭司たちはラッパを吹き鳴らした。民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。

 そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした

 その時ヨシュアは、この地を探ったふたりの人に言った、「あの遊女の家にはいって、その女と彼女に属するすべてのものを連れ出し、彼女に誓ったようにしなさい」。

 斥候となったその若い人たちははいって、ラハブとその父母、兄弟、そのほか彼女に属するすべてのものを連れ出し、その親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外に置いた。

 そして火で町とその中のすべてのものを焼いた。ただ、銀と金、青銅と鉄の器は、主の家の倉に納めた

 しかし、遊女ラハブとその父の家の一族と彼女に属するすべてのものとは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブは今日までイスラエルのうちに住んでいる。これはヨシュアがエリコを探らせるためにつかわした使者たちをかくまったためである。

 ヨシュアは、その時、人々に誓いを立てて言った、「おおよそ立って、このエリコの町を再建する人は、主の前にのろわれるであろう。その礎をすえる人は長子を失い、その門を建てる人は末の子を失うであろう」。

 主はヨシュアと共におられ、ヨシュアの名声は、あまねくその地に広がった。

(引用終了)

 

 ヨシュアがエリコの都市の攻略する際、神がヨシュアに手を貸していることが分かる。

 もちろん、他の場所でも神はヨシュアに手を貸している。

 これらの助けなくしてカナンの攻略はならなかったであろう。

 

 このように、エジプトから脱出したイスラエルの民は神の手助けその他によりカナンを手に入れた。

「手に入れた」際に、異教徒たる先住民を虐殺してまわったことは既に述べた通りである。

 なお、本書で一部しか書かれていない「ヨシュア記によって滅ぼされた都市」を全部掲げると次のようになる(以下、『ヨシュア記』の12章に記載のある滅ぼされた三十一の王を列挙)。

 

 エリコ、アイ、エルサレムヘブロン、ヤルムテ、ラキシ、エグロン、ゲゼル、デビル、ゲデル、ホルマ、アラデ、リブナ、アドラム、マッケダ、ベテル、タップア、ヘペル、アペク、シャロン、マドン、ハゾル、シムロン、メロン、アクサフ、タアナク、メギド、 ケデシ、カルメルのヨクネアム、ドル、ゴイイム、テルザ

 

 

 以上の旧約聖書の記載から旧約聖書における神の判断について何が言えるか。

 言えることは次のとおりである。

 

「異教徒は人ではない」

「異教徒の虐殺は正義なり」

 

 そして、キリスト教における神とユダヤ教における神は同一である。

 また、イエス・キリストは異教徒に対する博愛まで説いているわけではない

 この点、「異教徒に対して信仰を強制するな」と啓示したアッラーとは異なる。

 したがって、「隣人とは同じ信仰を持つ人に限る」という結論になる。

 

 以上より、異教徒を人と扱わず、何をしようが宗教上の問題はない、ということになる。

 新大陸における先住民に対する対応、黒人奴隷に対する対応もこの延長線上にある。

 

 

 この点、ユダヤ教の神、つまり、「旧約聖書の神」は、キリスト教の神、つまり、「新約聖書の神」と直接関連しないのではないか、同様に判断していいのか、という疑問はないではない。

 確かに、規範重視のユダヤ教から信仰重視のキリスト教になることで、契約の内容は変更された。

 しかし、奉じる神に違いはない。

 ならば、契約内容の変化とともに神の性格が変わったと考えることはできないだろう。

 よって、具体的な啓示もなく神の異教徒に対する態度が変わったと考えることは難しいことになる

 

 

 ここで本書では、パレスチナ問題について少し触れている。

 そして、旧約聖書(『ヨシュア記』)を通じて、現代のパレスチナ問題をみてみると、パレスチナ問題が極めて根深い問題であることを指摘している。

 

 本書には記載がないが、この辺の事情を確認する。

 なお、その際には次の本を参考にした。

 

 

 19世紀末、民族離散から約二千年、ロシアやヨーロッパで迫害されていたユダヤ人たちは現状の迫害を逃れるため、ユダヤ人国家の建設を考えるようになる。

 そして、ユダヤ人の富豪らはパレスチナの土地を所有する地主から土地を買い上げ、合法的にパレスチナへの入植を開始、浸透をはかる。

 というのも、パレスチナの土地を持っていたのはエジプトその他の大都市に住む不在地主だったことから、パレスチナの土地の購入が不可能ではなかったからである。

 もっとも、入植したユダヤ人が民族独自の文化に基づく社会を作ろうとし、原住民との融和をはからなかったことが、既に住んでいた人たちに不安を抱かせることになる。

 

 その後、二回の世界大戦や列強(特にイギリス)の思惑その他もあり、アラブとユダヤ人の対立が加速する。

 その結果、イスラエル建国とパレスチナ問題、幾たびもの中東戦争を引き起こすことになる。

 

 さて、この問題、解決が容易ではない。

 というのも、パレスチナ人・アラブ人から見れば、イスラエル人は旧約聖書のような行為をやるのではないか、だから信用できない、ということになる。

 これに対して、イスラエル人も「旧約聖書は過去のことだ。現代とは関係ない」と言うこともできない。

 言ったら最後、現代のイスラエル建国の大義も吹っ飛んでしまうからである

 こうやってみると、解決は極めて困難だと思わされる。

 

 

 以上、本節の3分の1についてみてきた。

 そういえば、和訳版のクルアーンは以前目を通したが、旧約聖書新約聖書は見ていない。

 一度、この辺りも見てみるべきなのかもしれない。

 

 次回は、ユダヤ教キリスト教イスラム教が奉じる神(ヤハウェイエス・キリストアッラー)について古代ユダヤ教をひもときながら見ていくことにする。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 7

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

7 「第1章_イスラムが分かれば、宗教が分かる_第2節」を読む(後編)

 前々回は仏教の戒律という宗教的規範についてみた。

 前回は日本が仏教の戒律や儒教の祭礼といった「規範」を骨抜きにしていく様子をみた。

 今回、この日本の規範の洗い流していく作用を「日本教」という観点からみていく。

 

 

 前回見たように、仏教と儒教は日本に上陸するや否やその規範(外面的な行為の制限)の部分が骨抜きにされてしまった

 ただし、このことは日本人が仏教や儒教の教え(教義)が嫌いであることを意味しない。

 というのも、論語は日本で大いに読まれている(た)。

 仏教用語にしても日常生活の中でたくさん使われている。

 論語を愛読し、仏教用語を日常生活に取り入れている集団が仏教や儒教を嫌いであると認定するのは少し無理があるだろう。

 しかし、戒律を守る仏教徒、祭礼を執行する熱心な儒教の信者になるわけでもない。

 

 日本社会・日本人から見た場合、重要なのは教え・信仰の部分であって、規範・行動の部分はやっかいな部分だと考える。

 だから、規範を捨てて信仰の部分だけつまみ食いしようとする。

 この日本人の宗教センスのことを「日本教」と呼んだのが山本七平であり、このブログで見てきたことである。

 

 なお、以上のことは、日本人を全体で見た場合、このような傾向があると述べているだけである。

 この現象のよしあしについて私は興味がない。

 視座を変えればどうとでも言えるからである。

 

 なお、この傾向は宗教だけではなく、技術にもみられる。

 この点に具体的に言及しているのが次のメモである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 では、日本教はどんなものか。

 日本教は日本固有の神道をベースに仏教・儒教などの教えをミックスさせて作ったものである。

 もちろん、ミックスされたのは仏教・儒教だけではない。

 例えば、中国の道教もそうである。

 このことは、道教の流れをくむ陰陽道の思想に由来する大安や仏滅といった六曜道教が起源となっている七夕や十二支といったものを利用していることからもうかがえる。

 さらに、日本人は、キリスト教信者でもないのに教会で結婚式をし、クリスマスを祝う。

 

 別の宗教・信者から見た場合、日本人のこれらの挙動が無茶苦茶に見える。

 彼らの視座に立ったらそうなるわけであるから、それを否定するのは容易ではない。

 もちろん、別の宗教・信者から見て「無茶苦茶だ」と言われても、「知らんがな」と言って突っ返せばいいわけだが。

 ただ、(他の宗教から見て)「なんでもあり」に見えるこの現象こそ日本教の特徴である

 

 

 もっとも、「なんでもあり」に見えるからといって、本当に「なんでもあり」なわけではない。

 それは現実を見れば明らかである。

 つまり、他の宗教と比較して「容認される基準の内容・明確性が大きく違う」に過ぎない

 このことは内村鑑三不敬事件のいきさつ(メモのリンクは次の通り)を見れば一発で明らかであろう。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

 ところで、ウェーバーの定義に従うならば、日本教日本教徒(日本人)の行動を基礎づけており、日本人独特の倫理道徳の観念の源泉にもなっている

 つまり、日本教は日本人らしさを基礎づけている原因、ということにもなる。

 とすれば、日本教にも良いもの、悪いものを決める基準や道徳律が存在することになる。

 その具体例が新渡戸稲造「武士道」である。

 

 しかし、日本教の場合、その道徳律はイスラム教や仏教のような規範にならない。

 ここが比較宗教社会学的観点から見た場合の日本教の決定的に重要な特徴になる。

 つまり、ユダヤ教イスラム教には外面的行為に関する厳格な規範がある。

 他方、仏教においても修行における外面的行為に関する厳格な規範があり、これを破ればサンガから追放され、修行の道が絶たれる。

 それに対して、日本教でもルールが一応存在するが、守った守らなかったの判定はかなりあいまいである。

 このことは宗教だけではなく法律の執行にも言える。

 法律の執行に関するメモへのリンクは次のとおりである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

 以下、日本のルールの曖昧性(規範の弱さ)について食物規制を例にしてみていく。 

 まず、対比の観点からイスラム教の食物規制を見る。

 なお、ユダヤ教イスラム教の食物規制は絶対神の命令だからそのルールは厳格である。

 イスラム教において食べてはいけない食物のことを「ハラム」と言い、食べていい食物のことを「ハラル」という。

 

 この点、ハラルには牛・羊・ラクダ・ヤギなどの草食動物、ニワトリやカモなどの鳥が入る。

 しかし、これらの肉を食べる場合でもイスラム用の規範に従って処理されなければ食べてはいけない。

 この作法のことを「ザビハー」という。

 よって、イスラム教徒が日本で肉を食べる場合、スーパーの肉屋で買ってくるわけにもいかない。

「ザヒハー」によった作法によらない以上、食べてはいけない「ハラム」に属するからである。

 

 ところで、イスラム教には「ハラル」と「ハラム」という分類があると述べた。

 ただ、もう一つのカテゴリ、「マッシュブーフ」がある。

 マッシュブーフは「疑わしい」という意味の言葉がある。

 では、「マッシュブーフ」にカテゴライズされた食物は食べてもいいのか。

 これについては、「食べても罪にならない」・「敬虔なイスラム教徒は食べない」となる。

 

 このような第三のカテゴリを日本教徒が見ると、「厳格に二分されてないのに、『規範』とは片腹痛い」と考えるかもしれない。

 しかし、規範において大事なのは基準の明確性であって、規範の単純さではない

 そして、三つのカテゴリにおいて食べて罪になるのは「ハラム」だけであり、マッシュブーフの食物を食べても罪にならない。

 その点は明確であり、信者も安心して食べることができる。

 その場の空気で罪になったりなかったり、と言うことにならないことは明らかである。

 もっとも、食べないことが推奨されているだけで。

 

 このようなイスラム教の食物規定を見たうえで、日本の食物規制を見てみよう。

 イスラム教と対比してみるならば、「『ある』ともいえない、『ない』ともいえない」としか言えない。

 例えば、海外旅行を行って旅行先の名物料理を食べたら、あとでネコの肉だとわかったとしよう。

 この場合、「日本人としてあるまじき行為をした。もう私は救われない」と激しく後悔する人間はいないであろう。

 インドのセポイの反乱(インド大反乱)の発火点と対比すれば、その違いは明らかである。

 そして、このケースから考えると、「日本ではネコは規制されていない」と言えそうに見える。

 

 しかし、その一方で、「今日、私はペットのネコを食べた」と述べたとする。

 遠い人間がそのようなことをすればスルーされるかもしれない(最近なら炎上して社会生命が絶たれるかもしれない)が、親しい関係の人間に対してこんなことを言ったらただでは済まないであろう。

 とすれば、「ネコは規制されている」とも言いうる。

 というわけで、「よくわからない」以上の結論は出てこず、イスラム教やユダヤ教にあるような明確な規範は存在しないことになる。

 

 このことは徳川時代以前にもみることができる。

 例えば、平安時代以降、日本では仏教の影響で四つ足の獣を食べることが忌避されていた。

 しかし、厳格な規範として機能していたわけではない。

 例えば、イノシシは山鯨であり鯨の一種として食べることができた。

 また、兎は「一羽、二羽」と鳥として数えられていたので食べることができた。

 このように、兎やイノシシが例外とすることは規範から見てできないではない。

 しかし、江戸時代のモモンジ屋ではそれ以外の獣も食べられていた。

 もちろん、モモンジ屋は闇商売ではなく堂々と営業されていたものである。

 何故食べられたかというと、「薬だから」という理屈を立てたからである。

 この点、薬であろうが人体に有益であろうが獣であることに変わりはない。

「『獣でない』から食べてもよい」という理屈なら文言解釈の範囲として分からないではないが、獣であるが薬にしたから、、、という理屈は文言解釈の域を超えている。

 だから、この理屈はちょっと、、、ということになる。

 

 ちなみに、水戸藩徳川斉昭(烈公)の息子にして十五代将軍となった徳川慶喜は将軍になる前から豚肉好きであった。

 そして、そのことは広く知られており、それゆえ慶喜を嫌った人もいるらしい。

 もっとも、慶喜の豚肉食いは出世の妨げになっていない。

 

 

 以上、事実をみてきた。

 まとめてみると、「行為として食べることはできた。それを嫌う人もいた」となる。

 もっとも、明治時代に文明開化の鐘が鳴りだすや否や、肉食嫌いは一掃されてしまい、すき焼きは日本の代表的料理の一つにまでなる。

 これではわけわかめとなっても無理からぬことである。

 

 ただ、いくつかの抽象的な基準についてみることができる。

 そのうちの一つは「一つは規範は時代が決める」ということ、もう一つは「相手の個人・集団によって決まる」というものである。

 一神教をいただく宗教の規範から見れば、規範は神が創造するものであって、時代や権力者によって変えられるものではない。

 ましてや、一般人によって変えられるものでもない。

 ただし、日本教においては行動基準は時代と相手によると考える。

 そして、基準に該当するものがいわゆる「空気」(ニューマ)である

 これは儒教ユダヤ教イスラム教が一神教であることに対して、日本教多神教絶対神の不在)であることに対応するのかもしれない。

 一般人に行動基準を変える権限があると考えるためには「一般人も神(一神教ほどの絶対神ではないとしても)である」と考えざるを得なくなるので。

 

 

 このように見た場合、日本教キリスト教と同様、規範が弱いことになる

 その結果、信仰・内面を大事にするという意味でキリスト教日本教は非常に似たものになった。

 しかし、日本教キリスト教は決定的に異なる点がある。

 それが、キリスト教一神教であり、日本教多神教である、という点である。

 そして、この一神教多神教は相性が悪い

 

 

 この点、最澄が戒律を形式化・名目化するまで日本人は仏教をありがたがり、仏さまを拝んでいた。

 これができたのは神道のおかげである。

 具体的には、本地垂迹説のおかげと言うべきか。

 

 日本に入ってきた仏教が戒律を員数化することで日本独特のものになったという話は前回行った。

 これを支えた理論が天台本覚論という点も。

 ただ、もう一つ見ておくべきことがある。

 それは本地垂迹説である。

 本地垂迹説の導入と戒律の廃止の両方があったからこそ日本は変質をしつつも仏教が爆発的に浸透した。

 この本地垂迹説は法華経に由来する思想で「本地(根本の物体)より迹(具体的な形)をたれる」と考えるものである。

 

 この点、極めて単純化して考えた場合、仏教では形式論理学実在論を前提にしない。

 だから、「あるかないか二者択一」といった形式論理学は前提になってないし、「本当に存在するのは認識だけである」という発想が前提となる

 その意味で、ユダヤ教キリスト教イスラム教とは対極的である。

 そして、唯識論を前提として、形式論理学を排除していくと本地垂迹説が出てくる。

 この本地垂迹説においては、「釈迦が実在する」ではなく、「宇宙の真理を人間は釈迦の形で認識する」と考える

 この発想が日本に来て、「宇宙の真理(=仏教)が日本では神道の形で現れた」という発想になった。

 例えば、菩薩が日本において八幡神として認識される、とか。

 他にも例はたくさんある。

 これがいわゆる神仏習合である。

 もちろん、これは逆にもなりうるわけだが。

 

 さて、この神仏習合によって得をしたのは神道ではなく仏教である

 難解な仏教の教えを教える必要がなく、日本の神々は仏の成り代わりであると言ってしまえば、日本人は理解し、仏教の教え自体は受け入れてくれるのだから

 もっとも、そのように普及した仏教に対しては「果たしてこれは仏教なりや」という問いが突きつけられることになるとしても。

 

 

 以上の神仏習合の作法、この作法は江戸時代に儒教に対しても行われることになる。

 とすれば、キリスト教もこの戦術を使えばよかったのではないか、という疑問が浮かぶ。

 しかし、一神教であるキリスト教には容易ではない

 というのも、神道多神教だからである。

 もっとも、抜け道的にできなかったかと言われると、これまた微妙である。

 潔癖なプロテスタントならさておき、カトリック教会ならできたかもしれない、とは言いうる。

 なぜなら、キリスト教にはマリア信仰があるからである

 マリア信仰はキリストの母親に対する信仰ということになるが、これはイエス・キリストを唯一絶対の神と考えるキリスト教においては異端と言うしかない。

 事実、マホメットはマリア信仰に対して「愚かなこと」と述べている。

 しかし、カトリック教会は布教の方便としてマリア信仰を持ち出すことになる。

 

 ここで、キリスト教におけるイエス・キリストの実体に関する議論を確認する。

 第一に、イエス・キリストは人間の原罪を解除したとされている。

 よって、イエス・キリストは神でなくてはならない」ことになる。

 原罪を解除できるのは原罪を設定した神であり、人間には不可能だからである。

 もっとも、バイブルには「イエスはマリアという人間から産まれた」ことになっている。

 とすると、「マリアである人間に神が産めるのか」という問題が生じた。

 つまり、イエス・キリストは神なのか、人間なのか、といった宗教の核心部分に関する問題が生じ、4世紀、ローマ帝国で認められたキリスト教は大混乱に陥った。

 そのために、325年、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世は「二ケア公会議」を開いて徹底的に討論し、イエス・キリストは神である。同時に、人間である」という結論を出した。

 この結論のことを「二ケア信条」といい、これを採用するか否かが正統と異端を分ける境界線となった。

 現在の正教・カトリック教会・プロテスタントも二ケア信条を採用している点では同様である。

 他方、当時、二ケア信条に異を唱えたアリウス派は異端として排除される。

 

 イエス・キリストに関する議論をめぐるごたごたはその後も続いた。

 451年のカルケドン公会議の開催、三位一体説の確立などにその点が表れている。

 もちろん、このような会議が開かれたのも、この問題を放置すればキリスト教が分裂しかねなかったからである。

 そうやって、キリスト教が安定させたのもつかの間、カトリック教会は中世以降、マリア信仰を布教の手段に持ち出すことになる。

 この点、マリアは人間であるから、マリア信仰は「キリストは神ではない(人間に過ぎない)」と述べたアリウス派よりもはるかにキリスト教からずれている、ことになる。

 しかし、従来から自然崇拝の信仰を持っていたゲルマン人ケルト人に対する布教手段としてマリア信仰は極めて有効な手段であった

 この点は「仏教の難解な教えを伝えるよりも、『日本の神々は仏や菩薩が自ら日本用にカスタマイズしたものである』と教えたほうが楽である」というと同様である。

 そして、この手段があったからこそキリスト教はヨーロッパや世界各地に広がることになった。

 もちろん、本来のキリスト教から見たらとんでもないことだとしても。

 

 以上のヨーロッパにおけるキリスト教拡大の歴史を見れば、戦国時代に日本を訪れた宣教師がマリア信仰を流用して本地垂迹説を使うことができた、と言えなくもない。

 比叡山に日本の秀才(天才ではない)が集まるならば、カトリック教会にはヨーロッパの秀才・天才が集まる。

 ならば、それぐらいの理論武装は朝飯前であろう。

 

 ちなみに、戦国時代の当時の記録によると日本人のキリシタンにとってはマリアの方が親しみやすかったそうである。

 このことはマリア観音像にも表れているといえる。

 

 

 なお、このようなことを述べると、真面目なキリスト教徒はお怒りになると考えられる。

 特に、プロテスタントの方々は。

 もちろん、このような方便は神に対する冒涜に他ならない。

 この点は、歴史の確認と思考実験としてお許しいただきたい。

 

 

 さて。

 色々見てきたが、「日本人の規範嫌いがイスラム教を阻む」根拠を参照してきた。

 つまり、日本教イスラム教は現在する著名な宗教の中でもっとも相性が悪いといってよい。

 徹底した一神教多神教という違い。

 さらに、規範に対する態度の違い。

 特に、イスラム教では「マホメットは人間である」としている。

 日本の儒教論語一本槍、つまり、孔子一本槍になったわけであるが、イスラム教において仮にマホメット一本鎗になったところで、世界からイスラム教とは認定されることはない。

 これは、現在、日本の僧侶が世界の仏教から僧と認定されないのと同様である。

 

 もちろん、「イスラム教めいたもの」の導入ならできるかもしれない。

 仏教から戒律を抜いたように、イスラム教から規範を抜いてしまうのである。

 しかし、イスラム教の法はアッラーが創造したもので、かつ、アッラーだけに変更権限があるものである。

 この点の徹底さは仏教よりも厳しい。

 日本だけで閉鎖しても構わないというならさておき、世界との連帯を築くのであればその道は仏教より困難であろう。

 他方、日本だけで閉鎖して構わないというのなら、出来上がるのはイスラム教ではなく、日本教イスラム派に過ぎないことになる。

 

 個人的には、「むぅーりぃー」としか思えない。

 ならば、相性の悪い点を十分に認識し、十分に理解した上で、一定の距離を開けたほうがよいと考えられる。

 少なくても、アラビア社会と日本は物理的に距離があり、イスラム教は「信仰の強制はしない」と述べているのだから。

 

 

 以上が本章のお話である。

 日本の「空気」・日本教に対する理解が歴史方向で深まった。

 その意味でこの本を読む価値があった。

 もちろん、イスラム教やその他の宗教に対する理解も深まったことも言うまでもないが。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 6

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

6 「第1章_イスラムが分かれば、宗教が分かる_第2節」を読む(中編)

 前回は日本人が宗教的規範としてイメージしやすい「仏教の『戒律』」についてみてきた。

 この点、「戒律」は仏教における宗教的な「規範」である。

 もちろん、同じ「規範」であっても規範が果たす「役割」は一神教とは異なる。

 

 そして、鑑真の日本渡航によって当時の日本において「受戒」の制度が整えられた。

 その結果、当時のグローバルスタンダードに照らして日本の仏教が一人前になった、ということを確認した。 

 

 

 しかし、平安時代から鎌倉時代にかけて、日本はこの受戒の制度や戒律を形式化・名目化・員数化していくことになる。

 この点、戒を定めたのが釈迦であることと、受戒が戒律のスタート・修行のスタートであることを考慮すれば、受戒の名目化は戒律の無視であり、釈迦が創案した仏教の無視と言われても抗弁できない。

 控えめな表現をすれば、「果たしてこれは仏教なりや」ということになるであろう。

 以下、日本の戒律を骨抜きにしていった経緯を確認する。

 

 

 まず、戒律の名目化は最澄から始まる。

 最澄比叡山延暦寺にて天台宗を開いた開祖である。

 この延暦寺は皇室の崇敬も厚く、また、天台宗から法然親鸞日蓮といった名だたる宗教者が出てきている。

 つまり、最澄が開いた天台宗延暦寺というのは日本における仏教の最高権威にして最高の修行機関・研究機関といってもよい。

 今の日本に例えれば、東京大学京都大学・・・いや、現在の東大や京大では比較にならないか。

 

 また、興味深いのは名目化をもくろんだのは時の権力者でも庶民でもなく、高僧だった、という点である。

 このことと次の文章を併せて読むと興味深い。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 まず、この最澄比叡山を開くにあたり従来の戒律制度を採用せず、新たな「円戒(円頓戒・大乗戒)」という制度に変更する。

 この円戒、従前の制度(いわゆる具足戒)と比較すると、内面の信仰を問うものが多く、外面的行動に関する規範が少ない。

 その結果、宗教的に見た場合に(従来と比較して)僧侶は自由な行動ができるということになってしまった。

 初期の仏教が労働はダメ、金儲けはダメ、酒はダメ、結婚はダメ、それでは生活ができないからサンガに入って、、、というのとは対照的である。

 

 さらに、最澄は受戒の儀式自体も簡易化した。

 従来の制度では、受戒の儀式において「三師七証」、つまり、三人の僧と七人の証人を必要としていた。

 もちろん、僧や証人になるにも一定の資格が必要になる。

 これに対して、円戒では一人の伝戒師がいればいい、あとは、釈迦・文殊弥勒の一仏二菩薩が証人になって下さるという。

 三師七証と比べればかなり簡略化されている。

 

 さらに、円戒においては戒律を破ったとしても、大きい制裁がない。

 この点、従前の、というか、日本以外の仏教においては戒律を破ればサンガからの追放という制裁がある。

 もちろん、サンガから追放された場合、復帰は不可能・修行も不可能である。

 他方、円戒の場合は、懺悔と再受戒による復帰の道を残した。

 破っても宗教的ペナルティがない、では、規範としての意味はないだろう。

 

 この点、「悟り(仏教における救済)のための手段」として釈迦がまとめたものが戒律である(戒が個人向け、律が集団向け)。

 また、釈迦が神ではないことを考慮すれば、戒律の変更はあり得ない話ではない。

 しかし、戒律を実質的に廃止してしまえば、それは、釈迦の教えや仏教の否定に等しい。

 これは、キリスト教が律法を廃止することでユダヤ教から決別したのと同様である。

 そして、これが「果たしてこれが仏教なりや」と問われた原因である。

 

 

 このように、従前の受戒から円戒に変更した最澄

 天台宗はこの制度を踏襲し続ける。

 ただ、新しい制度を作る以上、その制度を支える理論が必要になる。

 そこで、作られたのが「天台本覚論」である

 

 この天台本覚論の内容をワンワードにすると「人は迷ったまま、欲望をもったままでも仏になれる」ということになる。

 これも、「修行によって煩悩から解放され、煩悩から解放されることで仏になる」と考える従前の仏教とは大違いである。

 

 もちろん、天台本覚論は単なる思い付きで作られたものではない。

 各々の時代の最高の頭脳集団がよってたかって作り上げたものである。

 現在の御用学者とは比べ物にならない。

 いや、現在の学者のありさまから見れば、、、ということもあり得ないではないが。

 

 この点、天台本覚論のオリジナルは中国仏教にあった。

 仏教では、「人間の煩悩が人間の苦しみの原因となる。よって、煩悩を除去することで、苦しみが消えて仏になれる。煩悩を除去する手段が戒律によって定められた修行である」と考える。

 この考えに仏教の因果律の発想を適用する。

 何故、修行によって煩悩が解消されて仏になれるのか?

 本覚論の回答は、生き物(煩悩にまみれた人間)には悟る(救済される)ための要素をあらかじめ所持しているから、となる。

 人間に悟りの要素が最初から存在しないならば、修行をしても救済されないであろう。

 この「人間や生物には『悟りの要素』をあらかじめ持っている」と考えるのが本覚の発想である。

 

 もちろん、中国の本覚論は「悟りの要素がある=救済される可能性がある」でとどまっていた。

 つまり、「救済の可能性があるが、そのままで救済されるわけではない。だから、修行や善行が必要である」という従来の仏教の枠組みの範囲で考えていた。

 しかし、日本の天台仏教ではこの本覚思想を純粋化し、極限までもっていってしまった。

 その結果、「人間は悟りの要素がある」から「(迷いや煩悩のある)人間は既に悟った存在である」という発想になってしまった

 

 

 もちろん、天台宗の本覚論がいつ、誰が考えたのかは不明である。

 なにしろ、この本覚論は天台宗の奥義中の奥義であり、平安時代においては修行僧だけのものだったのだから。

 しかし、この思想が鎌倉時代に庶民に浸透し始める。

 その役割を演じたのが法然親鸞、そして、日蓮である。

 

 浄土宗の法然浄土真宗親鸞は「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば救済される、他の修行や学問は要らない、それよりも阿弥陀仏にひたすらすがれと述べた。

 日蓮にしても「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えればいい、と述べた。

 文言は違えども、戒律や修行といったものが皆無である

 

 この点、法然親鸞日蓮もみな比叡山で修行している

 これらの俊英は天台本覚論を知っていたはずである。

 

 もちろん、本覚論と同様、阿弥陀仏信仰は中国にあった。

 しかし、「阿弥陀仏にすがれば、あとは要らない」とまでは言わない。

 修行の否定が仏教の否定になるからである。

 その否定をやってしまったのが日本の浄土宗・浄土真宗ということになる。

 

 

 ところで、ここで興味深いのが親鸞の妻帯である。

 親鸞は正式に妻を迎えた。

 もちろん、実質的に見て妻がいた(妾を持っていた)僧はいくらでもいたであろうが。

 当然だが、仏教の戒律は僧が妻を持つことを禁止している。

 

 では、彼は何故妻を持つことができると考えたか。

 その理由は「夢の中で聖徳太子が現れ、お許しになったから」という。

 これまたすごい話である。

 例えば、「夢で釈迦が現れて許した」と主張することは、十分ありうる話である。

 釈迦はクリエーターではないが、仏教の創始者であるのだから。

 ちょうど、マホメットが大天使ガブリエルからアッラーの言葉を賜ったように。

 

 しかし、仏教の観点から見た場合、聖徳太子は敬虔な在家信者に過ぎず、受戒もされていない。

 そのような方が許したからといって仏教から見れば何の意味がないだろう。

 これはエイブラハム・リンカーン大統領が奴隷を解放したからといって、それが宗教的に意味がないのと同様である。

 当然だが、聖徳太子は立派な政治家であっただろうし、また、仏教に対する造詣も深かったであろう。

 しかし、戒律の変更権限があるわけではない。

 

 

 以上のように、法然親鸞といった人たちは修行と修行を定めた戒律をなくしていった。

 もっとも、これは彼らが宗教的に見て(仏教から見て、ではないことに注意)堕落したことを意味するわけではない。

 彼らにも相応の事情があった。

 本書には書いていないが、最澄にしてみてもその辺は同様ではないかと考えられる。

 

 では、親鸞法然がそのように考えていった理由とは何か。

 それは、末法思想である。

 つまり、仏教では釈迦が入滅してからの1000年間を「正法」の時代、正法の時代の後は「像法」の時代が1000年間続き、その次に来るのが「末法」の時代と考えられていた。

 そして、「正法」の時代は教えに従う悟りが可能な時代、「像法」の時代はありがたい経典などが形だけで残り修行による悟りが開けない時代、「末法」の時代は教えがなくなり、修行者すらいなくなる時代、と考えられていた。

 この末法が始まる年が1052年とされていた。

 ちなみに、末法思想が浸透していたためであろうか、政界から引退した後の藤原道長は念仏を唱えまくっている(御堂関白記)。

 

 日本の1050年ころというと藤原道長の後継者、藤原頼通の時代である。

 なお、藤原氏の衰退は後三条天皇(母親が内親王で藤原一門ではない)から始まるとされているが、後三条天皇の即位が1068年である。

 また、前九年の役があったのも1050年ころである。

 つまり、このあたりから貴族政治にかげりができ、武士の台頭を予感させていたことになる。

 

 既に述べた通り、末法の時代は戒律が廃れ、戒律に基づく修行など不可能と考えられていた。

 ならば、戒律を守って修行するよりも仏にすがったほうが救済されるだろう、というわけである。

 その点においては、日蓮も大差ない。

 もちろん、日蓮親鸞と異なり妻帯もせず、禁欲的な生活を送っていた。

 しかし、これは日蓮の性格の問題に過ぎない。

 というのも、日蓮が残した文章には戒律めいたものがないからである。

 

 

 以上、鎌倉仏教において戒律が実質的に全廃されていくさまをみてきた。

 こうやってみると、鎌倉仏教とキリスト教は大いに似ていることが分かる

 パウロキリスト教)は「人間は原罪があるので、努力(行動)によって救済は得られない。神(イエス・キリスト)への信仰にすがれ」と述べた。

 親鸞日蓮は「時代は既に末法に入った。よって、自助努力による修行で悟り(救済)は得られることはない。阿弥陀仏(または、法華経の功徳)にすがれ」と説いた。

 見事な共通点ではないか。

 もっとも、このように考えるならば、日本の仏教は世界の仏教から決別していることになる。

 ユダヤ教からキリスト教が決別したように。

 もちろん、決別することとダメか否かという問題は別問題である。

 

 

 このように、仏教が持っていた戒律を洗い流してしまった日本

 もう一つ、見るべき外来宗教がある。

 それは、江戸時代以降盛んに入ってきた儒教である

 

 この点、儒教は宗教なのか」と考えるかもしれない(私も昔はそのように考えていた)。

 しかし、儒教は単なる道徳ではなく、立派な宗教である。

 その証拠に、儒教にも独自の祭礼があり、細かい規定がたくさんある。

 例えば、親が死んだら葬儀ではこのように泣けだの、涙はこう流せ、だの。

 あるいは、葬儀の終わったら、これだけの期間、このような生活を送れ、といった服喪規定だの。

 もっとも、普通の人が規範を守ることは容易ではない。

 だから、「哭き女」といった商売があるくらいである。

 このように儒教も宗教であり、その規範の体系が孔子のいう「礼」となる。

 

 ところで、「舜の服を着、瞬の言を唱し、瞬の行いを行えば、これ瞬のみ」と言い放った儒学者がいる(舜は儒教における聖人)。

 これは大袈裟であろうが、少なくても「礼」を守らなければ儒教における聖人にはなれない。

 その意味で、儒教は外形的行為が重視されていることになる。

 

 

 また、イスラム教・キリスト教・仏教と異なり、儒教は集団救済を目的とする

 その意味では、民族宗教たるユダヤ教に近い。

 そして、その集団救済の手段が政治である。

 つまり、儒教では「良い政治をすれば、天下は安泰になる。天下が安泰になれば、個人の生活は維持され、儒教における霊的秩序も安泰。だから、儒教では理想的な政治を行う聖人を生み出すことが重要」と考える

 個人の救済などかまってられない、というわけでもある。

 人間の数が多い中国ならではの発想であろうか。

 

 このことを裏付けるエピソードが「論語」に出てくる孔子顔回に対する態度である。

 顔回孔子のもっとも優秀な弟子である。

 その顔回が病に倒れた。

 優秀な弟子が病に倒れたとなれば孔子顔回のために看病する、高価な薬を届けるといったことをするのではないかと考えられる。

 しかし、孔子は特に何もしなかった。

 

 これに対して、孔子の薄情さをあれこれ言うことはできる。

 もっとも、孔子の行動は儒教から見れば王道をいっている。

 というのも、顔回がこうなった原因は政治にある以上、政治をどうにかしなければ意味がない、と考えるからである。

 

 なお、儒教は集団救済を目的とするが、この集団は「現在生きている人間」だけに限定されてないように考えられる。

 つまり、集団には現在生きている人間だけではなく、死んでしまった祖先を含む。

 それゆえ、魂と魄に分離している死んだ祖先に対する祭礼は重要事項になる。

 そして、その祖先の祭礼をつつがなく行うためには現在の社会の安寧が極めて重要であり、政治が重要と考える。

 逆に言えば、正しい政治は現在生きている人間を救い、同時に死者をも救う

 これが儒教の基本的な発想である。

 

 

 ところで、この儒教、日本に流入された結果どうなったか。

 確かに、江戸幕府儒教を奨励した。

 しかし、そこで奨励されたのは、教養としての儒教・道徳としての儒教であって、祭礼の部分ではなかった。

 このことは、儒教の教典のなかで「論語」ばかりが愛読されたことに象徴的に表れている。

 この点、論語孔子の言動録であって、規範性が薄い。

 また、宋以前の儒教において大事だったのはいわゆる「五経」、つまり易経」・「書経」・「詩経」・「礼記」・「春秋」の方である。

 というのも、規範や手段が示されているのはこちらの書物だからである。

 特に、「礼記」には古代の礼が示されており、これこそ規範の指針になっていた。

 それに比較したら、「論語」はサブテキストに近い。

 

 もちろん、その後の朱子学論語の地位を向上させた

 つまり、朱子学創始者たる朱熹五経に加えて、「論語」・「孟子」・「大学」・「中庸」を「四書」としてまとめた。

 とはいえ、論語だけが大事というわけではない。

 このことは科挙の対象が四書五経にあったことからも明らかである

 しかし、その儒教が日本に渡ってくると論語一本やりに変化した。

 儒教で重要とされる祭礼などどこ吹く風である。

 

 

 以上、仏教だけではなく儒教についても日本に規範が骨抜きにされていった。

 以下、この日本の特性が外国で起こした悲劇についてみていく

 題材は戦前の日韓関係である。

 

 日本の仏教が戒律を取っ払ってしまったのは既に話した。

 そして、日韓併合の折、その日本の仏教が韓国に流入し、戒律が機能している韓国で混乱を招くことになる。

 この点、明治時代の日本は政府が僧侶の結婚を許す、という状況になっていた。

 これについては、僧侶の結婚する権利の制限の禁止という肯定的な見方もできる。

 他方で、国家による宗教規範への介入、という否定的な見方もありうる。

 宗教サイドから見れば後者に傾くであろう。

 もっとも、規範に鈍感な日本ではこれが大きな問題とはならなかったが。

 

 さて、このシステムが日韓併合によって韓国で大問題を引き起こす。

 日韓併合において日本は極力日本と韓国を同等にしようと試みた(現実の結果はさておき)。

 そのため、日本で認められた僧侶の妻帯許可も韓国でも適用されることになった。

 戒律が機能している韓国仏教界で大混乱を招いたことは想像に難くない。

 

 当然だが、日本側に韓国仏教を壊滅される意図があったわけではない(戒律が有名無実化していた日本でそのような発想など最初からないだろう)。

 また、前述の肯定的な見方を軸に考えれば、「いいことをした」とさえ思っていただろうし、それを裏付ける相応の理由さえある。

 

 ところで、韓国併合当時の日本はアジアで唯一列強に仲間入りした国である。

 それがために、その日本を見習って妻帯する僧侶が出だしたので大問題。 

 韓国仏教界を二分する大騒動になった。

 

 さらに、太平洋戦争の敗戦によって悲劇は倍加する。

 というのも、韓国は独立するや否や、妻帯した僧を仏教界から追放していったからである。

 やむなく妻帯した僧たちは新しい寺院を作ったが、従前の仏教界は彼らを破戒僧扱いしている。

 もっとも、仏教の規範から考えれば当然の帰結としかいいようがない。

 

 もちろん、この件について「知らんがな」ということは自由である。

 また、この悲劇が日本の意図した結果であるとは言えない。

 しかし、日本の宗教オンチがどのような「意図せざる結果」を招くのかを知っておくのはよろしいかと考えられる。

 何故なら、イスラム教とキリスト教の争いなどに手や口を出すならば同様の悲劇、または、茶番を繰り返す可能性があるからである。

 まあ、日本人の能力その他を見れば、大国の後ろで黙っていたほうが国益的にも、あるいは、他国の利益から見てもいいのではないか、と考えられるが。

 

 本書では、日韓関係のねじれの原因として、規範意識の違いに起因するものに注目している。

 結論をワンワードで述べれば、純粋な儒教国家である韓国から見た場合、純粋な無規範国家たる日本ほど野蛮に見える国はないといったお話である。

 もっとも、これは日本と韓国に限った話ではないであろうから、割愛。

 というのも、山本七平が日米関係においてこれに似たことを述べていたからである。

 

 

 以上、日本が外来宗教の規範を形がい化させていくさまについてみてきた

 もちろん、私はこれらの現象の善悪についてはさほど関心がない。

 仏教から見れば、儒教から見れば、日本教から見れば、善悪の評価などどうとでもなってしまうからである。

 しかし、このように見ていくと、日本教における「空気」と「水」は最近の話ではないのだなあ、と考えさせられる。

 

 また、鑑真が日本にやってきたのが750年ころ。

 最澄が円戒を創設したのが810年ころ。

 その間は100年にも満たない。

 もろもろの合理的な事情・相応な事情があったとしても、100年未満で形がい化させてしまうとは、日本の雨はなんとおそろしいものであろうか。

 

 

 では、規範を骨抜きにする日本教・日本の雨とは何なのか。

 これについては次回以降にみていく。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 5

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

5 「第1章_イスラムが分かれば、宗教が分かる_第2節」を読む(前編)

 第1章の第1節では「規範」という観点からイスラム教・キリスト教ユダヤ教を見てきた。

 つまり、これらの宗教は「人格を有する唯一の絶対神」を信仰する点では共通する。

 しかし、「規範」という観点から見た場合、キリスト教ユダヤ教イスラム教は大きく異なる。

 ざっくり分けてしまえば、ユダヤ教イスラム教は規範が強く(あり)、キリスト教は規範が弱い(ない)。

 

 第1章の第2節のタイトルは「『日本教』に規範なし」

 つまり、この節の主役は日本である。

 というのも、前回の最後でイスラム教が日本に浸透しないのは日本社会が『規範』を嫌うから」という結論を示し、また、イスラム教における規範についてみてきてきたが、日本社会の規範に対する態度を見ずして上の結論の理解はできないからである。

 

 

 まず、「『規範』がある」と言えるための条件を確認する。

 重要な条件は「外形的行為を対象とすること」と「基準の明確性」である。

 つまり、内面に関することは測定できないので規範の対象にならない。

 また、判断する側(人間・集団)によって基準が異なれば明確とは言えず、規範の要件を満たさない。

 

 本書にない記載を追加すると、次の要件も軽視できないと言える。

 まず、イスラム教における規範の階層構造のように、「規範」を決定・修正する手続きもある程度明確に決まっていることが必要になる

 また、規範の維持を担保するための具体的手段も必要になる。

  

 以上より、規範それ自体や規範の決定方法が曖昧である、とか、規範を強制的に通用させる手段がない(弱い)場合、「規範はない(弱い)」ことになる。

 例えば、現実で参照されないマニュアルや規範があるだけでは「規範がある」ことを意味しない。

 山本七平氏の書物に関する読書メモに引き付ければ、「員数ではなく実質で判断する」ということになる。

 

 

 本書では、日本人が宗教的「規範」として頭に思い浮かぶであろう仏教の「戒律」から話が始まる。

 この点、戒律、つまり、戒と律はともに規範である反面、規範の目的が異なる。

 つまり、「戒」は悟りを得るための行動規範である。

 他方、「律」は出家者の共同体であるサンガにおけるルールである。

 だから、戒と律では戒の方が重要、ということになる。

 

 この戒、在家信者は5戒があるのみである。

 しかし、出家した僧は250条、女性の僧の場合は348条ある。

 また、戒を研究する学問(律宗)も存在する。

 これはイスラム法学者ユダヤの律法学者と同様である。

 

 

 以下、仏教の戒律を見ていくため、仏教のアウトラインをみていく。

 ただし、ここでは比較宗教社会学的観点でみていることを考慮し、仏教における一種の理想状態(単純モデル)で考える。

 

キリスト教イスラム教との対比」を念頭にしながら仏教をみると、「法(道徳法則)は釈迦がいなくても存在する」ということに気付く。

 つまり、仏教をワンワードで示せば「法前仏後」となる。

 このことから、仏教の教え・仏教の法は釈迦の教えに限るものではない、ということが分かる。

 

 つまり、瞑想していた釈迦は「社会に『法』が存在し、それゆえ『人の苦しみ』は存在する」ことを発見した。

 そこで、釈迦は「法を知ることで人間の苦しみを除去できる」と考えた。

 しかし、法は既に存在しているし、釈迦が法を創造したわけでもない。

 この点は、「自然を観察していて、アイザック・ニュートン万有引力の法則を発見した」というのと同じである。

 こちらもアイザック・ニュートン万有引力を創造したわけではない。

 

 その意味で、仏教は科学に近いと言える。

 また、一神教と同様に考えて「仏教=釈迦の教え」と考えることが正確ではないこともわかる。

 何故なら、一神教の世界では「法は神が創造したもの」であり、神がなければ法も存在しないと考えるからである。

 これをワンワードで示せば「神前法後」になる。

 

 

 では、一神教の「神前法後」と仏教の「法前仏後」の違いは何をもたらすか。

 まず、規範に対する姿勢が違う。

 神が法を作ったと考える「神前法後」の世界の場合、人々は規範を遵守しなければならない。

 規範を守らなければ、神の怒りを買い、民族は離散し、信者は地獄へ落される。

 だから、ユダヤ教徒イスラム教徒は規範を必死に守ろうとする。

 また、いわゆる規範のないキリスト教徒も信仰を維持しようとする。

 

 他方、仏教の法は科学法則のように存在するものであるから、「法を守るか守らないか」といった発想がない。

 これは「重力に逆らうから従うか」といった発想がないのと同様である。

 それゆえ、仏教の法は規範として機能しない。

 つまり、信者が戒を破ったら釈迦が怒り狂って鉄槌を下すといったこともない。

 この点は、「異教を拝んだソロモン王に対してヤハウェが鉄槌を下した。その果てに起きた悲劇がバビロン捕囚である」と考えるユダヤ教とは対照的である。

 

 

 以上を踏まえて、釈迦が発見した「法」についてみていく。

 では、釈迦が発見した「法」とは何か。

 その根底にあるのは「因果律」である

 

 概要を書くと次の通りとなる。

「法」(法則)によると、「人間の煩悩が人間の苦しみを生じさせる」

 したがって、人間の苦しみを除去させたければ、煩悩を除去しなければならない。

 その煩悩を除去する一つの手段が「修行」であり、修行内容を具体化したのが「戒」である。

 概要であるという事情を差し引いても明快である。

 

 以上から、仏教では救済(=苦しみからの解放)のための修行が重視された

 また、仏教においては僧の存在が不可欠、ということになる。

 つまり、いわゆる十七条憲法において「三宝」が登場するが、仏(釈迦)・法・僧の3つがなければ仏教は存在しえないことになる。

 

 この点をイスラム教・キリスト教ユダヤ教と比較してみる。

 まず、ユダヤ教イスラム教には仏教でいう修行僧のようなものは想定されていない。

 神の前の平等を考慮すればそのような特殊な人間は不要ということになるし、下手に修行僧を拝めば偶像崇拝になりかねない。

 では、キリスト教はどうか。

 イエス・キリストは何も言っていないから、いずれでも構わない、ということになる。

 よって、修道院などが存在してもは問題はない。

 当然だが、「僧のような身分の存在を許容すること」と「立派な人間を目指すことを推奨し、立派な人間を称賛すること」は関係ない

 

 

 さて、仏教において人間がその苦から解放されたいと考えた場合、修行生活が必要になる。

 そして、この修行の規範として釈迦が定めた内容が「戒」である。

 もっとも、修行に専念すると衣食住その他の問題がある。

 というのも、釈迦が草創したインド仏教では私有財産の所持・労働・投資(金儲け)などが禁止されていたからである。

 もちろん、これらのことが禁止されていた理由は、これらのものも飲酒や結婚と同様に煩悩がもたらすものであって、悟り(煩悩からの脱却)を妨げるものと考えられていたからである。

 そこで、修行者は修行集団たる「サンガ」に入った。

 サンガに入ることで修行者たる出家僧は修行に専念し、その一方で在家信者のお布施(寄付)に頼って生活していくことができるからである。

 もっとも、サンガは修行者の共同体だから共同体内のルールが必要になる。

 そこで、修行者集団の共同体を規律するために生まれたルールが「律」である

  

 このように仏教の戒律の由来を見ていくと、仏教とイスラム教の大きな違いが見える。

 つまり、戒は規範ではあるが、その目的は「悟りを開く」という修行者個人のための指針に過ぎない。

 よって、戒を破ったとしても釈迦が仏罰を下すといったものではない。

 また、サンガの規範である律を破ってもサンガから追放されるだけである。

 つまり、戒も律も破ったところで「悟りの道が閉ざされる」以上の制裁はない。

 その意味で、戒律は個人的なものである。

 だから、悟りを得たければ戒律を守ればよく、悟りを得る気がなければ戒律を守る必要はない、ということになる。

 俗社会と戒律には関係がなく、まして権力者が戒律を強要するといったものでもない。

 これに対して、イスラム教やユダヤ教の規範は神から人への命令である。

 よって、総ての人間が人間の意図によらず等しく規範を守る必要がある。

 それゆえ、宗教の規範がそのまま社会の規範に転化する。

 社会的規範として機能するかという点から見た場合、イスラム教やユダヤ教の規範と仏教の戒律は大きく異なることになる。

 

 

 なお、本書では「仏教による救済」についての補足があるから、それをみておく。

 仏教の救済の特徴に「無限に等しい時間が必要」という特徴がある。

 

 仏教の救済に時間がかかる理由は、因果律で考えていること・輪廻転生を肯定していること・過去や前世の悪行に関する事実は変更できないことに由来する

 そこで、仏教では修行の他に善行を勧めている。

 過去の事実・前世の事実は変更できないので、せめて現在と未来の善行で過去の悪行をキャンセルしていくしかない、というわけである。

 この発想を善因楽果という(この反対が悪因苦果)。

 

 ここで仏教における救済について確認する。

 仏教では修行と善行を積み重ね、煩悩から解放されることで仏になる。

 仏になることで煩悩と輪廻転生からのくびきからも解放され、涅槃に入る。

 この「涅槃に入る」ことが仏教における救済である。

 なお、この「仏になること」を「成仏」といい、「成仏」=「煩悩と輪廻転生からの解放」=「涅槃入り」=「仏教における救済」となる。

 

 ただ、この救済への道、途方もなく長い。

 なぜなら、輪廻転生を肯定し、かつ、この世の始めからカウントして無限に等しい時間が経過している(宇宙の誕生からカウントしたって約100億年もの時間がある、宗教的に見れば、これよりも長いことが想定される)ことを考えれば、既に積まれた悪行それ自体は並々ならぬものがあると考えられるからである。

 また、仏教では、善行をすれば救済への距離が近くなる一方、悪行をすれば救済への道が遠のくと考えられている。

 これを示すのが六道輪廻の考え方である。

 六道輪廻の考え方では、この世には天道・人間道・修羅道畜生道・餓鬼道・地獄道の六個の道(世界)があり、生前の行いが良ければ上の道に生まれ変わるが、悪ければ下の道に堕とされると考える。

 つまり、人間の場合、人間道という上から二番目の世界にいる分マシであり、修行・善行を積むことで天道に行けるかもしれない、とは言いうる。

 他方、一度天道に行ったところで、天道での努力が足りなければ再び人道やそれ以下の道にたたき落される可能性がある。

 その意味で安心することができない。

 

 本書では、仏の一歩前の弥勒菩薩が仏になるために必要な時間が紹介されている。

 この点、修行・善行を重ねに重ね、仏候補者集団に入るとする。

 大乗仏教ではこの仏候補者集団のことを菩薩といい、菩薩には41のランクがある。

 そして、その最上位の菩薩のことを弥勒菩薩という。

 弥勒菩薩は未来仏ともいうべきもので、仏になることが確定している菩薩である。

 しかし、弥勒菩薩が仏になるためには56億7000万年もの時間が必要、らしい。

 最後の関門が56億7000万年であれば、そこにたどりつくために必要な時間も推して知るべし、であろう。

 

 ちなみに、釈迦にしてもすぐに仏になって涅槃にいけたわけではない。

 仏教では、釈迦は過去においてたくさんの善行を行っていたと考えられている。

 例えば、飢えた虎のために自らを食料として与えた、兎であったころに客人をもてなすために火の中に自ら投じた、とか。

 もっとも、仏になれた釈迦でさえ「法」から自由だったわけではない。

 

 

 以上、「仏教における救済」についてみてきた。

 ここからは話を「戒律」を求めた人間・「戒律」を伝道した人間に移す。

 具体的に見ていくのは、法顕と鑑真である。

 

 法顕は4世紀の中国(東晋)の人である。

 子供の段階で出家し、以後、仏道修行を専らにしていた。

 だが、あるとき、法顕は中国にインド仏教で説いている戒律が完全な形で存在しないことに気付く。

 この点、仏典をざっくり分けると、釈迦の教えをまとめた経蔵、釈迦以後の学者が研究してできた論文である論蔵、修行者が守るべく戒律についてまとめた律蔵の3つに分けられる。

 そして、この3つがあって仏教の教理は完成する。

 ところが、法顕は中国に完備した律蔵がないことに気付くのである。

 完全な戒律、つまり、正しい戒律を知らないまま修行を続けたところで、悟りが得られる保証はない。

 逆に、自分たちの修行が無駄な努力になる可能性だってある。

 そのことに気付いて青ざめた法顕はインドへ飛び出そうとする。

 

 もっとも、当時の中国はいわゆる五胡十六国時代の大混乱の時代である。

 結局、法顕がインドに向かって旅立つことができたのは法顕が六十歳のときのことである。

 もちろん、当時の旅行の手段は原則として徒歩。

 さらに、道々には盗賊・山賊が跋扈していた。

 その意味で到底楽な道とは言えなかった。

 しかし、法顕はなんとかヒマラヤを越えてインドに入る。

 そして、念願のアイスソード、じゃない、律蔵を手に入れることになった。

 もっとも、海路で帰途についたところ、その船は暴風にあって難破、14年かかって戻ってくることができた。

 しかし、その段階で既に東晋は滅んでいたという顛末である。

 ただ、このエピソードは仏教における戒律の重要性を示している。

 

 

 戒律の重要性を示す著名な事実の一つとして鑑真の日本渡航がある。

 唐の高僧であった鑑真は日本に仏教を伝えるために渡航を繰り返したが失敗した。

 挑戦の途中で失明までした。

 にもかかわらず、日本渡航を諦めず、六度目の渡航で日本にやってきた。

 

 では、鑑真が「日本に行くこと」にこだわったわけはなぜか。

 ここで重要なキーになるのが「戒律」である。

 

 日本に仏教が伝来したのは聖徳太子厩戸皇子)よりも前の時代。

 既に200年近く経過している。

 その間、日本で仏教を信仰する貴族はたくさんいた。

 また、日本ではたくさんの寺は建立され、東大寺の大仏も建立されていた。

 しかし、戒律がなかった。

 戒律がないということは修行の方法を示したマニュアルがないようなものである。

 それなしで修行をして悟りを開けるだろうか。

 法顕が懸念した如く、無駄な努力で終わりかねないではないか。

 

 さらに、仏教の修行の第一段階で行うものとして「受戒」という儀式がある。

 受戒では師は戒律を与え、弟子(修行者)は戒律を守ることを誓う。

 もちろん、受戒がなければ戒律に基づいて出家したとは言えない。

 しかし、日本では仏教伝来以後、たくさんの経典が輸入されたものの、受戒の制度が導入されていなかった。

 これでは、日本の仏教が世界から認められなくても抗弁できない。

 

 そのような事情を知っていたから鑑真は日本の渡航を試みた。

 そして、日本も鑑真を大歓迎した。

 ときの孝謙天皇聖武天皇の娘・女帝)は鑑真に対して吉備真備(唐への留学経験がある超有能優秀な官僚)を勅使として派遣し、「以後、受戒のことはすべて大和尚(鑑真)に任せる」と伝えるほどであった。

 また、その後、東大寺で行われた受戒では聖武上皇孝徳天皇の父親)が参加するほどであった。

 

 鑑真が歴史上高く評価されている理由はここにある。

 鑑真によってようやく受戒の制度が整ったのだから。

 大日本帝国憲法制定や帝国議会の開催によって日本が近代国家として認められるようになったように、鑑真渡航と受戒の制度の完成によって日本の仏教が(海外から見ても)一人前となったのだから。

 

 

 以上、仏教における規範の「戒律」についてみてきた。

 そして、その戒律が日本に導入されるいきさつについても。

 しかし、日本はこの導入された戒律を有名無実化していくことになる。

 まあ、仏教が日本に伝来してから約200年もの間、受戒の制度が放置され続けたのは、日本が仏教の教義自体は歓迎しても戒律は歓迎しなかった、という事情があったのかもしれない。

 

 では、今回はこの辺で。