今回はこのシリーズの続き。
『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。
6 「第1章_イスラムが分かれば、宗教が分かる_第2節」を読む(中編)
前回は日本人が宗教的規範としてイメージしやすい「仏教の『戒律』」についてみてきた。
この点、「戒律」は仏教における宗教的な「規範」である。
もちろん、同じ「規範」であっても規範が果たす「役割」は一神教とは異なる。
そして、鑑真の日本渡航によって当時の日本において「受戒」の制度が整えられた。
その結果、当時のグローバルスタンダードに照らして日本の仏教が一人前になった、ということを確認した。
しかし、平安時代から鎌倉時代にかけて、日本はこの受戒の制度や戒律を形式化・名目化・員数化していくことになる。
この点、戒を定めたのが釈迦であることと、受戒が戒律のスタート・修行のスタートであることを考慮すれば、受戒の名目化は戒律の無視であり、釈迦が創案した仏教の無視と言われても抗弁できない。
控えめな表現をすれば、「果たしてこれは仏教なりや」ということになるであろう。
以下、日本の戒律を骨抜きにしていった経緯を確認する。
まず、戒律の名目化は最澄から始まる。
この延暦寺は皇室の崇敬も厚く、また、天台宗から法然・親鸞・日蓮といった名だたる宗教者が出てきている。
つまり、最澄が開いた天台宗や延暦寺というのは日本における仏教の最高権威にして最高の修行機関・研究機関といってもよい。
今の日本に例えれば、東京大学や京都大学・・・いや、現在の東大や京大では比較にならないか。
また、興味深いのは名目化をもくろんだのは時の権力者でも庶民でもなく、高僧だった、という点である。
このことと次の文章を併せて読むと興味深い。
まず、この最澄は比叡山を開くにあたり従来の戒律制度を採用せず、新たな「円戒(円頓戒・大乗戒)」という制度に変更する。
この円戒、従前の制度(いわゆる具足戒)と比較すると、内面の信仰を問うものが多く、外面的行動に関する規範が少ない。
その結果、宗教的に見た場合に(従来と比較して)僧侶は自由な行動ができるということになってしまった。
初期の仏教が労働はダメ、金儲けはダメ、酒はダメ、結婚はダメ、それでは生活ができないからサンガに入って、、、というのとは対照的である。
さらに、最澄は受戒の儀式自体も簡易化した。
従来の制度では、受戒の儀式において「三師七証」、つまり、三人の僧と七人の証人を必要としていた。
もちろん、僧や証人になるにも一定の資格が必要になる。
これに対して、円戒では一人の伝戒師がいればいい、あとは、釈迦・文殊・弥勒の一仏二菩薩が証人になって下さるという。
三師七証と比べればかなり簡略化されている。
さらに、円戒においては戒律を破ったとしても、大きい制裁がない。
この点、従前の、というか、日本以外の仏教においては戒律を破ればサンガからの追放という制裁がある。
もちろん、サンガから追放された場合、復帰は不可能・修行も不可能である。
他方、円戒の場合は、懺悔と再受戒による復帰の道を残した。
破っても宗教的ペナルティがない、では、規範としての意味はないだろう。
この点、「悟り(仏教における救済)のための手段」として釈迦がまとめたものが戒律である(戒が個人向け、律が集団向け)。
また、釈迦が神ではないことを考慮すれば、戒律の変更はあり得ない話ではない。
しかし、戒律を実質的に廃止してしまえば、それは、釈迦の教えや仏教の否定に等しい。
これは、キリスト教が律法を廃止することでユダヤ教から決別したのと同様である。
そして、これが「果たしてこれが仏教なりや」と問われた原因である。
このように、従前の受戒から円戒に変更した最澄。
天台宗はこの制度を踏襲し続ける。
ただ、新しい制度を作る以上、その制度を支える理論が必要になる。
そこで、作られたのが「天台本覚論」である。
この天台本覚論の内容をワンワードにすると「人は迷ったまま、欲望をもったままでも仏になれる」ということになる。
これも、「修行によって煩悩から解放され、煩悩から解放されることで仏になる」と考える従前の仏教とは大違いである。
もちろん、天台本覚論は単なる思い付きで作られたものではない。
各々の時代の最高の頭脳集団がよってたかって作り上げたものである。
現在の御用学者とは比べ物にならない。
いや、現在の学者のありさまから見れば、、、ということもあり得ないではないが。
この点、天台本覚論のオリジナルは中国仏教にあった。
仏教では、「人間の煩悩が人間の苦しみの原因となる。よって、煩悩を除去することで、苦しみが消えて仏になれる。煩悩を除去する手段が戒律によって定められた修行である」と考える。
この考えに仏教の因果律の発想を適用する。
何故、修行によって煩悩が解消されて仏になれるのか?
本覚論の回答は、生き物(煩悩にまみれた人間)には悟る(救済される)ための要素をあらかじめ所持しているから、となる。
人間に悟りの要素が最初から存在しないならば、修行をしても救済されないであろう。
この「人間や生物には『悟りの要素』をあらかじめ持っている」と考えるのが本覚の発想である。
もちろん、中国の本覚論は「悟りの要素がある=救済される可能性がある」でとどまっていた。
つまり、「救済の可能性があるが、そのままで救済されるわけではない。だから、修行や善行が必要である」という従来の仏教の枠組みの範囲で考えていた。
しかし、日本の天台仏教ではこの本覚思想を純粋化し、極限までもっていってしまった。
その結果、「人間は悟りの要素がある」から「(迷いや煩悩のある)人間は既に悟った存在である」という発想になってしまった。
もちろん、天台宗の本覚論がいつ、誰が考えたのかは不明である。
なにしろ、この本覚論は天台宗の奥義中の奥義であり、平安時代においては修行僧だけのものだったのだから。
しかし、この思想が鎌倉時代に庶民に浸透し始める。
浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞は「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば救済される、他の修行や学問は要らない、それよりも阿弥陀仏にひたすらすがれと述べた。
日蓮にしても「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えればいい、と述べた。
文言は違えども、戒律や修行といったものが皆無である。
これらの俊英は天台本覚論を知っていたはずである。
もちろん、本覚論と同様、阿弥陀仏信仰は中国にあった。
しかし、「阿弥陀仏にすがれば、あとは要らない」とまでは言わない。
修行の否定が仏教の否定になるからである。
その否定をやってしまったのが日本の浄土宗・浄土真宗ということになる。
ところで、ここで興味深いのが親鸞の妻帯である。
親鸞は正式に妻を迎えた。
もちろん、実質的に見て妻がいた(妾を持っていた)僧はいくらでもいたであろうが。
当然だが、仏教の戒律は僧が妻を持つことを禁止している。
では、彼は何故妻を持つことができると考えたか。
その理由は「夢の中で聖徳太子が現れ、お許しになったから」という。
これまたすごい話である。
例えば、「夢で釈迦が現れて許した」と主張することは、十分ありうる話である。
ちょうど、マホメットが大天使ガブリエルからアッラーの言葉を賜ったように。
しかし、仏教の観点から見た場合、聖徳太子は敬虔な在家信者に過ぎず、受戒もされていない。
そのような方が許したからといって仏教から見れば何の意味がないだろう。
これはエイブラハム・リンカーン大統領が奴隷を解放したからといって、それが宗教的に意味がないのと同様である。
当然だが、聖徳太子は立派な政治家であっただろうし、また、仏教に対する造詣も深かったであろう。
しかし、戒律の変更権限があるわけではない。
以上のように、法然・親鸞といった人たちは修行と修行を定めた戒律をなくしていった。
もっとも、これは彼らが宗教的に見て(仏教から見て、ではないことに注意)堕落したことを意味するわけではない。
彼らにも相応の事情があった。
本書には書いていないが、最澄にしてみてもその辺は同様ではないかと考えられる。
それは、末法思想である。
つまり、仏教では釈迦が入滅してからの1000年間を「正法」の時代、正法の時代の後は「像法」の時代が1000年間続き、その次に来るのが「末法」の時代と考えられていた。
そして、「正法」の時代は教えに従う悟りが可能な時代、「像法」の時代はありがたい経典などが形だけで残り修行による悟りが開けない時代、「末法」の時代は教えがなくなり、修行者すらいなくなる時代、と考えられていた。
この末法が始まる年が1052年とされていた。
ちなみに、末法思想が浸透していたためであろうか、政界から引退した後の藤原道長は念仏を唱えまくっている(御堂関白記)。
日本の1050年ころというと藤原道長の後継者、藤原頼通の時代である。
なお、藤原氏の衰退は後三条天皇(母親が内親王で藤原一門ではない)から始まるとされているが、後三条天皇の即位が1068年である。
また、前九年の役があったのも1050年ころである。
つまり、このあたりから貴族政治にかげりができ、武士の台頭を予感させていたことになる。
既に述べた通り、末法の時代は戒律が廃れ、戒律に基づく修行など不可能と考えられていた。
ならば、戒律を守って修行するよりも仏にすがったほうが救済されるだろう、というわけである。
その点においては、日蓮も大差ない。
もちろん、日蓮は親鸞と異なり妻帯もせず、禁欲的な生活を送っていた。
しかし、これは日蓮の性格の問題に過ぎない。
というのも、日蓮が残した文章には戒律めいたものがないからである。
以上、鎌倉仏教において戒律が実質的に全廃されていくさまをみてきた。
こうやってみると、鎌倉仏教とキリスト教は大いに似ていることが分かる。
パウロ(キリスト教)は「人間は原罪があるので、努力(行動)によって救済は得られない。神(イエス・キリスト)への信仰にすがれ」と述べた。
親鸞と日蓮は「時代は既に末法に入った。よって、自助努力による修行で悟り(救済)は得られることはない。阿弥陀仏(または、法華経の功徳)にすがれ」と説いた。
見事な共通点ではないか。
もっとも、このように考えるならば、日本の仏教は世界の仏教から決別していることになる。
もちろん、決別することとダメか否かという問題は別問題である。
このように、仏教が持っていた戒律を洗い流してしまった日本。
もう一つ、見るべき外来宗教がある。
それは、江戸時代以降盛んに入ってきた儒教である。
この点、「儒教は宗教なのか」と考えるかもしれない(私も昔はそのように考えていた)。
しかし、儒教は単なる道徳ではなく、立派な宗教である。
その証拠に、儒教にも独自の祭礼があり、細かい規定がたくさんある。
例えば、親が死んだら葬儀ではこのように泣けだの、涙はこう流せ、だの。
あるいは、葬儀の終わったら、これだけの期間、このような生活を送れ、といった服喪規定だの。
もっとも、普通の人が規範を守ることは容易ではない。
だから、「哭き女」といった商売があるくらいである。
このように儒教も宗教であり、その規範の体系が孔子のいう「礼」となる。
ところで、「舜の服を着、瞬の言を唱し、瞬の行いを行えば、これ瞬のみ」と言い放った儒学者がいる(舜は儒教における聖人)。
これは大袈裟であろうが、少なくても「礼」を守らなければ儒教における聖人にはなれない。
その意味で、儒教は外形的行為が重視されていることになる。
また、イスラム教・キリスト教・仏教と異なり、儒教は集団救済を目的とする。
そして、その集団救済の手段が政治である。
つまり、儒教では「良い政治をすれば、天下は安泰になる。天下が安泰になれば、個人の生活は維持され、儒教における霊的秩序も安泰。だから、儒教では理想的な政治を行う聖人を生み出すことが重要」と考える。
個人の救済などかまってられない、というわけでもある。
人間の数が多い中国ならではの発想であろうか。
このことを裏付けるエピソードが「論語」に出てくる孔子の顔回に対する態度である。
その顔回が病に倒れた。
優秀な弟子が病に倒れたとなれば孔子は顔回のために看病する、高価な薬を届けるといったことをするのではないかと考えられる。
しかし、孔子は特に何もしなかった。
これに対して、孔子の薄情さをあれこれ言うことはできる。
というのも、顔回がこうなった原因は政治にある以上、政治をどうにかしなければ意味がない、と考えるからである。
なお、儒教は集団救済を目的とするが、この集団は「現在生きている人間」だけに限定されてないように考えられる。
つまり、集団には現在生きている人間だけではなく、死んでしまった祖先を含む。
それゆえ、魂と魄に分離している死んだ祖先に対する祭礼は重要事項になる。
そして、その祖先の祭礼をつつがなく行うためには現在の社会の安寧が極めて重要であり、政治が重要と考える。
逆に言えば、正しい政治は現在生きている人間を救い、同時に死者をも救う。
これが儒教の基本的な発想である。
しかし、そこで奨励されたのは、教養としての儒教・道徳としての儒教であって、祭礼の部分ではなかった。
このことは、儒教の教典のなかで「論語」ばかりが愛読されたことに象徴的に表れている。
また、宋以前の儒教において大事だったのはいわゆる「五経」、つまり「易経」・「書経」・「詩経」・「礼記」・「春秋」の方である。
というのも、規範や手段が示されているのはこちらの書物だからである。
特に、「礼記」には古代の礼が示されており、これこそ規範の指針になっていた。
それに比較したら、「論語」はサブテキストに近い。
つまり、朱子学の創始者たる朱熹は五経に加えて、「論語」・「孟子」・「大学」・「中庸」を「四書」としてまとめた。
とはいえ、論語だけが大事というわけではない。
このことは科挙の対象が四書五経にあったことからも明らかである。
しかし、その儒教が日本に渡ってくると論語一本やりに変化した。
儒教で重要とされる祭礼などどこ吹く風である。
以上、仏教だけではなく儒教についても日本に規範が骨抜きにされていった。
以下、この日本の特性が外国で起こした悲劇についてみていく。
題材は戦前の日韓関係である。
日本の仏教が戒律を取っ払ってしまったのは既に話した。
そして、日韓併合の折、その日本の仏教が韓国に流入し、戒律が機能している韓国で混乱を招くことになる。
この点、明治時代の日本は政府が僧侶の結婚を許す、という状況になっていた。
これについては、僧侶の結婚する権利の制限の禁止という肯定的な見方もできる。
他方で、国家による宗教規範への介入、という否定的な見方もありうる。
宗教サイドから見れば後者に傾くであろう。
もっとも、規範に鈍感な日本ではこれが大きな問題とはならなかったが。
さて、このシステムが日韓併合によって韓国で大問題を引き起こす。
日韓併合において日本は極力日本と韓国を同等にしようと試みた(現実の結果はさておき)。
そのため、日本で認められた僧侶の妻帯許可も韓国でも適用されることになった。
戒律が機能している韓国仏教界で大混乱を招いたことは想像に難くない。
当然だが、日本側に韓国仏教を壊滅される意図があったわけではない(戒律が有名無実化していた日本でそのような発想など最初からないだろう)。
また、前述の肯定的な見方を軸に考えれば、「いいことをした」とさえ思っていただろうし、それを裏付ける相応の理由さえある。
ところで、韓国併合当時の日本はアジアで唯一列強に仲間入りした国である。
それがために、その日本を見習って妻帯する僧侶が出だしたので大問題。
韓国仏教界を二分する大騒動になった。
さらに、太平洋戦争の敗戦によって悲劇は倍加する。
というのも、韓国は独立するや否や、妻帯した僧を仏教界から追放していったからである。
やむなく妻帯した僧たちは新しい寺院を作ったが、従前の仏教界は彼らを破戒僧扱いしている。
もっとも、仏教の規範から考えれば当然の帰結としかいいようがない。
もちろん、この件について「知らんがな」ということは自由である。
また、この悲劇が日本の意図した結果であるとは言えない。
しかし、日本の宗教オンチがどのような「意図せざる結果」を招くのかを知っておくのはよろしいかと考えられる。
何故なら、イスラム教とキリスト教の争いなどに手や口を出すならば同様の悲劇、または、茶番を繰り返す可能性があるからである。
まあ、日本人の能力その他を見れば、大国の後ろで黙っていたほうが国益的にも、あるいは、他国の利益から見てもいいのではないか、と考えられるが。
本書では、日韓関係のねじれの原因として、規範意識の違いに起因するものに注目している。
結論をワンワードで述べれば、純粋な儒教国家である韓国から見た場合、純粋な無規範国家たる日本ほど野蛮に見える国はないといったお話である。
もっとも、これは日本と韓国に限った話ではないであろうから、割愛。
というのも、山本七平が日米関係においてこれに似たことを述べていたからである。
以上、日本が外来宗教の規範を形がい化させていくさまについてみてきた。
もちろん、私はこれらの現象の善悪についてはさほど関心がない。
仏教から見れば、儒教から見れば、日本教から見れば、善悪の評価などどうとでもなってしまうからである。
しかし、このように見ていくと、日本教における「空気」と「水」は最近の話ではないのだなあ、と考えさせられる。
また、鑑真が日本にやってきたのが750年ころ。
最澄が円戒を創設したのが810年ころ。
その間は100年にも満たない。
もろもろの合理的な事情・相応な事情があったとしても、100年未満で形がい化させてしまうとは、日本の雨はなんとおそろしいものであろうか。
では、規範を骨抜きにする日本教・日本の雨とは何なのか。
これについては次回以降にみていく。