今回はこのシリーズの続き。
『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。
5 「第1章_イスラムが分かれば、宗教が分かる_第2節」を読む(前編)
第1章の第1節では「規範」という観点からイスラム教・キリスト教・ユダヤ教を見てきた。
つまり、これらの宗教は「人格を有する唯一の絶対神」を信仰する点では共通する。
しかし、「規範」という観点から見た場合、キリスト教とユダヤ教・イスラム教は大きく異なる。
ざっくり分けてしまえば、ユダヤ教とイスラム教は規範が強く(あり)、キリスト教は規範が弱い(ない)。
第1章の第2節のタイトルは「『日本教』に規範なし」。
つまり、この節の主役は日本である。
というのも、前回の最後で「イスラム教が日本に浸透しないのは日本社会が『規範』を嫌うから」という結論を示し、また、イスラム教における規範についてみてきてきたが、日本社会の規範に対する態度を見ずして上の結論の理解はできないからである。
まず、「『規範』がある」と言えるための条件を確認する。
重要な条件は「外形的行為を対象とすること」と「基準の明確性」である。
つまり、内面に関することは測定できないので規範の対象にならない。
また、判断する側(人間・集団)によって基準が異なれば明確とは言えず、規範の要件を満たさない。
本書にない記載を追加すると、次の要件も軽視できないと言える。
まず、イスラム教における規範の階層構造のように、「規範」を決定・修正する手続きもある程度明確に決まっていることが必要になる。
また、規範の維持を担保するための具体的手段も必要になる。
以上より、規範それ自体や規範の決定方法が曖昧である、とか、規範を強制的に通用させる手段がない(弱い)場合、「規範はない(弱い)」ことになる。
例えば、現実で参照されないマニュアルや規範があるだけでは「規範がある」ことを意味しない。
山本七平氏の書物に関する読書メモに引き付ければ、「員数ではなく実質で判断する」ということになる。
本書では、日本人が宗教的「規範」として頭に思い浮かぶであろう仏教の「戒律」から話が始まる。
この点、戒律、つまり、戒と律はともに規範である反面、規範の目的が異なる。
つまり、「戒」は悟りを得るための行動規範である。
他方、「律」は出家者の共同体であるサンガにおけるルールである。
だから、戒と律では戒の方が重要、ということになる。
この戒、在家信者は5戒があるのみである。
しかし、出家した僧は250条、女性の僧の場合は348条ある。
また、戒を研究する学問(律宗)も存在する。
以下、仏教の戒律を見ていくため、仏教のアウトラインをみていく。
ただし、ここでは比較宗教社会学的観点でみていることを考慮し、仏教における一種の理想状態(単純モデル)で考える。
「キリスト教やイスラム教との対比」を念頭にしながら仏教をみると、「法(道徳法則)は釈迦がいなくても存在する」ということに気付く。
つまり、仏教をワンワードで示せば「法前仏後」となる。
このことから、仏教の教え・仏教の法は釈迦の教えに限るものではない、ということが分かる。
つまり、瞑想していた釈迦は「社会に『法』が存在し、それゆえ『人の苦しみ』は存在する」ことを発見した。
そこで、釈迦は「法を知ることで人間の苦しみを除去できる」と考えた。
しかし、法は既に存在しているし、釈迦が法を創造したわけでもない。
この点は、「自然を観察していて、アイザック・ニュートンは万有引力の法則を発見した」というのと同じである。
こちらもアイザック・ニュートンが万有引力を創造したわけではない。
その意味で、仏教は科学に近いと言える。
また、一神教と同様に考えて「仏教=釈迦の教え」と考えることが正確ではないこともわかる。
何故なら、一神教の世界では「法は神が創造したもの」であり、神がなければ法も存在しないと考えるからである。
これをワンワードで示せば「神前法後」になる。
では、一神教の「神前法後」と仏教の「法前仏後」の違いは何をもたらすか。
まず、規範に対する姿勢が違う。
神が法を作ったと考える「神前法後」の世界の場合、人々は規範を遵守しなければならない。
規範を守らなければ、神の怒りを買い、民族は離散し、信者は地獄へ落される。
だから、ユダヤ教徒とイスラム教徒は規範を必死に守ろうとする。
また、いわゆる規範のないキリスト教徒も信仰を維持しようとする。
他方、仏教の法は科学法則のように存在するものであるから、「法を守るか守らないか」といった発想がない。
これは「重力に逆らうから従うか」といった発想がないのと同様である。
それゆえ、仏教の法は規範として機能しない。
つまり、信者が戒を破ったら釈迦が怒り狂って鉄槌を下すといったこともない。
この点は、「異教を拝んだソロモン王に対してヤハウェが鉄槌を下した。その果てに起きた悲劇がバビロン捕囚である」と考えるユダヤ教とは対照的である。
以上を踏まえて、釈迦が発見した「法」についてみていく。
では、釈迦が発見した「法」とは何か。
その根底にあるのは「因果律」である。
概要を書くと次の通りとなる。
「法」(法則)によると、「人間の煩悩が人間の苦しみを生じさせる」。
したがって、人間の苦しみを除去させたければ、煩悩を除去しなければならない。
その煩悩を除去する一つの手段が「修行」であり、修行内容を具体化したのが「戒」である。
概要であるという事情を差し引いても明快である。
以上から、仏教では救済(=苦しみからの解放)のための修行が重視された。
また、仏教においては僧の存在が不可欠、ということになる。
つまり、いわゆる十七条憲法において「三宝」が登場するが、仏(釈迦)・法・僧の3つがなければ仏教は存在しえないことになる。
まず、ユダヤ教とイスラム教には仏教でいう修行僧のようなものは想定されていない。
神の前の平等を考慮すればそのような特殊な人間は不要ということになるし、下手に修行僧を拝めば偶像崇拝になりかねない。
では、キリスト教はどうか。
イエス・キリストは何も言っていないから、いずれでも構わない、ということになる。
よって、修道院などが存在してもは問題はない。
当然だが、「僧のような身分の存在を許容すること」と「立派な人間を目指すことを推奨し、立派な人間を称賛すること」は関係ない。
さて、仏教において人間がその苦から解放されたいと考えた場合、修行生活が必要になる。
そして、この修行の規範として釈迦が定めた内容が「戒」である。
もっとも、修行に専念すると衣食住その他の問題がある。
というのも、釈迦が草創したインド仏教では私有財産の所持・労働・投資(金儲け)などが禁止されていたからである。
もちろん、これらのことが禁止されていた理由は、これらのものも飲酒や結婚と同様に煩悩がもたらすものであって、悟り(煩悩からの脱却)を妨げるものと考えられていたからである。
そこで、修行者は修行集団たる「サンガ」に入った。
サンガに入ることで修行者たる出家僧は修行に専念し、その一方で在家信者のお布施(寄付)に頼って生活していくことができるからである。
もっとも、サンガは修行者の共同体だから共同体内のルールが必要になる。
そこで、修行者集団の共同体を規律するために生まれたルールが「律」である。
このように仏教の戒律の由来を見ていくと、仏教とイスラム教の大きな違いが見える。
つまり、戒は規範ではあるが、その目的は「悟りを開く」という修行者個人のための指針に過ぎない。
よって、戒を破ったとしても釈迦が仏罰を下すといったものではない。
また、サンガの規範である律を破ってもサンガから追放されるだけである。
つまり、戒も律も破ったところで「悟りの道が閉ざされる」以上の制裁はない。
その意味で、戒律は個人的なものである。
だから、悟りを得たければ戒律を守ればよく、悟りを得る気がなければ戒律を守る必要はない、ということになる。
俗社会と戒律には関係がなく、まして権力者が戒律を強要するといったものでもない。
これに対して、イスラム教やユダヤ教の規範は神から人への命令である。
よって、総ての人間が人間の意図によらず等しく規範を守る必要がある。
それゆえ、宗教の規範がそのまま社会の規範に転化する。
社会的規範として機能するかという点から見た場合、イスラム教やユダヤ教の規範と仏教の戒律は大きく異なることになる。
なお、本書では「仏教による救済」についての補足があるから、それをみておく。
仏教の救済の特徴に「無限に等しい時間が必要」という特徴がある。
仏教の救済に時間がかかる理由は、因果律で考えていること・輪廻転生を肯定していること・過去や前世の悪行に関する事実は変更できないことに由来する。
そこで、仏教では修行の他に善行を勧めている。
過去の事実・前世の事実は変更できないので、せめて現在と未来の善行で過去の悪行をキャンセルしていくしかない、というわけである。
この発想を善因楽果という(この反対が悪因苦果)。
ここで仏教における救済について確認する。
仏教では修行と善行を積み重ね、煩悩から解放されることで仏になる。
仏になることで煩悩と輪廻転生からのくびきからも解放され、涅槃に入る。
この「涅槃に入る」ことが仏教における救済である。
なお、この「仏になること」を「成仏」といい、「成仏」=「煩悩と輪廻転生からの解放」=「涅槃入り」=「仏教における救済」となる。
ただ、この救済への道、途方もなく長い。
なぜなら、輪廻転生を肯定し、かつ、この世の始めからカウントして無限に等しい時間が経過している(宇宙の誕生からカウントしたって約100億年もの時間がある、宗教的に見れば、これよりも長いことが想定される)ことを考えれば、既に積まれた悪行それ自体は並々ならぬものがあると考えられるからである。
また、仏教では、善行をすれば救済への距離が近くなる一方、悪行をすれば救済への道が遠のくと考えられている。
これを示すのが六道輪廻の考え方である。
六道輪廻の考え方では、この世には天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六個の道(世界)があり、生前の行いが良ければ上の道に生まれ変わるが、悪ければ下の道に堕とされると考える。
つまり、人間の場合、人間道という上から二番目の世界にいる分マシであり、修行・善行を積むことで天道に行けるかもしれない、とは言いうる。
他方、一度天道に行ったところで、天道での努力が足りなければ再び人道やそれ以下の道にたたき落される可能性がある。
その意味で安心することができない。
本書では、仏の一歩前の弥勒菩薩が仏になるために必要な時間が紹介されている。
この点、修行・善行を重ねに重ね、仏候補者集団に入るとする。
大乗仏教ではこの仏候補者集団のことを菩薩といい、菩薩には41のランクがある。
そして、その最上位の菩薩のことを弥勒菩薩という。
弥勒菩薩は未来仏ともいうべきもので、仏になることが確定している菩薩である。
しかし、弥勒菩薩が仏になるためには56億7000万年もの時間が必要、らしい。
最後の関門が56億7000万年であれば、そこにたどりつくために必要な時間も推して知るべし、であろう。
ちなみに、釈迦にしてもすぐに仏になって涅槃にいけたわけではない。
仏教では、釈迦は過去においてたくさんの善行を行っていたと考えられている。
例えば、飢えた虎のために自らを食料として与えた、兎であったころに客人をもてなすために火の中に自ら投じた、とか。
もっとも、仏になれた釈迦でさえ「法」から自由だったわけではない。
以上、「仏教における救済」についてみてきた。
ここからは話を「戒律」を求めた人間・「戒律」を伝道した人間に移す。
具体的に見ていくのは、法顕と鑑真である。
法顕は4世紀の中国(東晋)の人である。
子供の段階で出家し、以後、仏道修行を専らにしていた。
だが、あるとき、法顕は中国にインド仏教で説いている戒律が完全な形で存在しないことに気付く。
この点、仏典をざっくり分けると、釈迦の教えをまとめた経蔵、釈迦以後の学者が研究してできた論文である論蔵、修行者が守るべく戒律についてまとめた律蔵の3つに分けられる。
そして、この3つがあって仏教の教理は完成する。
ところが、法顕は中国に完備した律蔵がないことに気付くのである。
完全な戒律、つまり、正しい戒律を知らないまま修行を続けたところで、悟りが得られる保証はない。
逆に、自分たちの修行が無駄な努力になる可能性だってある。
そのことに気付いて青ざめた法顕はインドへ飛び出そうとする。
もっとも、当時の中国はいわゆる五胡十六国時代の大混乱の時代である。
結局、法顕がインドに向かって旅立つことができたのは法顕が六十歳のときのことである。
もちろん、当時の旅行の手段は原則として徒歩。
さらに、道々には盗賊・山賊が跋扈していた。
その意味で到底楽な道とは言えなかった。
しかし、法顕はなんとかヒマラヤを越えてインドに入る。
そして、念願のアイスソード、じゃない、律蔵を手に入れることになった。
もっとも、海路で帰途についたところ、その船は暴風にあって難破、14年かかって戻ってくることができた。
しかし、その段階で既に東晋は滅んでいたという顛末である。
ただ、このエピソードは仏教における戒律の重要性を示している。
戒律の重要性を示す著名な事実の一つとして鑑真の日本渡航がある。
唐の高僧であった鑑真は日本に仏教を伝えるために渡航を繰り返したが失敗した。
挑戦の途中で失明までした。
にもかかわらず、日本渡航を諦めず、六度目の渡航で日本にやってきた。
では、鑑真が「日本に行くこと」にこだわったわけはなぜか。
ここで重要なキーになるのが「戒律」である。
日本に仏教が伝来したのは聖徳太子(厩戸皇子)よりも前の時代。
既に200年近く経過している。
その間、日本で仏教を信仰する貴族はたくさんいた。
また、日本ではたくさんの寺は建立され、東大寺の大仏も建立されていた。
しかし、戒律がなかった。
戒律がないということは修行の方法を示したマニュアルがないようなものである。
それなしで修行をして悟りを開けるだろうか。
法顕が懸念した如く、無駄な努力で終わりかねないではないか。
さらに、仏教の修行の第一段階で行うものとして「受戒」という儀式がある。
受戒では師は戒律を与え、弟子(修行者)は戒律を守ることを誓う。
もちろん、受戒がなければ戒律に基づいて出家したとは言えない。
しかし、日本では仏教伝来以後、たくさんの経典が輸入されたものの、受戒の制度が導入されていなかった。
これでは、日本の仏教が世界から認められなくても抗弁できない。
そのような事情を知っていたから鑑真は日本の渡航を試みた。
そして、日本も鑑真を大歓迎した。
ときの孝謙天皇(聖武天皇の娘・女帝)は鑑真に対して吉備真備(唐への留学経験がある超有能優秀な官僚)を勅使として派遣し、「以後、受戒のことはすべて大和尚(鑑真)に任せる」と伝えるほどであった。
また、その後、東大寺で行われた受戒では聖武上皇(孝徳天皇の父親)が参加するほどであった。
鑑真が歴史上高く評価されている理由はここにある。
鑑真によってようやく受戒の制度が整ったのだから。
大日本帝国憲法制定や帝国議会の開催によって日本が近代国家として認められるようになったように、鑑真渡航と受戒の制度の完成によって日本の仏教が(海外から見ても)一人前となったのだから。
以上、仏教における規範の「戒律」についてみてきた。
そして、その戒律が日本に導入されるいきさつについても。
しかし、日本はこの導入された戒律を有名無実化していくことになる。
まあ、仏教が日本に伝来してから約200年もの間、受戒の制度が放置され続けたのは、日本が仏教の教義自体は歓迎しても戒律は歓迎しなかった、という事情があったのかもしれない。
では、今回はこの辺で。