今回はこのシリーズの続き。
今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。
7 第1章_「空気」の研究_(六)を読む
前セッションの内容をまとめると次のようになる。
・「空気」は古代の言葉を用いれば「プネウマ」(ギリシャ語)に相当する
・「『空気』による支配」は宗教的熱狂によって生じる
・古代において「空気(プネウマ)」が暴走して共同体が破滅の淵に追いやられる現象が存在した
・古代人は「空気(プネウマ)」の存在を認め、それを前提として「どうすれば『空気』の暴走をコントロールできるか」という方法を考えた
・これに対し、明治時代の啓蒙家たちは「プネウマは主観的なものだから、(主観的に)無視すれば消える」と考えて実践したが、その結果、「客観的にはプネウマが残存してしまい、かつ、無視した結果として制御不能になる」という事態になってしまった
さて。
「『空気』の支配」の猛威は明治時代から始まり、かつ、戦後も続いている。
戦後、日本は「天皇教」を廃止したわけだが、日本人のメンタリティは変わってない。
とすれば、新たな「物神」が生まれただけであろう。
さしづめ、新たな神になったのは「平和憲法」と「金」であろうか。
その結果、「客観的・科学的根拠に基づいて合理的判断をしなければならない場面で『空気』の影響を受けて判断が歪む」ということになる。
2021年の世情を見れば、その例は枚挙に暇がない。
明治時代の啓蒙家として超有名な福沢諭吉は(ご神体であった)お札を踏めた。
なお、他人の所有に属する「御真影」や「教育勅語」を踏むことは他人の財産権を侵害して違法になるので、自己所有の「御真影」・「教育勅語」を踏むケースを考える。
物質的・化学的に見た場合、「お札」も「御真影」も「教育勅語」も「紙」に「墨汁・感光液・印刷インク」が付着した物質に過ぎない。
福沢諭吉のお札を踏む背景(根拠)に従えば、「これらは物質に過ぎないので、背後に何かを感じたら野蛮である」と判定される。
しかし、この判断に従って「『御真影』・『教育勅語』はモノに過ぎない。」と言ったり、「自分の所有する『御真影』・『教育勅語』を踏んだ」場合、その人は超法規的に制裁を受けることになるだろう。
具体例として「内村鑑三不敬事件」が挙げられる。
これを見れば、「明治時代の啓蒙主義は『空気』の前に大敗した」と言ってよい。
また、「抗『空気』罪」がいかに苛烈であるかも示している。
さらに、「空気」の支配を貫徹するためには「相対化」を排除することがいかに重要かということも示されている。
また、公害問題において「公害対策基本法」においてさっさと「『経済の健全なる発展との調和』を図る」といった条項が削除されてしまった例も取り上げられている。
この条項削除の裏に「対立概念で対象をとらえることや『相対化』を排除する」という意図があることは間違いない。
もっとも、「『相対化』を排除した結果、その対象に支配されて、問題の合理的解決が図れなくなってしまった」わけだが。
さて。
公害問題に取り組んだ人たちは、真面目であり、真剣であり、熱心である。
もちろん、昔の青年将校も真面目で真剣であった
(と本書に書いてある、疑問符をつけることは可能だがここではしない)。
ところが、彼らは「おっちょこちょい」なのである。
ここで、本書では周恩来首相が田中角栄に贈った「言必信、行必果」という言葉が紹介され、「この言葉くらい見事な日本人論はない」と述べている。
「言必信、行必果」が登場する部分を私釈三国志的に訳せばこんな感じだろう。
なお、「言必信、行必果」は孔子の三番目の発言で登場する(この部分は白文を記載)。
(以下、『論語』の巻の第七、子路の第十三の二十を「私釈三国志」風に意訳したもの、原文等は『論語』(金谷治訳注、岩波文庫、1999)を参照)
子路「立派な人間ってどんな人っスか?」
孔子「自分の未熟さを恥じつつも、君主の使者としてどこでも立派に任務を果たせる人間は立派な人だろうなあ」
子路「敢えてその次に立派な人間を言うならどんな人っスか?」
孔子「親孝行者で年長者に従順な者は二番目に立派かなあ」
子路「さらに敢えてその次に立派な人間を言うならどんな人っスか?」
孔子「(え?まだ聴くの?)発言に偽りなく、行動すれば結果を出す。柔軟性のない小人の振る舞いではあるが、まあ、三番目に立派な人間と言っていいんじゃね?」(言必信、行必果、硜硜然小人也、抑亦可以爲次矣)
子路「では、今の政治家たちはどんなもんでしょうか?」
孔子「話にならんな」
(意訳終了、あまりうまく味がでなかった、ご容赦)
この「小人」という部分を「おっちょこちょい」と訳せば、日本人に対するこんな適切なたとえもない。
そして我々はこの小人のような生き方、つまり、「『やる』と言ったら必ず実行するぞっ。実行した以上とことんやるぞっ」という生き方(太平洋戦争末期のバシー海峡の件が想起されるがこれ以上は踏み込まない)を「純粋」と判断し、逆に、相対化して考える大人の振舞い方を「不純」と判断するのである。
それだけならまだしも、この「純粋な人間」を臨在感的に把握して絶対化して称揚し、不純な人間を排撃してしまう(この点は経験があるのでより深く理解できる)。
もちろん、こうなれば問題の解決は望めるはずもなく、自身の破滅をもって事態が終焉することになる。
さて、何故こうなるのか。
これを見るために、日本で「空気」の支配が最も威力を発揮するケース、つまり、「『死』の臨在による支配」を見てみる。
帝国陸軍の支配の背景にあったこの「『死』の臨在による支配」、戦後でも用いられている。
例を挙げれば、「遺影デモ」だろう。
さらに言えば、前に挙げた北条氏の「自動車魔女裁判」でも交通事故の遺児のことが挙げられている。
前に、遺跡で日本人が人骨を取り扱ったところ、発熱して体調がおかしくなったケースを取り上げた。
このように、日本人に「死の臨在」は非常に効果があるのである。
その結果、デモを直接見た日本人、及び、デモの報道を見た日本人は、「遺影」に拘束されて「相対化」ができなくなる。
この際に、「遺影は紙なので云々」・「相手側にも事情もあるのだから妥協点を探そう」などと口にしてみればどうなるか?
「餓死を覚悟」どころか、直接リンチにあうことになるだろう。
ただ、相対化ができなくなれば「言必信、行必果」の世界になって、問題の(現実的)解決は不可能になる。
そして、自分側の玉砕か相手側の殲滅のどちらかによってしか解決できなくなる(この点、後者の解決案は本書に記載がない、しかし、これでも解決はになるので、ここでは書き足した)。
ところで、この臨在感的把握の絶対化。
一神教の世界において「人や物は神(造物主・クリエーター)が作ったもの」とされる。
そのため、「『物を拝む』・『物に支配される』ことは『被造物』というを神以外のものを拝んだり支配されたりする」ことを意味し、いわゆる「偶像崇拝」にあたる。
よって、偶像崇拝などの行為は「涜神罪(とくしんざい)」に該当し、宗教的に見てもっとも悪しき行為になる。
とすれば、「遺影デモ」や「『空気』の支配」はこの世界では悪になる(程度の差は多少あっても)。
つまり、一神教の世界であれば「絶対化」できるものは神(造物主・クリエーター)のみで、残りは総て相対化されている。
というか、相対化されていないものの存在は許されていないと言ってもよい。
他方、日本人の住む世界はアニミズムの世界、つまり、多神教の世界である。
また、「アニマ」という言葉は「空気」に近い。
ならば、アニミズムは「『空気』主義」とも言える。
そして、アニミズムの世界では絶対化されるべき対象は無数にあり、何かに絶対化している間は相対化されない。
しかし、絶対化される対象が時間の経過によって変わる。
だから、「うまくやることで時間的経過によって相対化できる」とも言える。
つまり、「絶対化される対象を巧みに乗りこなす」ことで相対化できるとも言えるし、逆に言えば「先走りすぎておっちょこちょい」とも言える。
よって、「『空気』の支配が猛威を振るう」状況は、ある一つの「空気」が固定された場合、つまり、絶対化された対象が固定化された場合に発生する。
これはファシズムより厳しい「全体空気拘束主義」になる。
では、この「全体空気拘束主義」を回避するにはどうすればいいか。
これに対する対処法の一つは、「絶対化対象をころころ変えること」ということ、つまり、アニミズム的ジグザグ型相対化になる。
この手段は平和・平穏な状況、あるいは、成長期における問題解決として有効である。
だから、明治時代の啓蒙主義は有効に機能した、ともいえる。
しかし、絶対化対象がころころ変わるということは、いわゆる「短期決戦連続型」になり「長期戦略」が取れない(これは私自身経験があるためよくわかる)。
また、成長期ではない成熟社会でも有効に機能しない。
そこで、別の手段を探索すべきではないか、ということになり、その一歩として「『空気』の相対化」を考える必要が出てくる。
そして、我々はアニミズムの世界に生きているが、中東・西欧・欧米は一神教の世界である。
つまり、「『空気』が相対化された世界」は存在する。
ならば、その世界を見れば「『空気』の相対化」を考えることができるだろう。
そこで、ここから「『空気』が相対化された世界を見ていく。
ということで本セッションは終わる。
次のセッションについては次回に。