薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『「空気」の研究』を読む 9

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

10 第1章_「空気」の研究のまとめ

 第1章で日本で何度か猛威を振るっている「空気」についてみてきた。

 その内容をまとめると次のようになる。

 

・日本で「空気」の支配が生じた場合に見られる現象

 日本では「空気」による意思決定がしばしばなされる。

「空気」による意思決定は科学的根拠に基づく合理的決定を覆す威力がある。

「空気」による意思決定に逆った場合、抗「空気」罪が成立し、よくて「村八分」、最悪、「餓死」やリンチを覚悟する必要がある。

 

・日本人が「空気」による支配を受ける構造

 日本人が「物」や「言葉」の背後に「何が存在する」と無意識のうちに思い、さらに、存在する何かを絶対化することで、逆に、「『存在している』と考えているもの」によって支配され、拘束されてしまう。

(キーワードは「臨在感的把握の絶対化・無意識化」)

 特に、「死」を臨在感的に把握すると強く支配・拘束される。

 

・日本人を「空気」によって支配する構造

 日本人に対して、普通の「物」・「言葉」について「絶対的対象(絶対善・絶対悪)である」という情報を与えると、情報を受け取った日本人は(自動的に)その物・言葉を絶対化してしまい、物・言葉(物神・偶像)に支配されて拘束されてしまう。このことを利用したのが「空気」による支配である。

 

・「空気」の性質

「空気」の支配の構造と「偶像による支配」の構造が類似していることを考慮すれば、「空気」の決定は「宗教的決定」である。

 日本の「空気」に相当する言葉は古代の言葉にあり、ギリシャ語の「プネウマ」がこれに相当する。

 

・日本人が「空気」に対する制御ができなくなった背景

「物の背後に何かがあると感じてしまい、その結果、物に支配されて自由に行動できなくなる」という現象を「存在するもの」と認識してこの現象に対処しようとせず、逆に、この現象を「野蛮なもの・迷信」と把握してこの現象を無視すれば存在しなくなると誤解した明治時代の啓蒙によって、主観的に無視しても客観的には残存する「空気」の制御が困難になった。

 

・日本人が「空気」による支配を極端に危険視しなかった背景

 日本は多神教の国であって絶対的な神の存在がおらず、絶対化される対象が複数あったこと、及び、絶対化される対象を時間の経過によって変更することで現実的・柔軟な対処ができないわけではなかったこと、また、日本は自然が豊かであって、江戸時代以降、国家的存亡をかけた意思決定をする機会が少なかったことが空気を殊更に危険視しない結果となった。

 

・「空気」に対する対処法

「偶像化の対象となりうる物や言葉を(2つの)対立概念で把握して、相対化すること」と「歴史的に行われてきた日本の『空気』に対する対処法を再把握すること」がカギになる。

 

 

 まとめはこれくらいか。

 それでは、第2章に移る。

 

11 第2章_「『水=通常性』の研究」の(一)を読む

 以上、「空気」についてみてきた。

 なんとなく「空気」の輪郭は分かったような気がする。

 

 そして、日本の先祖たちが行ってきた「空気」の支配に対抗する手段としての「水」。

 この「水」、あるいは、「水を差す」という現象を単純化するとこんな感じになる。

 

 盛り上がった雰囲気が醸成され、所謂「空気」に拘束されている状況で「現実的・具体的な目の前の障害」を口にする(いわゆる「水を差す」)

 それにより、その場の「空気」が消失し、その場の人々を現実(通常性)に引き戻す

 

 具体的なエピソードとして、本書では出版業の人たちが集まって自分の出版したい本を出版する話が紹介されている。

 その分野の職業人が集まり、自分の出版したい本の話が出る。

 その話が具体的な計画になり、果てには「実行しよう」という段階まで盛り上がり、一種の「空気」が醸成される。

 ところが、誰かが「先立つものがないなあ」と口にする(「水」を差す)と、その場の「空気」は消え、人々は現実(通常性)に戻り、その計画は立ち消えになる。

 

「水を差す」という一連の流れに「現実の(障害の)指摘」という行為と「空気の消失」という結果があることから、「水」について次の特質があることが推測される。

 

1、「水」が現実(通常性)に裏付けられた何かであること

2、「水」が「空気」を消失させる効果があること

 

 

 また、「水」を封殺することで「空気」の支配を強化できることがわかる。

 そこで、「空気」による支配を望む者(また、全体空気拘束主義者)は「水を差す者」を抑制・弾圧しようとすることになる。

 

 この例は本書に掲載されているものではないが、昭和15年に斎藤隆夫がいわゆる「反軍演説」を行い、その結果、帝国議会から除名された事件があった。

 

ja.wikipedia.org

 

 この演説は「反軍」という名称がついているが、戦後の平和主義的なものではない。

「日華事変(日中戦争)をどう終わらせるのか、この事変(戦争)からどんな利益を得るのか、または、損失をどう埋めるのか」という現実的な解答を求めるものであった。

 しかし、この演説が戦争翼賛の「空気」に対して「水を差す」演説だったことは間違いない。

 それゆえ、彼は(軍の指嗾もあっただろうが)同僚たちの議員によって帝国議会から除名されることになった。

 この事件により、日本の議会が言論の自由を自ら封殺し、憲法大日本帝国憲法)を殺すこととなったという話は『痛快!憲法学』で参照したとおりである。

 この件も「抗『空気』罪」の一事例とみてよいだろうが、帝国議会の自殺という結果を見ると、「抗『空気』罪」の威力のすごさに唖然とするばかりである。

 

 

 ところで、「水」の背後にある現実や通常性は「水を差す」か「水を差さないか」にかかわらず存在する。

 よって、現実・通常性は「空気」に対して無言のままで「水を差し続ける」ことができる。

 そこで、「水」について知る前に、先に「(日本人の)通常性」についてみていく必要がある。

 喩え、その対象が非常に漠然としているとしても。

 

 この点、日本において「空気」に対して「水を差し続ける何か」が存在することは分かっていた。

 本書では、内村鑑三の次の言葉が紹介されている。

 なお、内村鑑三は「腐食」という言葉を喩えとして使用している。

 

(以下、『「空気」の研究』の93ページより引用)

 日本は雨が多いから、外来のどんな思想も制度もたえず「水」を差しつづけられて、やがて腐食されて実体を失い、名のみ残って内容は変質し、日本という風土の中に消化吸収されてしまう 

(引用終了)

 

 つまり、日本では「水」の発生源が存在し、無言のまま「水」を差し続けている。

 外来の思想・制度を日本に導入してもこの「水」の影響を受け続ける。

 その結果、名前は残るが実体は失われ、内容は変質してしまう。

 

 この例は日本において山ほど見つけることができる。

 本書では仏教を例に出しており、ペンギン叢書の「仏教」の内容が紹介されている。

 ここでは浄土宗の説明があり、また、浄土宗のことを高く評価している。

 しかし、最後は「これが果して仏教なりや?」という言葉で終わっている。

 

 他にも儒教の例もあるが、本書で詳しく紹介されているのは日本共産党に関する記載である。

 これを思想・政治体制の観点からではなく、「水」(とその背後にある「通常性」)の観点から見てみる。

 

 

 日本共産党は「共産主義」と是とする日本の政党である。

 日本の政党である以上、日本において政治的に勝利する必要がある。

 また、日本では民主主義を採用しているため、政治的に勝利するためには大衆の支持を得て票を集める必要がある。

 

 ここで、大衆の支持の方向性を共産党から変えることは基本的にできない。

 また、大衆の支持の実体もよく分からない(少なくても単純な何かに還元できない)。

 分かるのは、相手(大衆)が違和感を覚えればさっと雲散霧消して消えてしまうこと、支持を得られない形で相手に近づいても拒否反応を示して逃げてしまうこと、くらいである。

 

 そして、相手が拒否反応を示して逃げ、その結果、相手の支持が得られなければ、共産党は政党として成立できない。

 この点、「政党として成立し得なくても構わない、殉教や敗北は覚悟の上だ」と言うことは不可能ではない。

 しかし、敗北や殉教するためには「敵」が必要になるところ、敵の実体が分からなければ、一人芝居の自滅を演じることになる。

 

 以上を考慮した結果、共産党は自らモデルチェンジを行うことになる。

 そのモデルチェンジが成功すれば党員と得票数が増え、逆に、モデルチェンジに失敗したり、従前のモデルが大衆の支持に適合するものでなければ、党員と得票数が減る。

 つまり、大衆の支持を得るために、自ら変容して相手(大衆)の中に入り込み、融合・一体化する必要がある。

 

 モデルチェンジといってもその程度は千差万別である。

 実質的に見れば微調整で済むレベルのものもあるだろう。

 また、多くの(熱心な)同志を追放するレベル程度の組織の内実が変化すると考えられるレベルのものまで。

 

 そして、当時の共産党はそのモデルチェンジを実行し、多くの同志を追放した。

「同志の追放」という部分を見ると、共産党の内実が変化したように見える。

 しかし、このモデルチェンジの結果、共産党が大ダメージを受けておらず、また、その後の回復・発展は(著者から見て)早すぎるものだった、らしい。

 

 この一連の事実関係から、「モデルチェンジ前の共産党の実質はモデルチェンジ後の共産党と同種であり、かつ、モデル前の共産党は「共産主義」という輸入した思想に縛られていて消耗していたのではないか」という解釈が成立する。

 つまり、「多くの同志を除名した」とあるが、共産党が同志と共に切り離したのは「共産主義」という「ぬいぐるみ」ではなかったか、と。

 この点、共産党の「民主連合政府案」のコピーを読んだ自民党の元の幹事長が「笑わせてはいけない、これでも共産党か。厚化粧どころか、これでは美容の成形手術ではないか」と述べたらしいが(本書の記述による、また、本書の記述の元ネタは鈴木卓郎『新聞記者の日本共産党研究』)、このコメントもこの解釈と整合する。

 

 ここで「ぬいぐるみ」を切り離したとする。

 この場合、ぬいぐるみは被る人がいなければ動くことはできない。

 そのため、切り離されたぬいぐるみは「脱ぎ捨てられたぬいぐるみ」の形となって放置されることになる。

 逆に言えば、ぬいぐるみだから「純粋であった」ということは言えるのだが。

 

 この解釈を前提にすると、このモデルチェンジが行われる前から共産党内部には「水」が差され続けており、内実が変化されていたことになる。

 そのため、モデルチェンジそれ自体は当事者(党員)にとって大変結構なこととも言える。

 しかし、モデルチェンジすれば内側だけではなく外側からも「水」が差されることになる。

 その結果、共産党は「水」によってさらに加速して変容することになるだろう。

 

 そして、そのような変容を遂げてしまえば、仮に、共産党が大衆の支持を得て、政治的に勝利したとしても、日本で成立する政治システムは共産主義からかなり離れたものになるだろう。

 つまり、共産党が勝利して相応の政治システムを作ったところで、その政治システムを見た後世の専門家は「日本共産党共産主義の政党にあらず」と言うだろうし、ペンギンの言葉を借りれば「これが果して共産主義なりや?」ということになるだろう。

 まあ、地図上は共産主義圏に分類してくれるかもしれず、「それで十分」というのならそれで目的を達成したことになるが。

 世界的にみて日本が仏教圏に入れられているように。

 

 

 以上、「外来の組織が『水』によって変容されていく様子」日本共産党の事例を取り上げてみてきた。

 本書ではこの件の話がもう少し続いているので、最後の仮定(日本共産党が政治的に勝利した場合)の話をもう少し続ける。

 

 日本共産党が「水」に差されて変容を遂げ、政治的に勝利したと仮定する(現実的にはあり得ない話だが、その点は横に置く)。

 それに対して、「でも、『天皇制』があるではないか、と人は言うかもしれぬ。」と本書では続く。

 この質問の趣旨を丁寧に書くならば、「(政治的に勝利した)共産党が『天皇制』を打倒すれば共産党に対する国民の支持は完全になくなるだろうし、逆に、共産党が十分に変質して『天皇制』を存続させた場合、日本が共産主義圏に入ることはないだろう」となるのだろう。

 この疑問に対して、著者は仏教の例を出して「心配は御無用」と言う。

 この点、世界的に見た場合、日本は仏教圏に入っている。

 ただ、仏教を研究している者たちが決して触れない問題がある、らしい。

 それは「天皇家は(現在、あるいは、過去)仏教徒だったのか」という問題である。

 皇国史観を前提とすれば、(現在・過去の)天皇仏教徒となると、現人神が仏壇を前に頭を下げることになってしまい、極めてまずいことになる。

 ただ、現実(史実)を見れば、明治時代より前の時代には宮中には仏壇があり、仏式の法事が行われていた。

 そして、明治維新という革命の結果、天皇家では一千年続いていた仏式の行事は総て停止されたらしい。

 皇族の中には熱心な仏教徒もいたらしいが、その葬儀が仏式で行うことはなかった(禁止されてしまった)。

 

 以上のことを「存続」という観点から見れば、天皇家は(積極的にではないにせよ)一千年の伝統を断ち切って、自己変革をすることによって明治維新に対応したことになる。

 そして、この対応は太平洋戦争後のいわゆる「人間宣言」と同種である。

 ならば、共産革命が起きたとしても天皇家はこのような対応をなされるであろう、と考えられる。

 

 なお、この対応に対して否定的な印象を受けるかもしれない。

 しかし、この対応は別に天皇家だけのものではなく、日本人にも備わっているものである。

 このことは、太平洋戦争の終結によって一瞬で天皇主義者から民主主義者に変わった人たちを見れば明らかである。

 つまり、この人たちは外形(装い・挙動・発言)を変える一方で、「自分は変わった。これまでの私は天皇主義者だったが、今日から民主主義者だ」などと自己暗示をかけ、そう信じ込むことによって変革による影響を最小化しようとしただけである。

 また、この振る舞いは日本の伝統的な生き方の象徴的な表れに過ぎない。

 

 だから、仮定の話に戻り、日本が共産化した場合でも天皇家は代々社会主義者だったという新説ができ、外形上は自己変革がなされて(内部の変革はなされず)、新説と矛盾する過去の事実は仏壇のように消されても不思議ではない、ということになる。

 別に、新説を裏付ける資料ならあるだろうし、変革が問題になることはないだろう。

 本書では「新説」がどんな形を取るかの具体例が示されているが、その点は省略する。

 

 

 なにやら仮定の話を進めていったが、以上の話をまとめればこうなる。

 日本において共産化の試みがなされ、仮に、成功したとしても、その試みの過程で「水」の影響を受け、共産主義の思想などは変質してしまい、成功のは果てにできた実質は(定義された)共産主義とはかけ離れたものになり、「名」しか残らない(地図上の分類に入れられるのがせいぜい)。

 また、「水」に差された結果として、共産化後の日本においても天皇制は存続するし、天皇制を正当化する理論やその理論を作成する学者は大量に出現する

 

 つまり、名実の両方を伴う革命を達成する予定だったものが、(仮に成功したとしても)その実を骨抜きにしてしまうものが絶え間なく「差し続ける水」ということになる。

 そして、その「水」はまず内側を差し続けて内部の実質を変容させ、やがて表面をも変容させることになる。

 では、「水」とは何か?「水」の発生源たる現実・通常性とは具体的にどんなものか?

 以上を調べよう、ということで本セッションは終わる。

 

 

 今回の話は読みごたえがあった。

「水」が何をなしうるのかの概形がつかめたような気がする。

 ただ、それだけでは「水」の内容・実質は分からない。

 今後もこの本を丁寧に読むことでそれを理解していく予定である。