薫のメモ帳

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『日本人のためのイスラム原論』を読む 9

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

9 「第2章_イスラムの『論理』、キリスト教の『病理』_第1節」を読む(中編)

 前回は「キリスト教の博愛」と「キリスト教徒の異教徒に対する態度」についてみてきた。

 そして、旧約聖書に遡ってキリスト教における隣人愛の『隣人』とは同胞(キリスト教徒)の人間に限る」ということも確認した。

 このことは、例外はあるものの様々な歴史から確認することができる。

 

 今回は一神教についてユダヤ教からみていく。

 なお、このメモブログと本書はマックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』の内容に準じている。

 

 

 

 

 

 ユダヤ教キリスト教イスラム教。

 これらの宗教は一神教であり、かつ、神に人格が備わっている

 この点は、仏教の「法」といった抽象的存在、あるいは、儒教の「天」と異なる。

 もちろん、多神教とも異なるのは言うまでもない。

 

 ところで、ユダヤ人の描いた「神」は通常の宗教とは異なる特徴がある。

 それは「神は我々に苦難をもたらす」と考えていることである。

 

 

 この点、日本では「基本的に神は人間(我々)に利益や幸福をもたらす存在」として考えられている。

 神は大漁豊作といった恩恵をもたらすので祀って祈る。

 逆に、災厄が訪れたら神に祈って解決してもらう。

 日本については次のメモが参考になる。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 つまり、通常、神は人間にやさしく、また、心の広い存在ということになる。

 

 これに対して、古代イスラエル人は「苦難や災厄は神のはからいである」と考えた。

 厳密に考えれば、「神のはからいにより民は幸福にも不幸にもなる」と言うべきか。

 もちろん、神が民に幸福をもたらすこともある。

 しかし、人間の世界では幸福よりも不幸の方が多く、その点は古代イスラエル人も例外ではない。

 その上で、古代イスラエル人は「神は幸福だけではなく苦難をももたらす」と考えた。

 その意味で恐るべき神でもある。

 

 さらに、古代イスラエル人は「神に人格が備わっている」と考えた

 そして、「神を不機嫌にすると神は民に苦難をもたらす」と考えた

 よって、イスラエル人は神を信仰して、機嫌を損ねないようにし、苦難をもたらさないようにしなければならないと考えることになる。

 

 つまり、古代イスラエル人と日本人の感覚では信仰の理由が逆なのである

 日本人は幸福をもたらすために神に祈る。

 古代イスラエル人は不幸を回避するために神に祈る。

 まあ、結果それ自体は似たり寄ったりになるであろうが。

 そして、「この逆転の発想なくして一神教は生まれなかった」というのがマックス・ウェーバーの研究結果にして大発見である。

 

 

 ここから話は古代イスラエル人が抱いていた神のイメージに移る。

 つまり、古代イスラエル人の神への理解を旧約聖書から確認する。

 このことにより、いかに古代イスラエル人が神を恐れていたかが分かる。

 

 まずは、土地を与えると啓示したアブラハムに対する神の命令をみてみる。

 前述のとおり、アブラハムは神に対する信仰が篤かった

 神はそのアブラハムに対して、アブラハムのたった一人の息子であるイサクを子ヤギの代わりに焼いて、神への生贄にせよ、と命令したのである(『創世記』の第22章)。

 神への信仰に対するアブラハムは反問することなく命令を実行しよう、息子を殺そうとする。

 もっとも、神は、息子を殺す直前にアブラハムに対して中止命令を出して、息子のイサクは救われる。

 また、神は天使を遣わしてアブラハムに対する祝福を約束する。

 ただ、神が信仰の篤いアブラハムに試練を課したこと、アブラハムに苦悩をもたらしたことには間違いない。

 

 次に、神のヨブに課した試練をみてみる(『ヨブ記』より)。

 ヨブは模範的な信者であった。

 しかし、神はこの模範的な信者ヨブの所有していた家畜を暴漢に虐殺させ、ヨブを無一文にした。

 次に、子供たちと食事をしていたところに突風を吹かせて家を潰し、ヨブから子供たちを奪った。

 さらに、ヨブの身体に腫物を作って、ヨブを悩ませた。

 

 神はヨブに対してこのようなことをした理由は何か。

 ヨブが罪を犯したので神はヨブに罰を与えたのか。

 確かに、仏教の発想や因果律から考えればそうなる。

 また、神が因果律に拘束されているならばそれが正解になるだろう。

 しかし、全知全能の神が因果律に縛られると考えるのは不自然である。

 とすれば、この発想は間違い、ということになる。

 

 つまり、神は因果律を無視できる。

 よって、善人に不幸をもたらすことも、逆に、悪人に幸福をもたらすこともできる。

 そのため、因果律が無視されたとしても、神を非難してはならない

 ヨブ記が示していたことは以上のことになる。

 

 なお、ヨブ記では神との対話を通じてヨブがこの真理を悟る。

 そして、そのことを悟ったヨブに対して、神は子供を返し、失った財産以上の財産を与えた。

 真理を悟ったヨブは百四十歳まで生きた旨記されている。

 

 他にも旧約聖書に書かれた預言者たちがいる。

 彼ら預言者のうちで幸福になれた者はいない。

 例えば、モーセは神の命令に従い、イスラエルの民を救い出したが、神はモーセ自体に対して何もしていない。

 さらに言えば、モーセはカナンに至る道中で死んでいる。

 

 

 このように、古代イスラエルの民の信仰した神はやっかいなことこの上ない

 真面目な信者に試練を課し、不幸を与え、さらには、不幸を与えらえた敬虔な信者の不平不満を許さないのだから。

 このような神を拝むことに意味があるのか、と考えるのも無理からぬ話である。

 

 ところで、古代のイスラエル人は不幸な境遇にあった

 アブラハムの子孫はエジプトで奴隷となっていた。

 その後、モーセイスラエルの民を救出し、ヨシュアがカナンの先住民を虐殺してイスラエル王国を建国するも、その後、周囲の強国に攻め立てられて王国は滅亡、住民はバビロン捕囚の憂き目にあう。

「何故、我々だけこのような目に遭うのか」と考えても不思議ではない。

 また、「我々の信仰が間違っているのではないか、エジプトの神を信仰するのが正しいのではないか」とも考えたであろう。

 通常の人間ならここで棄教してもおかしくない。

 

 しかし、古代イスラエルの人々は安直な道を選ばなかった

 なぜなら、エジプトの神々を信仰すれば、エジプト文明に消化吸収されてしまい、民族としてのアイデンティティが崩壊してしまうからである。

 そこで、アイデンティティを維持するために考えた信仰が「苦難をもたらす神」への信仰である。

 このような信仰が民族アイデンティティを強化させる。

 そして、出来上がったのがユダヤ教である。

 ただ、次のメモにもある通り、このアイデンティティが民族離散になり、また、イスラエル建国の原因にもなる。

 そう考えてみると、はたしていいのか悪いのか。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

 では、このユダヤ教の特徴は何か。

 まず、ユダヤ教は集団救済の宗教である、ということが言える。

 この点は、集団救済の宗教という点は儒教と同様である。

 しかし、「理想の政治が万民を救済し、万民の救済が個人を救済する」と考える儒教ユダヤ教では救済の意味が異なる。

 ユダヤ教では神の意志によって救済は突如訪れる、と考える。

 また、救済によってユダヤ人はこれまでの不遇な状況から厚遇な環境に急変すると考える。

 これは一発逆転の発想であり、フランス革命ロシア革命にみられる革命思想の原点にもなっている。

 さらに、救済されるためには「律法(規範)の実践」という条件があると考える。

 というのも、規範を破った者に対する神の怒りが旧約聖書のあちらこちらに書かれているからである。

 神はカナンにおいて異教徒を虐殺したが、虐殺したのは異教徒に限られない。

 ゾドムやゴモラはどうか。

 古代イスラエル王国はどうか。

 異国の神を拝めばユダヤ民族であっても神は容赦をしない。

 

 民族皆殺しといった悲劇を回避するためにも、『律法』を守りつつ救済の日を待たなければならない。しかし、神が救済がをもたらした暁にはユダヤ民族にとって一発逆転の状況が生まれる。

 ユダヤ教ではこのように考えることになる。

 

 

 ところで、キリスト教はこのユダヤ教から生まれた。

 ならば、キリスト教の神はユダヤ教の神と変わらないと考えることになる。

 そして、そのことを示しているのが最後の審判の教えである。

 イエス・キリストは人々に次のように警句を述べてまわった。

 

(以下、『マルコ福音書』の第1章14節と15節から引用、節番号は省略、引用元は次のリンク先参照)

 ヨハネが捕えられた後、イエスガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

(引用終了)

 

ja.wikisource.org

 

 この点、「神の国」とは天国のことではない。

 この地上に突如として現れる神の支配する国家である。

「神の意志によって突如現れる点」はユダヤ教と同様である。

 

 この国に入れば、(一度、生物的に死んだ人間も)永遠の命を与えられることになる。

 また、ユダヤ教と異なり、キリスト教の「神の国」に入れるのはユダヤ民族に限られない。

 その意味で、ユダヤ教と異なり、キリスト教個人救済の宗教と言える。

 しかし、神の国」に入ることの人間は「最後の審判」で認められた人間であり、その数は非常に限られている

 そして、「神の国は近づいた」と述べているため、最後の審判も間近に迫っていることになる。

 

 ところで、最後の審判の結果、「神の国」に入れなかった人間はどうなるか。

 この点について、イエス・キリストは次のように述べている。

 

(以下、『マタイ福音書』第11章20節から24節まで引用、節番号は省略、リンク先は次の通り)

 それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。

「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。

 しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。

 ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。

 しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。

(引用終了)

 

ja.wikisource.org

 

 この点、ゾドムの町は神によって焼き尽くされ、その住民は皆殺しに遭った。

 そして、「悔い改めなかった町が負う運命よりもゾドムが被った運命の方がマシだ」とも言っている。

 このことから、神の国に入れなければ、神による滅びを免れないことは確かである

 

 そして、最後の審判は間近だから、仏教のような途方もない時間をかけている時間もない。

 それゆえ、イエス・キリストは福音(ゴスペル)を広めるために必死になった。

 福音を聞けば救われる人、つまり、神の国に入れる人も増えるであろうから。

 その意味で、イエス・キリストにとって「神の国の出現」と「最後の審判によって選ばれなかった人々の滅亡」は現実のものだったことになる。

 

 このことを考えれば、イエス・キリストにおいても神は「滅ぼす者」であって、慈悲深い神ではない。

 

 

 以上のように、ユダヤ教キリスト教の神は人々に容赦ない力を行使する

 それは、アブラハムやヨブのような信仰篤き人間でも例外ではなかった。

 異教の神を拝んだソロモン王に対しても容赦しなかった。

 また、異教徒であれば、なおさらである。

 その意味で「異教徒は『隣人』ではない」ことになる。

 このことが大航海時代やアジア侵略における諸々の行為を平然とできた原因になる。

 まあ、このような信仰があれば、むしろ当然とも言いうる。

 その意味で、当時の白人はキリスト教や聖書に忠実であったともいえる。

 

 

 しかし、この神は「アッラー」になった途端性格が一変する

 アッラーは(大天使ガブリエルを通じて)マホメットを啓示を与える。

 その際、アッラーは自らアブラハム(イブラーヒーム)の前に現れた、あるいは、イエス(イーサー)を預言者として派遣したとも述べている。

 しかし、その態度は全然異なる。

 

 この点、第一章でイスラム教の「六信」を紹介した。

「六信」とは「神」・「天使」・「啓典」・「預言者」・「来世」・「天命」を信じることを指すが、最も重要なものが「神」であることは間違いない。

 では、アッラー(神)を信じる」を何を信じることを指すのか

 規範がしっかりしているイスラム教はその答えをちゃんと用意している。

 まず、アッラーの他に神はいない」から始まる。

 そして、アッラー天地創造絶対神であり、アッラーは全知全能であり、どこでも遍在していること」と続く。

 さらに、アッラーが九十九の美徳を持っていること」も信じる(疑わない)ことが求められる。

 

 ところで、九十九の美質のうち最も大事なものは何か。

 それは「慈悲」である。

 そのことは「慈悲」という言葉がクルアーンで頻繁に出てくる言葉であること、真っ先に出てくる言葉であることからも明らかである。

 

 

 以上、一神教における「一神」についてみてきた。

 次回はイスラム教においてアッラーがどんな存在か、ユダヤ教キリスト教と比較してどのような違いがあるのか、についてみていく。