薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

司法試験の過去問を見直す5 その2

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成12年度の憲法第1問についてみていく。

 今回から当分の間は過去問を検討する上での前提知識などの確認を行う。

 

2 憲法上の権利(1)_法人の人権と営業の自由

 本問では、「A学校法人の幼稚園設立計画の申請」に対してX県知事が不認可処分を出した。

 つまり、学校法人Aの幼稚園を設立する自由が制限されたことになる。

 まず、この自由を憲法上の権利とリンクさせなければならない。

 リンクしなければ、憲法上の問題が原則として発生しないからである。

 

 幼稚園の設立目的を金儲け(経済活動)に特化させて考えれば、制限された自由は「法人の営業の自由」に該当する。

 一方、幼稚園の設立目的が学校法人の理念に沿った教育を行うことにあることを考慮すれば、制限された自由は「法人の教育の自由」になる。

 では、これらの自由は憲法上の権利とリンクするだろうか?

 

 

 まず、自由の制限された主体が法人であることから「法人に人権があるか」という人権共有主体性の問題がなる。

 この点は、「一言だけ」触れたほうがいいだろう(触れないのも、長く書くのもまずい)。

 もちろん、現代社会において法人は社会的に実在する重要な構成要素となっているから、性質上可能な限り肯定される」という言い回しを使って簡単に肯定してよい。

 ちなみに、八幡製鉄事件(判決文へのリンクは後述)の最高裁判所の言い回しをそのまま使うなら「憲法第三章に定める国民の権利および義務の各条項は、性質上可能なかぎり、内国の法人にも適用されるものと解すべきである」になる。

 

昭和41年(オ)第444号・取締役の責任追及請求事件

昭和45年6月24日最高裁判所大法廷判決

(いわゆる「八幡製鉄事件」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/040/055040_hanrei.pdf

 

 

 次に、問題になるのが「教育の自由」・「営業の自由」が憲法上の権利と言いうるかである。

 なぜなら、条文が規定するのは「職業選択の自由」・「学問の自由」・「教育を受ける権利」に過ぎず、営業の自由や教育の自由を明文で保障していないからである。

 

 もっとも、憲法22条1項が「職業選択の自由」を認めた以上、選択した職業を遂行する自由、つまり、営業の自由を認めなければ職業選択の自由を認めた意味がない。

 よって、営業の自由も憲法22条1項によって保障されている、と考えられる。

 この点は、一言だけ触れる必要があり、かつ、それで足りる。

 

 一応、このことについて具体的に述べているいわゆる薬事法違憲判決の該当部分を確認しよう。

 

(以下、いわゆる「薬事法違憲判決」の該当部分引用、注釈は私の手による、また、強調も私の手による、判決文へのリンクは引用後に掲載)

 法(筆者注、憲法のこと)二二条一項は、何人も、公共の福祉に反しないかぎり、職業選択の自由を有すると規定している。職業は、人が自己の生計を維持するためにする継続的活動であるとともに、分業社会においては、これを通じて社会の存続と発展に寄与する社会的機能分担の活動たる性質を有し、各人が自己のもつ個性を全うすべき場として、個人の人格的価値とも不可分の関連を有するものである。右規定が職業選択の自由基本的人権の一つとして保障したゆえんも、現代社会における職業のもつ右のような性格と意義にあるものということができる。そして、このような職業の性格と意義に照らすときは、職業は、ひとりその選択、すなわち職業の開始、継続、廃止において自由であるばかりでなく、選択した職業の遂行自体、すなわちその職業活動の内容、態様においても、原則として自由であることが要請されるのであり、したがつて、右規定は、狭義における職業選択の自由のみならず、職業活動の自由の保障をも包含しているものと解すべきである

(引用終了)

 

昭和43年(行ツ)120号

昭和50年4月30日最高裁判所大法廷判決

(いわゆる「薬事法違憲判決」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/936/051936_hanrei.pdf

 

3 憲法上の権利(2)_教育の自由

 では、教育の自由についてはどうか。

 この点は、旭川学テ事件の「教育の自由」に関する最高裁判決の部分を確認する。

 

昭和43年(あ)1614号

建造物侵入、暴力行為等処罰に関する法律違反被告事件

 昭和51年5月21日・最高裁判所大法廷判決

(いわゆる「旭川学テ事件」判決)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/016/057016_hanrei.pdf

 

(以下、旭川学テ事件最高裁判所判決から引用、

 ただし、文毎に改行し、段落は私による注により区別している、

 さらに、カッコは私の注であり、強調は私の手による)

(ここから第一段落)

 憲法中教育そのものについて直接の定めをしている規定は憲法二六条であるが、同条は、一項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と定め、二項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と定めている。

 この規定は、福祉国家の理念に基づき、国が積極的に教育に関する諸施設を設けて国民の利用に供する責務を負うことを明らかにするとともに、子どもに対する基礎的教育である普通教育の絶対的必要性にかんがみ、親に対し、その子女に普通教育を受けさせる義務を課し、かつ、その費用を国において負担すべきことを宣言したものであるが、この規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。

 換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられているのである。

 しかしながら、このように、子どもの教育が、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものであるということからは、このような教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべく、また、決定することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導き出されない。

 すなわち、同条が、子どもに与えるべき教育の内容は、国の一般的な政治的意思決定手続によつて決定されるべきか、それともこのような政治的意思の支配、介入から全く自由な社会的、文化的領域内の問題として決定、処理されるべきかを、直接一義的に決定していると解すべき根拠は、どこにもみあたらないのである

(ここから第二段落)

 次に、学問の自由を保障した憲法二三条により、学校において現実に子どもの教育の任にあたる教師は、教授の自由を有し、公権力による支配、介入を受けないで自由に子どもの教育内容を決定することができるとする見解も、採用することができない。

 確かに、憲法の保障する学問の自由は、単に学問研究の自由ばかりでなく、その結果を教授する自由をも含むと解されるし、更にまた、専ら自由な学問的探求と勉学を旨とする大学教育に比してむしろ知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。

 しかし、大学教育の場合には、学生が一応教授内容を批判する能力を備えていると考えられるのに対し、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されないところといわなければならない。

 もとより、教師間における討議や親を含む第三者からの批判によつて、教授の自由にもおのずから抑制が加わることは確かであり、これに期待すべきところも少なくないけれども、それによつて右の自由の濫用等による弊害が効果的に防止されるという保障はなく、憲法が専ら右のような社会的自律作用による抑制のみに期待していると解すべき合理的根拠は、全く存しないのである。

(ここから第三段落、最高裁判所の主張)

 思うに、子どもはその成長の過程において他からの影響によつて大きく左右されるいわば可塑性をもつ存在であるから、子どもにどのような教育を施すかは、その子どもが将来どのような大人に育つかに対して決定的な役割をはたすものである。

 それ故、子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者が、それぞれその教育の内容及び方法につき深甚な関心を抱き、それぞれの立場からその決定、実施に対する支配権ないしは発言権を主張するのは、極めて自然な成行きということができる

 子どもの教育は、前述のように、専ら子どもの利益のために行われるべきものであり、本来的には右の関係者らがその目的の下に一致協力して行うべきものであるけれども、何が子どもの利益であり、また、そのために何が必要であるかについては、意見の対立が当然に生じうるのであつて、そのために教育内容の決定につき矛盾、対立する主張の衝突が起こるのを免れることができない。

 憲法がこのような矛盾対立を一義的に解決すべき一定の基準を明示的に示していないことは、上に述べたとおりである。

 そうであるとすれば、憲法の次元におけるこの問題の解釈としては、右の関係者らのそれぞれの主張のよつて立つ憲法上の根拠に照らして各主張の妥当すべき範囲を画するのが、最も合理的な解釈態度というべきである

 そして、この観点に立つて考えるときは、まず親は、子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心をもち、かつ、配慮をすべき立場にある者として、子どもの教育に対する一定の支配権、すなわち子女の教育の自由を有すると認められるが、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられるし、また、私学教育における自由や前述した教師の教授の自由も、それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定するのが相当であるけれども、それ以外の領域においては、一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、憲法上は、子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解さざるをえず、これを否定すべき理由ないし根拠は、どこにもみいだせないのである。

 もとより、政党政治の下で多数決原理によつてされる国政上の意思決定は、さまざまな政治的要因によつて左右されるものであるから、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によつて支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤つた知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されないと解することができるけれども、これらのことは、前述のような子どもの教育内容に対する国の正当な理由に基づく合理的な決定権能を否定する理由となるものではないといわなければならない。  

(引用終了)

 

 全部を引用してみたが、かなり長い。

 そこで、最高裁判所の見解を意訳・要約してみる。

 最初は私釈三国志風に意訳できないかと考えていたが、少し難しいので、単なる要約にとどめる。

 

(以下、旭川学テ事件最高裁判決の上記引用部分を私釈三国志風に意訳、意訳である点に注意)

 憲法26条が権利として保障していることは、①国民の学習権と②子どもが国に対して教育内容を整備するよう要求する権利である。

 それを受けて、憲法は、福祉国家の理念に基づいて①国の教育環境を設備する責務を定め、②親の子女に教育を受けさせる義務を定め、さらに、③義務教育の無償を定めた。

 このように見れば、憲法が定めているのは子供たちの学習権を充足するための関係者の責務であって、教育によって子供を支配する権利ではない

 また、教育内容を決定する権限については憲法に明文がない。

 ならば、当然に国会・政府にあると見ることもできない。

 よって、国家教育権説(に基づく検察官の主張)はこれらの憲法規定とは適合しないし、極端であるから妥当でない。

 次に、学問の自由を保障した憲法23条により学校の教師に教育の自由を認めることができるだろうか。

 確かに、学問の自由には教授の自由が含まれる。

 また、公権力の介入を受けないという意味で、現場の教師が目の前の子供に対応した教育を行うべきであるという意味で、教師の教育内容に対する裁量は必要だろう

 しかし、大学の教育と異なり、児童・生徒には批判能力がなく、普通教育の教師には児童・生徒に対して強い影響力・支配力を有する

 また、普通教育は義務でもある関係で、子どもとその親に学校・教師を選択する余地が乏しい

 さらに、普通教育の機会均等を図る点を考えれば、全国的に一定水準を確保すべき要請が強い

 この3点を考慮すれば、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることはできない

 さらに、憲法は教師の教育の自由について「公共の福祉」による制約以外の公権力の介入を避けるべきである旨の規定がない。

 ならば、(弁護人らのよって立つ)国民教育権説を採用することもできない。

 では、どうするか。

 子供の可塑性を考慮すれば、子供の将来はかかわる関係者が決定的な役割を果たす。

 そして、その関係者が教育内容について一定の主張を行うことは当然の成り行きである。

 もっとも、関係者の意見調整は必須であるし、意見調整の方法について憲法は何も言及していない。

 そこで、関係者の主張と関係者の拠って立つ憲法的根拠からその自由の範囲を決定するのが合理的な態度である

 この観点から見た場合、子女を教育させる義務を有する親には子供に対する家庭教育の自由・学校選択の自由が保障される。

 次に、教師には、教育が目の前の子供にあわせた妥当な教育が行われるべきである、公教育の不合理な介入を受けないという意味で教育の自由がある。

 さらに、私学にも同様の意味での教育の自由がある。

 しかし、それ以外の領域については、国にも教育内容を決定する権限があると言える。

 もちろん、国の権限は「子ども自身の利益の擁護・子どもの成長に対する社会公共の利益の関心に応じるためのものであり、かつ、介入の程度も必要かつ相当な範囲」に限られる。

 また、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入は憲法二六条、一三条の規定上からも許されない

 しかし、それは単に「必要かつ相当」な範囲から外れるだけで、権限それ自体を否定する理由にはならない。

(引用終了)

 

 この判決では、普通教育における教師や私学の教育の自由を一定の範囲で認めている。

 しかし、権利の保障の程度は学問の自由(憲法23条)の一内容たる「教授の自由」には及ばない。

 この点は、営業の自由が憲法22条からストレートに認められる点と異なる。

 その点を考慮すると、教育の自由を主戦場にすることは果たして妥当なのか。

 少し微妙な気がする。

 

 なお、旭川学テ事件の教育の自由は普通教育であり、本問の幼児教育とは事情が少しずれている。

 そして、幼児教育は義務教育ではない。

 その結果、普通教育の前提となる「全国一律の要請」が弱い。

 また、親の選択の幅も広くなる。

 ならば、その結果として教育側の自由は広くなるとは言いうる。

 しかし、幼児の年齢が児童・生徒よりもさらに低くなることを考慮すれば、子どもの側に批判能力がない点、教える側に支配力が強い点は普通教育よりも上になる。

 このように考えると、幼児教育と普通教育の事情の違いにより、幼児教育の自由が大学と同程度にあると考えるのは少し無理があると言える。

 

 以上の教育の自由の権利の弱さを考えると、教育の自由のみを展開してしまうと憲法上弱い権利を主張しているのではないか、といった疑問が生じる。

 合憲の結論にするならさておき、これで違憲に引っ張るのは微妙な気がする。

 

 

 以上、憲法上の権利の制限についてみてきた。

 営業の自由なら明白な憲法上の権利の制限と言える。

 逆に、教育の自由だと営業の自由ほど強気に出れない感じか。

 

 もっとも、営業の自由か教育の自由かという点は違憲審査基準とセットで考えたほうがいい。

 そこで、どちらを選ぶかは判断を留保しておく。

 

 次回は、憲法上の権利の制限の正当化について、その違憲審査基準についてみていく。