薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す5 その3

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成12年度の憲法第1問についてみていく。

 

 前回は「憲法上の権利とその制限」について見てきた。

 ここからはいわゆる正当化、つまり、違憲審査基準とそのあてはめについてみていく。

 そして、教育の自由と営業の自由、それぞれの観点から見た場合の違憲審査基準は異なる可能性がある(同じになることもある)ので、権利毎に丁寧に見ていくことにする。

 

4 教育の自由に対する違憲審査基準

 まず、旭川学テ事件最高裁判決における教育の自由の評価を確認する。

 

・親の教育の自由

 子女に対する教育を行う義務に対応した教育の自由・学校選択の自由がある

・普通教育(初等中等教育)における教育の自由

 効果的な教育を行うためには目の前の子供に対応にあわせる必要があるという教育の本質的要請、公権力による不合理な介入は認められない、という意味で教育の自由が認められる

 ただし、児童生徒の批判能力の弱さ・普通教育における親の選択の幅の狭さ・全国一律の教育水準確保の要請を考慮すれば、その自由の程度は弱い

・国による教育への介入の許容性・許容範囲

 教育に携わる人間の自由の調整(これは各当事者の自由の調整にあたることから、「公共の福祉」による制約といいうる)

 子ども自身の利益の擁護のため、あるいは、子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるためのもので、かつ、必要かつ相当と認められる範囲

 

 以上を前提に、学校法人による幼児教育の自由についてまとめると次のようになる。

 

・教育は目の前の子供に対応して柔軟に行うべき、という教育の本質的要請、この本質的要請に対して国家による不合理な介入は認められないことを考慮すれば、憲法23条によって教育の自由を保障することができる

・私学による学校教育は親の学校選択の幅を広げることに資する点を考慮すれば、学習権を保障した26条の実質化に貢献するため、26条によっても教育の自由が保障される。

・もっとも、幼児は普通教育における児童・生徒以上に教育内容に対する批判能力が乏しく、教育者側に強い支配力・影響力があること、教育の自由は学習権に対する責務が伴っていることを考慮すれば、大学における教授の自由と同等に見ることができない。

 

 このように、本問で教育の自由を検討するなら、自由の認定に対する丁寧な検討が不可欠になるようである。

 また、このように見直してみると、当時、司法試験の勉強で見えてこなかった点が見えてくる。

 当時の勉強は何だったのだろうか、と感じないではない。

 

 

 さて、権利の認定・制限の認定は終わったので、次のステップ、つまり、違憲審査基準の設定に進む。

 違憲審査基準について考えるべきことは、権利の重要性・制限の程度・憲法上与えられた国家の裁量である(この辺は以前述べたことと同様である)。

 そして、違憲審査基準を決める大きな枠は「憲法上与えられた立法・行政の裁量」になるので、ここから考える。

 

 例えば、表現の自由に対する制限の場合、制限によって言論活動それ自体が封じられるため、その制限が不合理なものであった場合に政治過程での回復(言論活動による批判、国会や地方議会での討論による法律・条例改正、選挙による国会・議会の配分の変更)が困難であるから、裁判所は厳格な基準で対応することになる。

 他方、本問のような教育の自由を制限したとしても、制限に対する批判は自由であるから、政治過程での回復が困難であるとは言えない。

 また、憲法上、政府・自治体は社会福祉政策を行うことを予定している(憲法25条以下)ので、福祉政策の中に教育に関する政策は含まれている。

 以上の2点を考慮すると、教育の自由の違憲審査基準は合憲性の推定を基本とする「合理性の基準」によるべきだ、ということができる

 その意味では、教育の自由の大きなフレームワークは経済的自由と同じように考えることができる。

 

 もっとも、経済的自由の違憲審査基準については合理性の基準を前提として規制目的二分論がある。

 また、表現の自由の規制に対しても内容規制と内容中立規制で審査基準が異なる。

 これらのことを考慮すると、合理性の基準だけ示してあてはめに移るのはどうかと考えられる

 そこで、憲法から見た場合の権利の重要性と権利の制限の程度を見て合理性の基準を具体化していくことになる。

 

 まず、見落としてはならない重大なことは、幼稚園設立の不認可処分は法人の教育事業の機会を全面的に奪うという点である。

 つまり、「幼稚園を設立する以外の代替手段」を学校法人は採用できない。

 また、別の県で認可をもらえばいい、というのは現実的ではない。

 このことを考慮すれば、制限の程度の重大さを考慮して合理性の基準の範囲であってもより厳格に判断する、といったことは十分に考えられる。

 当時の勉強で見てきた答案はこの部分を強調し、「厳格な合理性の基準」を審査基準に設定して、違憲の結論にもっていったものが多かったと記憶している。

 

 しかし、幼児教育の自由の権利の重要性の程度は大学の教授の自由よりは弱い

 また、教育内容や教育行政に関する専門性については、裁判所は行政の専門知識を尊重せざるを得ない

 さらに、厳格な合理性の基準はいわゆる経済的自由に対する消極目的規制に用いられる基準であり、政治部門(国会・政府・自治体)の専門的判断がそれほど要らないときに用いられる基準である。

 そのような事情を考慮すれば、本問で厳格な合理性の基準をストレートに用いることに躊躇いを感じざるを得ない。

 

 そして、本問のような行政の専門分野に関する不許可処分が問題となった事件に酒税法事件という事件がある。

 酒税法事件の場合、関連する専門分野は租税であって、本問のような教育ではない。

 しかし、政府・自治体の専門的判断が重要になる点では本問と同様である。

 そして、この事件で最高裁判所明白性の原則(著しく不合理である場合に限り違憲)より少し厳しい「著しく不合理であること」を審査基準にした

 そこで、本件もこの基準を用いるのがバランスのいい結論なのかな、という感じがする。

 

 酒税法事件判決の関連部分を引用してみよう。

 この判決は営業の自由から論じているが、考え方は本問にも用いることができる。

 

 まず、判決へのリンクは次のとおりである。

 

昭和63年(行ツ)56号・酒類販売業免許拒否処分取消事件

平成4年12月15日最高裁判所第三小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/281/054281_hanrei.pdf

 

 まずは、許可制(認可制)に関する言及から。

 

(以下、酒税法事件最高裁判決の関連部分を引用、強調は私の手による)

 一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定し得るためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要するものというべきである最高裁昭和四三年(行ツ)第一二〇号同五〇年四月三〇日大法廷判決・民集二九巻四号五七二頁参照)。

(引用終了)

 

 次に、専門判断と基準に関する部分をみてみる。

 

(以下、酒税法事件最高裁判決の関連部分を引用、強調は私の手による)

 また、憲法は、租税の納税義務者、課税標準、賦課徴収の方法等については、すべて法律又は法律の定める条件によることを必要とすることのみを定め、その具体的内容は、法律の定めるところにゆだねている(三〇条、八四条)。租税は、今日では、国家の財政需要を充足するという本来の機能に加え、所得の再分配、資源の適正配分、景気の調整等の諸機能をも有しており、国民の租税負担を定めるについて、財政・経済・社会政策等の国政全般からの総合的な政策判断を必要とするばかりでなく、課税要件等を定めるについて、極めて専門技術的な判断を必要とすることも明らかである。したがって、租税法の定立については、国家財政、社会経済、国民所得、国民生活等の実態についての正確な資料を基礎とする立法府の政策的、技術的な判断にゆだねるほかはなく、裁判所は、基本的にはその裁量的判断を尊重せざるを得ないものというべきである(最高裁昭和五五年(行ツ)第一五号同六〇年三月二七日大法廷判決・民集三九巻二号二四七頁参照)。

 以上のことからすると、租税の適正かつ確実な賦課徴収を図るという国家の財政目的のための職業の許可制による規制については、その必要性と合理性についての立法府の判断が、右の政策的、技術的な裁量の範囲を逸脱するもので、著しく不合理なものでない限り、これを憲法二二条一項の規定に違反するものということはできない。

(引用終了)

 

 これで違憲審査基準は決まった。

 この基準を用いてあてはめを行う。

 

5 教育の自由から見た場合の違憲審査基準に対するあてはめ

 教育の自由から見た場合、憲法上の権利の認定と違憲審査基準によって既に書くことが多い。

 そのことを考慮すると、あてはめの部分を分厚くする必要はないのではないのか、という推測は働く。

 もっとも、あてはめを抜きで結論を出すことは不可能であるから、ここもちゃんと見ていく必要がある。

 

 まず、問題文を確認しよう。

 

(以下、上記教科書から過去問の部分を引用、ただし、版は私が持っているものである)

 学校教育法等の規定によれば、私立の幼稚園の設置には都道府県知事の認可を受けなければならないとされている。

 学校法人Aは、X県Y市に幼稚園を設置する計画を立て、X県知事に対してその許可を申請した。

 X県知事は、幼稚園が新設されると周辺の幼稚園との間の過当競争が生じて経営基盤が不安定になり、そのため、教育水準の低下を招き、また、既存の幼稚園が休廃園に追い込まれて入園希望児及びその保護者の選択の幅を狭めるおそれがあるとして、学校法人Aの計画を認可しない旨の処分をした。

 この事例における憲法上の問題点について論ぜよ。

(引用終了)

 

 不認可の理由を書きぬくと次のようになる。

 

 認可による幼稚園の新設→過当競争の発生→

 教育水準の低下・既存の幼稚園の休廃園の発生→

 入園者(幼児)とその保護者の選択の幅を狭めるおそれの発生

 

 ここで見ておきたいのは生じるであろう不都合の発生確率が「おそれ」である点である。

 明らかに発生するとか、具体的に発生する(蓋然性がある)、とまでは判断されていない。

 その程度の確率しかないのに不認可にしていいのか、という問題はありうる。

 審査基準が厳格な合理性の基準であれば、「抽象的なおそれしかなく具体的な蓋然性がない」ということで違憲になるだろう。

 

 しかし、ここで見るべきはこの判断過程が「著しく不合理か」という点である。

 その観点から見る限り、あるいは、定性的に見る限り、「幼稚園の新設→教育水準の低下・休廃園」という現象はありえない話ではない

 もちろん、競争状態に入ることで逆に教育の水準が向上する可能性もあるし、また、休廃園の理由が経営状態ではなく教育の質にあるのであれば、むしろ認可を認めたほうがいい、という判断は十分ありうるとしても、である。

 そして、裁判所が政治部門の専門判断を尊重するということは、そこに口出しするのはNGということになる。

「上がるか下がるか、確実なことは分からない」となれば、著しく不合理とまでは言えないだろう。

 よって、この基準では合憲ということになる

 せいぜい、「判断過程に利用した事実関係と現実の事実関係との間に著しい乖離があるなどの特段の事情のない限り合憲」という留保をつけるのが精いっぱいではないか、と考えられる。

 

 この点、この結論に対して釈然としないものがあるかもしれない。

 しかし、その場合、合憲の結論を書いた後に「もし、この判断が不当であるように見えても、政治活動による是正が不可能ではないので、著しく不当とまでは言えない」とでもフォローしておけばいいだろう。

 少なくても、この場面が司法積極主義を採用しなければならない場面とも言い難いから。

 

 また、酒税法判決には補足意見と反対意見がある。

 とすれば、違憲にもっていくことも可能である、とは考えられる。

 

 

 以上、教育の自由から見た場合の問題の検討を行った。

 ただ、前回述べた通り、教育の自由よりも営業の自由の方が憲法上の保障の程度は強い。

 そこで、営業の自由で見たらどうなるのか、次回で検討する。