薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

司法試験の過去問を見直す10 その2

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成20年度の憲法第1問についてみていく。

 

2 人権規定の私人間効力

 前回、「寄付を強制されない自由」が憲法19条によって保障されうることを確認した。

 この点、憲法19条は内心にとどまる限り例外がない

 しかし、「寄付」といった外部的行為を伴えば、当然、例外の問題が生じる。

 それゆえ、「寄付を強制されない自由」も絶対無制約ではないことになる

 

 次に、本問で「寄付を強制する主体」は自治会であり、「地縁による団体」(地方自治法260条の2)である。

 もし、自治会を自治体などの国家権力と同視するのであれば、例外は「公共の福祉」(憲法12条後段、13条後段)の問題としてこれまでと同様に取り扱うことになる。

 しかし、地方自治法の条文は次の1項がある。

 

地方自治法260条の2・第6項(強調は私の手による)

 第一項の認可は、当該認可を受けた地縁による団体を、公共団体その他の行政組織の一部とすることを意味するものと解釈してはならない

 

 この条文は「『地縁による団体』は行政組織ではない(であると解釈しない)」というもの。

 であれば、本問のような自治会は自治体や国家権力の一部ではなく、ただの私的な一集団ということになる

 そして、近代憲法の沿革からもわかる通り、憲法の人権規定は国家権力に対してのみ主張できるものである。

 そこで、憲法の人権規定は私人間にも適用があるか、いわゆる憲法の私人間効力が問題となる。

 

 

 この問題については、2つの保護すべき観点がある。

 一つは私法上の大原則、つまり、「私的自治の原則(契約自由の原則)」の尊重である

 ぶっちゃけて言えば、「私人間のやり取り(取引など)に国家権力は口出しするな」になる。

 この背後にあるのが、近代主義自由主義(国家権力の介入を抑制する)と「人権は国家に対して主張できるものに過ぎない」といった発想である。

 そして、これらを突き詰めると、「人権規定は適用されない」という不適用説につながる。

 なお、この見解を採ると「私人による人権侵害はやりたい放題になるのではないか?」と不安になるかもしれない。

 しかし、この場合であっても「法律によって」私人間の人権保障を図ることができる

 例えば、刑法の刑罰規定とかがその具体例になる。

 よって、不適用説を採用したところで、必ずしも不当な結論が頻発するわけではない。

 

 しかし、現代社会のように国家権力に匹敵する社会的権力が生まれている状況では、近代において国家権力から人権を保護する必要があるように、社会的権力からも人権を保護する必要がある

 そして、憲法は25条以下で社会福祉政策を行うことを前提としている。

 さらに、憲法は公法ではあるが、私法と公法の上に位置するものとも考えられる。

 これらの発想を突き詰めると、「私人間にも人権規定が適用される」といった直接適用説につながる

 

 以上、2つの見解を紹介した。

 もっとも、最高裁判所は折衷説のような間接適用説を採用している

 これは、私的自治の原則と人権保障の両観点から、私法の一般条項を解釈する際に、憲法の人権規定の趣旨を解釈・適用することで間接的に私人間の行為を規律する、と考える発想である。

「法律を使って人権保障をする」という意味では不適用説に近いが、法解釈において人権規定を取り込む比重を大きくすれば直接適用説に近くなる。

 

 なお、この見解は「いいとこどり」に見える一方、フリーハンドが多くなる関係で恣意的な評価が入りやすくなる。

 そこで、具体的な利益衡量の重要性が強調されることになる。

 

 

 以上の見解は最高裁判所が採用するもので、例えば、三菱樹脂事件などから見ることができる。

 ここでは、三菱樹脂事件の判決をみてみる。

 

昭和43年(オ)932号労働契約関係存在確認請求事件

昭和48年12月12日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/931/051931_hanrei.pdf

(いわゆる「三菱樹脂事件最高裁判決」)

 

(以下、三菱樹脂事件より引用、ところどころ中略、セッション番号は省略、文章ごとに改行、強調は私の手による)

 しかしながら、憲法の右各規定は、同法第三章のその他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的に出たもので、もつぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない

 このことは、基本的人権なる観念の成立および発展の歴史的沿革に徴し、かつ、憲法における基本権規定の形式、内容にかんがみても明らかである。

 のみならず、これらの規定の定める個人の自由や平等は、国や公共団体の統治行動に対する関係においてこそ、侵されることのない権利として保障されるべき性質のものであるけれども、私人間の関係においては、各人の有する自由と平等の権利自体が具体的場合に相互に矛盾、対立する可能性があり、このような場合におけるその対立の調整は、近代自由社会においては、原則として私的自治に委ねられ、ただ、一方の他方に対する侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を超える場合にのみ、法がこれに介入しその間の調整をはかるという建前がとられているのであつて、この点において国または公共団体と個人との関係の場合とはおのずから別個の観点からの考慮を必要とし、後者についての憲法上の基本権保障規定をそのまま私人相互間の関係についても適用ないしは類推適用すべきものとすることは、決して当をえた解釈ということはできないのである。

(中略)

 すなわち、私的支配関係においては、個人の基本的な自由や平等に対する具体的な侵害またはそのおそれがあり、その態様、程度が社会的に許容しうる限度を超えるときは、これに対する立法措置によつてその是正を図ることが可能であるし、また、場合によつては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によつて、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存するのである

(引用終了)

 

 実は、この判決では(中略)の部分で、「私人の一方が国家権力に匹敵する社会的権力を有している場合に限り人権規定が適用される」といういわゆる「国家行為の理論」も否定している

 ただ、この部分を説明するとややこしくなるので、その点は中略。

 

 

 以上をまとめると次の文章になる。

 

(「憲法の人権規定は自治会にも適用されるか、人権規定の私人間効力が問題になる」に続いて)

 この点、現代社会における社会権力の大きさや憲法福祉国家の理念(憲法25条以下)を考慮すると、社会的権力から人権を擁護すべく人権規定の適用を認める必要性がある。

 もっとも、人権規定の直接適用は私法上の大原則たる私的自治の原則をゆるがす危険性がある。

 そこで、人権尊重と私的自治の原則の調整の観点から、憲法の人権規定の趣旨を私法の一般条項を解釈・適用することで、間接的に私人間の行為を規律すべきと考える

 具体的には、地方自治法260条の2の第1項の「目的」の範囲について、団体の決議の目的、決議による目的の実効性、決議によって制約を受ける権利の内容・程度、代替手段(必要性)などを具体的に考慮して、決議の有効性を判断すべきである。

 

 

 この部分、最後の文章「『具体的には、』から始まる文章」はある種のコピペである

 ついでに言えば、私が書いた答案のコピペでもある。

 

 通常の団体の決議と異なるのが、本問の決議主体は自治会のような「地縁による団体」である、という点にある。

 前回の判決で出てきたいわゆる強制加入団体(税理士会司法書士会)であれば、「決議の内容が団体たる法人の『目的』(民法34条)の範囲内か否か」を判断することになる。

 しかし、本問の「地縁による団体」の場合、適用条文は民法ではなく地方自治法260条の2になる。

 よって、この部分は「いつものコピペ」通りに書いてしまうと積極ミスになる。

 

 ところで、私は本番で、ある種の比較衡量の基準を用いてあてはめをしたので、上にある「具体的には」の部分で、比較衡量の際に利用する要素を列挙するという手段をとった。

 もっとも、あてはめを二段に分け、自治会の性質、自治会の決議の自由と寄付を強制されない自由の憲法上の意味を探り、具体的基準を定立してあてはめる、という手段もありうる。

 そこで、その手段を採用していこうと考えている。

 まあ、上の場合は「具体的に」と書かれており、実際には「実質的関連性の基準」で判断しているのと似たり寄ったりの形にとっているため、どっちを採用しても似たような形になるとは考えられるが。

 

3 具体的な基準の定立(あてはめ前半)

 上で述べた通り、自治会の性質と制約される権利の内容を見ながら、具体的な基準を定立してみる。

 

 

 この点、「地縁による団体」たる自治会には結社の自由(憲法21条1項、地方自治法260条の2の第6項)が保証されている。

 その結果、内部的事項・運営内容・運営方針についての自律的決定権が憲法21条1項によって保障されている

 さらに、団体にも性質上可能な限り人権享有主体性が認められるところ、寄付の自由は憲法19条によって保障されうるものである。

 また、地方自治法260条の2の第7項の団体への加入の規定を考慮すれば、自治会は税理士会司法書士会のような法律上の強制加入団体ではない

 とすれば、自治会の場合、寄付を強制されないための脱退の自由が住民に保障されていると言えなくもない。

 そして、この点を強調すれば、自治体の「目的」を広く解することになる。

 

 

 まず、反対利益を列挙した。

 団体の脱退の自由がある場合、「いやなら出ていく」という手段が採用できる。

 そして、この脱退の自由が広く認められている場合、条文上の「目的」は広く解釈しても差し支えない(思想良心の自由の制約が許される)ということになる。

 さらに、強制加入団体が例外的であることを考慮すれば、原則論はこちらである

 

 もっとも、自治体は強制加入団体ではないと言えるのか、本問の問題意識はそこにある。

 その点をみていこう。

 

 

 しかし、現実を見れば、自治会はその地区にある唯一の団体であることが多く、「この自治会をやめたら別の自治会に行く」という選択肢は事実上取ることができない。

 また、「入れる自治会を求めて転居する」という手段は住んでいる場所が持ち家ならかなりの不利益が伴うし、そうでなくても負担は軽くなく、現実的に可能な対策ではない。

 これらのことを考慮すると、自治会は事実上の強制加入団体であるということができる。

 

 

自治会が法律上の強制加入団体ではないから、法律以外の事項はやりたい放題である」とか「住んでいる住民に『寄付に反対なら自治会から出ていけ』と強く主張できる」というのは現実を見れば無理であろうと考えられる。

 そのため、この点については修正する必要があると考えられる。

 そして、「事実上の強制加入団体」という点を前提として、思想・良心の自由を「目的」の解釈に適用していく。

 

 

 そして、そのような事実上の強制加入団体であれば、「内部には様々な思想を持つ者がいる」という前提が成り立つ。

 そのため、団体の「目的」についても構成員の思想・良心の自由を考慮した解釈が求められることになる。

 そこで、団体の決議の目的が重要ではなく、また、その手段が目的との間で実質的関連性が認められない場合には、決議は「目的」の範囲にあるとは言えず、無効になるものと考える

 

 

 この辺りの言い回しは南九州税理士会事件を参考にしている。

 もちろん、政党への寄付、宗教団体に対する寄付ではないので、もっと緩やかに考えてもいいのではないか、群馬県司法書士会事件に引き付けて考えた方がいいのではないか、という疑問もなくはない。

 しかし、制約される権利が思想・良心の自由に属するのであれば、この点を軽んじることができないと考えられる(本問の制約を財産権と考えれば別論)。

 そして、「具体的に」考えるならば、合理的関連性の基準ではなく、実質的関連性の基準にならざるを得ない。

 よって、この基準が不当、ということはないと考えられる。

 

 

 これにより基準が立てられた。

 この基準へのあてはめは次回に。

司法試験の過去問を見直す10 その1

 これまで「旧司法試験・二次試験・論文式試験憲法第1問」を見直してきた。

 

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 これまで検討した過去問(途中のものも含む)は、平成3年度・4年度・8年度・11年度・12年度・14年度・15年度・16年度・18年度の9問。

 この点、平成11年度の過去問は少し残っているが、今回から平成20年の憲法第1問を見ていく。

 ちなみに、この年、私は4回目の旧司法試験を受験し、この試験を突破することになる。

 その意味で感慨深い試験である。

 

 今回のテーマは憲法の私人間効力」である。

 ちなみに、平成13年と平成2年に類似のテーマが登場している。

 

1 旧司法試験・論文試験・憲法・平成20年第1問

 まず、問題文を確認する。

 今回は法務省のサイトから問題文と出題趣旨をお借りした。

 

(以下、旧司法試験・二次試験・論文式試験・平成20年度・憲法第1問を引用)

 A自治会は 「地縁による団体 」(地方自治法第260条の2の認可を受けて地域住民への利便を提供している団体)であるが,長年,地域環境の向上と緑化の促進を目的とする団体から寄付の要請を受けて,班長らが集金に当たっていたものの,集金に応じる会員は必ずしも多くなかった。そこで,A自治会は,班長らの負担を解消するため,定期総会において,自治会費を年5000円から6000円に増額し,その増額分を前記寄付に充てる決議を行った。この決議に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。

(引用終了)

 

www.moj.go.jp

 

 なお、出題趣旨は次の通りであった。

 

(以下、出題趣旨を引用)

 自治会のような団体が寄付に協力するために会員から負担金等を徴収することを総会決議で決めることは会員の思想信条の自由を侵害しないかについて,関連判例を踏まえつつ,自治会の性格,寄付の目的,負担金等の徴収目的,会員の負担の程度等を考慮に入れて,事案に即して論ずることができるかどうかを問うものである。

(引用終了)

 

 本問では、「自治会内で行われる団体への寄付」を集金形式から会費形式(寄付額を会費に上乗せ)に変更することの是非が問われている。

 もちろん、会費に上乗せすれば、寄付に反対している住民は寄付を強制されることとになる。

 そして、その寄付に反対するために会費の支払いを拒めば、寄付する分に限定した支払い拒否であっても、最悪、自治会から追放されるわけである。

 そこで、本問は自由の制約という意味で憲法上の問題になりうる。

 

 

 まず、関連する条文を列挙する。

 なお、本問は平成20年4月当時の法律で考えるため、現在は存在しない条文で本件に参考にするであろう条文を列挙する。

 

憲法19条

 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 

地方自治法260条の2・第1項

 町又は字の区域その他市町村内の一定の区域に住所を有する者の地縁に基づいて形成された団体(以下本条において「地縁による団体」という。)は、地域的な共同活動を円滑に行うため市町村長の認可を受けたときは、その規約に定める目的の範囲内において、権利を有し、義務を負う。

 

地方自治法260条の2・第6項

 第一項の認可は、当該認可を受けた地縁による団体を、公共団体その他の行政組織の一部とすることを意味するものと解釈してはならない。

 

民法34条(旧民法43条)

 法人は、法令の規定に従い、定款又は寄付行為で定められた目的の範囲内において、権利を有し、義務を負う。

 

 次に、関連する判例は次のとおりである。

 

昭和43年(オ)932号労働契約関係存在確認請求事件

昭和48年12月12日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/931/051931_hanrei.pdf

(いわゆる「三菱樹脂事件最高裁判決」)

 

昭和41年(オ)444号取締役の責任追及請求事件

昭和45年6月24日最高裁大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/040/055040_hanrei.pdf

(いわゆる「八幡製鉄事件判決」)

 

昭和48年(オ)499号組合費請求事件

昭和50年11月28日最高裁判所第三小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/203/054203_hanrei.pdf

(いわゆる「国労広島地本事件判決」)

 

平成4年(オ)1796号選挙権被選挙権停止処分無効確認等事件

平成8年3月19日最高裁判所第三小法廷判決

(いわゆる「南九州税理士会事件判決」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/864/055864_hanrei.pdf

 

平成11年(受)743号債務不存在確認請求事件

平成14年4月25日最高裁判所第一小法廷判決

(いわゆる「群馬県司法書士会事件判決」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/439/062439_hanrei.pdf

 

 また、類似の判決を探してみたところ、平成19年に類似の事件(自治会の寄付に関する強制徴収決定)に対して大阪高等裁判所が判決を出しており、平成20年4月、最高裁判所が上告を棄却して高裁判決が確定している、らしい。

 

 

 本問の問題点は「(寄付に反対している)住民が寄付を強制されること」であり、いわゆる「憲法上の権利の制約」の形をとる。

 そこで、通常通り、原則と例外で考えていくことになる。

 

2 憲法上の権利の認定

 本問では、A自治会の決議により「住民の意に沿わない寄付を強制されない自由」が制限されることになる。

 そこで、この「寄付を強制されない自由」憲法上の権利となるかが問題となる。

 この点、寄付は財産的出捐(出費)を伴うという客観的部分に注目すれば、財産権(憲法29条)によって検討すべきものとも考えられる。

 しかし、「寄付」は「他の個人・団体への支援」を意味し、その背後には寄付する人間の信仰・思想・良心などの要素があることが少なくない

 そこで、寄付する自由やその裏返しである「寄付を強制されない自由」は思想・良心の自由を定めた憲法19条によって保障されると考えるべきである。

 

 

 原則論の認定はこの辺でいいだろう。

 重要なのは、「寄付は金(財産)の問題に過ぎない」という発想を採用しない点である

 この「団体への寄付」が思想・良心の自由の問題になる点は最高裁判所も認定している。

 例えば、「南九州税理士会事件」では次のように述べている。

 

(以下、「南九州税理士会事件」から該当部分を引用)

  特に、政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、政党など規正法上の政治団体は、政治上の主義若しくは施策の推進、特定の公職の候補者の推薦等のため、金員の寄付を含む広範囲な政治活動をすることが当然に予定された政治団体であり(規正法三条等)、これらの団体に金員の寄付をすることは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題だからである。

(引用終了)

 

 この判決では、政治団体への寄付が政治的「思想」などに基づくものと考えている。

 この発想は、群馬県司法書士会事件でも同様である。

 というのも、次の言及があるからである。

 

(以下、群馬司法書士会事件から引用、私による注がある)

 被上告人(私による注、群馬司法書士会)がいわゆる強制加入団体であること(同法19条)を考慮しても,本件負担金の徴収は,会員の政治的又は宗教的立場や思想信条の自由を害するものではなく,

(引用終了)

 

 これらの最高裁判決を見れば、「(意に沿わない)寄付を強制されない自由」を思想・良心の自由の問題として考えていること、政党への寄付については投票の自由に引き付けていることが分かる。

 この点、「財産権の問題にすることと思想・良心の自由の問題にすることで差があるのか」と疑問に思うかもしれない(当然に思いつくであろう疑問である)。

 しかし、どちらを採用するかによって「例外」の場面で「考慮する際の要素」や「各要素に対する比重」が変わってしまう

 その意味でこの認定の差は重要な意味を持つ。

 

 

 以上、原則論を確認した。

 もっとも、「思想良心の自由」も「思想良心に基づく外部行為」については絶対無制約ではない。

 そこで、例外の議論が始まるわけだが、それについては次回に。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 12

 今日はこのシリーズの続き。

 

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『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

12 第3章の第1節を読む

 第3章のタイトルは、「数学と近代資本主義_数学の論理から資本主義は育った」である。

 また、扉の絵は社会学者のマックス・ヴェーバーである。

 この点、マックス・ヴェーバーの偉大さは次のメモにあるとおりである。

 

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 そして、第1節のタイトルは「数学と資本主義の精神」

 資本主義の精神については『痛快!憲法学』・『経済学をめぐる巨匠たち』・『日本人のためのイスラム原論』などで触れられているが、その「資本主義の精神」と数学との関係をみていくのが本節である

 また、「数学と資本主義の精神の観点から日本を見るとどうなるか」についてはこれまでにない情報になると考えられる。

 

 マックス・ヴェーバーは、「近代資本主義の背後には『目的合理性』の論理がある」と述べた。

 この「目的合理性」とは「目的」に対する合理性のこと。

 最高裁判所の言葉に引き付けるなら、「合理的関連性」と言ってもよい。

 

 この目的合理性は突き詰めると「形式合理性」になる。

 これにピンとこなければ、「『目的』という形式」に対する合理性と言ってもいい。

 そして、この「形式合理性」とは数学のように計算できることを言う。

 

 つまり、「合理性計算が可能(=形式合理性)」という発想が近代資本主義を生んだと言える。

 マックス・ヴェーバーは、近代以降に出現した複式簿記近代法・資本主義・物理学などを用いて説明している。

 これらの近代以降に出現した諸々はどれも数学の論理が大活躍している。

 さらに言えば、計算可能性が前提となっている。

 

 

 ところで、これまでのメモで散々述べた通り、マックス・ヴェーバーの発見は「資本・商業・技術のすべてが高まったとしても、そのまま『資本主義』になるわけではない」という点にある。

 このことは既に様々な読書メモで見てきたとおりである。

 

 かいつまんで述べると、「『資本・商業・技術』が集積した地方」という条件であれば、古代エジプト・古代メソポタミア・ヘレニズム・古代ローマイスラム帝国・中世イタリア・中世の南ドイツ・古代インド・(様々な時代の)中国といった様々な時代の地方がこの条件を満たしている。

 しかし、これらの地方は「資本主義」になることはなかった。

 

 本書では、中世の中国の経済の繁栄について紹介されている。

 これまで読書メモで見てきた通り、中国は宋の時代から清の中期まで、大運河を中心に経済が発展した。

 これに対して、イギリスが大運河を発展させたのは産業革命直前の18世紀の後半である。

 その意味で、中国は「前期的資本」が極度に発達しており、「商業・資本・技術」という観点から見れば、いつ資本主義になっても不思議ではなかった。

 

 さらに、中国では論理や論争技術と同様に数学も高度に発達していた。

 しかし、形式論理学と中国の数学は結合しなかった

 その結果、目的合理性精神・形式合理性精神が発達せず、それらを中核とした資本主義の精神が発達しなかった

 それに対して、資本主義はヨーロッパに勃興する。

 その背後にキリスト教があったことはこれまで見てきたとおりである。

 

 

 ここから、話は日本に移る

 資本主義が勃興したヨーロッパで支配的影響力を持っていた思想・宗教はキリスト教であった。

 これに対して、徳川時代以前の日本で支配的影響力を持っていた思想・宗教は仏教である。

 そこで、この仏教の影響力が日本の数学的精神にどのような影響を及ぼしたかをみていく。

 

 本書によると、突き詰めて考えてみた場合、数学的精神に対する日本教徒のスタンスを決めたのは聖徳太子だという。

 この点は意外に見えるかもしれないが、前回、明治時代に近代法を取り入れたときの諸々を見れば、案外ピンとくるかもしれない。

 なぜなら、次のメモにおいて聖徳太子の『十七条憲法』」が登場するからである。

 

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 この点、いわゆる「聖徳太子」が飛鳥時代にした業績として「冠位十二階の制定」・「遣隋使の派遣」といったことがあるが、ここでは「十七条憲法」について取り上げる。

 以前、ブログで十七条憲法を取り上げたことがあるが、第一条は「和を以て尊しと為す」であり、第二条が「篤く三宝(仏・法・僧)を敬え」であり、第三条になってやっと「詔を承りては必ず謹め」と天皇陛下に関する言及がある。

 

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「空気」や「憲法・法律」については十七条憲法の第一条を参照するのがいいだろうが、ここでは第二条についてみていく。

 

 この点、日本教徒の聖徳太子に対する信奉は根強いものがある

 そして、この聖徳太子は仏教の法華経維摩経勝鬘経(しょうまんぎょう)を重んじた。

 このことは、聖徳太子が「法華義疎」・「維摩経義疎」・「勝鬘経義疎」を著したことからも見て取れる。

 なお、ここでいう「義疎」というのは「注疏」・「注釈」という言葉に変換してイメージすればよく、つまりは注釈書・解説書である。

 

 この点、啓典宗教たるユダヤ教キリスト教イスラム教と異なり、仏教では正典(canon)が存在しない。

 その代わり大量の経典が存在する。

 その結果、聖徳太子がどの経典を重視したかというのは「仏教の影響」を考慮する際の重要な要素となる。

 

 

 このことを考慮しながら、聖徳太子の重視した経典についてみていく。

 特に、維摩経法華経の絶好の入門書と言われているので、維摩経をみてみる。

 

 まず、仏教の出発点から見た場合、釈迦は「一定の『修行』をすれば、確実に『悟り』を開くことができる」と述べている

 この釈迦の主張を数学的・論理的に見た場合、これは「十分条件」ではあるが、「必要条件」にはならない

 つまり、「一定の『修行』をすれば、確実に『悟り』を開くことができる」(十分条件)とは言えても、「(これらの)一定の『修行』をしなければ、絶対に『悟り』を開くことができない」(必要条件)とまでは言ってないからである。

 また、仏教では「独覚」(どっかく)という「何もせずに悟りを開いてしまう人」の存在を否定していないところ、このことも釈迦の主張が十分条件でしかないことを裏付けている。

 

 そして、「何もせずに悟りを開いてしまう人」が登場する経典こそ「維摩経である。

 つまり、「維摩経」の主人公たる維摩居士」(ヴィマラキールティ)が「何もせずに悟りを開いてしまう人」である。

 この維摩居士は古代インドの富豪であり、彼のした修行や善行については何も示されていない。

 また、釈迦は維摩居士を尊敬しているが、サンガの一員ではない。

 さらに、維摩居士は誘惑されたことを否定しない。

 それどころか、悪魔が維摩居士を誘惑しようとして美女に扮した魔女を送り込んだら、維摩居士は全員自分側に引き入れてしまったという逸話もある。

 また、維摩居士が病気になったとき、釈迦が自分の十大弟子に対して「ちょっと維摩居士の見舞いへ行ってこい」といったところ、弟子たちが「嫌です。というのも、維摩居士には『お前の(弟子たちの)悟りは偽物だ』などと言っているからです」と返事されたとのエピソードもあるらしい。

 なにやら、破天荒で真面目な修行者の憎しみ(嫉妬)を一心に浴びている人をイメージすればいいだろうか

 

 この点、仏教は「修行による悟り」を重視している。

 しかし、この経典によれば、「高弟の修行による悟り」さえこの「維摩居士の悟り」には及ばないということになる。

 

 ところで、この「維摩経」は仏教の最奥部にある「『空』の思想」をたとえ話を用いて解説している。

 また、ストーリー自体も大変面白い。

 その結果、中国・朝鮮でも人々に好まれた。

 もちろん、聖徳太子とそれに影響された日本教徒にも。

 

 そして、この「『空』の思想」と数学的精神の相性は極めて悪い。

「倶に天を戴かず」といっても大げさではないと言える。

 何故なら、「『空』の思想」は形式論理学を否定しているからである。

 

 この点、「空」とは「『有』でもなければ、『無』でもなく、『有であると同時に無』であり、『有と無以外のもの』」だそうである。

 よりまとめれば、「空」とは有と無とを超えて統合したところにあるものと定義できるであろうか。

 浅学菲才の私がこれに相当する言葉をイメージするなら「カオス(混沌)」になる。

 

 そして、以上の「空」の定義を見ると、「空」は矛盾律排中律を無視していることが分かる。

 また、「空」が明確に定義されているとは言い難いため、同一律も無視している。

 というわけで、「『空』の思想」は形式論理学の真っ向からの拒否とも言いうる。

 

 本書では、この「『空』の思想」に驚いたキリスト教宣教師のエピソードが紹介されている。

 もっとも、このエピソードの類型なら現代にもたくさんあると考えられる。

 

 戦国時代末期、キリスト教宣教師は、仏僧が仏像に礼拝しているのを見て、「仏像など塵芥に過ぎないではないか」と述べた。

 これに対して、仏僧は悠然と「仏もまた然り(塵芥に過ぎない)」と述べた。

 

 似た例として次のエピソードがあるだろうか。

 

 道端の地蔵に拝んでいる日本人に、外国人が「そこには地蔵以外ないのに、何故頭を下げるんですか?」と質問した。

 これに対して、日本人は「その通りですね。それでも、私は頭を下げるのです」と返事をして、外国人を戸惑わせた。

 

 この点、「仏像が塵芥である」という事実認定については仏僧も宣教師も争っていない。

 問題はその後である。

 

 形式論理学の制限のある宣教師から見た場合、「神は存在する」・「神は存在しない」の二者択一になる。

 そして、「神は存在しない」なら無神論者になり、キリスト教の信者はおろか、ユダヤ教イスラム教の信者にもなれない。

 

 これに対して、仏僧は形式論理学の制限がない。

 その結果、仏教徒でありながら「仏は塵芥である(ゴミである)」と答えることができる。

 

 例えば、仏の存在について次の回答があるとする。

 

1、仏は存在する

2、仏は存在しない

3、仏は「存在する」ようで、同時に、「存在しない」

4、仏は「存在する」わけではないが、同時に、「存在しない」わけでもない

 

 この点、形式論理学を採用すれば、3と4の選択は矛盾律に抵触する。

 もっとも、形式論理学を採用しなければ、矛盾律の縛りがないので自由に採用できる。

 このように、形式論理学と「空」の思想はこのような対比関係がある。

 

 この点、論理に疎い日本教徒は「空」の思想と形式論理学の違いを明確に認識していたとは言い難い。

 しかし、「空」の思想を日本教徒は大いに気に入ったらしく、比喩や歌で述べられることになる。

 例えば、至道無難という江戸時代前期の臨済宗の仏僧は次の有名な歌を詠んでいる。

 

(以下、至道無難の歌)

 草も木も 国土もさらに なかりけり

 ほとけもいうも なおなかりけり

 

 仏教徒で十七条憲法第二条で敬う対象とされている僧侶が「仏なんどいない」とはなかなかにロックである。

 そして、この姿は形式論理学を前提とした場合、あるいは、その世界に生きていたキリスト教徒から見たらとんでもないことになるだろう。

 しかし、形式論理学」を採用しないなら、なんら問題ないことになる

 

 

 以上が本節のお話である。

 ちなみに、この節は本当に勉強になった

 というのは、社会に対する私の違和感の正体をこれほど明確に見せてくれるものもなかったからである

 

 ところで、上で述べた「キリスト教と仏僧のやり取り」を見ていると、日本教とそれ以外の差の大きさが見て取れる。

キリスト教」と「日本教」の違いはキリスト教イスラム教(ユダヤ教)の違いをはるかに超えている、と。

 

 また、「日本教徒が数学を薬籠中にすることなどごく一部の人間を除けば無理ではないか」とも考えられる。

 それを考えると、日本における数学力の減衰は不可避なのかもしれない。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 11

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

11 第2章の第3節を読む(後編)

 前回は、形式論理学の「同一律」・「矛盾律」について細かく見てきた。

 今回はその続きである。

 

 

 ニコライ・イワノビッチロバチェフスキー(18世紀の数学者)が出現するまで、数学者・科学者の役割は「現実に存在する『客観的真理』を発見すること」と考えられていた

 ロバチェフスキーはこの「学問教」と言ってもよいイデオロギーを転覆させることになる。

 詳細はの第4章に譲るが、ロバチェフスキーは「非ユークリッド幾何学」を作った。

 

 この点、過去において「ユークリッド幾何学」の前提にある「ユークリッド空間」は「絶対的に存在するただ一つの空間」と考えられていた。

 しかし、ロバチェフスキーにより、このユークリッド空間は絶対的なものではなく「一定の前提によって設定された空間」に過ぎないことが示されたのである。

 

 その結果、過去において「自明な真理」とみなされていた「公理」が「仮定」に格下げされることになった

 また、学者の役割も「真理の発見」から「『一定の前提』におけるモデル作成者」に格下げされることになった

 

 というわけで、様々な変化をもたらしたロバチェフスキーの「革命」であるが、ここで記録しておかなければならないのは、この革命の手段として「背理法」が用いられていること、である。

 

 

矛盾律」についてはこの辺にして、最後に「排中律」に移る。

 排中律は「AやBの『中』間を『排』除する」発想ということになる。

 その意味で、排中律矛盾律の先にあるものとも言える。

 

 例えば、「神との契約(律法)を履行したか違反したかの判断」において、「『履行した』が、同時に、『違反した』」とか「『履行しなかった』が、同時に、『違反もしなかった』」ということもない。

 さらに言えば、その中間もない

 この「中間のない」というルールが排中律である。

 

 アリストテレスはこの排中律を確立した。

 矛盾律と同様、数学はこの排中律を厳守しなければならない。

 排中律にヒットしたら論理はストップする(説得は破綻する)。

 

 もちろん、近代資本主義の裁判では排中律は用いられている。

 もっとも、日本の裁判・訴訟・調停などの現状を見ると、この排中律が遠ざけられているのは前回見てきたとおりである。

 

 以上が、形式論理学の3つのルールであった。

 次に、「全称命題」と「特称命題」についてみていく。

 

 

 まず、全称命題とはすべてに関する命題であり、例外のない命題である。

 逆に、特称命題とは特定の事項に関する命題であり、例外のあることが問題にならない命題である。

 

 例えば、「すべてのカラスは黒い」という命題を考える

 これは「すべての~」という形をとるため、全称命題である。

 

 さて、この命題を突き崩すにはどうすればいいだろうか

「すべて~」とあると大変そうに見えるがさにあらず、「たった一つの黒くないカラスを突きつける」ことで足りる。

 その意味では簡単である。

 

 また、全称命題を否定した場合、その否定された命題は特称命題になる

 つまり、「すべてのカラスは黒い」を否定した場合、「『すべてのカラスが黒い』わけではない」となり、「カラスには(一部に)黒くないカラスが存在する」となる。

 逆に、特称命題を否定した場合、その否定された命題は全称命題になる。

 つまり、「(一部の)カラスは黒い」という命題はカラス全体に対する命題ではないので特称命題であるが、これを否定した場合、「黒いカラスは(一部においても)存在しない」となり、これは「すべてのカラスは黒くない」という全称命題に転化する。

 よって、「あるカラスは黒い」という特称命題を突き崩すには、全部のカラスが黒くないことを示さなければならないことになり、「すべてのカラスは黒い」を否定する場合と比較して膨大なコストが必要になる。

 

 以上の全称命題と特称命題の説明をしたところで、数学の話に移る。

 基本的に、数学の定理は全称命題の形式をとる

 例えば、「二等辺三角形の二角は等しい」という定理を考えた場合、「すべての二等辺三角形の二角は等しい」ということになり、「一部の二等辺三角形の二角が等しい」にはならない。

「一部の二等辺三角形の二角が等しい」ではそうでない場合もあることになってしまい、説明にならないからである。

 よって、数学の定理は一つの反証を突きつけることによって瓦解する。

 数学の定理の条件はこのように厳格である。

 

 もっとも、この特徴は数学に限られる。

 法律(訴訟や裁判)の論理はここまで忠実ではない。

 そのことを示すのが「例外のない規則はない」という法格言である。

 まあ、法の存在意義は論理的貫徹よりも社会正義の実現(具体的妥当性の実現)なので、「論理的ではない」と言われても「だからどうした」の一言で片が付くのだが。

 

 以下、本書では練習問題が掲載されている。

 問題は「与えらえた命題を否定する」わけだが、順に解いていくと次の通りになる。

 

1 すべての猫は動物である → 一部の猫は動物ではない

2 すべての人は死ぬ → 一部の人は死なない

3 すべての生徒は優等生である → 一部の人は優等生ではない

 

「すべてのAはB」の否定は「一部のAはBではない」であって、「すべてのAはBではない」となる点に注意が必要である。

 

 

 本書はここから中国の論理学が形式論理学に至らなかった理由が示されている。

 端的に理由を述べれば、「説得の対象が『絶対神』ではなく、『個々の君主』だったから」となる

 つまり、「君主という一個人の説得が目的だった関係で、忖度などによる説得が重要なことが少なくなく、内容や論理の正しさが必ずしも要らなかったから」ともいえる。

 

 この点、形式論理学ユークリッド幾何学ギリシャで発展した。

 それが、古代イスラエルで発展したのは「『一神教絶対神と人間との契約という概念』を維持・運営していくために、論理学の発展が必要だったから」ということになる。

 つまり、古代イスラエルの民の救済の必要十分条件が「契約・律法の履行」にあるから、「履行した」・「違背した」の結果が明確である必要がある。

 さらに、この絶対神は嫉妬深いところがあり、契約を違背しようものなら直ちに民を皆殺しにしかねない。

 それは、ノアの洪水やゾドムとゴモラの例に見ることができる。

 よって、神の代理人たる預言者の重要な任務の一つは「民(人間)の擁護」にもあった。

 その擁護の際には、説得の内容に誤りがあってはならないので、論理と論争の技術が発展していった。

 

 この点は、法廷における論争の技術として発展したギリシャの論理学も同様である。

 神との論争で、人間の代表たる預言者が神に勝つこともありうる。

 また、神が人間の契約違反を主張した際、神との論争に敗れれば民は皆殺しである。

 この観点から見れば、代理人の説得は命がけの行為である。

 

 一方、中国はどうか。

 もちろん、中国では説得・弁論が重視されていた。

 また、その説得・弁論は命がけであった

 さらに、『史記』では論客たちの論旨の雄大さ・緻密さ・豪華さに相当の紙幅を割いており、その素晴らしさが見て取れる。

 この点で日本と中国は異なる。

 

 しかし、説得・弁論の目的は「個々の君主の説得」である

 そのため、「論理の完璧性」・「内容の正確性」よりも「相手(君主)に対する忖度・推測」の方が大事にならざるを得ない。

 その結果、「相手に受け入れやすくため、正確性や論理性を犠牲にする」という手段が合理的になってしまった。

 これでは、ギリシャイスラエルのような「究極的に正しいものを、そのまま押し付ける」という手段が論理になりえなくなる。

 

 著者は、以上が中国の論理学が形式論理学にまで昇華できず、中国の数学が近代数学に再編できなかった理由と述べている。

 まあ、社会的必要性がなければ別に昇華する必要はないのではないか、と言われればそれまでなのだが。

 

 

 以上で第2章は終わり。

 論理学それ自体を純粋に見る機会はこれまでなかったが、こうやって見ると論理学っておもしろいなあ、と感じる次第である。

 次回は第3章についてみてみる。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 10

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

10 第2章の第3節を読む(前編)

 第3節のタイトルは「数学の論理への誘い」。

 この節は、形式論理学」の「同一律」・「矛盾律」・「排中律について自家薬籠中のものにするための節である。

 

 

 まず、「同一律」(the_law_of_indentity)から。

同一律」とは「AはAである」という法則である。

 これだと「なんじゃこりゃ?」となる方は、「Aは、あくまで、Aである」と考えると意味が分かりやすくなるかもしれない。

 

 次に、「矛盾律」(the_law_of_contradiction)である。

矛盾律」とは、「『AはBである』と『AはBではない』という二つの命題がある場合、二つの命題が同時に成立する(両方とも『真』である)こともなく、かつ、二つの命題が同時に成立しない(両方とも『偽』である)こともない」ことを指す。

 つまり、「猫は動物である」と「猫が動物でない」の二つの命題(文章)がある場合、「どちらか一方が必ず『真』となり、他方が『偽』となる」ことを指す。

 この矛盾律は数学その他で大活躍をする。

 まさに、矛盾律形式論理学の華」である。

 

 最後に、排中律(the_law_of_excluded_middles)である。

 排中律矛盾律の先にある法則であり、「必ず一方が真で、他方が偽となる。その中間はない」というものである。

 つまり、排中律では、「Aは、『Bと非Bの中間である』」、「Aは、『Bでもあり、同時にBでもない』」、「Aは『「Bでもない」し「『Bでない』こともない」といったものを排斥することになる。

 

 必要な知識はこれで全部であり、あとは実践して使いこなすだけなのだそうである。

 もっとも、本書では「これでしっくりこない人が多いだろう」という。

 そして、「多くの人の感じる『しっくりこない』のは当然で、それが形式論理学なのである」と続く。

 この点、形式論理学の上の3つのルールを見れば簡単に見える。

 もっとも、簡単だからといって頭に入りやすいとは限らない。

 

 

 では、「しっくりこない」という感覚を持つ形式論理学を駆使するためにはどうすればいいか。

 本書によると、「定義」をしっかり確認した上で、同一律矛盾律排中律を完全に理解すること、らしい。

 以下、同一律矛盾律排中律を詳しく見ていく。

 

 まずは、同一律から。

 同一律とは「Aは、あくまでAである(何と言ってもAに過ぎない)」のことである。

 

 この点、「AはAである」といった同語反復など当然のことなのだから、どうして殊更にルールにするのか、と考えるかもしれない。

 しかし、「定義から論理を正確に組み立てていく」場合、この「同一律」は極めて重要である

 

 例えば、次の3つの文章を用いた推論をみてみよう。

 

 Aはアメリカの「いぬ(犬)」である。

「いぬ(犬)」は動物である。

 よって、Aは動物である。

 

 この推論は正しいだろうか?

 この点、一連の推論においてある言葉は同一の意味で用いなければならない。

 つまり、一つの言葉は一義的に定義され、かつ、その定義に従って用いる必要がある。

 その観点から、上の3つの文章を見ると、1つ目の文章では「いぬ(犬)」を「スパイ」や「手下」の意味で用いている一方、2つ目の文章では「(動物としての)犬」として用いている。

 よって、この推論は上のルールに則っておらず、誤りである

 ちなみに、古代ギリシャソフィストには、この同一律をねじまげて相手を混乱させるという詭弁を弄したため、ソフィズムとは詭弁術という意味になってしまったという。

 

 また、同一の議論で、同じ言葉(概念)を多義的に(一義的の逆、二つ以上の意味に)用いると、その推論は誤りになる

 そのことは上の推論を見れば明らかであろう。

 

 ちなみに、古代イスラエルの宗教・古代ユダヤ教には、規定の一義的な定義が契約(律法)の中に詳細に明記されている。

 例えば、『出エジプト記』の第26章を見ると、神に奉納物を捧げる際の作法・決まり、あるいは、聖書の幕屋の作り方について寸法の数字を示しながら規定されている。

 

(以下、『出エジプト記』の第26章を引用、節番号は省略、節ごとに改行)

 あなたはまた十枚の幕をもって幕屋を造らなければならない。すなわち亜麻の撚糸、青糸、紫糸、緋糸で幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。

 幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビトで、幕は皆同じ寸法でなければならない。

 その幕五枚を互に連ね合わせ、また他の五枚の幕をも互に連ね合わせなければならない。

 その一連の端にある幕の縁に青色の乳をつけ、また他の一連の端にある幕の縁にもそのようにしなければならない。

 あなたは、その一枚の幕に乳五十をつけ、また他の一連の幕の端にも乳五十をつけ、その乳を互に相向かわせなければならない。

 あなたはまた金の輪五十を作り、その輪で幕を互に連ね合わせて一つの幕屋にしなければならない。

 また幕屋をおおう天幕のためにやぎの毛糸で幕を作らなければならない。すなわち幕十一枚を作り、

 その一枚の幕の長さは三十キュビト、その一枚の幕の幅は四キュビトで、その十一枚の幕は同じ寸法でなければならない。

 そして、その幕五枚を一つに連ね合わせ、またその幕六枚を一つに連ね合わせて、その六枚目の幕を天幕の前で折り重ねなければならない。

 またその一連の端にある幕の縁に乳五十をつけ、他の一連の幕の縁にも乳五十をつけなさい。

 そして青銅の輪五十を作り、その輪を乳に掛け、その天幕を連ね合わせて一つにし、

 その天幕の幕の残りの垂れる部分、すなわちその残りの半幕を幕屋のうしろに垂れさせなければならない。

 そして天幕の幕のたけで余るものの、こちらのキュビトと、あちらのキュビトとは、幕屋をおおうように、その両側のこちらとあちらとに垂れさせなければならない。

 また、あかね染めの雄羊の皮で天幕のおおいと、じゅごんの皮でその上にかけるおおいとを造らなければならない。

 あなたは幕屋のために、アカシヤ材で立枠を造らなければならない。

 枠の長さを十キュビト、枠の幅を一キュビト半とし、

 枠ごとに二つの柄を造って、かれとこれとを食い合わさせ、幕屋のすべての枠にこのようにしなければならない。

 あなたは幕屋のために枠を造り、南側のために枠二十とし、

 その二十の枠の下に銀の座四十を造って、この枠の下に、その二つの柄のために二つの座を置き、かの枠の下にもその二つの柄のために二つの座を置かなければならない。

 また幕屋の他の側、すなわち北側のためにも枠二十を造り、

 その銀の座四十を造って、この枠の下に、二つの座を置き、かの枠の下にも二つの座を置かなければならない。

 また幕屋のうしろ、すなわち西側のために枠六つを造り、

 幕屋のうしろの二つのすみのために枠二つを造らなければならない。

 これらは下で重なり合い、同じくその頂でも第一の環まで重なり合うようにし、その二つともそのようにしなければならない。それらは二つのすみのために設けるものである。

 こうしてその枠は八つ、その銀の座は十六、この枠の下に二つの座、かの枠の下にも二つの座を置かなければならない。

 またアカシヤ材で横木を造らなければならない。すなわち幕屋のこの側の枠のために五つ、

 また幕屋のかの側の枠のために横木五つ、幕屋のうしろの西側の枠のために横木五つを造り、

 枠のまん中にある中央の横木は端から端まで通るようにしなければならない。

 そしてその枠を金でおおい、また横木を通すその環を金で造り、また、その横木を金でおおわなければならない。

 こうしてあなたは山で示された様式に従って幕屋を建てなければならない。

 また青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で垂幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。

 そして金でおおった四つのアカシヤ材の柱の金の鉤にこれを掛け、その柱は四つの銀の座の上にすえなければならない。

 その垂幕の輪を鉤に掛け、その垂幕の内にあかしの箱を納めなさい。その垂幕はあなたがたのために聖所と至聖所とを隔て分けるであろう。

 また至聖所にあるあかしの箱の上に贖罪所を置かなければならない。

 そしてその垂幕の外に机を置き、幕屋の南側に、机に向かい合わせて燭台を置かなければならない。ただし机は北側に置かなければならない。

 あなたはまた天幕の入口のために青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、色とりどりに織ったとばりを作らなければならない。

 あなたはそのとばりのためにアカシヤ材の柱五つを造り、これを金でおおい、その鉤を金で造り、またその柱のために青銅の座五つを鋳て造らなければならない。

(引用終了)

 

ja.wikisource.org

 

 あるいは、十戒には「あなたは姦淫してはならない。」という規定がある(『出エジプト記』第20章第14節)が、『レビ記』の第18章で「姦淫してはならない相手」が示されている。

 

ja.wikisource.org

 

(以下、『レビ記』の第18章の第6節から25節までを引用、節番号省略、節ごとに改行)

 あなたがたは、だれも、その肉親の者に近づいて、これを犯してはならない。わたしは主である。

 あなたの母を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。彼女はあなたの母であるから、これを犯してはならない。

 あなたの父の妻を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。

 あなたの姉妹、すなわちあなたの父の娘にせよ、母の娘にせよ、家に生れたのと、よそに生れたのとを問わず、これを犯してはならない。

 あなたのむすこの娘、あるいは、あなたの娘の娘を犯してはならない。それはあなた自身をはずかしめることだからである。

 あなたの父の妻があなたの父によって産んだ娘は、あなたの姉妹であるから、これを犯してはならない。

 あなたの父の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの父の肉親だからである。

 またあなたの母の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの母の肉親だからである。

 あなたの父の兄弟の妻を犯し、父の兄弟をはずかしめてはならない。彼女はあなたのおばだからである。

 あなたの嫁を犯してはならない。彼女はあなたのむすこの妻であるから、これを犯してはならない。

 あなたの兄弟の妻を犯してはならない。それはあなたの兄弟をはずかしめることだからである。

 あなたは女とその娘とを一緒に犯してはならない。またその女のむすこの娘、またはその娘の娘を取って、これを犯してはならない。彼らはあなたの肉親であるから、これは悪事である。

 あなたは妻のなお生きているうちにその姉妹を取って、同じく妻となし、これを犯してはならない。

 あなたは月のさわりの不浄にある女に近づいて、これを犯してはならない。

 隣の妻と交わり、彼女によって身を汚してはならない。

 あなたの子どもをモレクにささげてはならない。またあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。

 あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。

 あなたは獣と交わり、これによって身を汚してはならない。また女も獣の前に立って、これと交わってはならない。これは道にはずれたことである。

 あなたがたはこれらのもろもろの事によって身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い払う国々の人は、これらのもろもろの事によって汚れ、

 その地もまた汚れている。ゆえに、わたしはその悪のためにこれを罰し、その地もまたその住民を吐き出すのである。

(引用終了)

 

 なお、日本教徒がこれを見ると、「なんと細かいのだ」とか「こんな詳細な規定をつくるなんて、この絶対神はなんと心の狭い神様だ」などと考えるかもしれない。

 しかし、これが「同一律」である。

 好むか嫌うかは各人にお任せするとしても。

 

 

 次に、「矛盾律」についてみていく。

 ここでは、アリストテレスの「矛盾律」と韓非子の「矛盾」についてみていく。

 

 この点、中国では、君主を説得するための「論理学」が大きな発展を遂げた。

 その具体例として、韓非子の述べた「矛盾」がある

 

「矛盾」とは次のようなお話である。

 

 とある楚の商人が素晴らしい矛と盾を「この矛はどんな盾でも貫ける」・「この盾はどんな矛でも防ぐことができる」と誇りにしていた。

 そこで、ある人が「じゃあ、その矛でその盾を突いたらどうなるのか?盾は矛を防ぐのか?それとも矛が盾を貫くのか?」と質問した。

 商人は韓非子の質問に答えられなかった。

 

ja.wikibooks.org

 

 これが「矛盾」という言葉の起こりである。

 そして、この「矛盾」という言葉が中国の論理学でも用いられ、後の日本でも用いられるようになった。

 

 では、韓非子の「矛盾」とアリストテレス形式論理学)の「矛盾」は一致するであろうか?

 これを理由付きで説明できるか否かが、論理学理解の関門となる。

 

 この点、矛盾にある二つの命題を取り出すと次のようになる。

 

命題1、この矛はどんな盾でも貫く

命題2、この盾はどんな矛でも貫けない

 

 そして、命題1と命題2が共に真になることはない。

 では、命題1と命題2が共に偽になることはありうるか。

 命題1が偽であれば、「この矛には貫けない盾がある(一つ以上存在する)」となり、命題2が偽であれば、「この盾には防げない矛がある(一つ以上存在する)」となる。

 そして、この二つが共に成立することは十分ありえそうである。

 もしピンとこなければ、「なまくらな矛」と「なまくらな盾」を用意して考えればいい

 

 このように、「二つとも『真』である」と言えない場合であっても、「二つとも『偽』である」という場合は存在する。

 そして、形式論理学ではこのことを「矛盾」とは言わず、「反対」(contrariety)と定義して、「矛盾」と区別している。

 

 つまり、韓非子の「矛盾」は形式論理学でいうところの「反対」であって「矛盾」ではない。

 他方、形式論理学の「矛盾」と「反対」は共に韓非子の「矛盾」に該当することになる。

 以上より、形式論理学韓非子の「矛盾」は異なることになる。

 

 本書では、「反対」と「矛盾」の違いを常識にするために練習問題が用意されている。

 

 例えば、次の二つの命題は「矛盾」である。

 

1、犬は動物である

2、犬は動物ではない

 

 また、次の2つの命題は「反対」である。

 というのも、「今、ここは適温である」という共に偽である可能性があるからである。

 

1、今、ここは寒い

2、今、ここは暑い

 

 さらに、「優等生」が定義されていると仮定した場合、次の2つの命題は「反対」である。

 なぜなら、一部の生徒が優等生で、残りの生徒が優等生でない場合、二つの命題は共に否定される(「偽」となる)からである。

 

1、すべての生徒は「優等生」である

2、すべての生徒は「優等生」ではない

 

 最後に、次の2つの命題は「矛盾」である。

 矛盾になる理由は、カッコの言い換えを見れば理解できると考えられる。

 

1、すべての生徒は「優等生」である

2、ある生徒は「優等生」ではない(「すべての生徒が『優等生』である」とは言えない)

 

 ところで、「数学では矛盾を許さない」というルールを設定した

 つまり、「矛盾」が生じた瞬間、論理・証明はストップし、破綻する。

 この「矛盾絶対禁止」の大原則が数学に大きな説得力を与えることになった

 その説得力を得た具体的な証明方法こそ「背理法」である。

 そして、この「背理法」は哲学や討論術において大いに活用されていくことになる。

 

 例えば、古代ギリシャでは、ピタゴラス背理法によって√2(2の平方根)が有理数でないことを簡明に証明して、人々を驚かせた。

 また、非ユークリッド幾何学創始者であるロバチェフスキーは数学と科学に対して革命を起こし、数学・科学の研究法を一変させることになった。

 そして、この革命は近代資本主義と近代デモクラシーを生み出すことになる。

 

 この点、ロバチェフスキーが登場するまで、数学と科学は「客観的に存在する『真理』を学者が発見する」という立場で研究されていた

 この模範となっているのがユークリッド幾何学であり、学問のモデルは「自明な公理」から形式論理学を用いて「定理」を導き出すことである」と考えられていたのである。

 この学問のモデル、つまり、論理演繹法は素晴らしいものだったので、学者はこれこそ完全な理論(complete_theory)と見ていた。

 

 

 ここから話は「ところが・・・」と続く。

 しかし、結構な分量になってしまったので、残りは次回に。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 9

 今日はこのシリーズの続き。

 

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『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

9 第2章の第2節を読む

 第2節のタイトルは「東西の『論理』の違い」

 前節で、アメリカ・ヨーロッパの論理は「神(絶対神)を説得すること」を目的とし、中国(儒教系)の論理は「人(君主)を説得すること」を目的とし、日本はそもそも論理や説得を重視していないことを確認した。

 この節ではこれらの点について深く踏み込んでみる。

 

 

 まず、近代数学の前提となったヨーロッパの論理の「形式論理学」からみていく。

 この点、形式論理学古代ギリシャアリストテレスが完成させた

 そして、古代イスラエルの民が「神との契約」を通じて現実の社会で駆使していく。

 

 

 これまでの読書メモで何度も触れてきたことであるが、ユダヤ教では「神との契約事項の遵守」が求められる

 そして、契約違反の代価は民族滅亡(国家の滅亡)であった。

 そこで、「違反したか、しなかったか」の判断が厳格に求められることになった

 契約違反か否かによってその後の未来が変わると考えられていたのだから、このことは当然ともいえる。

 

 この点、この判断においては「違反が『ある』とも言え、『ない』ともいえる」といった両立した状態は許されない

 この結果、形式論理学の「矛盾律が導かれることになった。

 

 次に、同時に、「『ある』わけでもないが、『ない』わけでもない」といったどちらの結論でもないような第三の状態も許されず、「『ある』か『ない』かのどちらかである」必要がある。

 この結果、形式論理学の「排中律が導かれることになった。

 

 さらに、上記二つの前提には「契約の内容はかくかくしかじかである」と定義する必要がある

 この定義は言葉で正確に表現できることが必要である。

 また、将来の紛争に備えるならば文章になっていることが望ましい。

 この点、当然の前提などについては「黙示」のものもありうるであろうが、「何も言うな。目を見ろ。とにかく信じろ!」などというのは論外である。

 その結果、形式論理学の「同一律が導かれることになった。

 

 以下、本書では「命題」をめぐって説明が続く。

 この「命題」とは「『真』か『偽』かが判定できる内容の文章」のことである。

 つまり、「正しいか正しくないかが判定できる文章」が命題である。

 

 それから、真偽の意味は次のとおりである。

 

真である=正しい=成立する

偽である=正しくない=成立しない

 

 この点、形式論理学を構築したアリストテレスは、同一律(定義)という当然の前提に矛盾律排中律を定式化した。

 そして、この同一律矛盾律排中律の3つの基本原則(ルール)こそ形式論理学を完璧な論理学たらしめているのである

 

 この点、この3つのルールは形式論理学以外の「論理学」では必ずしも確立しているわけではない。

 形式論理学からほど遠い「論理学」もあれば、否定している論理学もある。

 また、「論理」を学と認めない思考や「論理」に興味のない人もいよう。

 さらに言えば、「定義」という考え方が未発達な「論理学」も少なくないし、定義の概念のない思考法もある。

 

 ただ、古代ギリシャから始まった近代数学形式論理学のみを証明法として利用した

 つまり、近代数学形式論理学と密接な関係を持っていたともいえる。

 その結果、近代数学は大躍進を遂げ、学問の基礎となった。

 

 このことから、代数学を知るためには形式論理学を知るのが手段として合理的である。

 また、形式論理学は近代数学以外の様々な場所で活用されている。

 そこで、形式論理学についてこれからみていくことにする。

 

 

 ここから、本書は「食物規定」を用いて「論理の違い」についてみていく

 というのも、過去の日本の食物規定とユダヤ教の食物規定を比較すると論理の違いがよく見えるからである。

 

 まず、ユダヤ教の食物規定には同一律がある

 つまり、「食べて良い物」と「食べてはいけない物」がはっきり定義されている。

 また、ユダヤ教の食物規定には矛盾律排中律もある

 つまり、「食べていいと同時に食べてはいけない物」はないし、「食べて良い物」・「食べてはいけない物」のいずれにも該当しない物もなく、総ての食べ物は「食べて良い物」か「食べてはいけない物」に該当する。

 よって、ユダヤ教の食物規定には形式論理学が綺麗に適用されていると言える。

 

 これに対して、過去の日本を見るとどうか。

 日本では状況と環境により食物規定がころころ変わっていた。

 例えば、徳川時代は「四本足の動物は食べてはいけない」と言いながら、「ウサギは一羽二羽と勘定するから食べていい」・「イノシシは山クジラと呼ばれるから食べていい」などと言われた。

 もちろん、「四本足の動物は食べてはならない。ただし、ウサギとイノシシはその限りではない」などと原則と例外が明確に規定されていれば問題はない

 しかし、「牛は食べてはいけないが、彦根牛は食べていい」などと「(緊急性・必要性がないのに)状況によっては食べて良い」となれば、めちゃくちゃである。

 このように、「日本の食物規定には同一律矛盾律排中律もない」といってよい状況になっている。

 まあ、日本は論理も言葉も使いこなしていないことを見れば当然の結果とも言いうるが。

 

 なお、この傾向は食物規定だけにあるのではない。

 契約全般にわたって形式論理学基本法則は十分活用されているのである

 

 まず、同一律について見るとユダヤ教では律法の中にいわゆる「契約の箱」や神殿・本殿の作り方について寸法を含めた詳細な命令がある。

 以下、『出エジプト記』の第25章から詳細な命令の内容を引用してみる。

 日本人が見ればかなり具体的である。

 

(以下、『出エジプト記』の第25章の第1節から第16節までを引用、節番号は省略、各節ごとに改行)

 主はモーセに言われた、

イスラエルの人々に告げて、わたしのためにささげ物を携えてこさせなさい。すべて、心から喜んでする者から、わたしにささげる物を受け取りなさい。

 あなたがたが彼らから受け取るべきささげ物はこれである。すなわち金、銀、青銅、

 青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸、やぎの毛糸、

 あかね染の雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、

 ともし油、注ぎ油と香ばしい薫香のための香料、

 縞めのう、エポデと胸当にはめる宝石。

 また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。

 すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。

 彼らはアカシヤ材で箱を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。

 あなたは純金でこれをおおわなければならない。すなわち内外ともにこれをおおい、その上の周囲に金の飾り縁を造らなければならない。

 また金の環四つを鋳て、その四すみに取り付けなければならない。すなわち二つの環をこちら側に、二つの環をあちら側に付けなければならない。

 またアカシヤ材のさおを造り、金でこれをおおわなければならない。

 そしてそのさおを箱の側面の環に通し、それで箱をかつがなければならない。

 さおは箱の環に差して置き、それを抜き放してはならない。

 そしてその箱に、わたしがあなたに与えるあかしの板を納めなければならない。

(引用終了)

 

ja.wikisource.org

 

 次に、矛盾律について見ると絶対神は人間(イスラエルの民)と契約において、契約を「破った」か、または、「破らない(遵守した)」かの区別に固執する。

 よって、「破らない」と「破った」が同時に成立することはない

 例えば、十戒には「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。」(『出エジプト記』の第20章の第3節・第4節)という条項がある。

 他方、エジプトから脱出してシナイ山に到達したイスラエルの民は、モーセの不在中、犢の像を作って拝みだしてしまった。

 この「イスラエルの民は犢の像を作ってそれを拝んだ」という事実と「イスラエルの民は律法を守った」という事実は両立しない(矛盾する)ことになる。

 このとき、神が激怒して民を皆殺しにしようとし、それに対してモーセが神を説得したのはこれまでに何度も述べたとおりである。

 

 最後に、排中律について見ると、神との契約に関しては「破った(遵守しなかった)」と「遵守した(破らなかった)」以外の第三の選択肢はない。

 よって、排中律についても成立している。

 

 確かに、形式論理学が完成したのはギリシャにおいてである。

 しかし、それを宗教や社会に実践したのは、絶対神の存在を確信するユダヤ教においてであった。

 このような「形式論理学の社会的実践」は古代から一部の社会で実践されていたのである。

 そして、この流れが近代資本主義の前提として重要な役割を果たしたことはこれまで述べたとおりである。

 

 

 ところで、アリストテレスは「同一律矛盾律排中律」の3つの原則を確立させた。

 そして、この3つの原則が近代数学に用いられるようになった。

 とはいえ、この3つの原則はとっつきにくいものでもある

 だから、この3つの原則の上に成り立っている数学が分からないことは無理からぬ話ともいえる。

 

 ところで、この形式論理学の3つの原則は近代の学問に応用され、近代裁判に利用されることになる。

 ここでは、近代裁判に3つの原則が用いられていることを確認する。

 

 この点、近代裁判の結論として、次の2つが考えられる。

 

1、Aは有罪である

2、Aは無罪である(有罪ではない)

 

 まず、近代法の大原則たる「罪刑法定主義」から見た場合、「『罪』に当たる行為はかくかくしかじか、それに対応する『刑』はかくかくしかじかである」とあらかじめ『法』律に『定』められている(ちなみに、『』で囲った4文字を抜き出して最後に『主義』をくっつけると、「罪刑法定主義」になる)。

 よって、「有罪とはかくかくしかじかである」と定義されており、同一律が満たされている

 また、近代裁判において、「Aは有罪であり、同時に、無罪である」という判決が出ることがないので、矛盾律が満たされていることがわかる

 さらに、近代以前のヨーロッパでは有罪でも無罪でもない「中間刑(嫌疑刑)」のようなものがあったが、近代裁判の場合、有罪の証明がない場合は全部無罪になる(例えば、刑事訴訟法336条参照)ので有罪と無罪以外の結論はない。

 そこで、近代裁判では排中律も満たされている

 ちなみに、日本の法律では刑事訴訟法336条にこのことが示されている。

 

刑事訴訟法336条

 被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない。

 

 ところで、19世紀、日本は近代化への道を歩み始めた。

 もっとも、近代資本主義国家の法律の論理の緻密さ・厳密さに日本人は驚くことになる

 この点、次の読書メモで言及した通り、日本人は「無罪のようでも有罪でもあるような判決」・「勝訴のようであり、敗訴のような判決」・「和解」を好む傾向がある(各当事者はさておくとしても)。

 ピンとこなければ、「『大岡裁き』のようなものを好む」と言い換えることができる。

 

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 そのため、明治時代の人々はヨーロッパの近代裁判を見て、びっくり仰天し、大変な嫌悪感をもったという。

 そして、末弘厳太郎(すえひろいずたろう)博士はヨーロッパの法律と日本のルールの違いを説明するために、『嘘の効用』なる名著を執筆している。

 この点について、日本の法学者たる川島武宜博士(後述のメモで言及している)は『日本人の法意識』の182ページにおいて次のようなことを述べている。

 

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(以下、『日本人の法意識』の182ページから引用、強調は私の手による)

 昭和二十九年に発行された『調停読本』には、日本調停協会連合会会長溝口喜方氏(中略)が序文を書き、「云うまでもなく調停の基本精神は和であって聖徳太子が今から千三百五十年前制定された十七条憲法の第一条に『以和為貴(私の注、「和を以て貴しと為す」のこと)』と示されている通り、和を尊ぶのがわが国民性であるから、わが国において調停制度が発達するのも当然であろう』というふうに、調停の基本精神を述べており、

(引用終了)

 

 

 では、ここで述べられている「調停の基本精神」とは何か。

 川島博士は次のように述べている。

 

(以下、『日本人の法意識』の183ページから引用、強調は私の手による)

同書(私の注、昭和二十九年に発行された『調停読本』のこと)の中にある、調停の際心がけるべき要点を示す「調停いろはかるた」には、「論よりは義理と人情の話し合い」とか、「権利義務など四角にものを言わず」とか、「なまなかの法律論はぬきにして」とか、「白黒をきめぬ所に味がある」というような、「我国古来の淳風美俗」の精神が盛られているのである

(引用終了)

 

 このように、近代への道を走りだした日本人であっても、基本的に判決ではなく、調停や和解による解決を好むようになった。

 そして、この調停の精神は近代裁判の論理、つまり、形式論理学ではない。

 なにしろ、ここの調停の結論は、「勝ちでもあり負けでもあるような結論」「勝ちでも負けでもない結論」だというのだから。

 ここには、矛盾律排中律も存在しない。

 

 

 ところで、前述の末広博士は法律における「嘘の効用」について「法律は厳格で動かせなかったから、法律に適用される『事実』を動かすこと、つまり、『真実』ではなく『嘘』を使うことを考えた。」旨述べている。

 つまり、真実を法律に適用するとおかしなことになるので、嘘、つまり、虚偽の事実、いわば、「虚構を用いる」ことになった、と

 

 なにやら「『空気』の支配」や「員数主義」の影が見えてきたが、この「嘘」について川島先生は次のように述べている。

 

(以下、本書の83ページから引用、強調は私の手による)

「事実に反するということを知っている者が、そのことを知らない相手にそれを事実として述べてだます行為」を意味するのではなく、(中略)、社会の現実の必要にかんがみると、法律上の定めを厳格に文字どおり守るわけにはいかないので、法律のことばの意味を操作して、あたかも法律を条文のことばどおりに守ったかのごとき外形をつくる行為を、この「嘘」という言葉は意味しているのである。

(引用終了)

 

 つまり、ここでいう「嘘」とは「公共の利益のために、虚構の事実をでっちあげることにより、法律が適用されている外観を作出すること」らしい。

 まさに、「員数主義」であり、「空気」である

 もちろん、個々の場面で「員数主義」や「空気」を作り出すことの当否はさておいて。

 

 

 以上で第2節は終わり。

 次は第3節についてみていく。

司法試験の過去問を見直す9 その4

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成11年度の憲法第1問についてみていく。

 もっとも、問題の検討それ自体は終わっているので、別の観点から問題をみていく。

 

8 当時の視点から見た本問の出題趣旨

 これまでの本問の検討では、「条文の変更はなし」という仮定はしたが、素直に問題を読んでそのまま解いた。

 ただ、当時の司法試験員会の出題趣旨を見るため、当時の状況を考慮しながら再考してみる。

 

 この点、前回確認した平成18年の最高裁判決(リンクは次の通り)では、本件の事案と原審(福岡高等裁判所)の判断の概要について次のようなことを述べている。

 

平成15年(オ)422号損害賠償請求事件

平成18年3月23日最高裁判所第一小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/855/032855_hanrei.pdf

 

(以下、上記判決から引用、節番号などの一部は省略、一文毎に改行、強調は私の手による)

 上告人は,平成11年6月17日及び同月21日,(中略)「受刑者処遇の在り方の改善のための獄中からの請願書」(以下「本件請願書」という。)を送付し,また,(中略)告訴告発状(以下「本件告訴告発状」という。)を送付した。

 上告人は,平成11年10月13日,本件請願書及び本件告訴告発状の内容についての取材,調査及び報道を求める旨の内容を記載したC新聞社あての手紙(以下「本件信書」という。)の発信の許可を(中略)刑務所長に求めた。

(中略)刑務所長は,受刑者のその親族でない者との間の信書の発受は特に必要があると認められる場合に限って許されるべきものであると解した上で,本件信書の発信については,権利救済又は不服申立て等のためのものであるとは認められず,その必要性も認められないと判断して,これを不許可とし,上告人に対し,平成11年10月15日,その旨を告知した。

(中略)

 原審は,(中略),上告人の請求を棄却すべきものとした。

(中略),本件信書の発信が上告人の権利救済又は教化改善のために特に必要であるとは認められず,他に特別の必要を認めるべき証拠もないのであるから,(中略)刑務所長が本件信書の発信を不許可としたことに違法があるということはできない。

(引用終了)

 

 まず、本件の不許可処分は平成11年10月に出されていることもわかる。

 つまり、本問が出題された直後であり、当時の法解釈などを見ることができる。

 

 この点、原審では旧監獄法46条2項の「特ニ必要アリト認ムル場合」とは「受刑者の権利救済・不服申立て又は矯正教化などのために特別の必要のある場合」と考えていることが分かる。

 少なくても、いわゆる相当の蓋然性がない場合でも制限できることは明白である。

 

 ところで、これと同様の判断を是認していると考えられる最高裁判所の判決がある。

 それが、次の平成11年の最高裁判決である。

 

平成7年(行ツ)66号発信不許可処分取消等事件

平成11年2月26日最高裁判所第二小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/789/062789_hanrei.pdf

 

 この事案は受刑者ではなく、死刑判決を受けた者の信書の発信の自由が問題になった事案である。

 この判決では、河合裁判官が反対意見を述べており、その意見から原審や実務用の運用を見ることができる。

 そこで、事案の概要の部分を確認する。

 

(以下、上記判決の反対意見の一部を引用、各文毎に改行、節番号などは省略、強調は私の手による)

 東京拘置所は、死刑確定者の信書の発出(以下「発信」ということがある。)を、次の(1)(2)のいずれかに当たる文書についてのみ許可し、これら以外の文書(以下「一般文書」という。)の発信は許可しないとの取扱基準(以下「東拘基準」という。)を設けている。

(1)本人の親族、訴訟代理人その他本人の心情の安定に資するとあらかじめ認められた者にあてた文書

(2)裁判所等の官公署あての文書又は訴訟準備のための弁護士あて等の文書で、本人の権利保護のために必要かつやむを得ないと認められるもの

 上告人は、昭和六二年四月二七日以来、死刑確定者として東京拘置所に拘置されている者であるが、平成四年八月、(中略)との趣旨の文書(以下「本件文書」という。)を同紙に投稿しようとして、同月一九日、被上告人にその発信の許可を申請した。

 これに対し、被上告人東京拘置所長は、東拘基準に基づいて審査し、本件文書の発出については上告人の権利保護のために必要かつやむを得ないと認めるに足りる事情がないと判断して、同月二〇日、これを不許可とする旨決定した(以下「本件処分」という。)。

(引用終了)

 

 この不許可処分に対して、原審は「東拘基準」の合理性を認定して、その基準に従って適用した本件処分の合理性を肯定した

 これに対し、最高裁判所は次のように述べて原審の判断を支持した。

 

(以下、最高裁判所判決を引用、一部省略、各行ごとに改行、強調は私の手による)

 同準則は許否の判断を行う上での一般的な取扱いを内部的な基準として定めたものであって具体的な信書の発送の許否は、前記のとおり、監獄法四六条一項の規定に基づき、その制限が必要かつ合理的であるか否かの判断によって決定されるものであり、本件においてもそのような判断がされたものと解される。そして、原審の適法に確定した事実関係の下においては、同被上告人のした判断に右裁量の範囲を逸脱した違法があるとはいえない

(引用終了)

 

 興味深いのは、いわゆる「東拘基準」の合理性については内部基準といって具体的判断をせず、具体的な本件処分について裁量の逸脱・濫用がないかの判断を直接行った点である。

 そして、本件処分の合理性を認めており、そのことにより大幅な制限を追認した。

 なお、この枠組みからとある疑問が浮かぶが、その点は後述する。

 

 

 これらのことから、平成11年当時、死刑囚・受刑者などに対する発信の自由は大幅な制限が認められていたことが分かる。

 なお、その現状に対して、河合裁判官は反対意見において次のことを述べている。

 

(以下、上記判決の反対意見の一部を引用、各文毎に改行、節番号などは省略、強調は私の手による)

 本件においてまず検討すべきは、東拘基準が、死刑確定者の発信を、一般文書につきすべて許可しないこととしていることの適否である。(中略)

 死刑確定者といえども、刑の執行を受けるまでは、人としての存在を否定されるものではないから、基本的にはこの権利を有するものとしなければならない。

 もとより、この権利も絶対のものではなく、制限される場合もあり得るが、それは一定の必要性・合理性が存する場合に限られるべきである。

 すなわち、死刑確定者の発信については、その権利の性質上、原則は自由であり、一定の必要性・合理性が認められる場合にのみ例外的に制限されるものと解すべきであって、監獄法四六条及び五〇条の規定も、この趣旨に解されることは明らかである。

 しかるに、東拘基準は、この原則と例外を逆転し、わずかの場合を除き、死刑確定者の発信を、それを制限することの具体的必要性や合理性を問うことなく、一般的に許さないとしているのであって、右の権利の性質に矛盾し、法の規定にも反するものといわねばならない。

 原審は、拘置所長が東拘基準を準則として採用し、かつ、これを適用して本件処分をしたことが、拘置所長の専門的裁量権の行使として適法であるとするもののごとくである。

(引用終了)

 

 このような当時の世情を考慮するならば、本問では「当時の実務に対してどのように考えるのか」ということが問われているようにもみえる

 そして、当時の実務を是認するならば、その実質的根拠が求められる。

 例えば、受刑者は有罪判決を受けた者であり、一般市民と変わらないといった未決者よりも人権制約が許されるので、相当の蓋然性がなくても一般的・抽象的なおそれがあれば人権が制約できると考えれば、根拠としては成立しうる。

 だから、正当化は十分可能である。

 

 もっとも、本問では「刑務所長は、Aの投書が新聞に掲載されることは刑務所内の秩序維持の上で不相当であると判断」した、とある。

 つまり、相当の蓋然性の基準に従って判断して、不許可にしている。

 そのため、実務的なことは考えなくてもいいようにも見える。

 

 どっちなのだろう。

 よくわからないので、これ以上は何とも言えない。

 なお、本番ならば、私は実務に触れないだろうと考えている。

 

9 法令に触れることの是非

 次に、上の平成11年の判決では「拘置所の基準は内部のものにすぎない」と述べ、その基準についての合理性判断はしなかった。

 そこで、次の疑問が浮かぶ。

 この事案において、最高裁判所拘置所の基準に触れることなく不許可処分の合理性だけを判断してそれ以上踏み込まないことができるならば、本問でも監獄法の合憲性に一切触れず、不許可処分の合憲性判断だけを行ってもよいのではないか、と

 もちろん、「触れなくてもよい」であって「触れてはいけない」ではないので、細かい疑問ではある。

 

 この点、旧監獄法46条2項を違憲だと考える場合、法律に触れずに済む場合、「法令違憲に触れず、不許可処分の合憲性だけを考えればよい。具体的な基準は『相当の蓋然性の基準』を用いればよい」ということになる。

 その結果、「法令に対する違憲判断によって問題文の事情が使えない」という問題をクリアすることができるため、一考に値することになる。

 他方、解釈その他により法令を合憲と考える場合、この点は考える必要がない。

 

 どうなのだろう。

 記憶が薄れているが、当時の答案例で不許可処分だけを論じている答案はあったような気がする。

 とすると、あり得ない選択肢ではないのかな、とも考えられる。

 もちろん、よくわからないし、小さい問題だからどっちでもいいともいえるが。

 

10 ただの条文解釈と合憲限定解釈

 今回の検討では、旧監獄法の条文を(合憲限定)解釈をして合憲にした。

 この手法は、最高裁判所がよく行っている手法である。

 

 私が勉強していた当時(ロースクール制度が始まったころ)、合憲限定解釈をほとんどしなかったように記憶している。

 特に、「個人を救済するための合憲限定解釈」(具体例としては、都教組事件や全訂東京中郵事件など)はしても、「個人を処罰するための合憲限定解釈」(具体例はありすぎるが、札幌税関検査事件などがある)については目もくれなかったと記憶している。

 

 今回、本問の検討では旧監獄法46条2項について合憲限定解釈を行い、処分については違法にした。

 つまり、今回のやり方は「個人を救済するための合憲限定解釈」となる。

 もちろん、刑務所長の判断に合理性があると認めれば逆になるわけだが。

 

 一方でこのような疑問を持った。

「これは単なる法令解釈に過ぎず、合憲限定解釈にはならないのではないか」と。

 

 この点、平成18年判決の原審は条文の「特ニ必要アリト認ムル場合」を厳格に解釈し(文言上・実務上はその方が妥当である)、これに対して、最高裁判所は「特に必要があると認める場合」を広く解釈した。

 狭く解釈すれば違憲、広く解釈すれば合憲ということを考慮して後者を選択したのであれば、合憲限定解釈のように見える。

 もっとも、憲法の精神に沿うように「特ニ必要アリト認ムル場合」を広く解釈したのであれば、合憲・違憲とかの指向性がなく、ただの解釈にも見える。

 

 どうなのだろう。

 まあ、こちらも細かい問題ともいえるので、合憲限定解釈と考えて何も不都合がないのだが。

 

 

 以上、色々と細かいことをみてきた。

 次回、憲法外からこの問題を見て、本問の検討を終えることにする。

 では、次回。

司法試験の過去問を見直す9 その3

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成11年度の憲法第1問についてみていく。

 

6 監獄法46条2項の合憲性

 最初にあてはめに必要な情報を確認する。

 まず、問題文から。

 

(旧司法試験・二次試験・論文式試験・平成11年度・憲法第1問)

 受刑者Aは、刑務所内の処遇改善を訴えたいと考え、その旨の文章を作成して新聞社に投書しようとした。刑務所長は、Aの投書が新聞に掲載されることは刑務所内の秩序維持の上で不相当であると判断して、監獄法第46条第2項に基づき、文章の発信を不許可にした。

 右の事案に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。

(問題文終了)

 

 また、過去問にある(旧)監獄法46条2項を確認する。

 

(旧監獄法46条2項)

 受刑者及ビ監置ニ処セラレタル者ニハ其親族ニ非サル者ト信書ノ発受ヲ為サシムルコトヲ得ス但特ニ必要アリト認ムル場合ハ此限ニ在ラス

 

 さらに、違憲審査基準については前回導出した「相当の蓋然性」の基準を用いる。

 具体的にみていくと次のとおりになる。

 

(審査基準)

 受刑者の信書の発信を不許可にできるのは、(1)受刑者の性向・行状、(2)監獄内の管理・保安の状況、(3)当該信書の内容その他の具体的事情の下で、発信を許可することによって①監獄内の規律及び秩序の維持、②受刑者の身柄の確保、③受刑者の改善・更生の点において放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性が発生する場合に許されるものと解するべきである。

 

 以上、前回までの確認をしたところで、あてはめに移る。

 

 

 この点、刑務所長は旧監獄法46条2項を根拠にAの信書の発信を制限している

 そこで、その根拠規定たる旧監獄法46条2項の合憲性を考える。

 

 この点、条文の文言を見ると、旧監獄法46条2項は受刑者の親族でない者との間の信書の発信・受信を原則として認めていない

 また、ただし書きにある「特ニ必要アリト認ムル場合」という文言を見れば、例外にあたる場合はかなり限定されている

 そこで、旧監獄法46条2項は、刑務所内の規律・秩序が害される「相当の蓋然性」がない場合にも規制が可能であるように読める。

 そのため、旧監獄法46条2項は違憲であるとも考えられる。

 

 

 文言を素直に読み、違憲審査基準を形式的にあてはめれば、普通はこうなるであろう。

 また、AとAの代理人から見れば当然の主張である。

 そして、このようにして法律を違憲にした場合、刑務所長の不許可処分は法律の根拠のない人権制限となり、特別権力関係論を用いないならば当然に違憲となる。

 しかし、この場合、本問に掲載されている事情が全く拾えなくなる。

 それでは司法試験委員会の出題趣旨に答えたことにならない

 そこで、「出題趣旨に答える」といった(大人の)事情に対応するため、また、その他もろもろの理由により合憲限定解釈を採用することにする。

 

 

 具体的には、「特ニ必要アリト認ムル場合」とは広く「放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性発生しない場合」と解釈する

 そして、「本文と但書の原則と例外の関係」を逆転させ、「但書が原則で本文が例外」と解釈する

 このように解釈すれば、旧監獄法46条2項は前述の相当の蓋然性がある場合を除き信書の発信を制約できないため、法律に対する違憲審査はクリアできる。

 

 

 以上のロジックは前回紹介・引用した平成18年1月14日の判決と同様である。

 この点、この(限定)解釈は無理をしていないか、という疑問がなくはない。

 しかし、不許可処分を出すのは公務員である。

 そこで、運用によって公務員間の恣意性をはじくことができる(行政全体としての恣意についてはさておき)。

 とすれば、このような手法による権利の確保は可能である。

 そう考えると、「まあ、あり」なのだろう。

 この点、最高裁判所がこのような限定解釈をしているのは、背後にこのような事情があるのかもしれない。

 もちろん、実務上の混乱回避、とか、行政の肩を持っているなどといった事情もなくはないだろうが。

 

 なお、今回の限定解釈については、違憲審査基準に「明白かつ現在の危険の基準」を採用した場合でも可能である。

 この点、泉佐野市民会館事件(平成8年の過去問で紹介・引用)では、条例の解釈にあたってこのような限定解釈をしている。

 

7 不許可処分の合法性の審査基準

 旧監獄法46条2項は(限定)解釈によって合憲となった

 もっとも、根拠法令が合憲であっても、刑務所長が法令を濫用・逸脱して不許可処分を出した場合、処分が違法(違憲)となる。

 そこで、法令とは別に刑務所長の処分の合法性(合憲性)を検討する必要がある。

 また、処分の合法性を考える際にも、審査基準は目安になる

 

 この点、最高裁判所はいわゆるよど号ハイジャック新聞記事抹消事件(判決へのリンクは次の通り)で次のようなことを述べている。

 

昭和52(オ)927号損害賠償請求事件

昭和58年6月22日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/137/052137_hanrei.pdf

(いわゆる「よど号ハイジャック新聞記事抹消事件」)

 

(以下、よど号ハイジャック新聞記事抹消事件より引用、一部中略、強調は筆者)

 具体的場合における前記法令等の適用にあたり、(中略)相当の蓋然性が存するかどうか、及びこれを防止するためにどのような内容、程度の制限措置が必要と認められるかについては、監獄内の実情に通暁し、直接その衝にあたる監獄の長による個個の場合の具体的状況のもとにおける裁量的判断にまつべき点が少なくないから、障害発生の相当の蓋然性があるとした長の認定に合理的な根拠があり、その防止のために当該制限措置が必要であるとした判断に合理性が認められる限り、長の右措置は適法として是認すべきものと解するのが相当である

(引用終了)

 

 つまり、最高裁判所は不許可処分に関する施設の長の裁量を認めている。

 この判例に従って適用違憲の枠組みを考える。

 

 

 この点、「相当の蓋然性」の有無については刑務所の実情に詳しい刑務所長の裁量的判断を要する場合も少なくない。

 よって、「相当の蓋然性」があるという刑務所長の判断に合理性がない場合は、刑務所長の処分は違法(違憲)になる。

 以下、処分の適法性を検討する。

 

8 不許可処分の合法性へのあてはめ

 ところで、本問で紹介している平成18年の最高裁判決(リンクは後述)は受刑者が新聞社に刑務所内の処遇改善の投書をしようと文章を発信しようとしたら刑務所長から不許可処分を受けた、と言う事案である。

 そして、この最高裁判所は次のようなことを述べている。

 

平成15年(オ)422号損害賠償請求事件

平成18年3月23日最高裁判所第一小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/855/032855_hanrei.pdf

 

(以下、前回紹介した平成18年の判決から引用、一部中略)

 本件信書は,国会議員に対して送付済みの本件請願書等の取材,調査及び報道を求める旨の内容を記載したC新聞社あてのものであったというのであるから,本件信書の発信を許すことによって(中略)刑務所内に上記の障害が生ずる相当のがい然性があるということができないことも明らかというべきである。

(引用終了)

 

 最高裁判所はあっさりと「相当の蓋然性はない」と認定している。

 これを参考にしながら、本問の適用違憲へのあてはめを考えてみる。

 

 

 確かに、待遇改善の文章を新聞社に発信すれば、新聞社が新聞に掲載しることで文章が不特定多数に知られ、また、必要な取材などを行うことが容易に想定される。

 また、新聞に掲載された結果として、インターネット上での炎上も起こりえなくはない。

 その結果、刑務所内では取材や炎上の対応に追われることになり、刑務所内の秩序維持に割いていたリソースを取材対応・炎上対応に回す結果、刑務所内の規律・秩序が保てなくなる可能性もあり得ないとは言えない。

 しかし、これらの対応は四六時中対応しなければならないものではなく、これらの対応によって割かれるリソースはそれほど多くなるとは考え難い。

 また、刑務所における待遇は公共の利害に関する事実として民主的討論の対象になるべきものであるから、当該文章は受刑者Aのみならず国民の知る権利に対しても重要なものである。

 さらに、刑務所内の秩序についても発信を許可した後、話題が大きくなった場合に新聞の閲読を制限することで秩序の維持を保つといった手段も考えられる。

 以上を考慮すれば、刑務所長の不相当との判断は一般的抽象的おそれがあるといったものにすぎず、具体的な蓋然性があるものとはいえない。

 したがって、刑務所長の不相当という判断は合理的とは言えない。

 よって、刑務所長の不許可処分は違法・違憲である。

 

 

 このように考えることで、処分を違法にした。

 新聞の投書を許すことで施設内の秩序に対する障害が具体的に生じるとは考え難いことを考慮すれば、この結論が不当であるとまでは言えないだろう。

 

 なお、本問の刑務所長は「刑務所内の規律・秩序の維持」の観点から不相当と考えているが、被告人の改善・更生の観点から不相当と考えていないようである。

「処遇改善の要望などを考えていて、どうして適切な更生できようか」といった発想はないようである。

「更生」という要素は「秩序」の要素に比べて刑務所長(行政)の裁量がより広くなるので、こちらを主張すべきだったのではないか、と考えられなくもないが。

 この辺は次回に少し触れたい。

 

 

 以上、本問の検討は終わった。

 次回は、当時の状況を考慮した出題趣旨・本問を見て憲法外から考えたことについてみていく。

2022年の総括、2023年の目標

 令和4年が終わり、令和5年となった。

 そこで、去年を振り返りつつ、今年の目標をブログに残す。

 

1 メモブログと読書メモについて

 令和3年と同様、令和4年も私は120個の記事をブログにアップした。

 つまり、「年間120記事(1記事2000文字以上)をブログにアップする」という目標を2年続けて達成したことになる。

 

 では、今年はどうしようか。

 この点、去年や2年前と比較して、今年は時間が取れなくなることが推測される。

 また、去年や今年の記事を見てみると、「2000文字」と比較して1記事あたりの文字がかなり多い。

 そこで、「年間120記事(1記事2000文字以上)をブログにアップする」という目標を立てつつも、文字数を多くしないようにしていく予定である。

 

 

 他方、今年は次の読書メモを完成させた。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 また、司法試験(二次試験・論文)の憲法(人権)の過去問もいくつか検討した。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 これらの読書メモ・過去問検討は「少しずつ」でいいので続けていく予定である。

 特に、このブログは長く続けることが大事である、と考えているので。

 

2 資格の取得と勉強の習慣化について

 年号が改まった令和元年のころ、私は「『資格取得』を通じて学習習慣を築く」と決めた。

 目標は1年に2個の資格(ただし、級の異なるものは各々1個とカウントする)。

 また、令和元年から令和3年までの約3年間で6個の資格を取った。

 

 そして、去年の令和4年。

 今年の前半、実用数学技能検定1級に突撃して撃沈し、Python3エンジニア認定基礎試験に合格した。

 他方、今年の後半は忙しくて資格試験を受けなかった。

 よって、今年は1年に2個の資格を取るというノルマは達成できなかったことになる

 

 また、資格の勉強を通じた「学習の習慣化」はほとんど確立していない。

 というのも、どの資格も一夜漬け・一週間漬けなどで合格しているから(逆に、一夜漬けなどが通じなかった実用数学技能検定1級は見事に撃沈した)。

 むしろ、このメモブログの方が勉強の習慣化に貢献している感じである。

 

 

 今年はどうしようか。

 この点、後述するプログラミングとの縁が遠くなっていることから、プログラミングとの縁を取り戻すべく、次の二つの資格を取るということが考えられる。

 

www.pythonic-exam.com

 

・Python3エンジニア認定実践試験

・Python3エンジニア認定データ分析試験

 

 これらの試験は「Pythonを使うための学習をする」ならば、アウトプットの試金石として使える。

 しかし、前回のPythonの試験を取った際、プログラミングとの縁が近くなったわけではない。

 とすれば、今のままプログラミングの試験を受験して、かつ、合格しても、前回の二の舞になり、プログラムとの距離は近くならないことが予想される。

 そこで、プログラミング関係の資格は、なんらかのきっかけが生じてから検討すべきであろう。

 資格を取るのは「学習の習慣化」や「学習それ自体」であって「資格を取るため」ではないから

 

 この点は、数学検定1級や統計検定についてもあてはまる

 確かに、将来の機械学習を見据えた場合、実用数学技能検定1級や統計検定1級などはその学習内容を網羅しており、アウトプットの試金石として適している。

 しかし、プログラミングに対する現状を考慮すれば、「勉強して終わり」といった結果で終わりかねない。

 そこで、この二つの試験についても、なんらかのきっかけが生じてから考えることにする

 

 

 なお、最近気になっている資格が事務系の資格である

 というのも、最近の私は「ワード・エクセル・パワーポイントについて効率的に使えるようになりたい」などと考えているからである。

 ならば、その学習内容を網羅している資格を試金石として狙いを定めることは十分ありうるであろう。

 そして、具体的に資格を探してみると、「MOS」とかいう資格があるらしい。

 

mos.odyssey-com.co.jp

  

 ただ、具体的に見てみると、試験の数がたくさんあるようである。

 この点、ノルマとして考えれば、「数がたくさんあること」は有用と言えなくもないが、これだけあるとちょっと、、、という感じである。

 試しに1個受けてみようかと考えなくはないが、狙いを定めるかは少々考えどころである。

 

 

 以上、資格取得に関する4年間の私の言動を見てみると、「資格取得を通じた学習習慣の形成」という本来の目的は達成されておらず、資格取得という手段は学習習慣の形成という目的との間に合理的関連性がない

 また、特段学びたい分野というものがあるわけでもない。

 そこで、今年は資格を取ることをノルマから外そうと考えている。

 

3 プログラミングについて

 去年、プログラミングに関してはある試験を受けて合格する以上のことがほとんどできなかった。

 去年を通じてほとんど何もしていないのであれば、この方向にリソースを割くことに意味がないのかもしれない。

 そこで、当分の間、または、気が向くまで、プログラミングについては目標を定めないことにする

 少なくても、「計画的に何かをする」ことはきっかけがない限り考えない。

 

 もちろん、「プログラミングを使ってやりたい」と考えていることはある。

 だから、その方向で一気に何かが進めば、プログラミングに取り組むだろう。

 もっとも、それが今年になるかいつになるかは知らないが。

 

4 生活記録と健康について

 生活記録については2年間順調に続いている。

 そこで、この記録は継続していく予定である。

 

 また、精神的余裕がある場合に限るけれども、結果を分析していこうと考えている。

 もちろん、当初は分析しない予定で記録を取っていたが、分析結果を自己批判に用いなければ、または、分析結果が自分に刺さらなければ、特に問題ないので。

 

 

 以上、このブログに書ける範囲で令和5年の目標を書いてみた。

 来年の1月、どの程度達成しているであろうか。

 少しでも達成したいものである。

司法試験の過去問を見直す9 その2

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成11年度の憲法第1問についてみていく。

 

3 在監者に対する人権制約の一般論 

 前回、制限された「Aの発信行為」が表現の自由によって保障されうる旨認定した。

 もちろん、かかる自由も絶対無制限ではないのは当然である

 

 通常であれば、「かかる自由も絶対無制限ではなく、『公共の福祉』(憲法12条後段、13条後段)による制約をうける」と続く。

 しかし、「公共の福祉」は人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理とされているため、受刑者などの在監者に対する人権制約一般には利用しがたい。

 そこで、「公共の福祉」に代わる根拠が必要になる。

 

 

 この点、戦前は在監者などの人権制約の根拠として、「特別権力関係論」というものが用いられていた。

 この「特別権力関係論」というのは、公務員・大学生・在監者など特別な地位を有する場合、国家権力はその特別な私人に対して①包括的支配権を有し、②法律の根拠なく人権制限ができる上、③原則として国家権力の行為に対して司法審査が及ばないとするものである。

 この説によった場合、刑務所長は在監者に対して法律の根拠なしでの人権制限が可能になり、また、その人権制約それ自体に対する司法審査も原則及ばないことになる(刑法その他に抵触した場合にその範囲で問題になるだけである)。

 そのため、本件の刑務所長の不許可処分は無条件で合憲になると考えられる。

 また、日本教に整合的な見解はこちらのようだと考えられる

 

 もっとも、この理論は法治主義の世界で発展してきた理論である(そのため、戦前の憲法とは親和的であった)。

 そして、日本国憲法は「法の支配」(13条、31条、76条3項、81条、97条など)を採用していることを考慮すれば、これをストレートに用いることはできない

 そこで、別の根拠が必要になる。

 できれば、憲法上の条文と紐づいている方がよい。

 

 そして、憲法上の条文を見ると、18条や34条に在監関係の条文が存在する

 とすれば、憲法は「在監関係の存在とその自律性を憲法上の構成要素として認めている」ことになる。

 言い換えれば、憲法は「犯罪処罰のための制度などを置くこと、刑の執行を適正に行うこと」を前提としているということになる。

 ならば、「在監目的のための人権制約」を憲法は認めていると言える。

 そして、この「在監関係の存在とその自律性を憲法上の構成要素として認めていること」が憲法上の人権制約根拠となる

 

 ここは当然の前提だからさらっと書いてしまっていい。

 もっとも、この点は憲法外で考えていることがあるので、少し細かく言及した。

 

4 在監者に対する人権制約の違憲審査基準_最高裁判所の場合

 では、本問の不許可処分は合憲と言えるか、違憲審査基準が問題となる。

 ここからはいつものパターンとなる。

 

 まず、この点について最高裁判所がいわゆる「よど号ハイジャック新聞記事抹消事件」で何と言ったかを確認する

 この事件は「未決拘留者の閲読の自由(知る権利)」が制限された事案であるが、本判決の射程が広いため確認する(リンクは前回と同様)。

 

(以下、よど号ハイジャック新聞記事抹消事件から引用、一行ごとに改行、一部省略、強調は私による)

 未決勾留は、刑事訴訟法の規定に基づき、逃亡又は罪証隠滅の防止を目的として、(中略)、前記逃亡又は罪証隠滅の防止の目的のために必要かつ合理的な範囲において、それ以外の行為の自由をも制限されることを免れないのであり、このことは、未決勾留そのものの予定するところでもある。

 また、監獄は、多数の被拘禁者を外部から隔離して収容する施設であり、右施設内でこれらの者を集団として管理するにあたつては、内部における規律及び秩序を維持し、その正常な状態を保持する必要があるから、この目的のために必要がある場合には、未決勾留によつて拘禁された者についても、この面からその者の身体的自由及びその他の行為の自由に一定の制限が加えられることは、やむをえないところというべきである(中略)。

 そして、この場合において、これらの自由に対する制限が必要かつ合理的なものとして是認されるかどうかは、右の目的のために制限が必要とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を較量して決せられるべきものである。

(引用終了)

 

 一般論を確認したところで、続きをみていこう。

 

(以下、同判決を引用、一行ごとに改行、一部省略、強調は私によるもの)

 しかしながら、このような閲読の自由は、(中略)その制限が絶対に許されないものとすることはできず、それぞれの場面において、これに優越する公共の利益のための必要から、一定の合理的制限を受けることがあることもやむをえないものといわなければならない。(中略)

(中略)閲読の自由についても、逃亡及び罪証隠滅の防止という勾留の目的のためのほか、前記のような監獄内の規律及び秩序の維持のために必要とされる場合にも、一定の制限を加えられることはやむをえないものとして承認しなければならない。

 しかしながら、未決勾留は、前記刑事司法上の目的のために必要やむをえない措置として一定の範囲で個人の自由を拘束するものであり、他方、これにより拘禁される者は、当該拘禁関係に伴う制約の範囲外においては、原則として一般市民としての自由を保障されるべき者であるから、監獄内の規律及び秩序の維持のためにこれら被拘禁者の新聞紙、図書等の閲読の自由を制限する場合においても、それは、右の目的を達するために真に必要と認められる限度にとどめられるべきものである。

 したがつて、右の制限が許されるためには、当該閲読を許すことにより右の規律及び秩序が害される一般的、抽象的なおそれがあるというだけでは足りず、被拘禁者の性向、行状、監獄内の管理、保安の状況、当該新聞紙、図書等の内容その他の具体的事情のもとにおいて、その閲読を許すことにより監獄内の規律及び秩序の維持上放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性があると認められることが必要であり、かつ、その場合においても、右の制限の程度は、右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべきものと解するのが相当である。

(引用終了)

 

「未決勾留者の知る権利の制限」について最高裁判所は次の基準を立てた。

 

具体的事情のもとにおいて放置できない程度の障害が生ずる相当の蓋然性があると認められる場合

 

 いわゆる「相当の蓋然性」の基準と呼ばれるものである。

 

 

 ところで、以上の未決者に対する基準は「受刑者(既決)の表現の自由にも適用があるのか、と考えるかもしれない。

 しかし、表現の自由と知る権利は表裏の関係にあるから、権利の性質において両者にそれほどの差がない。

 また、最高裁判所は次の判決(リンクなどは前回参照)で旧監獄法46条2項について次のように述べている。

 

(以下、平成15年(オ)422号損害賠償請求事件・平成18年3月23日最高裁判所第一小法廷判決から引用、各文毎に改行、ところどころ省略、強調は私の手による)

 監獄法46条2項の(中略)目的にかんがみると,受刑者のその親族でない者との間の信書の発受は,受刑者の性向,行状,監獄内の管理,保安の状況,当該信書の内容その他の具体的事情の下で,これを許すことにより,監獄内の規律及び秩序の維持,受刑者の身柄の確保,受刑者の改善,更生の点において放置することのできない程度の障害が生ずる相当のがい然性があると認められる場合に限って,これを制限することが許されるものというべきであり,(中略)

 そうすると,監獄法46条2項は,その文言上は,特に必要があると認められる場合に限って上記信書の発受を許すものとしているようにみられるけれども,上記信書の発受の必要性は広く認められ,上記要件及び範囲でのみその制限が許されることを定めたものと解するのが相当であり,したがって,同項が憲法21条,14条1項に違反するものでない(中略)

(引用終了)

 

 最高裁判所は、広範な規制が許されるように見える旧監獄法46条2項について限定解釈をした。

 その際の基準となっているのが前述の事件である。

 ならば、最高裁判所は未決勾留者と受刑者で基準を分けていないとみることができる。

 

 

 さて、本問で違憲審査基準を立てるために必要な情報は出そろった。

 以下、本問の違憲審査基準を組み立てていく。

 

5 本問の違憲審査基準

 まず、違憲審査基準の出発点は利益衡量論となるであろう。

 つまり、不許可処分の根拠規定が監獄法46条2項にあるところ、この規定が違憲となるか否かは「①逃亡・矯正教化・施設内の規律・秩序維持のために必要な程度、②制限される自由の内容・性質、③具体的制限の態様・程度」によって決まる、と。

 もっとも、この審査基準をそのまま用いるのはあれなので、この基準を具体化する。

 

 まず、監獄法46条2項によって不許可処分がなされると、施設内に収容されている受刑者は対外的な発言の機会をほぼ封じられることになる

 つまり、受刑者の表現の自由が全面的に封じられ、③本問の制限の程度は直接的・全面的な制約と言えるものである。

 また、表現の自由自己実現・自己統治の価値を持ち、民主制での自己回復が困難な権利である。

 つまり、本問で制限されている表現の自由は②民主制にかかわる重要な権利である

 これらのことを考慮すれば、違憲審査基準としては明白かつ現在の危険の基準といった極めて厳格な基準を採用すべきともいえる。

 

 もっとも、最高裁判所の基準に引き付けるためここからひっくり返す。

 キーワードは「未決者と既決者」の違いである。

 

 しかし、未決拘留者と異なり、受刑者は一般人と同様の自由を享受することが想定されていない。

 つまり、受刑者は施設内の規律・秩序の維持、逃亡防止のためだけではなく、矯正教化のための権利の制約をも予定されている。

 そこで、受刑者の信書の発信を制限できるのは、(1)受刑者の性向・行状、(2)監獄内の管理・保安の状況、(3)当該信書の内容その他の具体的事情の下で、発信を許可することによって①監獄内の規律及び秩序の維持、②受刑者の身柄の確保、③受刑者の改善・更生の点において放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性が発生する場合に限るものと解するべきである。

 

 

 以上、違憲審査基準とその根拠をみてみた。

 試験においては「最高裁判所が採用している」ということが根拠にならないので。

 

 これで違憲審査基準は決まった。

 あとは、あてはめの問題になるのだが、それらについては次回に。