今日はこのシリーズの続き。
『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。
10 第2章の第3節を読む(前編)
第3節のタイトルは「数学の論理への誘い」。
この節は、「形式論理学」の「同一律」・「矛盾律」・「排中律」について自家薬籠中のものにするための節である。
まず、「同一律」(the_law_of_indentity)から。
「同一律」とは「AはAである」という法則である。
これだと「なんじゃこりゃ?」となる方は、「Aは、あくまで、Aである」と考えると意味が分かりやすくなるかもしれない。
次に、「矛盾律」(the_law_of_contradiction)である。
「矛盾律」とは、「『AはBである』と『AはBではない』という二つの命題がある場合、二つの命題が同時に成立する(両方とも『真』である)こともなく、かつ、二つの命題が同時に成立しない(両方とも『偽』である)こともない」ことを指す。
つまり、「猫は動物である」と「猫が動物でない」の二つの命題(文章)がある場合、「どちらか一方が必ず『真』となり、他方が『偽』となる」ことを指す。
この矛盾律は数学その他で大活躍をする。
最後に、排中律(the_law_of_excluded_middles)である。
排中律は矛盾律の先にある法則であり、「必ず一方が真で、他方が偽となる。その中間はない」というものである。
つまり、排中律では、「Aは、『Bと非Bの中間である』」、「Aは、『Bでもあり、同時にBでもない』」、「Aは『「Bでもない」し「『Bでない』こともない」といったものを排斥することになる。
必要な知識はこれで全部であり、あとは実践して使いこなすだけなのだそうである。
もっとも、本書では「これでしっくりこない人が多いだろう」という。
そして、「多くの人の感じる『しっくりこない』のは当然で、それが形式論理学なのである」と続く。
この点、形式論理学の上の3つのルールを見れば簡単に見える。
もっとも、簡単だからといって頭に入りやすいとは限らない。
では、「しっくりこない」という感覚を持つ形式論理学を駆使するためにはどうすればいいか。
本書によると、「定義」をしっかり確認した上で、同一律・矛盾律・排中律を完全に理解すること、らしい。
まずは、同一律から。
同一律とは「Aは、あくまでAである(何と言ってもAに過ぎない)」のことである。
この点、「AはAである」といった同語反復など当然のことなのだから、どうして殊更にルールにするのか、と考えるかもしれない。
しかし、「定義から論理を正確に組み立てていく」場合、この「同一律」は極めて重要である。
例えば、次の3つの文章を用いた推論をみてみよう。
Aはアメリカの「いぬ(犬)」である。
「いぬ(犬)」は動物である。
よって、Aは動物である。
この推論は正しいだろうか?
この点、一連の推論においてある言葉は同一の意味で用いなければならない。
つまり、一つの言葉は一義的に定義され、かつ、その定義に従って用いる必要がある。
その観点から、上の3つの文章を見ると、1つ目の文章では「いぬ(犬)」を「スパイ」や「手下」の意味で用いている一方、2つ目の文章では「(動物としての)犬」として用いている。
よって、この推論は上のルールに則っておらず、誤りである。
ちなみに、古代ギリシャのソフィストには、この同一律をねじまげて相手を混乱させるという詭弁を弄したため、ソフィズムとは詭弁術という意味になってしまったという。
また、同一の議論で、同じ言葉(概念)を多義的に(一義的の逆、二つ以上の意味に)用いると、その推論は誤りになる。
そのことは上の推論を見れば明らかであろう。
ちなみに、古代イスラエルの宗教・古代ユダヤ教には、規定の一義的な定義が契約(律法)の中に詳細に明記されている。
例えば、『出エジプト記』の第26章を見ると、神に奉納物を捧げる際の作法・決まり、あるいは、聖書の幕屋の作り方について寸法の数字を示しながら規定されている。
(以下、『出エジプト記』の第26章を引用、節番号は省略、節ごとに改行)
あなたはまた十枚の幕をもって幕屋を造らなければならない。すなわち亜麻の撚糸、青糸、紫糸、緋糸で幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。
幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビトで、幕は皆同じ寸法でなければならない。
その幕五枚を互に連ね合わせ、また他の五枚の幕をも互に連ね合わせなければならない。
その一連の端にある幕の縁に青色の乳をつけ、また他の一連の端にある幕の縁にもそのようにしなければならない。
あなたは、その一枚の幕に乳五十をつけ、また他の一連の幕の端にも乳五十をつけ、その乳を互に相向かわせなければならない。
あなたはまた金の輪五十を作り、その輪で幕を互に連ね合わせて一つの幕屋にしなければならない。
また幕屋をおおう天幕のためにやぎの毛糸で幕を作らなければならない。すなわち幕十一枚を作り、
その一枚の幕の長さは三十キュビト、その一枚の幕の幅は四キュビトで、その十一枚の幕は同じ寸法でなければならない。
そして、その幕五枚を一つに連ね合わせ、またその幕六枚を一つに連ね合わせて、その六枚目の幕を天幕の前で折り重ねなければならない。
またその一連の端にある幕の縁に乳五十をつけ、他の一連の幕の縁にも乳五十をつけなさい。
そして青銅の輪五十を作り、その輪を乳に掛け、その天幕を連ね合わせて一つにし、
その天幕の幕の残りの垂れる部分、すなわちその残りの半幕を幕屋のうしろに垂れさせなければならない。
そして天幕の幕のたけで余るものの、こちらのキュビトと、あちらのキュビトとは、幕屋をおおうように、その両側のこちらとあちらとに垂れさせなければならない。
また、あかね染めの雄羊の皮で天幕のおおいと、じゅごんの皮でその上にかけるおおいとを造らなければならない。
あなたは幕屋のために、アカシヤ材で立枠を造らなければならない。
枠の長さを十キュビト、枠の幅を一キュビト半とし、
枠ごとに二つの柄を造って、かれとこれとを食い合わさせ、幕屋のすべての枠にこのようにしなければならない。
あなたは幕屋のために枠を造り、南側のために枠二十とし、
その二十の枠の下に銀の座四十を造って、この枠の下に、その二つの柄のために二つの座を置き、かの枠の下にもその二つの柄のために二つの座を置かなければならない。
また幕屋の他の側、すなわち北側のためにも枠二十を造り、
その銀の座四十を造って、この枠の下に、二つの座を置き、かの枠の下にも二つの座を置かなければならない。
また幕屋のうしろ、すなわち西側のために枠六つを造り、
幕屋のうしろの二つのすみのために枠二つを造らなければならない。
これらは下で重なり合い、同じくその頂でも第一の環まで重なり合うようにし、その二つともそのようにしなければならない。それらは二つのすみのために設けるものである。
こうしてその枠は八つ、その銀の座は十六、この枠の下に二つの座、かの枠の下にも二つの座を置かなければならない。
またアカシヤ材で横木を造らなければならない。すなわち幕屋のこの側の枠のために五つ、
また幕屋のかの側の枠のために横木五つ、幕屋のうしろの西側の枠のために横木五つを造り、
枠のまん中にある中央の横木は端から端まで通るようにしなければならない。
そしてその枠を金でおおい、また横木を通すその環を金で造り、また、その横木を金でおおわなければならない。
こうしてあなたは山で示された様式に従って幕屋を建てなければならない。
また青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で垂幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。
そして金でおおった四つのアカシヤ材の柱の金の鉤にこれを掛け、その柱は四つの銀の座の上にすえなければならない。
その垂幕の輪を鉤に掛け、その垂幕の内にあかしの箱を納めなさい。その垂幕はあなたがたのために聖所と至聖所とを隔て分けるであろう。
また至聖所にあるあかしの箱の上に贖罪所を置かなければならない。
そしてその垂幕の外に机を置き、幕屋の南側に、机に向かい合わせて燭台を置かなければならない。ただし机は北側に置かなければならない。
あなたはまた天幕の入口のために青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、色とりどりに織ったとばりを作らなければならない。
あなたはそのとばりのためにアカシヤ材の柱五つを造り、これを金でおおい、その鉤を金で造り、またその柱のために青銅の座五つを鋳て造らなければならない。
(引用終了)
あるいは、十戒には「あなたは姦淫してはならない。」という規定がある(『出エジプト記』第20章第14節)が、『レビ記』の第18章で「姦淫してはならない相手」が示されている。
(以下、『レビ記』の第18章の第6節から25節までを引用、節番号省略、節ごとに改行)
あなたがたは、だれも、その肉親の者に近づいて、これを犯してはならない。わたしは主である。
あなたの母を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。彼女はあなたの母であるから、これを犯してはならない。
あなたの父の妻を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。
あなたの姉妹、すなわちあなたの父の娘にせよ、母の娘にせよ、家に生れたのと、よそに生れたのとを問わず、これを犯してはならない。
あなたのむすこの娘、あるいは、あなたの娘の娘を犯してはならない。それはあなた自身をはずかしめることだからである。
あなたの父の妻があなたの父によって産んだ娘は、あなたの姉妹であるから、これを犯してはならない。
あなたの父の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの父の肉親だからである。
またあなたの母の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの母の肉親だからである。
あなたの父の兄弟の妻を犯し、父の兄弟をはずかしめてはならない。彼女はあなたのおばだからである。
あなたの嫁を犯してはならない。彼女はあなたのむすこの妻であるから、これを犯してはならない。
あなたの兄弟の妻を犯してはならない。それはあなたの兄弟をはずかしめることだからである。
あなたは女とその娘とを一緒に犯してはならない。またその女のむすこの娘、またはその娘の娘を取って、これを犯してはならない。彼らはあなたの肉親であるから、これは悪事である。
あなたは妻のなお生きているうちにその姉妹を取って、同じく妻となし、これを犯してはならない。
あなたは月のさわりの不浄にある女に近づいて、これを犯してはならない。
隣の妻と交わり、彼女によって身を汚してはならない。
あなたの子どもをモレクにささげてはならない。またあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。
あなたは獣と交わり、これによって身を汚してはならない。また女も獣の前に立って、これと交わってはならない。これは道にはずれたことである。
あなたがたはこれらのもろもろの事によって身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い払う国々の人は、これらのもろもろの事によって汚れ、
その地もまた汚れている。ゆえに、わたしはその悪のためにこれを罰し、その地もまたその住民を吐き出すのである。
(引用終了)
なお、日本教徒がこれを見ると、「なんと細かいのだ」とか「こんな詳細な規定をつくるなんて、この絶対神はなんと心の狭い神様だ」などと考えるかもしれない。
しかし、これが「同一律」である。
好むか嫌うかは各人にお任せするとしても。
次に、「矛盾律」についてみていく。
ここでは、アリストテレスの「矛盾律」と韓非子の「矛盾」についてみていく。
この点、中国では、君主を説得するための「論理学」が大きな発展を遂げた。
その具体例として、韓非子の述べた「矛盾」がある。
「矛盾」とは次のようなお話である。
とある楚の商人が素晴らしい矛と盾を「この矛はどんな盾でも貫ける」・「この盾はどんな矛でも防ぐことができる」と誇りにしていた。
そこで、ある人が「じゃあ、その矛でその盾を突いたらどうなるのか?盾は矛を防ぐのか?それとも矛が盾を貫くのか?」と質問した。
商人は韓非子の質問に答えられなかった。
これが「矛盾」という言葉の起こりである。
そして、この「矛盾」という言葉が中国の論理学でも用いられ、後の日本でも用いられるようになった。
では、韓非子の「矛盾」とアリストテレス(形式論理学)の「矛盾」は一致するであろうか?
これを理由付きで説明できるか否かが、論理学理解の関門となる。
この点、矛盾にある二つの命題を取り出すと次のようになる。
命題1、この矛はどんな盾でも貫く
命題2、この盾はどんな矛でも貫けない
そして、命題1と命題2が共に真になることはない。
では、命題1と命題2が共に偽になることはありうるか。
命題1が偽であれば、「この矛には貫けない盾がある(一つ以上存在する)」となり、命題2が偽であれば、「この盾には防げない矛がある(一つ以上存在する)」となる。
そして、この二つが共に成立することは十分ありえそうである。
もしピンとこなければ、「なまくらな矛」と「なまくらな盾」を用意して考えればいい。
このように、「二つとも『真』である」と言えない場合であっても、「二つとも『偽』である」という場合は存在する。
そして、形式論理学ではこのことを「矛盾」とは言わず、「反対」(contrariety)と定義して、「矛盾」と区別している。
つまり、韓非子の「矛盾」は形式論理学でいうところの「反対」であって「矛盾」ではない。
他方、形式論理学の「矛盾」と「反対」は共に韓非子の「矛盾」に該当することになる。
本書では、「反対」と「矛盾」の違いを常識にするために練習問題が用意されている。
例えば、次の二つの命題は「矛盾」である。
1、犬は動物である
2、犬は動物ではない
また、次の2つの命題は「反対」である。
というのも、「今、ここは適温である」という共に偽である可能性があるからである。
1、今、ここは寒い
2、今、ここは暑い
さらに、「優等生」が定義されていると仮定した場合、次の2つの命題は「反対」である。
なぜなら、一部の生徒が優等生で、残りの生徒が優等生でない場合、二つの命題は共に否定される(「偽」となる)からである。
1、すべての生徒は「優等生」である
2、すべての生徒は「優等生」ではない
最後に、次の2つの命題は「矛盾」である。
矛盾になる理由は、カッコの言い換えを見れば理解できると考えられる。
1、すべての生徒は「優等生」である
2、ある生徒は「優等生」ではない(「すべての生徒が『優等生』である」とは言えない)
ところで、「数学では矛盾を許さない」というルールを設定した。
つまり、「矛盾」が生じた瞬間、論理・証明はストップし、破綻する。
この「矛盾絶対禁止」の大原則が数学に大きな説得力を与えることになった。
その説得力を得た具体的な証明方法こそ「背理法」である。
そして、この「背理法」は哲学や討論術において大いに活用されていくことになる。
例えば、古代ギリシャでは、ピタゴラスは背理法によって√2(2の平方根)が有理数でないことを簡明に証明して、人々を驚かせた。
また、非ユークリッド幾何学の創始者であるロバチェフスキーは数学と科学に対して革命を起こし、数学・科学の研究法を一変させることになった。
そして、この革命は近代資本主義と近代デモクラシーを生み出すことになる。
この点、ロバチェフスキーが登場するまで、数学と科学は「客観的に存在する『真理』を学者が発見する」という立場で研究されていた。
この模範となっているのがユークリッド幾何学であり、学問のモデルは「自明な公理」から形式論理学を用いて「定理」を導き出すことである」と考えられていたのである。
この学問のモデル、つまり、論理演繹法は素晴らしいものだったので、学者はこれこそ完全な理論(complete_theory)と見ていた。
ここから話は「ところが・・・」と続く。
しかし、結構な分量になってしまったので、残りは次回に。