薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す9 その4

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成11年度の憲法第1問についてみていく。

 もっとも、問題の検討それ自体は終わっているので、別の観点から問題をみていく。

 

8 当時の視点から見た本問の出題趣旨

 これまでの本問の検討では、「条文の変更はなし」という仮定はしたが、素直に問題を読んでそのまま解いた。

 ただ、当時の司法試験員会の出題趣旨を見るため、当時の状況を考慮しながら再考してみる。

 

 この点、前回確認した平成18年の最高裁判決(リンクは次の通り)では、本件の事案と原審(福岡高等裁判所)の判断の概要について次のようなことを述べている。

 

平成15年(オ)422号損害賠償請求事件

平成18年3月23日最高裁判所第一小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/855/032855_hanrei.pdf

 

(以下、上記判決から引用、節番号などの一部は省略、一文毎に改行、強調は私の手による)

 上告人は,平成11年6月17日及び同月21日,(中略)「受刑者処遇の在り方の改善のための獄中からの請願書」(以下「本件請願書」という。)を送付し,また,(中略)告訴告発状(以下「本件告訴告発状」という。)を送付した。

 上告人は,平成11年10月13日,本件請願書及び本件告訴告発状の内容についての取材,調査及び報道を求める旨の内容を記載したC新聞社あての手紙(以下「本件信書」という。)の発信の許可を(中略)刑務所長に求めた。

(中略)刑務所長は,受刑者のその親族でない者との間の信書の発受は特に必要があると認められる場合に限って許されるべきものであると解した上で,本件信書の発信については,権利救済又は不服申立て等のためのものであるとは認められず,その必要性も認められないと判断して,これを不許可とし,上告人に対し,平成11年10月15日,その旨を告知した。

(中略)

 原審は,(中略),上告人の請求を棄却すべきものとした。

(中略),本件信書の発信が上告人の権利救済又は教化改善のために特に必要であるとは認められず,他に特別の必要を認めるべき証拠もないのであるから,(中略)刑務所長が本件信書の発信を不許可としたことに違法があるということはできない。

(引用終了)

 

 まず、本件の不許可処分は平成11年10月に出されていることもわかる。

 つまり、本問が出題された直後であり、当時の法解釈などを見ることができる。

 

 この点、原審では旧監獄法46条2項の「特ニ必要アリト認ムル場合」とは「受刑者の権利救済・不服申立て又は矯正教化などのために特別の必要のある場合」と考えていることが分かる。

 少なくても、いわゆる相当の蓋然性がない場合でも制限できることは明白である。

 

 ところで、これと同様の判断を是認していると考えられる最高裁判所の判決がある。

 それが、次の平成11年の最高裁判決である。

 

平成7年(行ツ)66号発信不許可処分取消等事件

平成11年2月26日最高裁判所第二小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/789/062789_hanrei.pdf

 

 この事案は受刑者ではなく、死刑判決を受けた者の信書の発信の自由が問題になった事案である。

 この判決では、河合裁判官が反対意見を述べており、その意見から原審や実務用の運用を見ることができる。

 そこで、事案の概要の部分を確認する。

 

(以下、上記判決の反対意見の一部を引用、各文毎に改行、節番号などは省略、強調は私の手による)

 東京拘置所は、死刑確定者の信書の発出(以下「発信」ということがある。)を、次の(1)(2)のいずれかに当たる文書についてのみ許可し、これら以外の文書(以下「一般文書」という。)の発信は許可しないとの取扱基準(以下「東拘基準」という。)を設けている。

(1)本人の親族、訴訟代理人その他本人の心情の安定に資するとあらかじめ認められた者にあてた文書

(2)裁判所等の官公署あての文書又は訴訟準備のための弁護士あて等の文書で、本人の権利保護のために必要かつやむを得ないと認められるもの

 上告人は、昭和六二年四月二七日以来、死刑確定者として東京拘置所に拘置されている者であるが、平成四年八月、(中略)との趣旨の文書(以下「本件文書」という。)を同紙に投稿しようとして、同月一九日、被上告人にその発信の許可を申請した。

 これに対し、被上告人東京拘置所長は、東拘基準に基づいて審査し、本件文書の発出については上告人の権利保護のために必要かつやむを得ないと認めるに足りる事情がないと判断して、同月二〇日、これを不許可とする旨決定した(以下「本件処分」という。)。

(引用終了)

 

 この不許可処分に対して、原審は「東拘基準」の合理性を認定して、その基準に従って適用した本件処分の合理性を肯定した

 これに対し、最高裁判所は次のように述べて原審の判断を支持した。

 

(以下、最高裁判所判決を引用、一部省略、各行ごとに改行、強調は私の手による)

 同準則は許否の判断を行う上での一般的な取扱いを内部的な基準として定めたものであって具体的な信書の発送の許否は、前記のとおり、監獄法四六条一項の規定に基づき、その制限が必要かつ合理的であるか否かの判断によって決定されるものであり、本件においてもそのような判断がされたものと解される。そして、原審の適法に確定した事実関係の下においては、同被上告人のした判断に右裁量の範囲を逸脱した違法があるとはいえない

(引用終了)

 

 興味深いのは、いわゆる「東拘基準」の合理性については内部基準といって具体的判断をせず、具体的な本件処分について裁量の逸脱・濫用がないかの判断を直接行った点である。

 そして、本件処分の合理性を認めており、そのことにより大幅な制限を追認した。

 なお、この枠組みからとある疑問が浮かぶが、その点は後述する。

 

 

 これらのことから、平成11年当時、死刑囚・受刑者などに対する発信の自由は大幅な制限が認められていたことが分かる。

 なお、その現状に対して、河合裁判官は反対意見において次のことを述べている。

 

(以下、上記判決の反対意見の一部を引用、各文毎に改行、節番号などは省略、強調は私の手による)

 本件においてまず検討すべきは、東拘基準が、死刑確定者の発信を、一般文書につきすべて許可しないこととしていることの適否である。(中略)

 死刑確定者といえども、刑の執行を受けるまでは、人としての存在を否定されるものではないから、基本的にはこの権利を有するものとしなければならない。

 もとより、この権利も絶対のものではなく、制限される場合もあり得るが、それは一定の必要性・合理性が存する場合に限られるべきである。

 すなわち、死刑確定者の発信については、その権利の性質上、原則は自由であり、一定の必要性・合理性が認められる場合にのみ例外的に制限されるものと解すべきであって、監獄法四六条及び五〇条の規定も、この趣旨に解されることは明らかである。

 しかるに、東拘基準は、この原則と例外を逆転し、わずかの場合を除き、死刑確定者の発信を、それを制限することの具体的必要性や合理性を問うことなく、一般的に許さないとしているのであって、右の権利の性質に矛盾し、法の規定にも反するものといわねばならない。

 原審は、拘置所長が東拘基準を準則として採用し、かつ、これを適用して本件処分をしたことが、拘置所長の専門的裁量権の行使として適法であるとするもののごとくである。

(引用終了)

 

 このような当時の世情を考慮するならば、本問では「当時の実務に対してどのように考えるのか」ということが問われているようにもみえる

 そして、当時の実務を是認するならば、その実質的根拠が求められる。

 例えば、受刑者は有罪判決を受けた者であり、一般市民と変わらないといった未決者よりも人権制約が許されるので、相当の蓋然性がなくても一般的・抽象的なおそれがあれば人権が制約できると考えれば、根拠としては成立しうる。

 だから、正当化は十分可能である。

 

 もっとも、本問では「刑務所長は、Aの投書が新聞に掲載されることは刑務所内の秩序維持の上で不相当であると判断」した、とある。

 つまり、相当の蓋然性の基準に従って判断して、不許可にしている。

 そのため、実務的なことは考えなくてもいいようにも見える。

 

 どっちなのだろう。

 よくわからないので、これ以上は何とも言えない。

 なお、本番ならば、私は実務に触れないだろうと考えている。

 

9 法令に触れることの是非

 次に、上の平成11年の判決では「拘置所の基準は内部のものにすぎない」と述べ、その基準についての合理性判断はしなかった。

 そこで、次の疑問が浮かぶ。

 この事案において、最高裁判所拘置所の基準に触れることなく不許可処分の合理性だけを判断してそれ以上踏み込まないことができるならば、本問でも監獄法の合憲性に一切触れず、不許可処分の合憲性判断だけを行ってもよいのではないか、と

 もちろん、「触れなくてもよい」であって「触れてはいけない」ではないので、細かい疑問ではある。

 

 この点、旧監獄法46条2項を違憲だと考える場合、法律に触れずに済む場合、「法令違憲に触れず、不許可処分の合憲性だけを考えればよい。具体的な基準は『相当の蓋然性の基準』を用いればよい」ということになる。

 その結果、「法令に対する違憲判断によって問題文の事情が使えない」という問題をクリアすることができるため、一考に値することになる。

 他方、解釈その他により法令を合憲と考える場合、この点は考える必要がない。

 

 どうなのだろう。

 記憶が薄れているが、当時の答案例で不許可処分だけを論じている答案はあったような気がする。

 とすると、あり得ない選択肢ではないのかな、とも考えられる。

 もちろん、よくわからないし、小さい問題だからどっちでもいいともいえるが。

 

10 ただの条文解釈と合憲限定解釈

 今回の検討では、旧監獄法の条文を(合憲限定)解釈をして合憲にした。

 この手法は、最高裁判所がよく行っている手法である。

 

 私が勉強していた当時(ロースクール制度が始まったころ)、合憲限定解釈をほとんどしなかったように記憶している。

 特に、「個人を救済するための合憲限定解釈」(具体例としては、都教組事件や全訂東京中郵事件など)はしても、「個人を処罰するための合憲限定解釈」(具体例はありすぎるが、札幌税関検査事件などがある)については目もくれなかったと記憶している。

 

 今回、本問の検討では旧監獄法46条2項について合憲限定解釈を行い、処分については違法にした。

 つまり、今回のやり方は「個人を救済するための合憲限定解釈」となる。

 もちろん、刑務所長の判断に合理性があると認めれば逆になるわけだが。

 

 一方でこのような疑問を持った。

「これは単なる法令解釈に過ぎず、合憲限定解釈にはならないのではないか」と。

 

 この点、平成18年判決の原審は条文の「特ニ必要アリト認ムル場合」を厳格に解釈し(文言上・実務上はその方が妥当である)、これに対して、最高裁判所は「特に必要があると認める場合」を広く解釈した。

 狭く解釈すれば違憲、広く解釈すれば合憲ということを考慮して後者を選択したのであれば、合憲限定解釈のように見える。

 もっとも、憲法の精神に沿うように「特ニ必要アリト認ムル場合」を広く解釈したのであれば、合憲・違憲とかの指向性がなく、ただの解釈にも見える。

 

 どうなのだろう。

 まあ、こちらも細かい問題ともいえるので、合憲限定解釈と考えて何も不都合がないのだが。

 

 

 以上、色々と細かいことをみてきた。

 次回、憲法外からこの問題を見て、本問の検討を終えることにする。

 では、次回。